第二話 橋の向こうで
「報告を、最初から聞かせろ」
自分の声が、少し遠く聞こえた。
俺は机の端へ置いていた王冠を見た。被るべきか迷い、やめる。そんなことを考えている場合ではなかった。
膝をついた急使が、顔を上げる。
「旧石切場の調査に入った巡察兵が、坑道内にてダンジョンの発生を確認いたしました。内部より魔物が出現したため、深入りを避けて撤退しております」
「調査隊の損害は」
「負傷者が二名。全員が月白大橋の警備詰所へ戻っております」
「魔物の種類は」
「小鬼が多く、獣に似たものも混じっていたとのことです。ただし、坑道からの出現が続いており、総数は確認できておりません」
俺は地図を見た。
旧石切場は、王都の北西にある。
そこから南へ下れば、月白大橋。橋の西へ続く道は、水瀬街道へつながっていた。
「南へ向かった群れは、橋を目指しているのか」
急使が答えかけ、言葉を止めた。
「……申し訳ございません。進路は南と伺っておりますが、橋を目指しているかまでは」
「そうか。分からぬことは、分からぬままでよい」
俺は机の上で指を組んだ。
橋へ向かっている。
そう思っただけで、もう決めつけそうになっていた。
「月白大橋の警備兵は、何人いる」
景綱が答えた。
「橋と街道の詰所を合わせて、二百二十ほどでございます。ただし、巡察や輸送の護衛に出ている者もおります。すぐに橋へ集められる人数は、それより少なくなるかと」
「指揮官は」
「重蔵という者です。街道警備に長く携わっております。戦場で功を争う男ではございませんが、退き際を知っております」
「逃げる判断ができる、ということか」
「はい。部下を残して、自分だけ戻ることもない男です」
景綱の答えは、短かった。
俺はその名を、紙へ書いた。
重蔵。
まだ顔も知らない。
だが、その男が今、俺たちより先に魔物と向き合っている。
「水瀬へ、避難の準備を命じる」
俺が言うと、宗玄が筆を取った。
「受け入れるのは、石切場と橋の周辺にいる者だ。港へ人が集まっても荷が止まらぬよう、受け入れ場所を分けさせろ。船も確保する」
「承知いたしました」
「豊原へは、兵と避難民の食料を。まず、すぐ出せる量を知らせるように」
宗玄の筆が紙の上を走る。
「鉄嶺には、完成している武具と鉄材の在庫を確認させる。鉱山の増産は、今は求めない。炉を無理に動かして事故を出されても困る」
「そちらも、書き添えます」
次に、景綱を見た。
「王都から兵を出す。だが、北門と東見からは抜かない」
「陛下。王都の兵だけで対処なさいますか」
「まずは、だ。姉上には報告を送れ。鷹越峠の警戒も緩めるな。内側の魔物へ気を取られて、外から入られては意味がない」
言いながら、喉が乾いていることに気づいた。
本当は、姉に来てほしかった。
何をすればいいのか、隣で教えてほしかった。
だが、地図の北に置かれた木片を動かすことはできなかった。
「橋は維持する。周辺の者を逃がし、警備隊を孤立させるな」
景綱が、少し目を細めた。
「ただし、何があっても死守しろ、とは言わない。現地で守れないと判断したなら、退く場所を用意させろ」
「承知いたしました。退路と、撤収時の合図も定めさせます」
「それと、川を見ろ。橋だけを守って、浅瀬や舟で回り込まれては困る」
「はい。巡察範囲に加えます」
俺は一度、息を吐いた。
まだ命令が足りない気もした。
余計なことを言いすぎた気もした。
だが、黙っている間にも、向こうでは時間が過ぎている。
「援軍を組め。まず、馬で先に行ける者を」
景綱が地図へ手を置いた。
「騎兵二十四、偵察兵六の計三十を、先遣隊といたします。その後に歩兵六百、補給と後続の護衛に二百。残る出動可能兵は、王都に留め置く形でいかがでしょうか」
「歩兵の指揮は」
「私が執ります。馬は使わせていただきますが」
右膝の古傷。
午前中に見た文字を思い出した。
俺が答える前に、景綱が続ける。
「陛下にお伝えした範囲での任務でございます。長い徒歩行軍は避けます。状態が変われば、隠さず申し上げます」
俺は男の顔を見た。
どこまで任せてよいのか。
その判断も、俺の仕事なのだろう。
「分かった。任せる」
「はっ」
「兵をそろえるために、出発を遅らせるな。準備のできた者から動かせ。ただし、ばらばらに送り出すことは避けろ」
「先遣隊は今夜中、歩兵の第一陣は明朝に出せるよう手配いたします」
景綱が頭を下げた。
宗玄も書き付けをまとめる。
急使には湯と食事を与え、事情を聞ける者をそばにつけることになった。
皆が動き始める。
椅子が引かれ、扉が開き、廊下へ声が飛ぶ。
俺はその音を聞いていた。
自分が言った言葉で、人が戦場へ向かう支度を始めていた。
*
日が落ちても、月白大橋の上から荷車は消えなかった。
「止めるな。西へ抜けたら、橋の前で固まるな!」
重蔵は東側の橋詰めで声を張った。
車輪が石畳の継ぎ目へ落ち、大きく跳ねる。積み上げた家財が傾き、荷台に乗っていた子供が泣いた。
兵の一人が横から押さえ、別の兵が車輪へ肩を入れる。
ようやく動いた荷車の後ろには、人が続いていた。
籠を背負った女。
杖をつく老人。
鶏を抱えた少年。
誰もが、橋の北東に広がる暗がりを振り返っている。
「隊長」
副官の辰吉が、走ってきた。
「北の見張りからです。火が二つ、上がりました」
重蔵は森の方を見た。
木々の切れ目に、小さな光が二つある。
魔物の接近。
それも、一体や二体ではない。
「見張りを下げろ。東岸の柵へ戻せ」
「承知しました」
「橋上の荷車は、あと何台だ」
「十一台です。歩きの者は、まだ後ろに」
重蔵は、舌の裏へたまった唾を飲み込んだ。
橋の警備は、戦争のための部隊ではない。
荷を調べ、通行証を確かめ、街道の揉め事を収める。魔物を相手にすることもあるが、普段は小さな群れを追い払えば済んだ。
今は違う。
石切場へ入った巡察兵が戻ってきたとき、槍の柄には爪の跡が残っていた。
坑道から、次々と出てきた。
そう言った兵は、しばらく水の椀も持てなかった。
「西詰めへ伝えろ。渡り終えた者は、水瀬街道を南へ。動けぬ者だけ詰所の裏へ入れろ。道は空けさせるんだ」
「はっ」
辰吉が兵を呼ぶ。
重蔵は、自分の手の中の槍を握り直した。
王都へは知らせた。
水瀬にも、近隣の詰所にも使いを出した。
返答は、まだない。
届いていないのか。
届いたが、兵を出せないのか。
あるいは、王が代わったばかりの城では、それどころではないのか。
考えても、分からなかった。
重蔵は、胸元に下げた笛へ触れた。
退くときには、長く三度。
それだけは、兵へ繰り返し伝えてある。
「隊長。弓兵、配置につきました」
「火を増やせ。射るのは、姿を確かめてからだ」
東岸の街道には、荷車を寄せて急ごしらえした柵がある。その前へ縄を張り、足を取らせるための浅い溝を掘った。
十分とは言えない。
だが、暗がりの中で何もないよりはましだった。
森の端が、動いた。
最初に現れたのは、小柄な影だった。
人の子供ほどの背丈。長い腕。手には、折れた枝や錆びた刃物を握っている。
小鬼だ。
一体が立ち止まり、こちらを見た。
続いて、また一体。
さらに、後ろの草が揺れる。
重蔵は手を上げた。
橋の上で、子供の泣き声がした。
「……まだだ」
弓の弦が鳴る。
小鬼の一体が走り始めた。
後ろの影も、一斉に続く。
「射て!」
矢が火の上を越えた。
先頭が倒れた。
後ろの小鬼がそれを踏み越え、縄へ足を取られて転ぶ。
「二列目、構え!」
重蔵は槍を持ち上げた。
まだ、荷車は橋の上にあった。
*
扉が閉まったあとも、俺はしばらく座れなかった。
廊下から声が聞こえる。
誰かが兵の人数を数えている。
別の誰かが、出納役を呼んでいた。
城の中で、普段なら夜まで持ち越される仕事が、今はその場で決まっていく。
「……どうしよう」
机の前を一往復した。
「命令したら、本当に、皆、動き始めた……」
いや、そうでなければ困る。
俺が命じたのだ。
動かなければ、それこそ王として問題がある。
分かっている。
分かっているが、さっき自分の口から出た人数を思い返すと、腹の辺りが冷えた。
八百三十人。
その全員に名前がある。
家族がいる者もいるだろう。
弥一のように、どこかを痛めたまま黙っている者も、まだいるかもしれない。
俺は紙へ手を伸ばした。
先遣隊、三十。
歩兵、六百。
補給、二百。
書いてから、余白へ線を引く。
食料。
矢。
医師。
運搬用の荷車。
何が必要か、分かるものだけ並べていく。
その途中で、文字が浮かんだ。
【配下による魔物の討伐を確認しました】
【60ポイントを獲得しました】
俺は筆を止めた。
「……入った」
王の宝庫を開く。
【保有ポイント:60】
【通常ガチャ:100ポイント】
足りない。
そう思った直後、自分の考えに嫌な気がした。
誰かが戦った。
その結果として増えた数字だった。
どこで。
誰が。
無事なのか。
通知には、何も書かれていない。
月白大橋なのか、北の砦なのかさえ分からなかった。
俺は説明を探した。
討伐した魔物に応じてポイントを獲得する。
小型なら五。一般的な個体なら十。強い個体なら三十。
ただし、場所の一覧も、兵の名簿も出てこない。
役立つのに、欲しいことは教えてくれない力だった。
扉が叩かれる。
「陛下。お入りしてもよろしいでしょうか」
宗玄の声だった。
「入れ」
背筋を伸ばす。
老人は、数枚の書類と小さな木箱を持っていた。
「先遣隊への支給品でございます。夜間の移動になりますので、照明用魔石を優先いたしました。馬と鞍の点検も進めております」
「医薬品は」
「軍医の手持ちから、分けられるものを集めております。ただし、数は多くございません」
俺は、浮かんだままの数字を見た。
宗玄の目は、そこを通り過ぎた。
やはり、俺にしか見えない。
「ほかに、何か」
老人が俺の顔を見た。
言うべきだろうか。
鑑定のことは話した。
だが、ガチャというものまで説明し始めれば、まだ分かっていないことを、分かったように語ることになる。
「物資を増やせるかもしれない」
俺は、言い方を選んだ。
「ただし、確実ではない。支給の手配は、そのまま進めてくれ」
宗玄の眉がわずかに動いた。
それでも、すぐに問い詰めることはしなかった。
「承知いたしました。追加がございましたら、出発前の点検へ回します」
その答えに、少し救われた。
分からないことを分からないまま置いて、仕事を進めてくれる。
俺が欲しかったのは、たぶん、そういう助けだった。
*
最後の荷車が、西岸へ抜けた。
「橋上、空きました!」
報告を聞いたとき、重蔵は二体目の小鬼を突き倒したところだった。
槍先が骨へ引っかかる。
足をかけて引き抜くと、すぐ脇を別の槍が通った。
飛び込んできた小鬼が、地面へ倒れる。
「助かった」
「右から、まだ来ます!」
兵の声に、重蔵は顔を向けた。
森から出てきた群れは、小鬼だけではなかった。
肩の盛り上がった獣が、低く頭を下げて走ってくる。背中には硬い突起が並び、火を受けて鈍く光っていた。
「柵を越えさせるな!」
重蔵は後ろへ下がった。
突進を、槍一本で受け止めるつもりはなかった。
獣が荷車へぶつかる。
木が裂け、車輪が跳ねた。
積んだ石が崩れ、獣の前脚を押さえる。
「横から刺せ! 首の下だ!」
二人の兵が回り込んだ。
槍が入る。
獣が暴れ、一人が尻餅をついた。
重蔵はその襟をつかみ、後ろへ引きずった。
牙が、さっきまで兵の脚があった場所を噛む。
「立てるか!」
「はい!」
「なら、後ろへ。槍を替えろ!」
火の向こうで、弓兵が叫んだ。
別の獣が、柵の端を回ろうとしている。
辰吉が兵を連れて走った。
重蔵はそれを追わず、正面へ向き直る。
一か所へ皆が集まれば、別の場所が開く。
それを何度も見てきた。
「前の者、下がれ。二列目と替われ!」
息の荒い兵が一歩退き、後ろの槍が出る。
小鬼が柵へ取りついた。
矢が肩へ当たっても、落ちなかった。
重蔵は柄を短く持ち、顔の下へ突き上げた。
ようやく、影が消える。
腕が重かった。
まだ、始まってから半刻もたっていない。
ひどく長く感じた。
やがて、正面へ来る影が途切れた。
重蔵は、すぐに追うなと叫んだ。
森の中には、まだ何かがいる。
倒れた魔物の向こうへ歩いていく勇気と、追うべきか判断することは別だった。
「弓兵、交代で矢を拾え。二人で出ろ。一人は必ず見張れ」
辰吉が戻ってくる。
左の頬に血がついていた。
「獣は、四体とも倒しました」
「兵は」
「深い傷が三名。ほかに、手当ての必要な者が七名おります」
「死者は」
辰吉が、口を閉じた。
その間だけで、重蔵には分かった。
「……二名です」
重蔵は一度、目を伏せた。
朝、同じ鍋から粥を食べた者たちだった。
「名を、記録しておけ」
「はい」
「負傷者は西岸へ。動かせぬ者は、先に担架を回せ」
辰吉がうなずき、兵へ声をかける。
重蔵は森を見た。
暗い。
焚いた火は、こちらを照らすばかりだった。
その向こうで、折れた枝が一本、静かに落ちた。
*
【配下による魔物の討伐を確認しました】
【120ポイントを獲得しました】
通知が増えた。
保有ポイントは、百八十。
俺は立ち上がりかけ、椅子へ戻った。
今なら、一度引ける。
だが、目の前には出発する隊の支給品一覧があった。
何が出ても、使える場所へ渡さなければならない。
落ち着け。
俺は目を閉じた。
深く息を吸い、ゆっくり吐く。
その間にも、廊下では足音が続いていた。
夜の城は、眠っていなかった。
しばらくして、三度目の通知が出た。
【配下による魔物の討伐を確認しました】
【120ポイントを獲得しました】
【保有ポイント:300】
俺は文字を見つめた。
三百。
三回引ける。
胸が少し高鳴った。
何か、役に立つものを。
そう願って、抽選を選ぶ。
金色の箱が浮かび上がる。
蓋が開いた。
【止血薬・10包を獲得しました】
俺は前のめりになった。
説明には、出血を抑えるために傷へ使う薬だとある。深い傷を塞ぐものではなく、手当てを助けるものらしい。
十包。
王国全体からすれば、わずかだった。
それでも、誰か十人のためになるかもしれない。
「取り出す」
机の空いた場所へ意識を向けた。
小さな包みが現れた。
俺はしばらく手を出せなかった。
鑑定の札は光になって消えた。今度は、物が残っている。
指で触れると、ざらついた紙の感触があった。
本物だった。
扉へ向かいかけて、立ち止まる。
まだ、二回ある。
俺は再び抽選を選んだ。
【土壁のスクロール・1枚を獲得しました】
今度は、筒状に巻かれた紙だった。
説明を読む。
使用者の前方へ、一定の幅と高さを持つ土壁を作る。
地面が必要。
水上では使えない。
生成後の壁はその場に残るが、大きな衝撃では崩れる。
俺は橋の絵を見た。
橋の上で使ってよいものか、分からない。
なら、使う場所を間違えないよう伝える必要がある。
紙の裏へ、説明を書き写した。
残り、百ポイント。
もう一度。
金色の箱が開く。
薄い札が、ゆっくり浮かんだ。
【スキル〈遠見〉を獲得しました】
「……スキル」
声が漏れた。
すぐに説明を開く。
【遠見】
視界内の遠方を、より鮮明に捉える。
壁や地形の向こうを見ることはできない。
視界の悪い環境では、効果が制限される。
遠くが見える。
森の中に隠れた敵までは見えない。
暗ければ、見えにくい。
それでも、高台にいる見張りや、先へ進む偵察兵が持てば。
俺は札へ指を伸ばした。
【習得/付与/保管】
自分で覚えれば、便利だろう。
王都の外壁から、遠くを見ることもできる。
けれど、俺は今、城にいる。
必要としている場所は、ここではなかった。
俺は呼び鈴を鳴らした。
すぐに侍従が入ってくる。
「宗玄と、先遣隊の偵察兵を呼べ。出発前に、会いたい」
「承知いたしました」
侍従が去る。
俺は机の上の止血薬を数えた。
十包。
土壁のスクロール、一枚。
遠見の札、一枚。
三百ポイントは、ゼロになっていた。
今度は、それを惜しいとは思わなかった。
*
重蔵は、橋の欄干へ腰を預けた。
ほんの少しのつもりだったが、脚がすぐには動かなかった。
辰吉が、水の入った椀を差し出す。
「飲んでください。隊長が倒れられては、困ります」
「お前も飲んだのか」
「先ほど」
「なら、もらう」
水は冷えていた。
喉を通った途端、自分がどれほど乾いていたか分かった。
西岸からは、泣き声と、人を呼ぶ声が聞こえる。
負傷兵を運ぶため、荷車の荷を下ろしているのだ。
持ち主が最初は渋ったが、担架へ載せられた兵を見て、何も言わなくなった。
「矢は」
「使えるものを回収しております。折れたものが多く、数は減りました」
「弦も見ろ。濡れていないからと、放っておくな」
「承知しました」
辰吉は離れず、少し迷ってから口を開いた。
「王都からは、まだでしょうか」
「まだだ」
重蔵は答えた。
それ以上を聞かれても、答えられなかった。
先王と王太子が死んだ。
新しい王は、十八だという。
顔も知らない若者へ、何を期待すればいいのか。
そんなことを兵の前で口にするつもりはなかったが、考えが浮かばないわけではない。
「知らせは届く」
重蔵は椀を返した。
「だが、届くまでの間も、ここの仕事はある」
辰吉がうなずく。
そのとき、西岸から老人が歩いてきた。
逃れてきた者の一人だ。腰は曲がっているが、手には縄を抱えていた。
「これは、使えますか」
老人は重蔵へ尋ねた。
「荷車のものです。まだ、切れておりませんので」
重蔵は縄を受け取った。
繊維を指で確かめる。
十分に使えた。
「助かる。借りるぞ」
「返していただかなくとも」
「なら、ありがたく使う」
老人は何度も頭を下げて戻っていった。
重蔵は縄を辰吉へ渡す。
「柵を補強しろ。車輪の軸へ回せ。板だけに掛けると、また抜ける」
「はい」
川の音が聞こえた。
昼間なら、荷を積んだ舟が通ることもある。
今夜は、灯りを絞った一艘が西岸へ寄せてあった。歩けない者を運ぶために、船頭が残ってくれている。
こちらには、まだ人がいる。
槍を持つ者だけではない。
重蔵は膝へ手を置き、立ち上がった。
森の向こうで、獣の声がした。
続いて、別の声。
辰吉が振り返る。
重蔵は、まだ鳴らしていない笛を握った。
「火を絶やすな。全員、持ち場を確かめろ」
次が来る。
今度も、橋の上を空けたままにはしておけなかった。
*
連れてこられた偵察兵は、痩せた男だった。
若すぎるというほどではない。
目元は静かで、着ている外套は、泥を落としても消えない染みが幾つも残っていた。
片膝をつき、頭を下げる。
「偵察兵の朔と申します。お召しにより、参上いたしました」
「顔を上げろ」
男は従った。
俺を見たあと、その視線は机の地図へ移る。
何を見ているのか、少し気になった。
「今回の任務は聞いているな」
「はい。月白大橋までの街道を確認し、先遣隊に先行いたします。道の安全と、現地の状況を確かめ、必要に応じて引き返して報告いたします」
「旧石切場へは」
「ご命令がないかぎり、入りません」
答えは早かった。
俺は朔へ鑑定を使った。
名前。年齢。能力の数値。持っているスキル。
目の前に並ぶ情報を、一つずつ確かめる。
敏捷と器用が、ほかより高かった。
騎乗と斥候に関わる技能を持ち、状態にも大きな不調はない。
ただ、それだけで決めてよいとは思わなかった。
「今まで、街道の偵察は何度行った」
「正確には数えておりませんが、西部では三年ほど任務についております」
「魔物の群れを見つけたら、どうする」
朔は一度、地図を見た。
「進路と、およその数を確かめます。見つからずに済むなら、そのまま離れます」
「倒せる数なら」
「私が倒したために、後続の位置が知られるのであれば、避けます」
俺はうなずいた。
「報告より、敵を追いたくなることは」
朔は、初めて少し表情を変えた。
困ったような、笑いかけたような顔だった。
「ございます」
正直な答えだった。
「逃した相手が、戻ってくることもありますので」
「それでも、戻るか」
「私が知らせなければ、後ろの者は、何も知らずに進みます。そちらの方が、怖うございます」
部屋が静かになった。
宗玄は口を挟まなかった。
俺は机の上の札を見た。
渡したあとで、やはり別の者に、とは言えない。
この男が死んでも、戻らない。
だが、そのことを考えて手元へ置き続ければ、今夜は誰の助けにもならない。
「お前に、スキルを与えたい」
朔の目が、俺へ戻った。
「……スキル、でございますか」
「ああ。〈遠見〉という。見通しのよい場所なら、遠くの様子を今より詳しく見られる」
説明を書き写した紙を渡す。
朔は両手で受け取り、目を走らせた。
「暗闇や、森の向こうは見通せない。これがあれば何でも分かると思うな」
「はい」
「慣れるまでは、ほかの者にも確かめさせろ。お前だけが見えたものを、見間違いではないと言い張る必要はない」
「承知いたしました」
俺は札へ意識を向けた。
付与の文字が浮かぶ。
相手は、目の前にいる。
受け取る意思が必要だという説明を思い出した。
「一度与えれば、俺は取り戻せない。だから、受け取ったら、使い方は自分でも考えてくれ」
朔が、紙から顔を上げた。
「よろしいのでしょうか」
「何がだ」
「私などに、そのようなお力を」
俺は少し考えた。
立派な答えを探しかけて、やめる。
「今から、遠くを見てきてもらうからだ」
朔は黙った。
「俺がここで持っているより、お前が持つ方がよいと思った」
そう言うと、男はゆっくり頭を下げた。
「……ありがたく、頂戴いたします」
俺は付与を選んだ。
札がほどける。
淡い光が朔の胸元へ集まり、外套の中へ消えた。
男の肩が、わずかに動いた。
しばらく、誰も話さなかった。
「どうだ」
俺が尋ねると、朔は自分の手を見た。
「不思議な、感覚でございます」
「痛みは」
「ございません。ただ、遠くを見るときに、どうすればよいのか……分かるような気がいたします」
俺が鑑定を覚えたときと、似ていた。
窓を示す。
「試してみろ。外へ出る前に」
朔は一礼して立ち上がり、窓際へ向かった。
夜の王都には、まだ幾つも灯りがあった。
街道へ向かう門の上で、火が揺れている。
朔は少し目を細めた。
それから、息を止める。
「……門楼の、左の火です」
「何が見える」
「火を守る板の留め具が、一つ外れております。風で動いているように見えます」
宗玄が窓の外を見た。
俺も見た。
灯りは分かる。
だが、留め具までは、とても見えなかった。
宗玄が侍従を呼び、城門へ確認させるよう命じた。
「確かめさせます。能力の試用でございますので、門の者を叱ることのないように」
その言葉に、俺は内心でうなずいた。
見つけることと、責めることは、同じではない。
朔はまだ窓の外を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「陛下。遠くばかり見ておりますと、近くへの注意が薄くなります」
俺は顔を上げた。
本人が、先に気づいたのだ。
「なら、使うときは一人を近くの見張りにつけろ」
「はい。そのようにいたします」
宗玄が、静かに俺を見た。
俺は目をそらさず、うなずいた。
この男へ渡してよかった。
そう思えたのは、何かが見えたときより、その使いにくさを自分から話したときだった。
*
止血薬は、玄庵の確認を受けてから先遣隊へ渡すことになった。
薬包には用途が記されていたが、現地で使う者が分からなければ意味がない。
玄庵は一包を慎重に調べ、扱う際の注意を紙へ書き添えた。
「深い傷をこれだけで治そうとなさいませぬよう。出血を抑えたあとも、必ず手当てを続けてください」
先遣隊につく衛生兵が、何度もうなずく。
土壁のスクロールは、筒へ収められた。
俺は出発を待つ隊の指揮役へ、自分で渡した。
「橋の上ではなく、地面のある場所で使え。必要なら、退く兵を守るために使ってもよい」
「現地の重蔵殿へ、確かにお届けいたします」
「出し惜しみして失うな。ただし、使う前に、味方の道を塞がぬか確かめろ」
「承知いたしました」
言いながら、俺は土壁の幅を思い返した。
出す場所を間違えれば、守るはずのものを閉じ込める。
便利なものほど、使う者へ説明が要った。
城の中庭には、馬が並んでいた。
鞍へ荷を結ぶ音。
革紐を締める音。
馬が鼻を鳴らし、石畳を蹄で叩く。
俺は外套を羽織って、その間を歩いた。
皆が姿勢を正そうとするので、作業を続けろと手で示す。
三十人。
机の上で書いた数字が、ここでは、一人ずつ違う顔をしていた。
朔が馬の腹帯を確かめている。
隣の兵と何かを話し、指で遠くを示していた。先ほどの能力について、使うときの見張りを相談しているらしい。
景綱が近づいてきた。
「準備は、間もなく整います」
「歩兵は」
「第一陣の召集を進めております。食料と矢を先にまとめ、荷車の点検も始めました」
「お前も、出発前に休め」
景綱が少しだけ口元を動かした。
「はい。私が倒れれば、遅れますので」
直澄へ言った言葉だった。
俺は一瞬、返事に困り、それからうなずいた。
「分かっているなら、よい」
景綱は頭を下げた。
笑っていたのかもしれない。
それが少しだけ、心強かった。
*
月白大橋では、二つ目の火が崩れかけていた。
燃やすために寄せた木材が濡れていたのだ。
兵が乾いた板を運び、火の外側へ立てかける。
重蔵は、破れた柵の前で槍を構えた。
次の群れは、先ほどより遠巻きに動いていた。
火を見ている。
倒れた仲間も見ている。
どこまで考えるのかは分からない。
だが、同じ場所へ何度も突っ込んでくれるとは限らなかった。
「北の脇道へ、二人。追うな。動きだけ見ろ」
「承知しました」
兵が走る。
辰吉が、隣へ来た。
「西岸の詰所に、避難者を入れ終えました。歩ける者は、水瀬へ向かわせております」
「動けない者は」
「舟と荷車で運びます。ただ、夜道では、進みが遅くなるかと」
「仕方ない。護衛は離すな」
川向こうに、灯りの列ができていた。
ゆっくり南へ動いている。
その列が森へ隠れるまで、どのくらいかかるだろう。
重蔵は数えようとして、やめた。
今、自分が見ているべきなのは反対側だった。
小鬼が一体、火の外へ出てきた。
手に持った石を投げる。
柵へ当たり、乾いた音がした。
「釣られるな。槍を出すのは、近づいてからだ」
重蔵は兵へ言った。
右の肩が重い。
左手の指も、握り続けたせいで痛んでいた。
だが、後ろには、まだ運び出すべき者がいる。
退くとしても、その時間が要った。
「隊長」
辰吉が低い声で言った。
「聞こえますか」
重蔵は耳を澄ませた。
森の奥で、木が折れた。
小鬼の背丈では、触れない高さだった。
重蔵は、笛の位置を確かめた。
「槍を低く構えろ。弓兵、正面の奥を見ておけ」
返事が重なった。
王都からの知らせは、まだなかった。
*
城門へ向かう前に、母が中庭へ来た。
静乃は侍女を一人だけ連れ、馬の並ぶ列を見たあと、俺の前で足を止めた。
「今夜、出すのですね」
「先に、状況を確かめてもらいます。歩兵は明朝に」
母はうなずいた。
止めなかった。
送り出すことが必要だと、分かっているのだろう。
それでも、その目は、父と兄が出発した朝と同じだった。
「千歳は」
「部屋に戻しています。あなたが城を離れるわけではないと、伝えました」
「……ありがとうございます」
母は俺の外套の襟を直した。
王冠を整えるときのように、少しだけ指先を止める。
「食事は、取っておきます」
俺は母を見た。
今夜も一緒に食べると、約束した。
忘れていたわけではない。
ただ、どこへその時間を入れればいいのか、分からなくなっていた。
「送り出したら、行きます」
「ええ」
母はそう答え、列の方へ目を向けた。
兵たちが頭を下げる。
「皆、務めを果たし、無事に戻ってください」
静かな声だった。
中庭の騒がしさが、一瞬だけ小さくなった。
返事が、低く重なった。
俺はその声を聞いていた。
命令を出したときよりも、今になって、胸が苦しくなった。
*
城門の前で、先遣隊がそろった。
朔を含む偵察兵が先に立ち、その後ろに騎兵が続く。
止血薬を入れた箱は、衛生兵の鞍へ固定されていた。
スクロールの筒は、指揮役の腰にある。
俺は一人ずつ、その支度を見た。
何か忘れていないか。
今なら、まだ呼び止められる。
だが、何を足せば安全になるのかは分からなかった。
危険のない任務にはできない。
それでも、出さなければ、向こうの者は助からないかもしれない。
朔が馬から降り、俺の前へ来た。
「陛下。先行の許可をお願いいたします」
俺は男の顔を見た。
さっき、力を託した相手だ。
「任務を、もう一度」
「街道の状況を確認し、先遣隊を安全に導きます。月白大橋へ到着後は、現地の指揮官へ合流いたします。敵を追うより、報告を優先いたします」
「そうだ」
俺はうなずいた。
「見たものと、推測を分けて伝えろ。無理にすべてを確かめようとするな。戻って知らせることも、お前の仕事だ」
「承知いたしました」
朔が一礼し、馬へ戻る。
景綱が門兵へ合図した。
重い木の扉が、ゆっくり動き始める。
外の暗さが、その隙間から見えた。
城の灯りは、遠くまでは届かない。
その向こうを見てきてもらうために、俺は一つの力を渡した。
もう、俺の手元へは戻らない。
「出発を許可する」
俺は言った。
「月白大橋へ。重蔵と、その兵たちを支えろ」
返事が上がった。
蹄の音が、石畳を打つ。
先頭が門を抜け、次の馬が続いた。
朔が一度だけ振り返った。
俺は、手を上げなかった。
王として立ったまま、その姿を見送った。
最後の馬が外へ出る。
やがて、蹄の音は遠くなった。
城門が、閉まり始める。
「陛下」
宗玄が隣へ来た。
「お戻りになりましょう。明朝の出発までに、ご確認いただくものがございます」
「ああ」
俺は答えた。
足がすぐには動かなかった。
遠くを見る力を、渡した。
それでも、橋の向こうで何が起きているのか、今の俺には分からない。
俺は閉じていく門の隙間を、最後まで見ていた。
*
**登場人物ステータス――朔〈付与直後〉**
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【名前】朔
【年齢】26歳
【役職】王国軍偵察兵
HP:153/153
MP:24/24
筋力:15
耐久:16
敏捷:23
魔力:8
器用:20
【スキル】
斥候
騎乗
潜伏
遠見【NEW!】
【状態】
健康
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