↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/14

第三話 橋を守る者たち

 森の中で、枝が折れた。


 生木を力任せにへし曲げる、鈍い音だった。


 月白大橋の東詰めで、重蔵は槍を握り直した。


 荷車を並べた障害物の向こうで、木々が揺れている。


 先ほどまでは、小鬼の甲高い声がしていた。いまはそれが少ない。代わりに、腹の底へ響くような唸り声が、森の奥から聞こえていた。


「辰吉」


「はい」


「東に残っている者は」


「見張りが二組。負傷兵が四人です。負傷兵は、順に橋を渡らせております」


「担架を通す場所を空けろ。荷はあとでいい」


「承知しました」


 辰吉が走っていく。


 重蔵は、周囲の兵へ目を向けた。


 月白大橋の詰所と、その周辺の街道警備を任されている兵は、合わせて二百二十名。


 だが、その全員が、いまここにいるわけではなかった。


 巡回に出ている者がいる。護送の途中にいる者もいる。橋へ集めた者の中からも、西岸の避難民整理や負傷兵の搬送へ、人を回さなければならなかった。


 帳面に書かれた二百二十という数と、いま目の前で槍を構えている数は違う。


 しかも、その槍を握る腕は、最初の襲撃ですでに疲れていた。


「隊長」


 若い兵が、森を見たまま声を出した。


「あれは……」


「まだ見えん」


 重蔵は答えた。


「見えんものの名を考えるな。足を開け。槍が上がりすぎている」


「はっ」


 兵が慌てて構え直す。


 穂先は、かすかに震えていた。


 重蔵は、それ以上言わなかった。


 震えていても、持ち場へ立っている。それで十分だった。


 背後では、月白川が流れている。


 橋を西へ渡った避難民は、そこから水瀬街道を下っていった。だが、歩けぬ者や、家族を待っている者は、まだ西詰めの近くに残っている。


 橋を明け渡せば、その者たちへ魔物が届く。


 だからといって、ここで全員を死なせてよいわけでもなかった。


「弓を無駄にするな」


 重蔵は射手へ告げた。


「先に出てきたものへ、まとめて射るな。合図を待て」


 森の端に、小鬼が現れた。


 四匹。


 その後ろにもいる。


 枝を持つもの。欠けた刃物を引きずるもの。低く身をかがめ、獣のように地面へ手をつくもの。


 それらが、左右へ散った。


 間から、黒い獣が姿を現した。


 猪に似ていた。


 ただし、重蔵が知る猪より、はるかに大きい。


 肩は人の胸ほどもあり、額から背へ黒い突起が連なっている。右の牙は根元から折れ、残った左の牙が、地面を擦っていた。


 鼻先が土へ沈む。


 塊になった土が、横へ跳ねた。


 戻ってきた辰吉が、足を止めた。


「……荷車では止まりませんな」


「ああ」


 重蔵は認めた。


 止まらぬものを、止まると言っても仕方がない。


「正面を空けろ。突っ込ませて、脇を狙う」


「橋まで下がりますか」


「まず、あの荷車で足を取らせる」


 最初の襲撃で横倒しになった荷車を、槍の柄で示す。


 一息でいい。


 巨体が止まれば、傷をつけられる。


 止まらなければ、兵を橋へ下げる時間を作る。


 獣が顔を上げた。


 小鬼たちが、さらに左右へ離れた。


「来るぞ!」


 地面が鳴った。


 重蔵は、兵たちの足が動くのを見た。


 正面から退く。


 槍を引く。


 その次の瞬間、荷車が砕けた。


     *


 門が閉じても、蹄の音はしばらく聞こえていた。


 三十騎。


 送り出したばかりなのに、もう橋へ着いただろうかと考えている。


 そんなはずがない。


 城下を抜けるにも時間はかかる。夜の街道を進むなら、なおさらだ。


 分かっているのに、耳が勝手に外の音を探していた。


「陛下」


 宗玄の声に、俺は振り返った。


「明朝の出立について、景綱殿より確認がございます」


「ああ。戻ろう」


 歩き出してから、自分がまだ門を見ていたことに気づいた。


 行かせたのは俺だ。


 そう思うたびに、喉の奥が乾く。


 けれど、ここで立っていても道は短くならない。


 執務室へ戻ると、机の上に書付が増えていた。


 景綱は、広げた地図の前に立っている。


 右脚へ、あまり体重をかけない立ち方だった。


「座れ」


「ですが、陛下」


「長い話になるのだろう」


 景綱が少し目を伏せた。


「では、失礼いたします」


 彼が腰を下ろすのを待って、俺も座った。


 机には、三つの名簿が置かれていた。


 先ほど出した三十騎。


 明朝、景綱が率いる六百名。


 そのあとに物資を運ぶ、輸送と護衛の二百名。


 どれも、王都から出す者たちだ。


 橋の詰所にいた兵とは、別だった。


「六百は、予定どおり出せるか」


「はい。兵の招集は進んでおります。装備の確認と糧食の支給を済ませ、夜明けには出立いたします」


 景綱が書付を寄せた。


「槍兵を中心に、弓兵を加えます。矢は各人へ持たせるほか、荷車にも積みます。橋の守備隊が、すでに相当数を使っているかもしれません」


「重蔵の兵は、二百二十だったな」


「街道警備まで含めた総数です。巡回や護送へ出している者もおりますので、全員を橋の正面へ置くことはできません」


 俺は名簿から地図へ目を移した。


 二百二十人。


 最初に聞いたときは、それだけいればと思いかけた。


 だが、橋の西では人々を誘導しなければならない。傷ついた者を運ぶにも、見張りを出すにも、人は要る。


 戦える者を全員、一列に並べておけるわけではなかった。


「先に出た三十騎は、どちらから橋へ入る」


 景綱の指が、王都から西へ伸びる道をたどった。


「王都から東岸の街道を進みます。敵が報告どおり北から東詰めへ迫っているなら、先遣隊は敵の東側へ出ます」


 月白川。


 その上に架かる橋。


 北には旧石切場。


 東には王都。


 俺は、指先でその位置を確かめた。


「重蔵の守備隊とは、敵を挟む形になるのか」


「敵味方の配置を確かめ、連絡が通れば可能です」


 景綱は、簡単には頷かなかった。


「ただし、先遣隊は三十騎です。敵の背後へ出たつもりが、北から来る別の群れとの間へ入り込むこともございます」


「……そうか」


「夜です。深く回り込むより、まず守備隊と連絡を取り、退く道を残します」


 俺は頷いた。


 地図なら、指を二本置けば挟める。


 だが、その間を進む兵には、暗い森も、見えない魔物もある。


「朔に渡した力が、役立てばいいのだが」


「本人の説明どおりなら、配置を知る助けになります。使い慣れるまで、仲間と組ませる必要はございますが」


 景綱は橋へ指を置いた。


「私の六百が到着してからも、まず東岸の道と川沿いを確かめます。重蔵の兵を休ませ、糧食と矢を揃えたうえで、次の行動を判断いたします」


「旧石切場へは、そのあとだな」


「はい」


 少し、息がしやすくなった。


 六百を出せば、何かが決まるような気になりかけていた。


 橋へ着くことと、魔物の流出を止めることは違う。


「北門砦からは動かさない。東見砦もだ」


「承知しております」


「鷹越峠を薄くして、鉄嶺まで危うくするわけにはいかない」


「はい」


 地図の北に、北門砦があった。


 姉上がいる。


 来てほしいと思った。


 ここにいてくれたら、どれだけ心強いだろう。


 だが、姉上が守っている場所には、姉上が必要だった。


 俺が不安だからという理由で、そこを空けるわけにはいかない。


「急ぎの判断まで、こちらの返答を待てとは言わない。ただ、何をしているかは知らせてくれ」


「伝令を確保いたします」


「膝の具合もだ」


 景綱が顔を上げた。


「悪くなったら、動けなくなる前に伝えろ。指揮を引き継ぐ者にも、事情を話しておいてくれ」


「副官へ申し伝えます」


 答える声に、不満はなかった。


 それがありがたかった。


 俺の心配を、必要な準備へ変えて受け取ってくれる。


 宗玄が、別の書付を机へ置いた。


「水瀬への使者は、すでに出ております。豊原にも、糧食と荷車について照会いたしました」


「返答は、まだだな」


「はい。届くまでには時がかかります」


「それまでに、こちらでできることを進めよう」


「かしこまりました」


 窓の外は暗かった。


 夜は、まだ長い。


     *


 重蔵は、木の欠片が頬をかすめるのを感じた。


 黒い獣の前脚が、折れた車軸へ乗った。


 巨体が傾く。


「突け!」


 三本の槍が、脇腹へ伸びた。


 一本は浅い。


 一本は硬い皮に弾かれた。


 残る一本が、前脚の付け根へ入った。


 獣が吠えた。


 頭を振っただけで、槍を握る兵が引きずられる。


「離せ!」


 重蔵は兵の肩をつかみ、後ろへ引いた。


 槍の柄が折れた。


 黒い獣はそのまま橋の入口へ突っ込み、石の欄干へ肩をぶつけた。爪が石畳を掻き、耳障りな音が響く。


 止まらなかった。


 だが、脚へ傷は入った。


「三つだ!」


 後方で笛が鳴った。


 長く、三度。


 詰所の兵たちが、橋へ下がり始める。


 最後まで矢を放っていた射手も、弓を下げて走った。


 追ってきた小鬼へ、重蔵は槍を突き出した。


 喉から穂先を抜く。


 辰吉が盾を構え、その横へ入った。


「隊長! こちらへ!」


「東の見張りは!」


「一組は戻りました! もう一組は、川沿いから回っております!」


 待ちたい。


 重蔵は奥歯を噛んだ。


 だが、ここで待てば、下げた兵まで引き戻すことになる。


「橋の途中で止める! 列を崩すな!」


 重蔵は橋へ入った。


 石畳に、誰かの血が落ちていた。


 踏み越える。


 橋の幅まで狭まれば、一度に向き合う敵の数は減る。


 代わりに、こちらも横へ逃げられなくなる。


 西詰めから、詰所兵の一組が交代に出てきた。


 重蔵は、顔を見て頷いた。


 まだ、動ける者はいる。


 援軍が来るまでは、その者たちでつなぐしかなかった。


     *


 朔は、馬の歩調を落とした。


 前を進む騎兵の背が、暗がりへ溶けかけていた。


 道端には捨てられた籠や、紐の切れた荷がある。通りかかった家にも灯が少なかった。


 先遣隊長が手を上げる。


 三十騎が止まった。


 王都から出た騎兵二十四名と、朔を含む偵察兵六名。


 その中に、橋の詰所の兵はまだいない。


「前を見ろ」


「はい」


 朔は隣の騎兵へ顔を向けた。


「近くを頼む」


「ああ」


 返事を聞いてから、道の先へ意識を向けた。


 遠見を使う。


 暗がりにある輪郭が、ゆっくり明瞭になった。


 夜が昼になるわけではない。


 木陰は暗いままで、曲がった道の向こうも見えない。


 それでも、目で追えるものが増えた。


 倒れた荷車。


 路肩の杭。


 木の根元へ伏せた、人影が二つ。


「二人います。右手の木の下です」


 隊長が二騎を前へ出した。


「生きているか」


「動きました。武器を持っています。所属は、まだ分かりません」


 騎兵が声をかける。


 返事があった。


 橋の見張りだった。


 一人が、肩を押さえている。


「重蔵殿の兵だな」


「はい。月白大橋の詰所の者です」


「橋は」


「戦っております。大きな獣が出まして、東の荷車が……!」


 隊長は負傷兵を馬へ乗せるよう命じた。


 残る一人も、別の馬の後ろへ乗せる。


「敵は橋のどちら側にいる」


「東です。私どもが最後に見たときには、守備隊は東詰めで受けておりました」


「街道のこちら側まで広がっているか」


「分かりません。川沿いを回って戻るところでしたので……」


「よい。見た範囲で答えろ」


 朔は川の方向へ目を向けた。


 木々の切れ間に、水面が細く見える。


 その手前で、小さな影が動いた。


 一つ。


 また一つ。


「川沿いにもいます」


「数は」


「五匹、確認できます。後ろにもいるかもしれません」


 朔が柳の木を示すと、隊長も目を凝らした。


「……いたな」


 朔は、ゆっくり息を吐いた。


 見間違いではなかった。


「先へ進む。橋へ近づいたら、馬を下りる」


 隊長の声が低くなる。


「こちらが来たことを、敵はまだ知らん。声を落とせ」


 馬列が動き出した。


 道が緩く下り、川の音が近づいた。


 やがて、橋の方から叫びが聞こえた。


 兵の声。


 魔物の声。


 盾か、石か、何かへ激しくぶつかる音。


 朔は、喉の奥が乾くのを感じた。


 隊長が馬を止める。


 全員が下りた。


 馬をまとめる者を残し、兵たちは道脇の石積みへ身を寄せた。


「見えるか」


 朔は、橋へ目を向けた。


 松明があった。


 その光で、欄干が見える。


 槍を構える王国兵。


 小鬼。


 橋の入口に、大きな黒い獣。


「守備隊は、橋の上まで下がっています。敵は東詰めと、その北です」


「こちらの位置は」


「敵の東側です。橋から見れば、敵の後ろ寄りになります」


 朔は、さらに東へ目を動かした。


 背後に別の群れがいないか。


 街道。


 石積みの向こう。


 木々の間。


「退いてきた道には、いまのところ見えません。ただ、森の奥は分かりません」


 隊長は頷いた。


「退くなら馬のところだ。全員、道を覚えておけ」


 小さな返事が重なる。


 隊長は、橋から来た見張りへ向き直った。


「重蔵殿へ、こちらの到着を知らせたい。敵の前を通らず、連絡できるか」


「下流に舟がございます。西岸へ渡れば、橋の後ろから入れます」


「案内できるな」


「はい」


 隊長は二人を指名した。


 一人へ、封をした書状を渡す。


「重蔵殿に。こちらは敵の東へ着いた。合図が通るまで、橋から無理に出ぬよう伝えろ」


 もう一人へ、細長い筒を持たせた。


「巻物の使い方は、教えたとおりだ。場所は重蔵殿と確かめろ。人が残っていないかも確認する」


「はっ」


 三人が、下流へ向かった。


 朔は橋へ目を戻した。


 守備兵たちは、まだ援軍が来たと知らない。


 槍を出し、引き、隣の者と場所を替えている。


 こちらが動く時を間違えれば、その者たちまで危うくなる。


 朔は、呼吸を整えた。


     *


 重蔵の腕は、すでに痺れていた。


 黒い獣は、橋の入口で首を振っている。


 前脚の傷が効いているらしい。最初のような突進はしなくなった。


 だが、まだ立っていた。


 その脇を、小鬼が抜けてくる。


「欄干だ!」


 辰吉の声が飛んだ。


 盾を持つ兵が、石の縁へ飛びついた小鬼を押し落とす。


 水音がした。


「隊長!」


 背後から呼ばれた。


「王都より、使者です!」


 重蔵は聞き返しかけた。


 辰吉へ前を任せ、少し下がる。


 橋の西側から来た兵が、濡れた裾を押さえて立っていた。


「先遣隊三十騎、到着しております。陛下の命により参りました」


 重蔵は書状を受け取った。


 王印を確かめ、開く。


 橋と避難路の確保。


 負傷者の搬送。


 敵情の把握。


 維持が困難な場合は、兵を無為に失わず、後退して報告すること。


 最後の一文を、もう一度読んだ。


「本隊は」


「景綱様が六百名を率い、夜明けに王都を出立される予定です。さらに物資を運ぶ輸送と護衛の二百名が、支度の整い次第、続きます」


「……そうか」


 六百が、すでに後ろへ来ているわけではない。


 夜が明け、それから道を進んでくる。


 いま助け合えるのは、重蔵配下の詰所兵と、先に着いた三十騎だった。


 重蔵は、それを頭へ入れた。


「先遣隊長は、敵の東側へ控えております」


 使者が続けた。


「側面から射かけ、敵が向き直ったところを、橋から押し返していただきたいとのことです」


「三十で、深く入りすぎてはおらんだろうな」


「街道の石積みを使い、退路を残しております」


「北から続く群れは」


「こちらで遮ります」


 使者が筒を差し出した。


 土壁のスクロールだった。


 重蔵は、筒と使者の顔を交互に見た。


 使えばなくなる、高価な巻物。


 それが、自分たちの橋へ届いている。


「土の上で使います。橋の石の上や、水の中では使えません」


 使者が手順を説明する。


 壁を立てる場所が見えること。


 人のいる場所を選ばぬこと。


 味方の退路を塞がぬこと。


「偵察兵が、橋前の敵と北からの後続を分けられる場所を確かめております」


 重蔵は東詰めを見た。


 荷車の残骸。


 倒れた小鬼。


 黒い獣。


 その奥に、土の街道がある。


 そこへ壁を立てれば、北からの流れを一度、断てる。


「合図は」


「先遣隊が射かけます。敵の向きが変わりましたら、こちらから短く笛を三つ。その後、向こうから安全の合図を受けて、土壁を立てます」


「こちらが出るのは、壁が上がってからだな」


「はい」


「弓は北へ向けさせる。東の味方へは射らせん」


「お願いいたします」


 重蔵は頷いた。


 使者が、もう一つ言った。


「戻っておられなかった見張り二名も、収容いたしました。一名は肩に傷がございますが、意識はございます」


 重蔵は、短く目を閉じた。


 二人とも戻った。


「助かる」


 それだけ言った。


 いまは、それ以上を言う暇がなかった。


「辰吉!」


 重蔵は前へ戻った。


「交代だ。まだ動ける者を、俺の後ろへ集めろ」


     *


 橋の西側で、松明が決めた順序に動いた。


 受け取った、という合図だった。


 隊長が頷く。


「北を見ろ」


 朔は、橋前から街道へ視線を移した。


 小鬼がいる。


 その奥にも影がある。


 橋へ集まっている敵と、後ろから来る群れとの間には、わずかな空きがあった。


 壁を立てるなら、そこだ。


 だが、その手前の右側に――。


「人がいます」


 朔は低く言った。


 隊長が顔を寄せる。


「どこだ」


「倒れた荷車の右です。溝へ落ちています」


 肩が見えた。


 王国軍の兜。


 片手が、わずかに動く。


「生きています」


 隊長は、しばらく黙った。


 助けに出れば、敵へ姿を見せる。


 だが、壁を立てれば、取り残されるかもしれない。


「射かけるのと同時に、引き上げる」


 隊長が言った。


 二人を指名する。


「盾を持て。全員で溝へ入るな。周りを見ろ」


「はっ」


「朔。救出の二人へ向かう敵を知らせろ」


「承知しました」


 弓兵が石積みの後ろへ並ぶ。


 小鬼たちは、まだ橋を向いていた。


 大型の獣が唸った。


 橋の兵が、一歩下がる。


 隊長の手が上がった。


 朔は矢をつがえた。


 怖かった。


 自分たちがここにいると知った魔物は、こちらへ来る。


 橋の兵が動けなければ、三十人だけで受けなければならない。


 上がっていた手が下りた。


「射て!」


 矢が飛んだ。


 小鬼の背へ刺さる。


 別の一匹が、首を押さえて倒れた。


 黒い獣が、東へ顔を向けた。


 その脇を、盾を持つ二人が走る。


 朔は弓を引き直した。


 救出へ向かった兵の前で、小鬼が枝を振り上げた。


 狙う。


 放つ。


 矢が肩へ入り、小鬼がよろめいた。


 盾で突き倒される。


 二人が溝へ着いた。


 片方が負傷兵の襟元をつかみ、引こうとした。


 止まった。


「足です!」


 朔は叫んだ。


「足が、車輪の下にあります!」


 もう一人が盾を捨て、車輪へ両手をかける。


 小鬼が振り向いた。


 一匹。


 二匹。


 こちらへ走ってくる。


「左から二匹!」


 騎兵が槍を出した。


 最初の一匹が、その穂先へ飛び込む。


 二匹目は石積みへ跳ね上がろうとして、別の兵に突き落とされた。


 朔は、救出の様子へ目を戻した。


 車輪が持ち上がる。


 負傷兵の脚が抜けた。


 二人が、その体を引きずって戻り始める。


 橋で、短い笛が三つ鳴った。


 黒い獣は、もう橋だけを向いてはいなかった。


     *


 東から矢が飛んだ。


 小鬼の何匹かが、橋から離れ始めた。


 獣が首を回す。


 その首へ、矢が刺さった。


 重蔵は、後ろの兵へ声をかけた。


「まだ出るな!」


 槍の列が止まる。


 東の石積みへ、二人の兵が誰かを運んでいた。


「市助か……!」


 辰吉が息を呑んだ。


 重蔵も、そのとき初めて、取り残されていた弓兵に気づいた。


 助けられた。


 だが、まだ動けない。


 使者が巻物を開いている。


 重蔵は、北の街道と味方の位置を見比べた。


 救出に出た二人が、石積みへ戻った。


 東の側で、松明が一度、大きく振られる。


「いまだ」


 重蔵が告げた。


 使者が、教わった言葉を読み上げた。


 地面が震えた。


 橋前の魔物たちより北で、土が帯のように盛り上がる。


 小鬼の一匹が、跳ねるように後ろへ逃げた。


 土がせり上がった。


 腰を越え、肩を越える。


 根の切れる音がした。


 土塊が落ちた。


 分厚い壁が、街道を横切って立ち上がった。


 向こう側から、叫び声がする。


 これで、すべてを止められるわけではない。


 壁の端を回れば、また来られる。


 だが、そのためには時間がかかる。


 いま、橋の前にいる敵だけへ向けられる時間だった。


「前へ!」


 重蔵は槍を構えた。


「追いすぎるな! 東詰めを取り戻すぞ!」


 詰所の兵たちが、盾を並べて橋から押し出した。


 小鬼が一匹、振り向く。


 その腹へ、辰吉の槍が入った。


 東では、先遣隊が石積みを離れた。


 馬上の突撃ではない。


 盾を構え、槍を揃えた兵が、敵の側面へ寄せてくる。


 橋から出た重蔵たちとの間で、小鬼の動きが乱れた。


 東を向いたものが、背へ槍を受ける。


 橋へ戻ろうとしたものに、横から矢が入る。


 重蔵は、大型の獣を見た。


 東へ向き直ったため、脇腹がこちらへ開いていた。


「脚を狙え!」


 三人が前へ出る。


 最初の槍が、後脚へ入った。


 獣が身をひねる。


 別の槍が、腹へ届いた。


 重蔵も踏み込んだ。


 背の突起は硬い。


 ならば、その下。


 前脚の付け根へ、穂先を押し込んだ。


 獣が吠えた。


 槍の柄を通して、衝撃が腕へ来る。


 重蔵はすぐに引いた。


「離れろ!」


 牙が振られた。


 兵の一人が盾で受け、膝をつく。


 辰吉が襟をつかみ、後ろへ引いた。


 その間に、東から矢が飛んだ。


 獣の顔へ刺さる。


 巨体が前へ出た。


 だが、傷ついた脚が支えなかった。


 膝が折れる。


 石畳と土の境で、黒い体が大きく傾いた。


「近づくな!」


 重蔵は怒鳴った。


 倒れたと思って駆け寄り、最後に振られた牙で死ぬ者がいる。


 兵たちは、槍を向けたまま止まった。


 獣が暴れる。


 土を掻く。


 そこへ、また矢が入った。


 動きが小さくなった。


 最後に、残った牙が地面を擦った。


 重蔵は、その脚が動かなくなるまで見ていた。


 土壁の向こうで、何かが壁を叩いていた。


     *


 小鬼が一匹、北へ逃げた。


 朔は弓を構えかけた。


 その先には、土壁があった。


 小鬼は壁の端へ走り、暗がりへ消えていく。


「追うな!」


 隊長の声が飛んだ。


 朔は弓を下げた。


 追えば、まだ射られるかもしれない。


 遠見で姿を拾えるかもしれない。


 その考えを、そこで止めた。


 任務は、逃げた一匹を仕留めることではなかった。


 橋へ目を戻す。


 詰所の兵たちが、周囲へ槍を向けている。


 東詰めを取り戻した。


 荷車は砕け、石畳には血が残っている。


 それでも、守備隊はもう、橋の狭い場所へ押し込められてはいなかった。


 倒れた者を運べる。


 矢を拾える。


 障害物を作り直せる。


「北から、次が来ます!」


 朔は声を上げた。


 土壁の東端へ、小鬼が回り始めていた。


 隊長が弓兵を向ける。


 重蔵の兵も、槍の列を整えた。


「こちらで射る! 橋側は、そのまま構えておけ!」


 矢が飛んだ。


 壁を回り込んだ小鬼が倒れる。


 後ろのものが立ち止まった。


 その一瞬に、兵が荷車の残骸を引き始めた。


 重蔵と先遣隊長が、短く言葉を交わしている。


 受け持つ場所を決め、疲れた者を下げていた。


 朔は呼吸を整えた。


 勝った。


 そう思いかけて、北へ目を戻した。


 森は、まだ揺れていた。


     *


 千歳の部屋へ行ったときには、夜はずいぶん深くなっていた。


 扉の前で女官へ声をかけると、中から足音がした。


「兄上?」


 千歳は寝巻きの上へ羽織を重ねていた。


 俺を見て、それから廊下の先を見た。


「皆は、もう出たの?」


「先に向かう者たちはな。景綱たちは、朝になってからだ」


「兄上は」


「ここにいる」


 答えると、千歳の肩が少し下がった。


 それを見て、胸が痛んだ。


 いま街道を進んでいる三十人にも、同じように待っている者がいる。


 俺は、その顔を知らない。


「夕餉を待っていたのか」


「冷めたから、温め直してもらった」


「すまなかった」


「母上が先に食べていいって言ったから、少し食べたよ」


「そうか」


「兄上の分は、あるから」


 部屋には、小さな膳が用意されていた。


 汁と煮た野菜、魚が少し。


 見た途端に、自分が空腹だったことへ気づいた。


 母上は窓際へ座っていた。


「その顔のままでは、千歳も話しかけにくいでしょう」


「……はい」


 俺は、どうにか眉間の力を抜いた。


 千歳が、庭へ来た鳥の話をした。


 見たことのない鳥だったらしい。


 尾が長かった。


 女官へ尋ねたが、名は分からなかった。


 その話を聞きながら、俺は汁を飲んだ。


 温かかった。


 それだけで、張り詰めていたものが少し緩んだ。


 けれど、笑った直後に橋のことを思い出した。


 いま、こんなふうに座っていていいのだろうか。


「悠真」


 母上が言った。


 俺は箸を止めた。


「次の報せが来たとき、きちんと読めるようにしておきなさい」


「はい」


「疲れた頭で聞けば、聞き落とします。空腹で急げば、確かめる前に頷いてしまいます」


「……分かりました」


 母上は、それ以上何も言わなかった。


 俺は飯を口へ運んだ。


 噛んでいるうちに、少しずつ甘さが分かった。


     *


 橋の西の救護所へ入ると、重蔵は足を止めた。


 床に藁が敷かれ、戸板が並んでいる。


 血の匂いと、湯の匂いがした。


「どうだ」


 先遣隊とともに来た衛生兵が、顔を上げた。


「こちらの三人は、出血が落ち着きました。ただ、動かす際は、できるだけ揺らさぬようお願いいたします」


 傍らに、空になった薬包があった。


「届いた薬か」


「はい。玄庵先生の指示に従って使っております」


 重蔵は横になった兵を見た。


 布を押し当てても、血が染み出していた男だった。


 顔色は悪い。


 息も浅い。


 だが、呼びかけると目が動いた。


「……隊長」


「喋るな」


「橋は」


「ある」


 重蔵は答えた。


「お前が心配せんでも、まだある」


 兵の口元が、わずかに動いた。


 笑おうとしたのかもしれなかった。


「運ぶ支度ができたら、先に下がれ」


「ですが」


「命令だと思って寝ていろ」


 兵は目を閉じた。


 衛生兵が布を取り替える。


 重蔵は、声を落とした。


「助かるか」


 衛生兵は、すぐには答えなかった。


「出血は抑えられました。ただ、ここではできない処置もございます。早く、医師のいる場所へ運びたいです」


「分かった」


 治ったわけではない。


 だが、運べる。


 夜明けを迎えられるかどうかさえ分からなかった者を、次の場所へ運べる。


 その違いは大きかった。


 外では、避難してきた女が湯を沸かしていた。


 昨夜、子供の手を引いて橋を渡った者だった。


 子供は壁際で眠っている。


「水は、こちらへ置いてよろしいでしょうか」


「そこでいい。重いものを運ぶときは、兵を呼んでくれ」


「はい」


 重蔵は救護所を見回した。


 届いた薬。


 持ち寄られた布。


 貸された戸板。


 どれも、誰かの手でここにあった。


 彼は懐の書状へ触れ、それから持ち場へ戻った。


     *


 朝になれば、少し落ち着くと思っていた。


 実際には、明るくなってからの方が、人の出入りは増えた。


 六百名へ渡す糧食。


 不足する荷車。


 借り受ける馬。


 後続の二百名が運ぶ物資。


 どれも急ぎだった。


「少し待ってくれ」


 俺が言うと、役人の顔が強張った。


「そなたに落ち度があるのではない。先ほどの話を、聞き終えたい」


「は、はい。承知いたしました」


 宗玄が、机の紙を分けた。


「陛下のお決めになるものはこちらへ。すでに命じられた範囲で処理できるものは、担当の者へ戻します」


「頼む」


 机が少し広くなった。


 それだけで、ほっとしてしまった。


 出立の支度が整うと、弥一が呼びに来た。


 顔を洗い、襟を直して庭へ出る。


 六百の兵が並んでいた。


 王都の兵だ。


 昨日まで、城門や城壁、兵舎で任務に就いていた者たち。


 これから景綱に率いられ、月白大橋へ向かう。


 槍が立ち、弓が背へ負われ、荷を確かめる声が飛んでいた。


 紐を結び直す者。


 隣の兵の肩を叩く者。


 目を閉じて、何か呟いている者。


 六百という数が、初めて目の前にあった。


 景綱は馬の横に立っていた。


 俺に気づくと、片膝をつこうとする。


「そのままでいい」


「はっ」


 兵たちへ向き直った。


 昨夜、何を言おうか考えた。


 勇ましい言葉なら、本で読んだものがいくつもある。


 だが、いま伝えたいのは何だっただろう。


「月白大橋では、重蔵と詰所の兵たちが戦っている」


 庭が静かになった。


「避難する人々を守り、援軍を待っている。そなたたちには、その者たちを支えてほしい」


 前の列に、若い顔があった。


 俺より年下かもしれなかった。


「命令を守れ。互いの姿を見失うな。負傷を隠すな」


 ゆっくり息を入れた。


「糧食と矢は、後続にも運ばせる。景綱の指揮に従い、任を果たして帰れ」


 景綱が頭を下げた。


「承知いたしました」


 兵たちの返事が、庭へ響いた。


 俺は、その音を聞いた。


 隊列が動き始める。


 最初の兵が門をくぐってから、最後の荷車が出るまで、ずいぶん長く感じた。


 六百人を動かすだけで、これだけかかる。


 街道へ出たあとも、同じ速さで進めるわけではないだろう。


 景綱が、馬上から一礼した。


 俺は頷いた。


 門の外へ消えていく背へ、頼む、と心の中で言った。


 それから、戻ってきてくれ、とも。


     *


 朔は、橋から少し下流の土手を歩いていた。


 隣には、昨夜、近くを見張ってくれた騎兵がいる。


 川岸の草は露で濡れていた。


 その一部が、不自然に倒れている。


「ここだな」


 騎兵が足を止めた。


 ぬかるみに、小さな足跡が残っていた。


 小鬼のものだろう。


 橋を使わず渡ろうとしたのか。


 ただ、川沿いへ歩いただけか。


 朔は、分からないことを分からないままに置いた。


 遠見を使う。


 対岸の低い木々。


 流れの緩い場所。


 岸へ寄った倒木。


 舟を引き上げるための古い杭。


 動くものは見えなかった。


「向こう岸には、いまのところ見えない」


「いまのところ、だな」


「ああ」


 見えるものは増えた。


 だが、すべてが見えるわけではない。


 葦の陰へ伏せられれば分からない。木の裏へ回られれば、そこで途切れる。


「小鬼は泳ぐのか」


 騎兵が尋ねた。


「浅い場所を渡るのは見たことがある。流れの強いところは、俺も知らない」


「なら、そう報告するか」


「そうする」


 二人は少し下流へ進んだ。


 土手が低くなり、葦の生えた場所がある。


 そこに、一匹いた。


 泥へ腹をつけている。


 動かなかった。


 死んでいるようにも見える。


 朔は手を上げ、騎兵を止めた。


 弓を構える。


 矢を放つ。


 背へ刺さった瞬間、小鬼が跳ね起きた。


 泥を蹴って、こちらへ向かう。


 騎兵が槍を構えた。


 矢傷でよろめいたところへ、穂先が入る。


 短い戦いだった。


 朔は弓を下げた。


 昨夜の獣に比べれば、小さな一匹だ。


 それでも、気づかず横を通れば、脚を裂かれていたかもしれない。


「まだいるか」


 朔は、すぐには遠見を使わなかった。


 まず、近くを見た。


 足元。


 葦の間。


 土手の上。


 それから、遠くへ意識を向けた。


「……いまは見えない」


「よし。戻るぞ」


 朔は頷いた。


 もう少し先へ行きたい気持ちはあった。


 森へ近づけば、群れの動きが分かるかもしれない。


 旧石切場へ続く道を、見通せる場所があるかもしれない。


 だが、二人の行き先を知る者は、川沿いを調べに出たとしか聞いていない。


 勝手に森へ入れば、探しに来る者を出すことになる。


 朔は弓を背へ戻した。


 まず、報告する。


 次へ行くなら、そのための準備をしてからだ。


     *


 重蔵は、木箱の上へ紙を広げた。


 指の節に、乾いた血がついていた。


 自分のものか、誰かのものか分からない。


 辰吉が人数を読み上げる。


「詰所兵の戦死、二名。重傷三名は、届いた薬を使用し、搬送を待っております。そのほか、最初の襲撃で手当てを要した者が七名。夜間の戦いで、さらに負傷六名です」


「持ち場へ戻した者は」


「二名です」


「休ませろ」


「ですが、本人たちは」


「次に立てなくなれば、運ぶ手が要る」


「……承知しました」


 重蔵は書き加えた。


 先遣隊の負傷者は、守備隊と分けて記す。


 溝から弓兵を引き上げた一人が、腕へ石を受けていた。骨までは傷めていないようだが、盾を持つと顔をしかめた。


 それも書いた。


 大型の獣一体を討伐。


 小鬼は、確認できた数を記す。


 川へ落ちて見失ったものは別にした。


 東詰めの障害物は損壊。


 欄干の一部に破損。


 王都より到着した先遣隊三十騎と連携し、側面攻撃と橋上からの前進によって東詰めを確保。


 土壁は残っている。


 ただし、敵は壁の端を回り始めており、警戒を継続中。


 重蔵は、筆を止めた。


 礼は、どこへ書けばいい。


 報告には、状況と必要なものを書く。


 そう教わってきた。


 それでも、あの薬がなければ、巻物がなければ、書いている内容は違っただろう。


「隊長」


 辰吉が言った。


「薬のことも、お書きになっては」


 重蔵が見ると、辰吉は少し視線を落とした。


「向こうも、使えたか分からぬでしょうから」


「……そうだな」


 重蔵は筆を取り直した。


 止血薬によって、重傷者三名の出血を抑えたこと。


 搬送の見込みが立ったこと。


 偵察兵が取り残された弓兵を発見し、収容したこと。


 土壁で後続を遮ったため、橋前の敵を挟撃できたこと。


 書き終えてから、最初から読んだ。


「これを出す」


「はい」


「戦死者の名は別紙に。綴りを確かめろ」


 辰吉が頷いた。


 その紙には、二つの名前があった。


 片方は、字を書くのが苦手な男だった。


 給金を受け取るとき、いつも同じ場所で筆を止める。


 もう片方は、荷馬の扱いに口うるさかった。


 騎兵でもないのに、腹帯が緩いと、相手が誰でも注意した。


 昨日までは、二人ともここにいた。


 重蔵は長く息を吐いた。


「頼む」


 辰吉が紙を受け取る。


 外で、見張りの声がした。


 重蔵は槍を取り、立ち上がった。


     *


 昼を過ぎても、橋からの報せは来なかった。


 来ないことが、悪いとは限らない。


 伝令が出るまでにも、道を進むにも時間はかかる。


 それでも、廊下の足音へ何度も顔を上げていた。


 直澄が、帳面を持ってきた。


 昨日より顔色はましだったが、目の下にはまだ影がある。


「休んだか」


「はい。確認を部下へ分け、昨夜は横になりました」


「そうか」


「そのうえで、陛下。荷車の借り受けについてでございます」


 直澄は帳面を開いた。


「支払いを後日にする場合、受領の証文だけでは足りないとの声がございます」


「信用されていないのか」


 言ってから、当然だと思った。


 給金が遅れている。


 遠征へ出した金も、人も戻っていない。


 その王国が、後で払うと言っている。


「王印があれば安心する者もおります。ただ、すでに以前の支払いを待っている者もございます」


 直澄の言い方は慎重だった。


 俺は、机へ置いた指を曲げた。


 貸す側にも、暮らしがある。


「払える分は、いま払おう。すべてを無償で出せとは命じない」


「承知いたしました。ただし、ほかの支出を繰り延べる必要がございます」


「候補を出してくれ。兵糧と治療、それから、今回借りる者の暮らしに直結するものを優先したい」


「かしこまりました」


 帳面の数字は、こちらの都合で増えない。


 宝庫に頼るだけでは、兵は動かなかった。


 薬が出ても、運ぶ者が要る。


 巻物が出ても、使う者が要る。


 遠見を渡した朔も、一人で何もかもできるわけではない。


 手元にあるものを、どう動かすか。


 その仕事は、引いたあとにも続いている。


 直澄と支払いの順序を話していると、廊下で足音が止まった。


 戸が開く。


 宗玄だった。


 その手に、書状があった。


「陛下。月白大橋より、報告が届きました」


 俺は立ち上がった。


     *


 封を切る指が、うまく動かなかった。


 紙を机へ置き、両手で開く。


 最初の数行を、二度読んだ。


 月白大橋、維持。


 先遣隊、到着。


 東詰め、確保。


 そこまで読んで、ようやく息を吐いた。


 着いた。


 間に合ったのだ。


 続きを追う。


 王都から出した三十騎が、敵の東側へ到着。


 川を迂回して重蔵へ連絡。


 側面から射撃し、魔物の向きを変えた。


 土壁で北からの後続を遮断。


 橋上の詰所兵が前進し、両側から挟撃。


 俺は地図を見た。


 昨夜、景綱が指で示した場所が、そのまま紙の上にある。


 だが、報告を読むまで、そこで何が起きたかは分からなかった。


 溝へ取り残された弓兵を、朔が見つけた。


 二人が助けに出た。


 巻物を使う時を待ち、収容してから壁を立てた。


 短い文の間に、人が動いている。


 怖くなかったはずがない。


 それでも、動いてくれた。


 次の一文へ、目が止まった。


 止血薬を使用した重傷者三名、出血が落ち着き、搬送の見込み。


 文字が、急に読みにくくなった。


 俺は目を閉じた。


 役に立った。


 あの十包は、机の上へ出てきただけでは終わらなかった。


 運んだ者がいて、使った者がいる。


 いま、生きている者がいる。


 目を開き、続きを読む。


 矢が不足している。


 障害物を作り直す道具が必要。


 欄干の一部が破損。


 川沿いでも小鬼を確認。


 土壁の端を回るものがおり、北からの接近は継続。


 まだ終わっていない。


 景綱の六百名は、朝、王都を出たばかりだ。


 橋へ着くまで、重蔵たちと三十騎に支えてもらわなければならない。


 俺は頷きかけた。


 そのとき、添えられた別紙が目に入った。


 二人の名前があった。


 戦死。


 その二文字の下に、二人分。


 俺は椅子へ座った。


 背もたれに触れるまで、自分が座ったことも分からなかった。


「陛下」


 宗玄の声がした。


 返事ができなかった。


 助かった兵がいる。


 それは嬉しかった。


 止血薬も、土壁も、遠見も役に立った。


 その一つ一つに、胸の奥が緩んでいた。


 だが、この二人は帰らない。


 俺が王冠を戴いた日、この二人は橋を守っていた。


 広間で、誰の顔を見ればいいか迷っていたころ。


 玉座へ座り、背筋を伸ばしていたころ。


 この二人は、槍を握っていた。


 避難する人々を背にして。


 援軍がいつ来るかも分からないまま。


 ありがとう。


 声にはならなかった。


 守ってくれて、ありがとう。


 戦ってくれて、ありがとう。


 そう思うほど、紙から目を離せなくなった。


 もう届かない。


 いま言っても、二人は聞かない。


 もっと早く動けなかっただろうか。


 三十人より多く、出せなかっただろうか。


 もっと前に、薬を届けられなかっただろうか。


 答えの出ない考えが、同じ場所を巡った。


 兵を増やせば、支度に時間がかかる。


 薬を引き当てられる保証もない。


 それは分かる。


 分かることと、悔いが消えることは違った。


 俺は、二人の名が書かれた紙へ手を添えた。


 紙の端が、小さく鳴った。


 頭を下げる。


 守ってくれて、ありがとう。


 助けられなくて、すまない。


 胸の中で繰り返した。


 言葉を重ねても、足りる気はしなかった。


 部屋は静かだった。


 宗玄も、直澄も何も言わなかった。


 廊下の足音が、一度だけ止まった。


 どれほどそうしていたのか、分からない。


 顔を上げると、机には同じ報告書があった。


 橋は、まだ守られている。


 負傷した者は、運ばれるのを待っている。


 景綱たちは、そこへ向かっている。


 俺は息を吸った。


「……矢を、後続の荷へ追加してくれ」


 声が、少し掠れた。


 宗玄が頷く。


「承知いたしました」


「重傷者の受け入れは、玄庵へ。運ばれてきてから、場所を探すことのないように」


「すぐに手配いたします」


「橋の修繕も、分かる者を送りたい。現地を見て、必要な道具を判断できる者だ」


「作事方へ確認いたします」


「頼む」


 宗玄の筆が動いた。


 その音を聞きながら、俺は呼吸を整えた。


 二人の名が書かれた紙を、ほかの書類の下へ隠さず、横へ置いた。


 目を逸らしたくなかった。


 けれど、それを見ているだけで、今日を終えることもできなかった。


     *


 土壁の東端から、小鬼が出てきた。


 五匹。


 その後ろに、痩せた狼に似た魔物がいる。


 朔は高みから手を上げた。


「来ます。東の端です」


 重蔵が弓兵を向けた。


 先遣隊の兵も、石積みへ身を寄せる。


 昨夜とは違った。


 壁を回ってくるなら、その出口を見ていられる。


 橋の守備隊と王都の先遣隊は、互いの持ち場も分かっていた。


「射程へ入るまで待て」


 小鬼の一匹が石を投げた。


 届かない。


 続けて投げようとした胸へ、矢が入った。


 隣のものが、倒れた仲間を踏み越える。


 狼に似た魔物は、さらに外を回った。


「右の草地です」


 朔が知らせた。


 槍持ちが二人、動く。


 草を割って獣が飛び出したとき、そこにはすでに穂先があった。


 腹を刺された獣が跳ねた。


 もう一本が喉へ入る。


 小鬼が一匹、引き返そうとした。


 朔は弓を引いた。


 放つ。


 矢が背へ刺さり、小鬼が倒れた。


 残るものも、橋へ届く前に動かなくなった。


 兵たちは、すぐには持ち場を離れなかった。


 周囲を見る。


 続く影がないと確かめてから、矢を回収しに出る。


「隊長」


 辰吉が近づいた。


「いまのうちに交代を」


「ああ。半分ずつだ。先遣隊の者にも休んでもらえ」


 朔は北へ目を向けた。


 森の上で枝が揺れた。


 風とは違う。


 一か所から、次の木へ動いている。


「北で、何か動いています。姿は見えません」


 重蔵が頷いた。


「そのまま見張れ。ただし、交代の時刻は守れ」


「承知しました」


 橋の上を担架が通っていった。


 横になった兵の顔へ、布が日差しを遮っている。


 その手が、担架の縁を握っていた。


 生きている。


 朔は、それを見送ってから北へ向き直った。


 景綱の六百名が到着するまでは、自分たちもこの橋の兵だった。


     *


 宗玄が部屋を出ようとしたとき、視界の端が光った。


 俺は顔を上げた。


【討伐ポイントを獲得しました】


【獲得ポイント:+五】


 淡い文字が消える。


 少しして、また浮かんだ。


【討伐ポイントを獲得しました】


【獲得ポイント:+一〇】


 窓の外へ目を向ける。


 明るい空。


 王城の屋根。


 城下の通り。


 ここから、月白大橋は見えない。


 いま倒れたのが、どんな魔物なのかも分からない。


 誰が矢を放ち、誰が槍を突いたのかも。


 橋かもしれない。


 北門砦かもしれない。


 別の街道で、兵が魔物へ出会ったのかもしれない。


 通知は、場所を教えてくれなかった。


 倒した者の傷も、疲れも、そこには出てこない。


 俺は机へ視線を戻した。


 二人の名があった。


 その横には、救われた兵のことが書かれている。


 昨夜から、何度か光は浮かんでいた。


 書付を読んでいる間にも。


 朝、兵を送り出す前にも。


 数字が増えていることだけは知っていた。


 けれど、その向こうで何が起きているかを、いま、ようやく少し知った。


 俺は目元を拭った。


 宗玄が戸口で足を止めていた。


「陛下」


「……手配を頼む」


「かしこまりました」


 戸が閉じる。


 俺は、心の中で宝庫を呼んだ。


 淡い文字が机の上へ重なる。


【王の宝庫】


【所持ポイント:四〇〇】


 昨夜、使い切ったはずの数字が増えていた。


 四回、引ける。


 薬が出るかもしれない。


 矢が出るかもしれない。


 すぐには使い道の分からないものかもしれない。


 俺は数字を見つめた。


 兵たちが持ちこたえている間に、こちらでできることを進める。


 出たものを誰へ渡すか。


 どう使うか。


 どうすれば届くか。


 考えることは、まだあった。


 俺は報告書の横へ場所を空けた。


 そこへ何を置けるかは、まだ分からない。


 それでも、次の報せを、ただ座って待つつもりはなかった。


 光の中へ、手を伸ばした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。