第三話 橋を守る者たち
森の中で、枝が折れた。
生木を力任せにへし曲げる、鈍い音だった。
月白大橋の東詰めで、重蔵は槍を握り直した。
荷車を並べた障害物の向こうで、木々が揺れている。
先ほどまでは、小鬼の甲高い声がしていた。いまはそれが少ない。代わりに、腹の底へ響くような唸り声が、森の奥から聞こえていた。
「辰吉」
「はい」
「東に残っている者は」
「見張りが二組。負傷兵が四人です。負傷兵は、順に橋を渡らせております」
「担架を通す場所を空けろ。荷はあとでいい」
「承知しました」
辰吉が走っていく。
重蔵は、周囲の兵へ目を向けた。
月白大橋の詰所と、その周辺の街道警備を任されている兵は、合わせて二百二十名。
だが、その全員が、いまここにいるわけではなかった。
巡回に出ている者がいる。護送の途中にいる者もいる。橋へ集めた者の中からも、西岸の避難民整理や負傷兵の搬送へ、人を回さなければならなかった。
帳面に書かれた二百二十という数と、いま目の前で槍を構えている数は違う。
しかも、その槍を握る腕は、最初の襲撃ですでに疲れていた。
「隊長」
若い兵が、森を見たまま声を出した。
「あれは……」
「まだ見えん」
重蔵は答えた。
「見えんものの名を考えるな。足を開け。槍が上がりすぎている」
「はっ」
兵が慌てて構え直す。
穂先は、かすかに震えていた。
重蔵は、それ以上言わなかった。
震えていても、持ち場へ立っている。それで十分だった。
背後では、月白川が流れている。
橋を西へ渡った避難民は、そこから水瀬街道を下っていった。だが、歩けぬ者や、家族を待っている者は、まだ西詰めの近くに残っている。
橋を明け渡せば、その者たちへ魔物が届く。
だからといって、ここで全員を死なせてよいわけでもなかった。
「弓を無駄にするな」
重蔵は射手へ告げた。
「先に出てきたものへ、まとめて射るな。合図を待て」
森の端に、小鬼が現れた。
四匹。
その後ろにもいる。
枝を持つもの。欠けた刃物を引きずるもの。低く身をかがめ、獣のように地面へ手をつくもの。
それらが、左右へ散った。
間から、黒い獣が姿を現した。
猪に似ていた。
ただし、重蔵が知る猪より、はるかに大きい。
肩は人の胸ほどもあり、額から背へ黒い突起が連なっている。右の牙は根元から折れ、残った左の牙が、地面を擦っていた。
鼻先が土へ沈む。
塊になった土が、横へ跳ねた。
戻ってきた辰吉が、足を止めた。
「……荷車では止まりませんな」
「ああ」
重蔵は認めた。
止まらぬものを、止まると言っても仕方がない。
「正面を空けろ。突っ込ませて、脇を狙う」
「橋まで下がりますか」
「まず、あの荷車で足を取らせる」
最初の襲撃で横倒しになった荷車を、槍の柄で示す。
一息でいい。
巨体が止まれば、傷をつけられる。
止まらなければ、兵を橋へ下げる時間を作る。
獣が顔を上げた。
小鬼たちが、さらに左右へ離れた。
「来るぞ!」
地面が鳴った。
重蔵は、兵たちの足が動くのを見た。
正面から退く。
槍を引く。
その次の瞬間、荷車が砕けた。
*
門が閉じても、蹄の音はしばらく聞こえていた。
三十騎。
送り出したばかりなのに、もう橋へ着いただろうかと考えている。
そんなはずがない。
城下を抜けるにも時間はかかる。夜の街道を進むなら、なおさらだ。
分かっているのに、耳が勝手に外の音を探していた。
「陛下」
宗玄の声に、俺は振り返った。
「明朝の出立について、景綱殿より確認がございます」
「ああ。戻ろう」
歩き出してから、自分がまだ門を見ていたことに気づいた。
行かせたのは俺だ。
そう思うたびに、喉の奥が乾く。
けれど、ここで立っていても道は短くならない。
執務室へ戻ると、机の上に書付が増えていた。
景綱は、広げた地図の前に立っている。
右脚へ、あまり体重をかけない立ち方だった。
「座れ」
「ですが、陛下」
「長い話になるのだろう」
景綱が少し目を伏せた。
「では、失礼いたします」
彼が腰を下ろすのを待って、俺も座った。
机には、三つの名簿が置かれていた。
先ほど出した三十騎。
明朝、景綱が率いる六百名。
そのあとに物資を運ぶ、輸送と護衛の二百名。
どれも、王都から出す者たちだ。
橋の詰所にいた兵とは、別だった。
「六百は、予定どおり出せるか」
「はい。兵の招集は進んでおります。装備の確認と糧食の支給を済ませ、夜明けには出立いたします」
景綱が書付を寄せた。
「槍兵を中心に、弓兵を加えます。矢は各人へ持たせるほか、荷車にも積みます。橋の守備隊が、すでに相当数を使っているかもしれません」
「重蔵の兵は、二百二十だったな」
「街道警備まで含めた総数です。巡回や護送へ出している者もおりますので、全員を橋の正面へ置くことはできません」
俺は名簿から地図へ目を移した。
二百二十人。
最初に聞いたときは、それだけいればと思いかけた。
だが、橋の西では人々を誘導しなければならない。傷ついた者を運ぶにも、見張りを出すにも、人は要る。
戦える者を全員、一列に並べておけるわけではなかった。
「先に出た三十騎は、どちらから橋へ入る」
景綱の指が、王都から西へ伸びる道をたどった。
「王都から東岸の街道を進みます。敵が報告どおり北から東詰めへ迫っているなら、先遣隊は敵の東側へ出ます」
月白川。
その上に架かる橋。
北には旧石切場。
東には王都。
俺は、指先でその位置を確かめた。
「重蔵の守備隊とは、敵を挟む形になるのか」
「敵味方の配置を確かめ、連絡が通れば可能です」
景綱は、簡単には頷かなかった。
「ただし、先遣隊は三十騎です。敵の背後へ出たつもりが、北から来る別の群れとの間へ入り込むこともございます」
「……そうか」
「夜です。深く回り込むより、まず守備隊と連絡を取り、退く道を残します」
俺は頷いた。
地図なら、指を二本置けば挟める。
だが、その間を進む兵には、暗い森も、見えない魔物もある。
「朔に渡した力が、役立てばいいのだが」
「本人の説明どおりなら、配置を知る助けになります。使い慣れるまで、仲間と組ませる必要はございますが」
景綱は橋へ指を置いた。
「私の六百が到着してからも、まず東岸の道と川沿いを確かめます。重蔵の兵を休ませ、糧食と矢を揃えたうえで、次の行動を判断いたします」
「旧石切場へは、そのあとだな」
「はい」
少し、息がしやすくなった。
六百を出せば、何かが決まるような気になりかけていた。
橋へ着くことと、魔物の流出を止めることは違う。
「北門砦からは動かさない。東見砦もだ」
「承知しております」
「鷹越峠を薄くして、鉄嶺まで危うくするわけにはいかない」
「はい」
地図の北に、北門砦があった。
姉上がいる。
来てほしいと思った。
ここにいてくれたら、どれだけ心強いだろう。
だが、姉上が守っている場所には、姉上が必要だった。
俺が不安だからという理由で、そこを空けるわけにはいかない。
「急ぎの判断まで、こちらの返答を待てとは言わない。ただ、何をしているかは知らせてくれ」
「伝令を確保いたします」
「膝の具合もだ」
景綱が顔を上げた。
「悪くなったら、動けなくなる前に伝えろ。指揮を引き継ぐ者にも、事情を話しておいてくれ」
「副官へ申し伝えます」
答える声に、不満はなかった。
それがありがたかった。
俺の心配を、必要な準備へ変えて受け取ってくれる。
宗玄が、別の書付を机へ置いた。
「水瀬への使者は、すでに出ております。豊原にも、糧食と荷車について照会いたしました」
「返答は、まだだな」
「はい。届くまでには時がかかります」
「それまでに、こちらでできることを進めよう」
「かしこまりました」
窓の外は暗かった。
夜は、まだ長い。
*
重蔵は、木の欠片が頬をかすめるのを感じた。
黒い獣の前脚が、折れた車軸へ乗った。
巨体が傾く。
「突け!」
三本の槍が、脇腹へ伸びた。
一本は浅い。
一本は硬い皮に弾かれた。
残る一本が、前脚の付け根へ入った。
獣が吠えた。
頭を振っただけで、槍を握る兵が引きずられる。
「離せ!」
重蔵は兵の肩をつかみ、後ろへ引いた。
槍の柄が折れた。
黒い獣はそのまま橋の入口へ突っ込み、石の欄干へ肩をぶつけた。爪が石畳を掻き、耳障りな音が響く。
止まらなかった。
だが、脚へ傷は入った。
「三つだ!」
後方で笛が鳴った。
長く、三度。
詰所の兵たちが、橋へ下がり始める。
最後まで矢を放っていた射手も、弓を下げて走った。
追ってきた小鬼へ、重蔵は槍を突き出した。
喉から穂先を抜く。
辰吉が盾を構え、その横へ入った。
「隊長! こちらへ!」
「東の見張りは!」
「一組は戻りました! もう一組は、川沿いから回っております!」
待ちたい。
重蔵は奥歯を噛んだ。
だが、ここで待てば、下げた兵まで引き戻すことになる。
「橋の途中で止める! 列を崩すな!」
重蔵は橋へ入った。
石畳に、誰かの血が落ちていた。
踏み越える。
橋の幅まで狭まれば、一度に向き合う敵の数は減る。
代わりに、こちらも横へ逃げられなくなる。
西詰めから、詰所兵の一組が交代に出てきた。
重蔵は、顔を見て頷いた。
まだ、動ける者はいる。
援軍が来るまでは、その者たちでつなぐしかなかった。
*
朔は、馬の歩調を落とした。
前を進む騎兵の背が、暗がりへ溶けかけていた。
道端には捨てられた籠や、紐の切れた荷がある。通りかかった家にも灯が少なかった。
先遣隊長が手を上げる。
三十騎が止まった。
王都から出た騎兵二十四名と、朔を含む偵察兵六名。
その中に、橋の詰所の兵はまだいない。
「前を見ろ」
「はい」
朔は隣の騎兵へ顔を向けた。
「近くを頼む」
「ああ」
返事を聞いてから、道の先へ意識を向けた。
遠見を使う。
暗がりにある輪郭が、ゆっくり明瞭になった。
夜が昼になるわけではない。
木陰は暗いままで、曲がった道の向こうも見えない。
それでも、目で追えるものが増えた。
倒れた荷車。
路肩の杭。
木の根元へ伏せた、人影が二つ。
「二人います。右手の木の下です」
隊長が二騎を前へ出した。
「生きているか」
「動きました。武器を持っています。所属は、まだ分かりません」
騎兵が声をかける。
返事があった。
橋の見張りだった。
一人が、肩を押さえている。
「重蔵殿の兵だな」
「はい。月白大橋の詰所の者です」
「橋は」
「戦っております。大きな獣が出まして、東の荷車が……!」
隊長は負傷兵を馬へ乗せるよう命じた。
残る一人も、別の馬の後ろへ乗せる。
「敵は橋のどちら側にいる」
「東です。私どもが最後に見たときには、守備隊は東詰めで受けておりました」
「街道のこちら側まで広がっているか」
「分かりません。川沿いを回って戻るところでしたので……」
「よい。見た範囲で答えろ」
朔は川の方向へ目を向けた。
木々の切れ間に、水面が細く見える。
その手前で、小さな影が動いた。
一つ。
また一つ。
「川沿いにもいます」
「数は」
「五匹、確認できます。後ろにもいるかもしれません」
朔が柳の木を示すと、隊長も目を凝らした。
「……いたな」
朔は、ゆっくり息を吐いた。
見間違いではなかった。
「先へ進む。橋へ近づいたら、馬を下りる」
隊長の声が低くなる。
「こちらが来たことを、敵はまだ知らん。声を落とせ」
馬列が動き出した。
道が緩く下り、川の音が近づいた。
やがて、橋の方から叫びが聞こえた。
兵の声。
魔物の声。
盾か、石か、何かへ激しくぶつかる音。
朔は、喉の奥が乾くのを感じた。
隊長が馬を止める。
全員が下りた。
馬をまとめる者を残し、兵たちは道脇の石積みへ身を寄せた。
「見えるか」
朔は、橋へ目を向けた。
松明があった。
その光で、欄干が見える。
槍を構える王国兵。
小鬼。
橋の入口に、大きな黒い獣。
「守備隊は、橋の上まで下がっています。敵は東詰めと、その北です」
「こちらの位置は」
「敵の東側です。橋から見れば、敵の後ろ寄りになります」
朔は、さらに東へ目を動かした。
背後に別の群れがいないか。
街道。
石積みの向こう。
木々の間。
「退いてきた道には、いまのところ見えません。ただ、森の奥は分かりません」
隊長は頷いた。
「退くなら馬のところだ。全員、道を覚えておけ」
小さな返事が重なる。
隊長は、橋から来た見張りへ向き直った。
「重蔵殿へ、こちらの到着を知らせたい。敵の前を通らず、連絡できるか」
「下流に舟がございます。西岸へ渡れば、橋の後ろから入れます」
「案内できるな」
「はい」
隊長は二人を指名した。
一人へ、封をした書状を渡す。
「重蔵殿に。こちらは敵の東へ着いた。合図が通るまで、橋から無理に出ぬよう伝えろ」
もう一人へ、細長い筒を持たせた。
「巻物の使い方は、教えたとおりだ。場所は重蔵殿と確かめろ。人が残っていないかも確認する」
「はっ」
三人が、下流へ向かった。
朔は橋へ目を戻した。
守備兵たちは、まだ援軍が来たと知らない。
槍を出し、引き、隣の者と場所を替えている。
こちらが動く時を間違えれば、その者たちまで危うくなる。
朔は、呼吸を整えた。
*
重蔵の腕は、すでに痺れていた。
黒い獣は、橋の入口で首を振っている。
前脚の傷が効いているらしい。最初のような突進はしなくなった。
だが、まだ立っていた。
その脇を、小鬼が抜けてくる。
「欄干だ!」
辰吉の声が飛んだ。
盾を持つ兵が、石の縁へ飛びついた小鬼を押し落とす。
水音がした。
「隊長!」
背後から呼ばれた。
「王都より、使者です!」
重蔵は聞き返しかけた。
辰吉へ前を任せ、少し下がる。
橋の西側から来た兵が、濡れた裾を押さえて立っていた。
「先遣隊三十騎、到着しております。陛下の命により参りました」
重蔵は書状を受け取った。
王印を確かめ、開く。
橋と避難路の確保。
負傷者の搬送。
敵情の把握。
維持が困難な場合は、兵を無為に失わず、後退して報告すること。
最後の一文を、もう一度読んだ。
「本隊は」
「景綱様が六百名を率い、夜明けに王都を出立される予定です。さらに物資を運ぶ輸送と護衛の二百名が、支度の整い次第、続きます」
「……そうか」
六百が、すでに後ろへ来ているわけではない。
夜が明け、それから道を進んでくる。
いま助け合えるのは、重蔵配下の詰所兵と、先に着いた三十騎だった。
重蔵は、それを頭へ入れた。
「先遣隊長は、敵の東側へ控えております」
使者が続けた。
「側面から射かけ、敵が向き直ったところを、橋から押し返していただきたいとのことです」
「三十で、深く入りすぎてはおらんだろうな」
「街道の石積みを使い、退路を残しております」
「北から続く群れは」
「こちらで遮ります」
使者が筒を差し出した。
土壁のスクロールだった。
重蔵は、筒と使者の顔を交互に見た。
使えばなくなる、高価な巻物。
それが、自分たちの橋へ届いている。
「土の上で使います。橋の石の上や、水の中では使えません」
使者が手順を説明する。
壁を立てる場所が見えること。
人のいる場所を選ばぬこと。
味方の退路を塞がぬこと。
「偵察兵が、橋前の敵と北からの後続を分けられる場所を確かめております」
重蔵は東詰めを見た。
荷車の残骸。
倒れた小鬼。
黒い獣。
その奥に、土の街道がある。
そこへ壁を立てれば、北からの流れを一度、断てる。
「合図は」
「先遣隊が射かけます。敵の向きが変わりましたら、こちらから短く笛を三つ。その後、向こうから安全の合図を受けて、土壁を立てます」
「こちらが出るのは、壁が上がってからだな」
「はい」
「弓は北へ向けさせる。東の味方へは射らせん」
「お願いいたします」
重蔵は頷いた。
使者が、もう一つ言った。
「戻っておられなかった見張り二名も、収容いたしました。一名は肩に傷がございますが、意識はございます」
重蔵は、短く目を閉じた。
二人とも戻った。
「助かる」
それだけ言った。
いまは、それ以上を言う暇がなかった。
「辰吉!」
重蔵は前へ戻った。
「交代だ。まだ動ける者を、俺の後ろへ集めろ」
*
橋の西側で、松明が決めた順序に動いた。
受け取った、という合図だった。
隊長が頷く。
「北を見ろ」
朔は、橋前から街道へ視線を移した。
小鬼がいる。
その奥にも影がある。
橋へ集まっている敵と、後ろから来る群れとの間には、わずかな空きがあった。
壁を立てるなら、そこだ。
だが、その手前の右側に――。
「人がいます」
朔は低く言った。
隊長が顔を寄せる。
「どこだ」
「倒れた荷車の右です。溝へ落ちています」
肩が見えた。
王国軍の兜。
片手が、わずかに動く。
「生きています」
隊長は、しばらく黙った。
助けに出れば、敵へ姿を見せる。
だが、壁を立てれば、取り残されるかもしれない。
「射かけるのと同時に、引き上げる」
隊長が言った。
二人を指名する。
「盾を持て。全員で溝へ入るな。周りを見ろ」
「はっ」
「朔。救出の二人へ向かう敵を知らせろ」
「承知しました」
弓兵が石積みの後ろへ並ぶ。
小鬼たちは、まだ橋を向いていた。
大型の獣が唸った。
橋の兵が、一歩下がる。
隊長の手が上がった。
朔は矢をつがえた。
怖かった。
自分たちがここにいると知った魔物は、こちらへ来る。
橋の兵が動けなければ、三十人だけで受けなければならない。
上がっていた手が下りた。
「射て!」
矢が飛んだ。
小鬼の背へ刺さる。
別の一匹が、首を押さえて倒れた。
黒い獣が、東へ顔を向けた。
その脇を、盾を持つ二人が走る。
朔は弓を引き直した。
救出へ向かった兵の前で、小鬼が枝を振り上げた。
狙う。
放つ。
矢が肩へ入り、小鬼がよろめいた。
盾で突き倒される。
二人が溝へ着いた。
片方が負傷兵の襟元をつかみ、引こうとした。
止まった。
「足です!」
朔は叫んだ。
「足が、車輪の下にあります!」
もう一人が盾を捨て、車輪へ両手をかける。
小鬼が振り向いた。
一匹。
二匹。
こちらへ走ってくる。
「左から二匹!」
騎兵が槍を出した。
最初の一匹が、その穂先へ飛び込む。
二匹目は石積みへ跳ね上がろうとして、別の兵に突き落とされた。
朔は、救出の様子へ目を戻した。
車輪が持ち上がる。
負傷兵の脚が抜けた。
二人が、その体を引きずって戻り始める。
橋で、短い笛が三つ鳴った。
黒い獣は、もう橋だけを向いてはいなかった。
*
東から矢が飛んだ。
小鬼の何匹かが、橋から離れ始めた。
獣が首を回す。
その首へ、矢が刺さった。
重蔵は、後ろの兵へ声をかけた。
「まだ出るな!」
槍の列が止まる。
東の石積みへ、二人の兵が誰かを運んでいた。
「市助か……!」
辰吉が息を呑んだ。
重蔵も、そのとき初めて、取り残されていた弓兵に気づいた。
助けられた。
だが、まだ動けない。
使者が巻物を開いている。
重蔵は、北の街道と味方の位置を見比べた。
救出に出た二人が、石積みへ戻った。
東の側で、松明が一度、大きく振られる。
「いまだ」
重蔵が告げた。
使者が、教わった言葉を読み上げた。
地面が震えた。
橋前の魔物たちより北で、土が帯のように盛り上がる。
小鬼の一匹が、跳ねるように後ろへ逃げた。
土がせり上がった。
腰を越え、肩を越える。
根の切れる音がした。
土塊が落ちた。
分厚い壁が、街道を横切って立ち上がった。
向こう側から、叫び声がする。
これで、すべてを止められるわけではない。
壁の端を回れば、また来られる。
だが、そのためには時間がかかる。
いま、橋の前にいる敵だけへ向けられる時間だった。
「前へ!」
重蔵は槍を構えた。
「追いすぎるな! 東詰めを取り戻すぞ!」
詰所の兵たちが、盾を並べて橋から押し出した。
小鬼が一匹、振り向く。
その腹へ、辰吉の槍が入った。
東では、先遣隊が石積みを離れた。
馬上の突撃ではない。
盾を構え、槍を揃えた兵が、敵の側面へ寄せてくる。
橋から出た重蔵たちとの間で、小鬼の動きが乱れた。
東を向いたものが、背へ槍を受ける。
橋へ戻ろうとしたものに、横から矢が入る。
重蔵は、大型の獣を見た。
東へ向き直ったため、脇腹がこちらへ開いていた。
「脚を狙え!」
三人が前へ出る。
最初の槍が、後脚へ入った。
獣が身をひねる。
別の槍が、腹へ届いた。
重蔵も踏み込んだ。
背の突起は硬い。
ならば、その下。
前脚の付け根へ、穂先を押し込んだ。
獣が吠えた。
槍の柄を通して、衝撃が腕へ来る。
重蔵はすぐに引いた。
「離れろ!」
牙が振られた。
兵の一人が盾で受け、膝をつく。
辰吉が襟をつかみ、後ろへ引いた。
その間に、東から矢が飛んだ。
獣の顔へ刺さる。
巨体が前へ出た。
だが、傷ついた脚が支えなかった。
膝が折れる。
石畳と土の境で、黒い体が大きく傾いた。
「近づくな!」
重蔵は怒鳴った。
倒れたと思って駆け寄り、最後に振られた牙で死ぬ者がいる。
兵たちは、槍を向けたまま止まった。
獣が暴れる。
土を掻く。
そこへ、また矢が入った。
動きが小さくなった。
最後に、残った牙が地面を擦った。
重蔵は、その脚が動かなくなるまで見ていた。
土壁の向こうで、何かが壁を叩いていた。
*
小鬼が一匹、北へ逃げた。
朔は弓を構えかけた。
その先には、土壁があった。
小鬼は壁の端へ走り、暗がりへ消えていく。
「追うな!」
隊長の声が飛んだ。
朔は弓を下げた。
追えば、まだ射られるかもしれない。
遠見で姿を拾えるかもしれない。
その考えを、そこで止めた。
任務は、逃げた一匹を仕留めることではなかった。
橋へ目を戻す。
詰所の兵たちが、周囲へ槍を向けている。
東詰めを取り戻した。
荷車は砕け、石畳には血が残っている。
それでも、守備隊はもう、橋の狭い場所へ押し込められてはいなかった。
倒れた者を運べる。
矢を拾える。
障害物を作り直せる。
「北から、次が来ます!」
朔は声を上げた。
土壁の東端へ、小鬼が回り始めていた。
隊長が弓兵を向ける。
重蔵の兵も、槍の列を整えた。
「こちらで射る! 橋側は、そのまま構えておけ!」
矢が飛んだ。
壁を回り込んだ小鬼が倒れる。
後ろのものが立ち止まった。
その一瞬に、兵が荷車の残骸を引き始めた。
重蔵と先遣隊長が、短く言葉を交わしている。
受け持つ場所を決め、疲れた者を下げていた。
朔は呼吸を整えた。
勝った。
そう思いかけて、北へ目を戻した。
森は、まだ揺れていた。
*
千歳の部屋へ行ったときには、夜はずいぶん深くなっていた。
扉の前で女官へ声をかけると、中から足音がした。
「兄上?」
千歳は寝巻きの上へ羽織を重ねていた。
俺を見て、それから廊下の先を見た。
「皆は、もう出たの?」
「先に向かう者たちはな。景綱たちは、朝になってからだ」
「兄上は」
「ここにいる」
答えると、千歳の肩が少し下がった。
それを見て、胸が痛んだ。
いま街道を進んでいる三十人にも、同じように待っている者がいる。
俺は、その顔を知らない。
「夕餉を待っていたのか」
「冷めたから、温め直してもらった」
「すまなかった」
「母上が先に食べていいって言ったから、少し食べたよ」
「そうか」
「兄上の分は、あるから」
部屋には、小さな膳が用意されていた。
汁と煮た野菜、魚が少し。
見た途端に、自分が空腹だったことへ気づいた。
母上は窓際へ座っていた。
「その顔のままでは、千歳も話しかけにくいでしょう」
「……はい」
俺は、どうにか眉間の力を抜いた。
千歳が、庭へ来た鳥の話をした。
見たことのない鳥だったらしい。
尾が長かった。
女官へ尋ねたが、名は分からなかった。
その話を聞きながら、俺は汁を飲んだ。
温かかった。
それだけで、張り詰めていたものが少し緩んだ。
けれど、笑った直後に橋のことを思い出した。
いま、こんなふうに座っていていいのだろうか。
「悠真」
母上が言った。
俺は箸を止めた。
「次の報せが来たとき、きちんと読めるようにしておきなさい」
「はい」
「疲れた頭で聞けば、聞き落とします。空腹で急げば、確かめる前に頷いてしまいます」
「……分かりました」
母上は、それ以上何も言わなかった。
俺は飯を口へ運んだ。
噛んでいるうちに、少しずつ甘さが分かった。
*
橋の西の救護所へ入ると、重蔵は足を止めた。
床に藁が敷かれ、戸板が並んでいる。
血の匂いと、湯の匂いがした。
「どうだ」
先遣隊とともに来た衛生兵が、顔を上げた。
「こちらの三人は、出血が落ち着きました。ただ、動かす際は、できるだけ揺らさぬようお願いいたします」
傍らに、空になった薬包があった。
「届いた薬か」
「はい。玄庵先生の指示に従って使っております」
重蔵は横になった兵を見た。
布を押し当てても、血が染み出していた男だった。
顔色は悪い。
息も浅い。
だが、呼びかけると目が動いた。
「……隊長」
「喋るな」
「橋は」
「ある」
重蔵は答えた。
「お前が心配せんでも、まだある」
兵の口元が、わずかに動いた。
笑おうとしたのかもしれなかった。
「運ぶ支度ができたら、先に下がれ」
「ですが」
「命令だと思って寝ていろ」
兵は目を閉じた。
衛生兵が布を取り替える。
重蔵は、声を落とした。
「助かるか」
衛生兵は、すぐには答えなかった。
「出血は抑えられました。ただ、ここではできない処置もございます。早く、医師のいる場所へ運びたいです」
「分かった」
治ったわけではない。
だが、運べる。
夜明けを迎えられるかどうかさえ分からなかった者を、次の場所へ運べる。
その違いは大きかった。
外では、避難してきた女が湯を沸かしていた。
昨夜、子供の手を引いて橋を渡った者だった。
子供は壁際で眠っている。
「水は、こちらへ置いてよろしいでしょうか」
「そこでいい。重いものを運ぶときは、兵を呼んでくれ」
「はい」
重蔵は救護所を見回した。
届いた薬。
持ち寄られた布。
貸された戸板。
どれも、誰かの手でここにあった。
彼は懐の書状へ触れ、それから持ち場へ戻った。
*
朝になれば、少し落ち着くと思っていた。
実際には、明るくなってからの方が、人の出入りは増えた。
六百名へ渡す糧食。
不足する荷車。
借り受ける馬。
後続の二百名が運ぶ物資。
どれも急ぎだった。
「少し待ってくれ」
俺が言うと、役人の顔が強張った。
「そなたに落ち度があるのではない。先ほどの話を、聞き終えたい」
「は、はい。承知いたしました」
宗玄が、机の紙を分けた。
「陛下のお決めになるものはこちらへ。すでに命じられた範囲で処理できるものは、担当の者へ戻します」
「頼む」
机が少し広くなった。
それだけで、ほっとしてしまった。
出立の支度が整うと、弥一が呼びに来た。
顔を洗い、襟を直して庭へ出る。
六百の兵が並んでいた。
王都の兵だ。
昨日まで、城門や城壁、兵舎で任務に就いていた者たち。
これから景綱に率いられ、月白大橋へ向かう。
槍が立ち、弓が背へ負われ、荷を確かめる声が飛んでいた。
紐を結び直す者。
隣の兵の肩を叩く者。
目を閉じて、何か呟いている者。
六百という数が、初めて目の前にあった。
景綱は馬の横に立っていた。
俺に気づくと、片膝をつこうとする。
「そのままでいい」
「はっ」
兵たちへ向き直った。
昨夜、何を言おうか考えた。
勇ましい言葉なら、本で読んだものがいくつもある。
だが、いま伝えたいのは何だっただろう。
「月白大橋では、重蔵と詰所の兵たちが戦っている」
庭が静かになった。
「避難する人々を守り、援軍を待っている。そなたたちには、その者たちを支えてほしい」
前の列に、若い顔があった。
俺より年下かもしれなかった。
「命令を守れ。互いの姿を見失うな。負傷を隠すな」
ゆっくり息を入れた。
「糧食と矢は、後続にも運ばせる。景綱の指揮に従い、任を果たして帰れ」
景綱が頭を下げた。
「承知いたしました」
兵たちの返事が、庭へ響いた。
俺は、その音を聞いた。
隊列が動き始める。
最初の兵が門をくぐってから、最後の荷車が出るまで、ずいぶん長く感じた。
六百人を動かすだけで、これだけかかる。
街道へ出たあとも、同じ速さで進めるわけではないだろう。
景綱が、馬上から一礼した。
俺は頷いた。
門の外へ消えていく背へ、頼む、と心の中で言った。
それから、戻ってきてくれ、とも。
*
朔は、橋から少し下流の土手を歩いていた。
隣には、昨夜、近くを見張ってくれた騎兵がいる。
川岸の草は露で濡れていた。
その一部が、不自然に倒れている。
「ここだな」
騎兵が足を止めた。
ぬかるみに、小さな足跡が残っていた。
小鬼のものだろう。
橋を使わず渡ろうとしたのか。
ただ、川沿いへ歩いただけか。
朔は、分からないことを分からないままに置いた。
遠見を使う。
対岸の低い木々。
流れの緩い場所。
岸へ寄った倒木。
舟を引き上げるための古い杭。
動くものは見えなかった。
「向こう岸には、いまのところ見えない」
「いまのところ、だな」
「ああ」
見えるものは増えた。
だが、すべてが見えるわけではない。
葦の陰へ伏せられれば分からない。木の裏へ回られれば、そこで途切れる。
「小鬼は泳ぐのか」
騎兵が尋ねた。
「浅い場所を渡るのは見たことがある。流れの強いところは、俺も知らない」
「なら、そう報告するか」
「そうする」
二人は少し下流へ進んだ。
土手が低くなり、葦の生えた場所がある。
そこに、一匹いた。
泥へ腹をつけている。
動かなかった。
死んでいるようにも見える。
朔は手を上げ、騎兵を止めた。
弓を構える。
矢を放つ。
背へ刺さった瞬間、小鬼が跳ね起きた。
泥を蹴って、こちらへ向かう。
騎兵が槍を構えた。
矢傷でよろめいたところへ、穂先が入る。
短い戦いだった。
朔は弓を下げた。
昨夜の獣に比べれば、小さな一匹だ。
それでも、気づかず横を通れば、脚を裂かれていたかもしれない。
「まだいるか」
朔は、すぐには遠見を使わなかった。
まず、近くを見た。
足元。
葦の間。
土手の上。
それから、遠くへ意識を向けた。
「……いまは見えない」
「よし。戻るぞ」
朔は頷いた。
もう少し先へ行きたい気持ちはあった。
森へ近づけば、群れの動きが分かるかもしれない。
旧石切場へ続く道を、見通せる場所があるかもしれない。
だが、二人の行き先を知る者は、川沿いを調べに出たとしか聞いていない。
勝手に森へ入れば、探しに来る者を出すことになる。
朔は弓を背へ戻した。
まず、報告する。
次へ行くなら、そのための準備をしてからだ。
*
重蔵は、木箱の上へ紙を広げた。
指の節に、乾いた血がついていた。
自分のものか、誰かのものか分からない。
辰吉が人数を読み上げる。
「詰所兵の戦死、二名。重傷三名は、届いた薬を使用し、搬送を待っております。そのほか、最初の襲撃で手当てを要した者が七名。夜間の戦いで、さらに負傷六名です」
「持ち場へ戻した者は」
「二名です」
「休ませろ」
「ですが、本人たちは」
「次に立てなくなれば、運ぶ手が要る」
「……承知しました」
重蔵は書き加えた。
先遣隊の負傷者は、守備隊と分けて記す。
溝から弓兵を引き上げた一人が、腕へ石を受けていた。骨までは傷めていないようだが、盾を持つと顔をしかめた。
それも書いた。
大型の獣一体を討伐。
小鬼は、確認できた数を記す。
川へ落ちて見失ったものは別にした。
東詰めの障害物は損壊。
欄干の一部に破損。
王都より到着した先遣隊三十騎と連携し、側面攻撃と橋上からの前進によって東詰めを確保。
土壁は残っている。
ただし、敵は壁の端を回り始めており、警戒を継続中。
重蔵は、筆を止めた。
礼は、どこへ書けばいい。
報告には、状況と必要なものを書く。
そう教わってきた。
それでも、あの薬がなければ、巻物がなければ、書いている内容は違っただろう。
「隊長」
辰吉が言った。
「薬のことも、お書きになっては」
重蔵が見ると、辰吉は少し視線を落とした。
「向こうも、使えたか分からぬでしょうから」
「……そうだな」
重蔵は筆を取り直した。
止血薬によって、重傷者三名の出血を抑えたこと。
搬送の見込みが立ったこと。
偵察兵が取り残された弓兵を発見し、収容したこと。
土壁で後続を遮ったため、橋前の敵を挟撃できたこと。
書き終えてから、最初から読んだ。
「これを出す」
「はい」
「戦死者の名は別紙に。綴りを確かめろ」
辰吉が頷いた。
その紙には、二つの名前があった。
片方は、字を書くのが苦手な男だった。
給金を受け取るとき、いつも同じ場所で筆を止める。
もう片方は、荷馬の扱いに口うるさかった。
騎兵でもないのに、腹帯が緩いと、相手が誰でも注意した。
昨日までは、二人ともここにいた。
重蔵は長く息を吐いた。
「頼む」
辰吉が紙を受け取る。
外で、見張りの声がした。
重蔵は槍を取り、立ち上がった。
*
昼を過ぎても、橋からの報せは来なかった。
来ないことが、悪いとは限らない。
伝令が出るまでにも、道を進むにも時間はかかる。
それでも、廊下の足音へ何度も顔を上げていた。
直澄が、帳面を持ってきた。
昨日より顔色はましだったが、目の下にはまだ影がある。
「休んだか」
「はい。確認を部下へ分け、昨夜は横になりました」
「そうか」
「そのうえで、陛下。荷車の借り受けについてでございます」
直澄は帳面を開いた。
「支払いを後日にする場合、受領の証文だけでは足りないとの声がございます」
「信用されていないのか」
言ってから、当然だと思った。
給金が遅れている。
遠征へ出した金も、人も戻っていない。
その王国が、後で払うと言っている。
「王印があれば安心する者もおります。ただ、すでに以前の支払いを待っている者もございます」
直澄の言い方は慎重だった。
俺は、机へ置いた指を曲げた。
貸す側にも、暮らしがある。
「払える分は、いま払おう。すべてを無償で出せとは命じない」
「承知いたしました。ただし、ほかの支出を繰り延べる必要がございます」
「候補を出してくれ。兵糧と治療、それから、今回借りる者の暮らしに直結するものを優先したい」
「かしこまりました」
帳面の数字は、こちらの都合で増えない。
宝庫に頼るだけでは、兵は動かなかった。
薬が出ても、運ぶ者が要る。
巻物が出ても、使う者が要る。
遠見を渡した朔も、一人で何もかもできるわけではない。
手元にあるものを、どう動かすか。
その仕事は、引いたあとにも続いている。
直澄と支払いの順序を話していると、廊下で足音が止まった。
戸が開く。
宗玄だった。
その手に、書状があった。
「陛下。月白大橋より、報告が届きました」
俺は立ち上がった。
*
封を切る指が、うまく動かなかった。
紙を机へ置き、両手で開く。
最初の数行を、二度読んだ。
月白大橋、維持。
先遣隊、到着。
東詰め、確保。
そこまで読んで、ようやく息を吐いた。
着いた。
間に合ったのだ。
続きを追う。
王都から出した三十騎が、敵の東側へ到着。
川を迂回して重蔵へ連絡。
側面から射撃し、魔物の向きを変えた。
土壁で北からの後続を遮断。
橋上の詰所兵が前進し、両側から挟撃。
俺は地図を見た。
昨夜、景綱が指で示した場所が、そのまま紙の上にある。
だが、報告を読むまで、そこで何が起きたかは分からなかった。
溝へ取り残された弓兵を、朔が見つけた。
二人が助けに出た。
巻物を使う時を待ち、収容してから壁を立てた。
短い文の間に、人が動いている。
怖くなかったはずがない。
それでも、動いてくれた。
次の一文へ、目が止まった。
止血薬を使用した重傷者三名、出血が落ち着き、搬送の見込み。
文字が、急に読みにくくなった。
俺は目を閉じた。
役に立った。
あの十包は、机の上へ出てきただけでは終わらなかった。
運んだ者がいて、使った者がいる。
いま、生きている者がいる。
目を開き、続きを読む。
矢が不足している。
障害物を作り直す道具が必要。
欄干の一部が破損。
川沿いでも小鬼を確認。
土壁の端を回るものがおり、北からの接近は継続。
まだ終わっていない。
景綱の六百名は、朝、王都を出たばかりだ。
橋へ着くまで、重蔵たちと三十騎に支えてもらわなければならない。
俺は頷きかけた。
そのとき、添えられた別紙が目に入った。
二人の名前があった。
戦死。
その二文字の下に、二人分。
俺は椅子へ座った。
背もたれに触れるまで、自分が座ったことも分からなかった。
「陛下」
宗玄の声がした。
返事ができなかった。
助かった兵がいる。
それは嬉しかった。
止血薬も、土壁も、遠見も役に立った。
その一つ一つに、胸の奥が緩んでいた。
だが、この二人は帰らない。
俺が王冠を戴いた日、この二人は橋を守っていた。
広間で、誰の顔を見ればいいか迷っていたころ。
玉座へ座り、背筋を伸ばしていたころ。
この二人は、槍を握っていた。
避難する人々を背にして。
援軍がいつ来るかも分からないまま。
ありがとう。
声にはならなかった。
守ってくれて、ありがとう。
戦ってくれて、ありがとう。
そう思うほど、紙から目を離せなくなった。
もう届かない。
いま言っても、二人は聞かない。
もっと早く動けなかっただろうか。
三十人より多く、出せなかっただろうか。
もっと前に、薬を届けられなかっただろうか。
答えの出ない考えが、同じ場所を巡った。
兵を増やせば、支度に時間がかかる。
薬を引き当てられる保証もない。
それは分かる。
分かることと、悔いが消えることは違った。
俺は、二人の名が書かれた紙へ手を添えた。
紙の端が、小さく鳴った。
頭を下げる。
守ってくれて、ありがとう。
助けられなくて、すまない。
胸の中で繰り返した。
言葉を重ねても、足りる気はしなかった。
部屋は静かだった。
宗玄も、直澄も何も言わなかった。
廊下の足音が、一度だけ止まった。
どれほどそうしていたのか、分からない。
顔を上げると、机には同じ報告書があった。
橋は、まだ守られている。
負傷した者は、運ばれるのを待っている。
景綱たちは、そこへ向かっている。
俺は息を吸った。
「……矢を、後続の荷へ追加してくれ」
声が、少し掠れた。
宗玄が頷く。
「承知いたしました」
「重傷者の受け入れは、玄庵へ。運ばれてきてから、場所を探すことのないように」
「すぐに手配いたします」
「橋の修繕も、分かる者を送りたい。現地を見て、必要な道具を判断できる者だ」
「作事方へ確認いたします」
「頼む」
宗玄の筆が動いた。
その音を聞きながら、俺は呼吸を整えた。
二人の名が書かれた紙を、ほかの書類の下へ隠さず、横へ置いた。
目を逸らしたくなかった。
けれど、それを見ているだけで、今日を終えることもできなかった。
*
土壁の東端から、小鬼が出てきた。
五匹。
その後ろに、痩せた狼に似た魔物がいる。
朔は高みから手を上げた。
「来ます。東の端です」
重蔵が弓兵を向けた。
先遣隊の兵も、石積みへ身を寄せる。
昨夜とは違った。
壁を回ってくるなら、その出口を見ていられる。
橋の守備隊と王都の先遣隊は、互いの持ち場も分かっていた。
「射程へ入るまで待て」
小鬼の一匹が石を投げた。
届かない。
続けて投げようとした胸へ、矢が入った。
隣のものが、倒れた仲間を踏み越える。
狼に似た魔物は、さらに外を回った。
「右の草地です」
朔が知らせた。
槍持ちが二人、動く。
草を割って獣が飛び出したとき、そこにはすでに穂先があった。
腹を刺された獣が跳ねた。
もう一本が喉へ入る。
小鬼が一匹、引き返そうとした。
朔は弓を引いた。
放つ。
矢が背へ刺さり、小鬼が倒れた。
残るものも、橋へ届く前に動かなくなった。
兵たちは、すぐには持ち場を離れなかった。
周囲を見る。
続く影がないと確かめてから、矢を回収しに出る。
「隊長」
辰吉が近づいた。
「いまのうちに交代を」
「ああ。半分ずつだ。先遣隊の者にも休んでもらえ」
朔は北へ目を向けた。
森の上で枝が揺れた。
風とは違う。
一か所から、次の木へ動いている。
「北で、何か動いています。姿は見えません」
重蔵が頷いた。
「そのまま見張れ。ただし、交代の時刻は守れ」
「承知しました」
橋の上を担架が通っていった。
横になった兵の顔へ、布が日差しを遮っている。
その手が、担架の縁を握っていた。
生きている。
朔は、それを見送ってから北へ向き直った。
景綱の六百名が到着するまでは、自分たちもこの橋の兵だった。
*
宗玄が部屋を出ようとしたとき、視界の端が光った。
俺は顔を上げた。
【討伐ポイントを獲得しました】
【獲得ポイント:+五】
淡い文字が消える。
少しして、また浮かんだ。
【討伐ポイントを獲得しました】
【獲得ポイント:+一〇】
窓の外へ目を向ける。
明るい空。
王城の屋根。
城下の通り。
ここから、月白大橋は見えない。
いま倒れたのが、どんな魔物なのかも分からない。
誰が矢を放ち、誰が槍を突いたのかも。
橋かもしれない。
北門砦かもしれない。
別の街道で、兵が魔物へ出会ったのかもしれない。
通知は、場所を教えてくれなかった。
倒した者の傷も、疲れも、そこには出てこない。
俺は机へ視線を戻した。
二人の名があった。
その横には、救われた兵のことが書かれている。
昨夜から、何度か光は浮かんでいた。
書付を読んでいる間にも。
朝、兵を送り出す前にも。
数字が増えていることだけは知っていた。
けれど、その向こうで何が起きているかを、いま、ようやく少し知った。
俺は目元を拭った。
宗玄が戸口で足を止めていた。
「陛下」
「……手配を頼む」
「かしこまりました」
戸が閉じる。
俺は、心の中で宝庫を呼んだ。
淡い文字が机の上へ重なる。
【王の宝庫】
【所持ポイント:四〇〇】
昨夜、使い切ったはずの数字が増えていた。
四回、引ける。
薬が出るかもしれない。
矢が出るかもしれない。
すぐには使い道の分からないものかもしれない。
俺は数字を見つめた。
兵たちが持ちこたえている間に、こちらでできることを進める。
出たものを誰へ渡すか。
どう使うか。
どうすれば届くか。
考えることは、まだあった。
俺は報告書の横へ場所を空けた。
そこへ何を置けるかは、まだ分からない。
それでも、次の報せを、ただ座って待つつもりはなかった。
光の中へ、手を伸ばした。




