第四話 明日をつなぐ荷
光の中へ伸ばした指が、文字に触れた。
【一回召喚】
【消費ポイント:一〇〇】
胸の奥が、小さく縮む。
何が出るのかは分からない。
いま欲しいものを、願えば選べるわけでもない。
それでも、引かなければ何も得られなかった。
俺は、召喚を選んだ。
淡い光が広がる。
宝庫の奥で、何かが形になった。
【軍用矢・百本入り木箱】
【矢羽根、矢柄、鉄製矢尻を備えた軍用矢】
息を吐いた。
矢だ。
重蔵の報告に、不足していると書かれていたものだった。
だが、嬉しさに任せて取り出そうとしたところで、指を止めた。
ここへ出すのか。
俺は机を見た。
報告書と地図と、二人の名を書いた紙がある。
百本の矢が入った木箱を置く場所はなかった。
「……先に、引くだけ引こう」
独り言は、小さく部屋へ落ちた。
二回目を選ぶ。
【止血薬・十包】
【傷口に使用し、出血を抑える。深い損傷を修復する効果はない】
昨夜と同じ薬だった。
報告書へ目が向く。
これで助かった兵がいる。
その事実を知っているだけで、紙包みの見え方まで変わった。
続けて、三回目。
光の奥に、麻袋が現れた。
一袋ではなかった。
【穀物・五十キロ入り十袋】
【食用に適した乾燥小麦。製粉、加熱などの調理を要する】
「ごひゃく……」
思わず声が漏れた。
五百キロ。
俺は、袋を見つめた。
その量が何人を何日食べさせられるのか、すぐには分からなかった。ただ、机に出してよいものではないことだけは分かる。
床へ積んでも、廊下へ運び出すことになる。
最初から、運ぶ者が扱いやすい場所へ出した方がいい。
そんな当たり前のことを考えながら、最後の一回を選んだ。
【銀貨・百枚】
【銀製の貨幣】
革袋が一つ、宝庫へ収まった。
俺は、しばらく画面を見た。
矢。
薬。
食料。
金。
派手なものは、一つもなかった。
魔物を一振りで倒す剣も、傷をすべて治す奇跡もない。
けれど、いま机にある報告書へ目を戻すと、それでよかったと思えた。
足りないと書かれたものへ、手を伸ばせる。
【所持ポイント:〇】
文字を確かめて、宝庫を閉じた。
四百ポイントは、もうない。
その代わり、届けるものができた。
俺は戸口へ向かった。
「弥一」
「はい、陛下」
「城内で、荷を運び入れられる空き倉庫はあるか。人を少し遠ざけられる場所がいい」
弥一は一瞬だけ考えた。
「内庭の南に、小さな備品倉がございます。いまは棚の一部しか使っておりません」
「案内してくれ。それから、宗玄と直澄を。物資を扱う者も、二人ほど呼んでほしい」
「承知いたしました」
弥一が頭を下げた。
俺は執務室を出る前に、机を振り返った。
二人の名が書かれた紙は、そのままにしておいた。
*
備品倉は、執務室よりずっと涼しかった。
高い窓から、細い光が差している。
壁際には空の棚があり、隅には使っていない縄や木桶が積まれていた。床は乾いている。
俺は倉の中央へ立ち、周囲を見回した。
「少し、一人にしてくれ。呼ぶまで、入らぬように」
「かしこまりました」
弥一が戸を閉じた。
外で、兵へ何かを伝える声がした。
足音が遠ざかる。
俺は、もう一度だけ床を見た。
何もない。
人もいない。
宝庫を開いた。
まず、木箱。
取り出す場所を思い浮かべると、足元から少し離れた床へ、箱が現れた。
ごとり、と音がした。
俺は思わず肩を跳ねさせた。
「……毎回、驚いてどうする」
小声で自分へ言ってから、箱へ触れた。
硬い。
重い。
光の中で見ていたものが、いまは現実の木箱になっている。
続いて、薬包を箱の上へ。
銀貨の袋も、隣へ置いた。
最後に、小麦だった。
一袋目が床へ現れる。
麻袋の膨らみは、思っていたより大きかった。
二袋目を、その横へ。
積み上げようとして、やめた。
崩れたらどうする。
俺が一人で直せる重さではなかった。
床へ二列に並べる。
十袋を出し終えたころには、空いていた倉の中央が、ずいぶん狭く見えた。
五百キロ。
数字で見たときより、その量には存在感があった。
俺は袋の前へしゃがみ込んだ。
麻の隙間から、乾いた穀物の匂いがする。
これが飯になる。
挽かれて、練られて、焼かれて、誰かの腹へ入る。
昨夜、千歳の部屋で飲んだ汁の温かさを、不意に思い出した。
俺は立ち上がった。
「入ってくれ」
戸が開く。
最初に弥一が入り、その後ろから宗玄と直澄が続いた。
二人とも、倉の中央を見て足を止めた。
宗玄の視線が袋の列をたどり、木箱へ移る。
直澄は、銀貨の袋より先に、小麦へ目を向けた。
「陛下。こちらは」
「私が用意した。まず、使えるものか確かめてほしい」
俺は、袋の口を示した。
「小麦だと聞いている。五十キロ入りが十袋。矢は百本、薬は昨夜と同じ止血薬が十包。銀貨は百枚だ」
宗玄が俺を見た。
出所を尋ねたいのだと分かった。
俺は、その目を見返した。
「詳しいことは、いまは伏せる。ただ、これがある前提で、次の補給を考えてくれ」
少し、間があった。
「……承知いたしました」
宗玄は一礼した。
納得した顔ではなかった。
それでも、いま確かめるべきものを選んでくれた。
直澄も口を閉じ、後ろに控えていた役人を呼んだ。
「袋の口を一つ、開けてください。量と中身を確かめます」
役人が縄をほどく。
開いた袋から、小麦が姿を見せた。
手へすくい取り、顔を寄せる。
「虫は、いま見た範囲ではございません。よく乾いております」
「倉役も呼びましょう」
直澄が言った。
「量を量り、ほかの袋も確かめます。食用として問題がないかは、炊事を預かる者にも見せます」
「頼む」
俺は頷いた。
宝庫が食用だと表示した。
だが、それを聞いていない者たちが、確認を省いてよい理由にはならない。
木箱の蓋が開けられた。
中には、矢が束ねて収められている。
矢柄はまっすぐで、矢羽根も揃っていた。
武具を扱う兵が一本取り、指先で回した。
「よい矢に見えます。ただ、長さと重さを、使用する弓に合わせて確かめさせてください」
「すぐに前線へ送れるとは限らぬか」
「はい。使う者が引いた際、短すぎれば危険です。合う弓へ回す必要がございます」
「分かった。確かめてから送ろう」
俺は木箱を見下ろした。
矢だ、と喜んだ。
それだけでは足りなかった。
兵が使える矢かどうかまで、誰かが確かめる。
俺が知らない仕事が、出てきた品物の周りへ、次々と生まれていた。
*
銀貨を見た直澄は、その場で支払い先を決めなかった。
まず、布の上へ何枚か並べた。
形を見る。
重さを量る。
別の銀貨と比べる。
俺は、その作業を黙って見ていた。
「使えるか」
「少なくとも、ただちに偽物と疑われるようなものではございません。銀の質は、なお確かめます」
直澄は一枚を持ち上げた。
「百枚すべて、数え直します。そのうえで、出納へ記載いたします」
「ああ」
「陛下よりお預かりした臨時の金として、別に分かるようにいたします」
「それでいい」
直澄が帳面へ書き込む。
俺は、その横顔を見た。
「荷車の借り受けに回せるか」
「一部の前払いには使えます。ほかにも、車輪の修理や、馬の飼料代が必要でございます」
「まず、今回の輸送が止まらぬように使ってくれ」
「承知いたしました」
銀貨百枚。
俺には、大金に見えた。
だが、六百人を動かし、そのあとへ二百人と物資を送る仕事の中では、いくつもの支払いへ分かれていく。
それで借金が消えるわけではない。
遅れている給金を、すべて払えるわけでもなかった。
けれど、今日動かせる荷車が増える。
その違いは、橋へ届く。
俺は小麦の袋へ目を向けた。
「これで、どれほど賄える」
直澄ではなく、呼ばれてきた兵糧方の役人が答えた。
「食べさせる人数と、ほかの糧食をどれほど合わせるかによりますが……六百名だけでも、何日も持つ量ではございません」
少し言いにくそうだった。
俺が落胆すると考えたのかもしれない。
「そうか」
俺は頷いた。
「それでも、一食分ずつは延ばせるな」
「はい。製粉と調理の手間はございますが、使える糧になります」
「なら、無駄なく使おう」
五百キロ。
王都の食糧難が終わったような気には、なれなかった。
目の前にある十袋は、十袋だ。
八十万人がいる国へ、どれだけ小さい量なのかも、少し分かった。
それでも、ここには確かにある。
「後続へ積む分と、城で加工してから送る分を、兵糧方で決めてくれ。現地へ生の小麦だけ届けても、挽く手がなければ困るだろう」
「かしこまりました」
役人の返事が、少しだけ力強くなった。
*
玄庵は、止血薬の包みを見て眉を上げた。
「また、同じものが手に入りましたか」
「ああ。十包ある」
俺は机へ並べた薬を示した。
「橋で使った三人は、運べる見込みだと報告が来た」
「それは、ようございました」
玄庵は包みを一つ手に取った。
喜んでいるのは分かった。
ただ、その手つきは慎重だった。
「前と同じ使い方でよいのでしょうな」
「私が聞いている効き目は同じだ。だが、そなたの目でも確かめてほしい」
「承知いたしました」
玄庵は、薬をすべて橋へ送るとは言わなかった。
「運ばれてくる負傷者にも、必要になるかもしれません。こちらへ残す分と、前へ送る分を分けとうございます」
「任せる」
「では、六包を前へ。四包を受け入れの備えにいたします。使用した者の経過も、記録させましょう」
俺は頷いた。
全部送れば、向こうのためになる。
最初は、そう考えていた。
けれど、向こうからこちらへ運ばれてくる者もいる。
それを待つ場所にも、薬は必要だった。
「布や湯は足りるか」
「手配を進めております。ただ、負傷者を寝かせる場所は、もう少し余裕を見ておきたいですな」
「宗玄と話してくれ。空けられる部屋を確認させる」
「ありがたく存じます」
玄庵が頭を下げた。
俺は、残された四包を見た。
まだ誰が使うかも分からない薬。
できれば使わずに済めばいいと思った。
同時に、使わねばならぬ者が来たとき、そこにあってほしいとも思った。
*
後続の二百名が出るころには、内庭の影が長くなっていた。
彼らは、景綱の本隊六百名とは別の部隊だった。
物資を積む者。
荷車を扱う者。
道中を守る者。
荷が壊れたときに直すため、道具を持つ者もいる。
二百人全員が、荷車の横で槍を構えるわけではなかった。
俺は、並んだ車を見ていた。
木箱に収められた矢。
治療用の布。
糧食。
止血薬の入った小さな箱は、揺れと湿気を避けるよう包み直されていた。
小麦は、兵糧方が確認を済ませた袋から積んでいる。全部を一度に送るのではなく、加工の手配へ回す分を城へ残すことになった。
どれも俺の手を離れ、別の者の仕事になっていた。
「陛下」
直澄が近づいた。
「借り受けた荷車のうち、前払いを要した分の支払いを済ませました。受領の証文も、双方で確認しております」
「そうか」
「今回の銀貨は、残額と使途が分かるよう、別に記録いたします」
「頼む」
荷車のそばで、男が車輪を叩いていた。
音を聞き、それから軸の辺りへ屈み込む。
俺の視線に気づいたのか、近くの役人が説明した。
「出立前の確認でございます。道中で外れますと、後ろの車も止まりますので」
「……ああ」
矢が百本あっても、車輪が外れれば届かない。
薬があっても、川へ落とせば使えない。
宝庫から出したときには、助けられる気がした。
だが、本当に助けになるまでには、まだ何人もの手が必要だった。
輸送隊を率いる者が、前へ出て一礼した。
「支度が整いました」
「景綱へ合流するまで、道の安全を確かめて進め。夜になって見通しが利かなくなれば、無理をするな」
「承知いたしました」
「荷と兵の双方を、無事に届けてくれ」
「はっ」
隊列が動き出した。
人の歩く速さで、荷車が進む。
車輪の軋む音がした。
俺は、それが門を抜けていくまで見送った。
昼過ぎに手に入れた品物が、ようやく橋へ向かっている。
まだ、届いてはいなかった。
*
景綱は、馬上から隊列を振り返った。
先頭と最後尾が離れすぎてはいないか。
荷車が遅れていないか。
兵が水を飲めているか。
歩かせればよいというものではなかった。
王都から月白大橋へ向かう道には、避難してくる者の姿があった。
街道の中央を空けるよう兵が声をかける。
荷を抱えた老人が、立ち止まって頭を下げた。
景綱は馬上から軽く頷き、先へ進んだ。
すべての者へ声をかけることはできない。
だが、兵の列で道を塞ぎ、避難を遅らせることも避けねばならなかった。
「前方、騎馬一」
副官が知らせた。
景綱は顔を上げた。
街道の先から、一騎が近づいてくる。
先に出した三十騎のうちの一人だった。
男は馬を止め、頭を下げた。
「景綱様。先遣隊より参りました」
「橋は」
「維持しております。重蔵殿の詰所兵と連携し、昨夜、東詰めを取り戻しました」
景綱は、わずかに肩の力を抜いた。
「損害は」
伝令が答える。
死者。
負傷者。
重蔵から王都へ出した報告と、その後の小さな変化。
景綱は黙って聞いた。
「道の先は」
「偵察兵が見張っております。ただし、北の森には魔物がおりますので、橋へ近づきましたら、ご案内いたします」
「分かった。副官」
「はっ」
「先頭へ伝えろ。敵は橋前から退いているが、戦いが終わったわけではない。隊列を解くな」
「承知いたしました」
伝令の馬が、隊列の前へ回った。
景綱は右膝の位置を少し変えた。
長く同じ姿勢でいたため、脚が重い。
痛みはあった。
だが、指揮を執れぬほどではない。
それを確かめ、手綱を握り直す。
若い王から、隠すなと言われた。
あの言い方を思い出すと、景綱は少しだけ口元を引き締めた。
心配するだけで終わらず、副官へ事情を話せと命じてきた。
いまの自分へ必要な命令だった。
「休止の際、膝を確かめる。遅れが出るようなら伝える」
隣を進む副官へ言った。
「承知しております」
返事は早かった。
景綱は頷き、前を向いた。
*
橋の東に、兵の列が見えた。
朔は、高みからそれを確かめた。
槍。
王国の旗。
荷車。
歩調を揃えて進む兵。
「本隊です」
隣の兵が、橋へ合図を送った。
朔は、隊列だけを見続けないよう気をつけた。
北の森。
土壁の端。
街道の両脇。
援軍が見えた途端に、そちらへ意識が引かれる。
そういうときに近づかれるのが怖かった。
交代の兵へ見張りを任せ、朔は街道へ下りた。
景綱の前へ出て、頭を下げる。
「偵察兵の朔です。ここからご案内いたします」
「陛下より聞いている」
景綱の声は落ち着いていた。
「見えたものを伝えろ。推測は、そのあとでよい」
「はい」
朔は、橋の周囲を説明した。
東詰めは確保している。
大型の獣は討伐済み。
土壁は残っているが、端を回る小鬼がいる。
川沿いでも確認。
対岸には、いまのところ目撃なし。
「北の森は」
「声と枝の動きを確認しております。奥は見通せません」
「よい。案内しろ」
朔は歩き出した。
背後で、兵の装備が擦れる音が続く。
六百名。
昨夜、自分たちが石積みへ伏せていたときには、いなかった数だった。
だからといって、森が安全になったわけではない。
朔は道の先を見た。
増えた兵を、危険の中へ案内することも、自分の仕事だった。
*
景綱が橋の東詰めへ着くと、重蔵が迎えた。
鎧には泥がつき、頬に浅い傷がある。
目の下が落ちくぼんでいた。
「景綱様」
重蔵が頭を下げる。
「月白大橋、確保しております」
「よく持たせた」
景綱は馬を下りた。
右足を地面へつき、重さを確かめる。
それから、橋を見た。
欠けた欄干。
血の跡を洗い流した石畳。
引き寄せられた荷車の残骸。
土壁の向こうでは、鳥が数羽、落ち着かずに飛んでいた。
「詰所の兵は、どれだけ休めた」
「先遣隊に入っていただいてから、交代で。ですが、十分とは申せません」
「まず、こちらで引き受ける。見張りだけ、土地を知る者をつけてくれ」
「承知いたしました」
「そなたも休め」
重蔵の顔が、わずかに強張った。
「周辺の地形と、敵の出方をお伝えしてからにいたします」
「ああ。それを聞いたら、休め」
重蔵は、今度は頷いた。
景綱は副官へ指示を出した。
橋の東詰めへ槍兵。
土壁の端を見渡せる場所へ弓兵。
街道の見張りを東へ伸ばし、輸送隊が近づけば知らせる。
川沿いへも兵を出す。
ただし、見えなくなるまで広げない。
六百を一か所へ集めれば、橋の前は厚くなる。
その代わり、背後の道が空く。
景綱は、重蔵から聞いた土地の様子を使い、兵を置いていった。
詰所の兵が下がってくる。
槍を杖のようにして歩く者がいた。
座れと言われて、その場へ腰を落とす者もいた。
先遣隊の一人が、盾を外した途端に肩を押さえた。
景綱は、その様子を見た。
着くことができた。
そう思った。
だが、あと半日遅ければ何が起きたかを、考えずにはいられなかった。
*
日が傾くまでに、橋の周囲は少しずつ形を変えた。
砕けた荷車から、使える材を外す。
長い木を運び、東詰めの障害物へ足す。
欄干が欠けた場所へ縄を張り、担架と荷車の通る側を分ける。
水を汲む場所と、負傷者を寝かせる場所を近づけすぎぬようにする。
魔物を倒すこと以外の仕事が、いくつもあった。
景綱は、その間に重蔵の話を聞いた。
最初の襲撃。
大型の獣。
橋上まで下がった経緯。
先遣隊との挟撃。
土壁を立てた場所。
地面へ描いた線を、重蔵が指で示した。
「ここが、旧石切場へ続く道です。敵は主に、こちらから来ております」
「ほかの方向からは」
「川沿いで小鬼を確認しております。ただ、北から来たものが散ったのか、別に流れてきたものかは分かりません」
「分かった」
景綱は頷いた。
「旧石切場の入口まで、近づいた者は」
「最初に調べた組が、場所を確認しております。ですが、その後は流れ出る数が増え、近づけておりません」
「明朝、出す」
重蔵が顔を上げた。
「戦闘ではない。道と入口を見る。戻る時刻を決め、護衛をつける」
「朔を、お使いになりますか」
「ああ。だが、一人では行かせん。土地を知る者を、そなたから一人出してくれ」
「承知いたしました」
重蔵が立ち上がろうとする。
景綱は止めた。
「選ぶ者の名だけ、副官へ伝えろ。あとは休め」
「……はっ」
重蔵は頭を下げた。
その背が離れていくのを見届けてから、景綱は土壁へ目を向けた。
表面には傷が増えていた。
根の混じった土が、少しずつ剥がれている。
この壁がある間に、やれることを進める。
景綱は、副官へ次の指示を出した。
*
その夜、朔は呼ばれるまで眠った。
誰かの足音で起きるつもりだった。
実際には、肩を揺すられるまで気づかなかった。
目を開けたとき、空はまだ暗かった。
「水を飲め。すぐに動かなくていい」
隣の騎兵が、水筒を差し出した。
朔は体を起こした。
背中が痛かった。
だが、頭の奥の重さは、昨夜より薄い。
「どれくらい眠った」
「お前が横になってから、見張りが二度替わった」
「そうか」
水を飲む。
乾いた喉へ、冷たさが落ちた。
「今日は北か」
「ああ。景綱様から、話がある」
朔は頷き、顔を洗った。
空が白み始めるころ、景綱の前へ集まった。
朔のほかに、詰所から出る案内の兵が一人。
護衛が四人。
朔と組んでいた騎兵も、その中にいた。
「目的は、旧石切場と、その周辺の確認だ」
景綱は地面へ描いた道を示した。
「入口へ入る必要はない。魔物を倒した数も求めん。どこに何がいて、どの道が通れるかを見て戻れ」
「はっ」
「見通せぬ場所へ、無理に入るな。姿を見られたら、追われぬ距離まで下がる。全員で戻ることを優先する」
朔は、王城で聞いた言葉を思い出した。
同じだった。
遠くが見えるから、どこまでも行けという命令ではなかった。
「正午までに戻れ。近づけなければ、それも報告だ」
「承知いたしました」
景綱は一人ずつ顔を見た。
「行け」
六人が、北へ向かった。
*
橋から離れると、音が変わった。
荷車を直す音も、人の話し声も、少しずつ遠くなる。
草を踏む音が大きく聞こえた。
案内の兵が先に立つ。
街道をそのまま進まず、東側へ少し離れた、低い丘の裾を通った。
「上へ出れば、道が見えます」
案内の兵が、小声で言った。
「ですが、いちばん高いところへ立つと、向こうからも見えます」
「手前で止まろう」
朔が答える。
六人は、木々の陰を使って斜面を上った。
急ではなかった。
それでも、装備が枝へ触れるたび、朔は肩を縮めた。
音が大きすぎる気がする。
後ろの騎兵は、足元と背後を見ていた。
朔は、少し開けた場所の手前で膝をついた。
遠見を使う。
街道が見えた。
北から、小鬼が三匹、歩いてくる。
その間に、四つ足の影。
何かを引きずっている。
朔は、種類を決めつけなかった。
「小鬼が三。四つ足が一。南へ進んでいる」
隣の兵が、小さな板へ留めた紙に書きつける。
小鬼たちは、こちらを向かなかった。
六人は動かず、通り過ぎるのを待った。
物陰へ伏せているだけなのに、脚が強張る。
一匹の小鬼が立ち止まった。
鼻を上げた。
朔は息を止めかけて、ゆっくり吐いた。
小鬼は道端へ手を伸ばし、何かを拾った。
口へ入れる。
それから、また歩き出した。
六人は、しばらく待った。
案内の兵が、ようやく手を動かした。
進める。
そういう合図だった。
*
旧石切場は、木々の向こうにあった。
最初に見えたのは、崩れた石の壁だった。
人が切り出した跡が、段になって残っている。
使われなくなって長いのだろう。
割れ目に草が生え、足元には細かな石が積もっていた。
道には、古い車輪の跡がかすかに残っている。
だが、その上へ、新しい足跡が重なっていた。
小さな足。
爪のある足。
重いものが土を踏んだ跡。
朔は、石切場を見渡せる木の陰へ身を寄せた。
「ここから見える範囲でいい」
護衛の騎兵が囁いた。
朔は頷いた。
遠見を使う。
石の表面が、細かく見えた。
崩れた足場。
錆びた鉄具。
横倒しの、古い木枠。
その奥に、黒い場所があった。
石の壁へ、穴が開いている。
自然の窪みとは違った。
周囲の石肌に比べて、穴の縁が不自然に新しい。
中は暗かった。
遠見を使っても、その奥は見えない。
「……入口だ」
案内の兵が、小さく言った。
朔は返事をしなかった。
穴の前に、小鬼が二匹いる。
地面へしゃがみ、何かを奪い合っていた。
その後ろで、闇が動いた。
一匹、出てきた。
小鬼だった。
穴の縁を越え、石の上へ足をつく。
周囲を見回したあと、先にいた二匹へ近づいた。
争いが起きる。
甲高い声が、石壁へ反響した。
朔の隣で、紙へ筆を走らせる音がした。
少しして、また影が出た。
今度は四つ足だった。
狼に似ている。
だが、背が盛り上がり、首が短い。
それは小鬼を避け、石切場の端へ向かった。
南へ下る道が、そこから続いていた。
橋へ向かう道だ。
朔は、穴を見続けた。
何も出てこない時間があった。
その静けさで、もう止まったのかと思いかける。
次の小鬼が出てきた。
胸の奥が冷えた。
橋で倒していたものが、ここから来ている。
倒したあとにも、まだ出てくる。
そのことを、説明で聞くのと、目で見るのは違った。
「道を見たい」
朔は、小声で言った。
視線を入口から外す。
南へ下る道。
東へ曲がる細い道。
崩れた石が積まれ、通りにくくなっている場所。
川側へ落ちる斜面。
兵を進めるなら、どこを通るのか。
負傷者を運ぶなら、どこで詰まるのか。
朔には、六百人を動かす判断はできない。
だが、その判断に使うものは持ち帰れる。
「あの角は、ここから先が見えない」
朔は示した。
「南の道は途中まで見える。川側は石が崩れている。人数を並べられる幅ではない」
書き留める兵が頷いた。
そのとき、近くで枝が鳴った。
朔は、すぐには顔を向けられなかった。
遠くへ意識が寄っていた。
隣の騎兵の手が、肩を押した。
身を低くする。
全員が止まった。
斜面の下を、小鬼が一匹、歩いていた。
近かった。
手に、欠けた刃物を持っている。
朔は弓を握りかけた。
騎兵が、首をわずかに横へ振る。
まだだ。
小鬼は足を止めた。
こちらを見たように思えた。
朔の頬へ、汗が伝った。
虫が一匹、袖を這った。
払えなかった。
やがて小鬼は、石へ腰を下ろした。
刃物で地面を掻き始める。
六人は、その場に伏せたままだった。
長い時間に思えた。
実際には、そう長くなかったのかもしれない。
奥で小鬼の叫びがした。
石に座っていた一匹が顔を上げた。
立ち上がり、声の方へ歩いていく。
姿が消えるまで、誰も動かなかった。
騎兵が、朔の肩を二度、軽く叩いた。
戻る。
朔は頷いた。
もう十分だった。
*
帰り道では、誰も余計なことを話さなかった。
往路と同じ場所を使いながら、ときどき立ち止まる。
後ろを確かめる。
追ってくるものがいないかを見る。
橋の見張りから合図が返ってきたとき、朔は、ようやく大きく息を吐いた。
六人とも戻っている。
誰も傷を負っていない。
それを確かめてから、自分がどれほど脚へ力を入れていたかに気づいた。
橋の東では、荷車が並んでいた。
王都から来た後続の輸送隊だった。
昨日送り出された二百名が、途中で夜を越し、無理のない隊列で到着したのだと聞いた。
兵が木箱を運んでいる。
誰かが、麻袋の数を読み上げていた。
穀物の匂いが、かすかにした。
朔は、その横を通った。
自分たちが森で入口を見ている間にも、こちらでは別の仕事が続いていた。
「戻ったか」
景綱が、地図の前から顔を上げた。
朔たち六人が頭を下げる。
「全員、帰還いたしました」
「負傷は」
「ございません」
「よし。水を飲め。それから聞く」
朔は差し出された椀を受け取った。
飲み終えるまで、景綱は急かさなかった。
重蔵も、その場にいた。
昨夜までと違い、顔を洗い、鎧の紐を締め直している。
休んだのだと分かった。
朔は椀を置いた。
「旧石切場の奥に、入口を確認いたしました」
地図へ指を置く。
正確な絵ではない。
それでも、道と石壁の位置を、案内の兵と確かめながら示した。
「ここです。石壁に穴が開いております。中は暗く、見通せませんでした」
「周囲の敵は」
「小鬼と、狼に似た四つ足を確認しました。見ている間に、入口から新たに出てきたものがおります」
景綱の目が細くなった。
「数は」
記録した兵が答える。
その場で見たもの。
入口から出たもの。
南の道へ向かったもの。
それぞれ分けて読み上げた。
景綱は、途中で頷かなかった。
最後まで聞き、それから質問した。
「東の細道は、荷車が通れるか」
「いま見えた幅では、難しいかと存じます。奥までは確認できておりません」
「南の道は」
「石切場へ入る手前に、崩れた石が寄っております。人は通れますが、列は狭まります」
「川側は」
「斜面に崩れた石がございます。足場はよくありません」
景綱が、地図へ印をつける。
重蔵も横から、古い道の使われ方を補った。
朔は、自分が見た場所が、少しずつ別の意味を持つのを聞いていた。
石の山。
細い道。
見通しの利かない角。
それらが、兵をどこへ置くかという話へ変わっていく。
「入口へ近づかずに、ほかに見られたものは」
景綱が尋ねた。
朔は少し考えた。
「魔物は、出てきてすぐ、まとまって南へ進むわけではございません。周囲を歩くものや、争うものもおります」
「誰かが列を作らせている様子は」
「確認できませんでした」
「分かった」
景綱は筆を置いた。
「よく見てきた。休め」
朔は頭を下げた。
役目を終えた安堵が、遅れて胸へ広がった。
*
朔たちが下がったあと、景綱は地図を見た。
月白大橋。
北へ続く道。
旧石切場。
その奥の、入口を示す黒い印。
重蔵が、横に立っていた。
「橋の前へ来る数は、いまは抑えられております」
「ああ」
「ですが、入口から出続けているなら」
景綱は頷いた。
「ここで倒しているだけでは、減らした分がまた来る」
外から、木箱を下ろす音がした。
王都から届いた矢が、弓兵へ渡されている。
薬も届いた。
食料もある。
重蔵の兵は休み、景綱の兵が持ち場へ入った。
昨日より、できることは増えていた。
だが、その増えた分を、ただ待つためだけに使ってよいのか。
景綱は、石切場へ続く道へ指を置いた。
「まず、陛下へ報せる。入口を確認したことと、こちらの兵の状態を」
「承知いたしました」
「そのうえで、進むために何が要るかを揃える。橋を空けずに出せる兵を数えろ。負傷者を運ぶ道も残す」
「はい」
重蔵が地図へ身を寄せた。
二人の指が、橋から北へ伸びる道をたどった。
窓の外で、兵を交代させる声が響いていた。
橋を守るために集まった兵たちが、次にどこへ進むのか。
その相談が、ようやく始まった。




