第一話 王冠の重さ
王冠の内側には、薄い布が縫いつけられていた。
俺の頭には大きすぎるからと、朝早く、侍女が針を入れたものだ。飾り気のない布だったが、何度も折り返され、縫い目は丁寧にそろえられていた。
それでも、額に触れる金属は冷たかった。
「暁月悠真殿下」
呼ばれて、俺は顔を上げた。
宰相の宗玄が、石段の下に膝をついている。子供のころ、廊下を走っては捕まえられた相手だ。俺が転んだときには、叱るより先に膝の傷を確かめる老人だった。
その人が今、俺の前で頭を下げている。
「王位を継ぎ、暁月の民を守り、この国を治めることを、お誓いになりますか」
広間には、七十人ほどの家臣と軍人が並んでいた。
本来なら、もっと多くの者が参列するらしい。各地の領主、都市の代表、近隣諸国の使節。しかし、その到着を待つ余裕はなかった。地方から人を呼べば、そこの仕事が止まる。北の砦を預かる者は、なおさら動かせない。
父の死が伝わって、十二日が過ぎていた。
広間の奥に、母が立っている。
黒い衣の袖からのぞく手が、妹の肩に添えられていた。十二歳の千歳は唇を結び、俺を見つめている。泣かないようにするときの顔だった。
姉の姿はない。
北門砦から王都まで、兵を率いれば六日以上かかる。姉一人なら、もっと早く戻れるだろう。だが、その間に誰が北を守るのか。
だから、来ない。
来られない。
「……誓う」
俺は答えた。
声が上ずらなかったことに、少しだけ安心する。
「俺は、暁月の王位を継ぐ」
宗玄が、深く頭を下げた。
鎧の触れ合う音が、広間の左右へ広がる。
「悠真陛下に、忠誠を」
俺は膝の上で指を握った。
王になるのは、兄だった。
剣を持てば人を引きつけ、父の隣に座れば、年長の家臣にも臆せず問いを重ねる。俺が何も分からず黙っていると、後で必ず説明してくれた。
兄が王になり、俺はどこかで役に立つ仕事を見つける。
それでよかった。
けれど、父と兄は帰ってこなかった。
二万の兵を率いて北へ向かい、戻った者は、今のところ三千に届かない。
俺は十八歳で、王になった。
「顔を上げよ」
皆がこちらを見る。
期待より、疲れの目立つ顔ばかりだった。
この少年に、何ができるのか。
そう思われても、不思議ではなかった。俺自身が、同じことを考えている。
「祝いの宴は設けない」
朝、何度も練習した言葉を口にした。
「用意した食料は、療養中の兵と、城の保護を受けている者へ回せ。式を終えた者から、持ち場へ戻れ」
宗玄が顔を上げたまま、俺を見た。
まずかっただろうか。
王として最初に言うことには、決まりがあったのかもしれない。練習のときに誰かへ聞いておけばよかった。
そう思い始めたところで、老人が頭を下げた。
「承知いたしました」
立ち上がった途端、王冠が傾いた。
落とすな。
頼むから、今だけは落ちないでくれ。
俺は歩幅を半分にして、玉座の前を離れた。
*
父の執務室からは、王都が見渡せた。
幾重にも続く屋根。市場の天幕。荷車が行き交う通り。その先には外壁があり、門の外にも、人の住む場所が広がっている。
北から逃れてきた人々の小屋だった。
ひと月前より、また増えていた。
「こちらへ、陛下」
宗玄が、机の前で足を止める。
父の椅子が引かれていた。
俺は背もたれへ手を置き、それから腰を下ろした。革は使い込まれて柔らかくなっていたが、座面が広く、どうにも落ち着かない。
机には、角の欠けた文鎮がある。
七歳のとき、俺が落としたものだ。父は新しいものへ替えず、そのまま使っていた。
今日は、それで地図の端を押さえる。
「まず、朱音殿下より書状が届いております」
差し出された封筒には、北門砦の印があった。
俺はすぐに開いた。
『即位の儀に参列できぬこと、許せ。
北門は私が守る。お前は城と民を頼む。
まずは飯を食え。考えるのは、それからだ。
朱音』
短い。
軍務の報告は別紙にまとめられ、俺宛ての言葉はそれだけだった。
姉らしくて、少し息が抜けた。
「北門の状況は」
俺が尋ねると、宗玄の隣にいた男が一歩進み出た。
王都守備隊長、景綱。
父の遠征に従い、生きて戻った指揮官の一人だ。以前から頬に傷があったが、今はそこに疲れた影が重なっている。
「三日前付の報告では、守備は維持されております。ただし、黒嶺峠の北側で、魔物の動きが増えております。朱音殿下をお戻しするのは、難しいかと存じます」
「姉上には、そのまま北を守ってもらう」
「承知いたしました」
鉄血姫。
兵たちは、姉をそう呼ぶ。
俺にとっては、稽古で負かしたあと、平気な顔で菓子を半分くれる人だった。だが、姉がいるから北門は落ちないと、城の兵が話しているのを聞いたことがある。
その姉でも、今は動けない。
俺は書状を机の端へ置いた。
「国の現状を聞こう」
宗玄が地図をこちらへ寄せる。
暁月王国は、かつて大陸でも有数の鉱業国だった。
山から鉄鉱石を掘り、良質な魔石を採り、諸国へ売る。得た銀で食料を買い、職人を養い、軍を整える。
だが、地図の北側には、幾つもの黒い印がついていた。
鉱山も、町も、街道も。
今はもう、俺たちの手が届かない。
「現在、王国の管理下にある人口は、避難民を含めて約八十万人です」
宗玄の指が、中央から少し北にある王都を示す。
「王都・暁月。そして南西に水瀬、南に豊原、南東に鉄嶺。この四都市と周辺地域が、残された国土の中心でございます」
「鉄嶺の鉱山は、どれだけ残っている」
答えたのは、財務官の直澄だった。
痩せた男だ。小脇に抱えた二冊の帳簿が、ひどく重そうに見えた。
「主要なものでは、鉄鉱石を産する黒鉄鉱山と赤岩鉱山。魔石を産する紫晶鉱山と深灯鉱山が、現在も王国の管理下にございます」
宗玄が地図の東端へ指を移す。
「鉄嶺の北東に黒鉄鉱山。その東北東に紫晶鉱山。都市の東に赤岩鉱山、東南東に深灯鉱山がございます。いずれも山裾にあり、鉱山道を通じて鉄嶺へ荷を運んでおります」
四つの印が、都市の東側を囲むように並んでいた。
そのさらに北では、山々の向こうが灰色に塗られている。
「こちらの四鉱山と、北部で失った鉱山群は別か」
「はい。北部には、かつて王国最大の産出量を誇った鉱山が集中しておりました。現在は、その不足を鉄嶺周辺で補っております」
「では、まだ売るものはある」
「ございます。ただし、採れる量と、出荷できる量は同じではございません」
直澄は帳簿を開いた。
「人手に加え、坑道を支える木材、排水設備の部品、搬出用の荷車が不足しております。製鉄所では炭の搬入も滞っており、炉を止めている工房もございます」
「鉱石を掘っても、鉄にはできないのか」
「加工を待つものが出ております。そのまま鉱石として売れば、受け取れる銀は減ります」
地中には鉄がある。
それでも、兵の持つ槍が増えるわけではない。
俺は地図の青い線を目で追った。
月白川は王都の西から豊原の北を通り、鉄嶺川を合わせて南へ抜ける。その水運網から運河を使って水瀬湖へ。鉄材も魔石も、水瀬で船を替え、水瀬川を下って海へ向かう。
「水瀬の港は、使えているな」
「はい。運河も、湖からの航路も通じております」
「隣国を通らなければ、海へ出られないのだな」
「条約により通航を認められております。今のところ、停止の通告は届いておりません」
今のところ。
俺は、その言葉を書き留めた。
宗玄が、今度は北の細い道を指す。
「北門砦が黒嶺峠を守り、北東では東見砦が鷹越峠を押さえております」
「鷹越峠を抜かれると、鉄嶺へ向かえるのか」
景綱がうなずいた。
「はい。山道を下れば、鉄嶺へ通じる道へ出ます。鉱山への脅威にもなりますので、東見の守備も軽くはできません」
北門だけを守ればいいわけではない。
東の峠を失えば、残された鉱山まで危なくなる。
「豊原大橋の付近には川守砦。南通街道の出口には南関砦がございます。ほかに街道の詰所や見張り台を置いておりますが、主要な防衛拠点は、この四砦です」
景綱が、それぞれの場所へ木片を置いた。
「常備軍は、名簿上で約一万五千。ただし、各地の守備と負傷者を含みます。野戦軍として一万を集めることは可能ですが、すぐに全軍を動かせるという意味ではございません」
「北門からも、抜く必要があるか」
「一万をお求めになるのであれば。ほかの砦や都市守備も減らし、集結と物資の準備に日数を要します」
太い指が、水瀬街道をたどる。
「王都から水瀬へ、行軍で三日から四日。豊原へ四日から五日。鉄嶺へ五日から六日。北門へは、山道を含めて六日から八日を見ております」
紙の上なら、指一本で届く。
だが、そこに兵を送るには、何千人もの食事と、馬と、荷車が要る。
「今すぐ使える王都の兵は」
「守備に三千。警備や巡察、城門の維持を続けるなら、まとまって外へ出せるのは千五百ほどでございます」
「分かった。人数と、動かせる人数を分けて書いてくれ」
「承知いたしました」
続いて、国庫の報告になった。
遠征費。失われた税収。避難民への配給。滞っている給金。
銀の入る口は細くなり、出ていく口は増えていた。
「王都の公的な備蓄は、現在の配給量で二十六日分です」
「二十六日」
「豊原や商人の倉には、別に穀物がございます。ただし、それらをすべて王家の判断で使えるわけではございません。買い上げと輸送の費用が必要になります」
「配給の人数に、避難民は含まれているか」
「登録を終えた者は。昨日到着した一団は、まだ全員の確認が済んでおりません」
「では、二十六日より短いな」
直澄の指が止まった。
「……おっしゃるとおりです」
「数え直せ。だが、登録が済むまで食事を待たせるな。記録を残し、先に食べさせてくれ」
「承知いたしました」
宗玄が、わずかにこちらを見た。
俺は視線を地図へ戻した。
八十万人。
その数を頭の中で思い浮かべようとしても、できなかった。
窓の外に並ぶ小屋が、せいぜいだった。
*
「遠征のことを聞きたい」
俺が言うと、景綱の肩が動いた。
直澄が帳簿を閉じる。
部屋の音が、一つ減った。
「諸国の軍と、父たちの間に、連絡はあったのか」
「攻略開始までは、ございました」
「その後は」
「伝令が戻りませんでした」
景綱の声は、先ほどより低かった。
各地のダンジョンから魔物があふれ、人類は土地を失い続けている。占領された土地には新たなダンジョンまで生まれ、失った国の向こうにあった脅威が、次の国へ届く。
それでも、人間同士の戦はなくならなかった。
食料を奪い、街道を取り合い、援軍の約束をめぐって争う。その間に、攻略の手が回らなくなったダンジョンから、また魔物が出る。
父は、その流れを止めようとしていた。
北部の旧領と鉱山道を取り戻し、そこを脅かす大型ダンジョンを潰す。
諸国合同の遠征は、そのためのものだった。
「撤退の合図は、聞いたか」
「……聞いておりません」
景綱は目をそらさなかった。
「負傷者を連れて他国の後方陣地へ着いたときには、天幕が撤去されておりました。ただし、それがいつのことかは分かりません。こちらが連絡を受け損ねた可能性もございます」
「他国の軍は、戻ったのだな」
「はい。損害を受けた部隊もあると聞いておりますが、主力の多くは帰還したとのことです」
暁月の軍だけが、壊滅した。
父と兄が死に、精鋭も、軍馬も、国の銀で整えた装備も、北に置き去りになった。
どうしてだ。
口に出しかけて、飲み込んだ。
その問いを、景綱は俺より何度も繰り返したはずだった。
「今ここで、推測を答える必要はない」
俺は言った。
「覚えていることを書き残してくれ。聞いた話と、自分で見たことを分けて。時間がかかってもよい」
「……承知いたしました」
「景綱」
「はい」
「帰ってきてくれて、助かった」
男の喉が動いた。
返事まで、少し間があった。
「お役に立てるよう、努めます」
俺は机の上へ目を落とした。
遠征のことは調べたい。
けれど、今、俺の前にあるのは、父と兄の最期だけではなかった。
配給を待つ人間がいる。炉の止まった工房があり、給金の出ない砦がある。
まず、それをどうにかしなければならない。
扉が叩かれたのは、そのときだった。
「失礼いたします。西部巡察隊からの報告を、お届けに上がりました」
入ってきた兵が、宗玄へ書状を渡す。
老人の目が、その途中で止まった。
「旧石切場付近で、魔物が目撃されております」
俺は地図の北西を見た。
王都と月白川の間、その東岸側に、古い採掘場の印がある。
「いつの報告だ」
「一昨日の夕刻でございます。今朝、王都の西門へ届きました。現地の巡察隊は周辺への立ち入りを止め、すでに確認の兵を出しております」
景綱が地図へ身を寄せた。
「北から入り込んだものかもしれませんが、旧坑道に巣を作っている可能性もございます。続報を急がせます」
「周辺の住民を坑道へ入れるな。確認した場所と時刻も、必ず書かせろ」
「承知いたしました」
俺は石切場から南へ目を動かした。
月白大橋。
水瀬街道。
その先の港。
今は、印を眺めただけだった。
*
昼までに、机の上には紙が積まれた。
家臣たちがそれぞれの仕事へ戻り、最後に宗玄が扉を閉める。
足音が遠ざかった。
俺は王冠を外し、文鎮の隣へ置いた。
「……どうしよう」
声に出すと、少し現実になった。
「どうしよう、どうしよう。八十万人って……俺、昨日まで、自分の予定も宗玄に聞いてたのに」
椅子の背へ身体を預けた。
銀を稼ぐには、鉄と魔石を売る。掘るには、人を食べさせる。その食料を買うには、銀が要る。
「最初に戻ってる……」
王冠を見た。
これを売れば、何日分になるだろう。
朝、侍女が縫いつけた布が、内側から少しのぞいていた。あの人は、俺がこれを被れるよう、早起きして針を持ったのだ。
即位したその日に売ったら、どんな顔をするだろう。
「いや、まだだ。先に、使ってない銀食器とか……」
独り言を言いながら、白紙を引き寄せた。
考えがまとまらないなら、書けばいい。
学問所で、直澄がそう教えてくれた。
食料、銀、鉄、魔石。
四つ書いたところで、紙の上が明るくなった。
窓からの日差しではない。
青白い光が、俺の目の前に浮かんでいた。
【王位の継承を確認しました】
【固有スキル〈王の宝庫〉を解放します】
俺は筆を持ったまま、動けなくなった。
右を見た。
左も見た。
誰もいない。
「……誰だ」
返事はなかった。
文字へ伸ばした指は、何にも当たらず抜けた。
目をこする。
消えない。
「俺も、休んだ方がいいのか……?」
だが、文字は待ってくれなかった。
【王の宝庫】
保有ポイント:0
初回無料ガチャ:1回
初めて見る言葉なのに、意味は伝わってきた。
対価を払い、宝庫から何かを抽選で取り出す。
俺が知りたいと思うと、説明が増えた。
【獲得対象】
スキル/道具/魔道具/魔石/スクロール/貨幣 ほか
「貨幣」
思わず、そこを読み上げた。
あまりにも今、欲しいものだった。
父からも兄からも、こんな力の話は聞いたことがない。
【初回無料ガチャを実行しますか】
宗玄を呼ぶか迷った。
けれど、何も起きなければ、王になったその日に幻を見たと告白するだけだ。
「……一回だけ」
実行する、と念じた。
文字がほどけ、小さな金色の箱へ変わる。
掌に載るほどの箱が宙で止まり、蓋を開いた。
中から、薄い札が浮かび上がる。
【スキル〈鑑定〉を獲得しました】
「……鑑定」
銀ではなかった。
食料でもない。
少し肩が落ちたが、俺は札を見直した。
品物の価値や用途が分かるなら、倉庫から使えるものを探せるかもしれない。
【鑑定】
対象の情報を読み取る。
人物・魔物・物品などに使用可能。
【習得/付与/保管】
その下に、注意書きがあった。
【習得したスキルは取り出せません】
【他者へ付与したスキルは回収できません】
【対象が死亡しても、返還されません】
俺は三行を読み返した。
誰かに渡せる。
だが、剣を貸すのとは違う。渡したら、相手のものになる。
机の上の帳簿へ目を向けた。
俺には知らないことが多すぎる。
まずは、自分が持っていよう。
「習得する」
札が光に変わり、胸へ吸い込まれた。
痛みはなかった。ただ、目の前のものへ意識を向ければ、何かが分かる気がした。
俺は自分の手を見た。
鑑定。
頭の中で呼ぶと、指先の向こうに文字が並んだ。
```text
【名前】暁月 悠真
【年齢】18歳
【役職】暁月王国国王
HP:96/96
MP:38/38
筋力:9
耐久:10
敏捷:10
魔力:13
器用:12
【スキル】
王の宝庫
鑑定【NEW!】
【状態】
緊張
```
「……本当に、見える」
名前も年齢も合っている。
役職の欄にある国王という文字には、まだ慣れなかった。
数字へ意識を向けると、HPは生命力、MPは使える魔力の量だと分かった。ほかは、身体の力や身のこなし、魔法を扱う能力を示すらしい。
筋力九。
姉との稽古で、木剣ごと押し込まれたことを思い出した。
これだけは、ずいぶん納得できる数字だった。
扉が叩かれた。
「陛下。昼食をお持ちいたしました」
俺は慌てて背筋を伸ばした。
「入れ」
*
侍女が盆を運び、その後ろから近衛兵が一人入ってきた。
いつもは扉の外へ控える男だが、俺の食事を置く間だけ室内の警備につく。
名は弥一。
俺より三つ上だったはずだ。
「こちらへ置かせていただきます」
「ありがとう」
盆の上には粥と、小さな焼き魚。それから漬物が少し。
母の命令で、王家の食卓も質素になっていた。
俺は盆から顔を上げた。
弥一が、左手を身体の脇へそろえている。
さっきの力は、人にも使えると書かれていた。
試してよいのか一瞬ためらったが、俺は彼へ意識を向けていた。
```text
【名前】弥一
【年齢】21歳
【役職】王城近衛兵
HP:108/146
MP:12/12
筋力:18
耐久:17
敏捷:15
魔力:6
器用:12
【スキル】
槍術
盾術
【状態】
左上腕の負傷
疲労
```
文字と弥一を見比べた。
鎧に血はついていない。顔色も、ひどく悪いようには見えなかった。
「弥一」
「はっ」
「左腕を痛めているな」
若者の目が見開かれた。
盆を置いた侍女も、動きを止める。
「……陛下。なぜ、それを」
「いつの傷だ」
「六日前でございます。王都西方の街道で、魔物の討伐に加わった際に」
声の調子が、少し変わった。
怒られると思っているのだろうか。
「医師には診せたか」
「手当ては受けております。軽い傷でございますので、任務には支障ございません」
「その後も診せたか、と聞いている」
弥一が口を閉じた。
しまった。
言い方がきつかったかもしれない。
俺は少し息を置いた。
「働けるかどうかを、お前一人で決めるな。悪化すれば、長く持ち場を離れることになる」
「申し訳ございません」
「責めているのではない。交代を手配する。守備隊長を呼んでくれ」
侍女が頭を下げ、部屋を出た。
弥一も扉へ向き直ろうとする。
「お前は、そこへ座れ」
「ですが、陛下」
「隊長が来るまでだ」
窓際の椅子を示した。
若者はひどく困った顔をしてから、慎重に腰を下ろす。
左肩が少し落ちた。
鎧の重さを、かばっていたのだと分かった。
朝の式でも、この兵は同じ傷を抱えて立っていた。
俺は、それを知らずに前を通った。
「陛下。お呼びと伺いました」
ほどなくして、景綱が来た。
事情を説明すると、弥一が深く頭を下げる。
「軽傷者は、再診を待つよう申しつけられておりました。ほかに重傷の者が多く……」
景綱の頬がこわばった。
「弥一。後ほど、医師のもとへ」
「先に交代を決めろ」
俺が言うと、景綱がこちらを向いた。
「治療へ行けば、代わりに誰かが働く。そのままでは、次の者も同じことをする。軽傷の者を含めて、勤務の見直しが要る」
「……承知いたしました。近衛の詰所より一名、交代を出します。勤務表についても確認いたします」
「頼む。弥一は、今日は医師の指示に従え」
若者は立ち上がり、左腕を動かさずに礼をしようとした。
「礼はよい」
俺は片手を上げた。
「腕を治してから、また働いてくれ」
「……はい。必ず、戻ってまいります」
今度の返事は、少しだけ震えていた。
扉が閉まったあと、俺はようやく粥へ手を伸ばした。
温かさが、まだ残っていた。
*
午後、直澄は帳簿を一冊増やして戻ってきた。
俺は思わず、その厚さを見た。
「配給の確認は」
「担当の役人へ、陛下のご指示を伝えました。未登録の者への配給も進めております。こちらは、鉄嶺からの未払い代金についてでございます」
帳簿を開く指が、途中で止まった。
どの頁か分からなくなったらしい。すぐに見つけて説明を始めたが、俺はその手元から目を離せなかった。
鑑定を使う。
```text
【名前】直澄
【年齢】42歳
【役職】王国財務官
HP:64/91
MP:21/28
筋力:8
耐久:9
敏捷:8
魔力:9
器用:15
【スキル】
算術
記憶
帳簿整理
【状態】
睡眠不足
疲労
```
「直澄。昨夜、どれだけ眠った」
男が顔を上げた。
「……二刻ほどは」
「寝台でか」
答えが途切れた。
宗玄が、直澄の方を見る。
「机で休んでおりましたが、仕事に支障はございません」
「では、一昨日は」
直澄は帳簿の角を握った。
指先が白くなる。
「今、休めと言われても、困るか」
「……はい」
小さな返事だった。
「私が確認しておかなければ、地方ごとの記帳の違いや、遠征前の支出について、分からなくなるものがございます」
「補佐はいるな」
「二人おります」
「今日、お前でなければ決められないものを分けろ。それ以外は任せる。分からないところは、無理に埋めず印をつけさせればよい」
「ですが、それでは、照合が遅れます」
「倒れたら、もっと遅れる」
部屋が静かになった。
直澄は何かを言いかけ、唇を閉じた。
「数字を任せたい。だから、休んでくれ」
俺は続けた。
「お前の代わりを、明日すぐに用意できるわけではない」
男はしばらくうつむいていた。
やがて、抱えていた帳簿のうち、一冊だけを机へ置く。
「……本日中の承認が必要なのは、こちらの三件でございます。ほかは、明朝でも間に合います」
「その三件を聞こう」
「はい」
返事のあとで、直澄が深く息を吐いた。
宗玄は黙って俺を見ていた。
昼前から急に人の不調を言い当て始めたのだ。怪しまれても当然だろう。
俺だって、自分に何が起きたのか説明できない。
景綱が地図を広げ直した。
「陛下。王都の出動可能兵力について、改めて内訳をご説明いたします」
俺は男を見上げた。
この人は、休めているのだろうか。
遠征から戻って、まだ間もない。
鑑定を使う。
```text
【名前】景綱
【年齢】46歳
【役職】王都守備隊長
HP:218/286
MP:24/32
筋力:29
耐久:31
敏捷:23
魔力:10
器用:24
【スキル】
槍術熟練
盾術
弓術熟練
指揮
【状態】
右膝の古傷
疲労
```
数値の高低よりも、俺の目は一つの言葉で止まった。
「右膝は、痛むのか」
景綱の指が、地図の上で止まる。
「……陛下?」
「古傷があるな。遠征で悪くしたのか」
宗玄が景綱を見た。
直澄も、帳簿を持つ手を止めている。
「以前の傷でございます。歩けないほどではございません」
「行軍は」
「務めは果たせます」
同じことを、弥一も言った。
俺は少しだけ眉を寄せた。
「任せる仕事を考えるために聞いている。できることと、無理をしなければできないことを、一緒にするな」
景綱は、俺を見つめていた。
男の口から、低い息が漏れた。
「……長い行軍が続けば、痛みます。騎乗と、短時間の移動であれば問題ございません」
「分かった」
俺はうなずいた。
「それと、弓が得意なのだな」
「なぜ、それまでご存じなのでしょうか」
今度は、問いがすぐに返ってきた。
俺は口を閉じた。
景綱が剣や槍を使う姿は、何度も見ている。
弓を引いているところは、見たことがなかった。
宗玄が静かに言った。
「景綱殿は、若いころ、王都の射会で首位を取っております。陛下がお生まれになる前のことですが」
皆の視線が、俺へ集まっていた。
そろそろ、説明が必要だった。
「今日、力を得た」
机の上で手を組む。
指先が落ち着かないのを、隠すためだった。
「鑑定という。人や物の情報が、見える」
誰もすぐには口を開かなかった。
窓の外から、荷車の音がかすかに聞こえた。
「……弥一の負傷も、そのお力でお分かりになったのでしょうか」
景綱が尋ねた。
「ああ。直澄の睡眠不足も、お前の膝もだ」
直澄が宗玄と顔を見合わせる。
「名前、年齢、役職。身体の力や、持っているスキル。それから状態が分かる。ただし、まだ使い始めたばかりだ。見えたものを、確かめている」
「お考えまで、お見えになるのですか」
宗玄の声だった。
「見えない」
俺は答えた。
「何を考えているか、忠実かどうか。そういうことは書かれていない」
老人の目が、わずかに細くなった。
「では、陛下に隠し事をしているかも、お分かりにはならないのですね」
「そうだ。話してくれなければ分からないことは、残る」
言いながら、俺は宗玄へ意識を向けた。
鑑定の文字が、老人の脇へ浮かぶ。
```text
【名前】宗玄
【年齢】67歳
【役職】王国宰相
HP:62/79
MP:22/30
筋力:6
耐久:8
敏捷:6
魔力:11
器用:13
【スキル】
交渉
算術
文書作成
【状態】
疲労
```
「宗玄。お前もだ」
「……私も、でございますか」
「疲れているな」
老人は少しだけ口元を緩めた。
「それは、この歳になれば、多少はございます」
「俺の前では、皆そう言う」
困ったように言うと、景綱が顔を伏せた。
直澄は帳簿の陰へ目を落とす。
「見えるからといって、仕事を代わってやれるわけではない。だが、無理をしている者を、そのまま使い続けるつもりもない」
俺は一人ずつ顔を見た。
「必要な助けは言ってくれ。何を減らせるか、誰に分けられるか。一緒に考えたい」
宗玄の笑みが消えた。
老人はしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
「承知いたしました」
そして、静かに続けた。
「でしたら、陛下。そのお力をお借りしたい場所がございます」
*
西棟へ向かう廊下では、湯や布を運ぶ者が忙しく行き交っていた。
俺を見て立ち止まるたび、作業を続けるよう声をかける。
扉を開くと、薬草の匂いがした。
かつて来賓用だった部屋に、寝台が並んでいる。足りない場所には厚い敷物を重ねていた。
遠征から戻った負傷兵のうち、容体の重い者を城で預かっているという。
俺が入ると、起きていた兵が身体を起こそうとした。
「そのままでよい。寝ていろ」
声が少し大きくなった。
自分でも驚いたが、兵たちは動きを止めた。
「見舞いに来た。礼は要らない」
部屋の奥から、袖をまくった医師が歩いてきた。
玄庵。
俺が子供のころから、王家を診ている人だった。
「陛下、お越しと存じ上げず、失礼いたしました」
「突然来た。こちらこそ、手を止めてすまない」
宗玄が鑑定について説明する。
玄庵は、確かめるように俺を見た。
「傷の状態を、お読みになれるのでございますか」
「ああ。だが、治療の知識が増えたわけではない。分かったものを伝えるので、診てほしい」
「承知いたしました。では、こちらの者からお願いできますでしょうか」
案内されたのは、窓に近い寝台だった。
二十歳ほどの兵が、毛布を膝にかけて座っている。俺と目が合うと、慌てて顎を引いた。
「楽にしていろ。名前は」
「新八と申します、陛下」
「具合はどうだ」
「よくなっております。まもなく、持ち場へ戻れるかと存じます」
俺は鑑定を使った。
```text
【名前】新八
【年齢】20歳
【役職】王国軍歩兵
HP:71/132
MP:9/14
筋力:16
耐久:15
敏捷:14
魔力:5
器用:11
【スキル】
槍術
荷役
【状態】
左足裏の負傷
化膿
衰弱
```
返事と、目の前の文字が合わなかった。
「玄庵。左足を見てくれ。化膿と出ている」
新八の顔色が変わる。
玄庵はすぐに片膝をつき、毛布を持ち上げた。
「新八殿。包帯を外します」
若者は寝台の縁を握った。
包帯が解かれる。
傷を見た玄庵の口元が、引き締まった。
「昨日、痛みが増えたかとお尋ねしたときには、変わりないとおっしゃいましたな」
「……はい」
「熱を持っています。洗い直して、手当てを変えましょう」
医師が助手へ指示を出す。
新八は、俺の方を見られなくなっていた。
「隠していたのか」
俺が尋ねると、唇が動いた。
「隣の者の方が、ひどい傷でございます。私の足にまで、薬を使っていただくのは……」
俺は隣の寝台を見た。
胸に包帯を巻いた兵が眠っている。
新八は、あの兵を見ながら、何度痛みを飲み込んだのだろう。
「薬の配分は、玄庵に任せろ」
俺は声を落とした。
「お前は、痛むなら痛むと伝えてくれ。判断するための情報まで、隠すな」
「……申し訳ございません」
「今、分かった。だから手当てができる」
若者の目を見た。
「足を失ってからでは、遅い。国のために働こうと思うなら、その足を大事にしてくれ」
新八は毛布を握ったまま、うつむいた。
「はい」
返事がかすれていた。
玄庵は助手へ場所を任せ、俺のそばへ立った。
「助かりました。本人が言い出せず、こちらも見落としておりました」
「見落とすほど、忙しいのだろう」
「……手は、足りておりません」
俺は医師を見た。
言い切るまでに、少し迷っていた。
この人もまた、無理をする側だった。
「陛下。お願いがございます」
玄庵が言った。
「手当てを受けた者が、再び診察を受けやすくしていただけませんでしょうか。重傷の者へ遠慮して、軽い傷だと申し出を控える者が多いのです」
景綱が黙って聞いている。
「重症かどうかを、本人に決めさせているのか」
「そのつもりはございませんでした。しかし、結果として、そう受け取られております」
俺はうなずいた。
「診直す者を、勤務表に入れろ。休みの時間に来い、ではなく、治療のために持ち場を外れる時間を作る」
「承知いたしました」
景綱が答える。
玄庵も頭を下げた。
「ありがとうございます」
「全員を一度にとはいかぬだろう。玄庵と相談して、順を決めてくれ」
俺には、傷を治す力はなかった。
今できるのは、見つけて、話を聞いて、仕事の順番を変えることだけだ。
それでも、新八の足には、新しい包帯が用意されていた。
*
部屋の奥から、弱い声がした。
「……悠真、殿下」
景綱が何か言いかけたが、俺は手で止めた。
寝台に横たわっているのは、髭の伸びた兵だった。
見覚えがある。
遠征の出発前、兄の馬の轡を取っていた男だ。
「お会いできて、よかった」
男は身体を起こそうとして、顔をしかめた。
「動くな」
俺は寝台へ近づいた。
どこを痛めているのか分からず、手を出す前に鑑定を使う。
```text
【名前】清兵衛
【年齢】39歳
【役職】王国軍騎兵
HP:83/191
MP:16/20
筋力:23
耐久:22
敏捷:20
魔力:7
器用:18
【スキル】
騎乗
槍術
馬の世話
【状態】
左脇腹の負傷
肋骨の骨折
衰弱
```
「脇腹だな。起きなくてよい」
清兵衛の唇が震えた。
「申し訳、ございません」
部屋が静かになる。
「私は、戻ってまいりましたのに。先王陛下と、王太子殿下を……」
その先は、声にならなかった。
俺は男の手を見た。
爪の端が欠け、指の節には小さな傷が幾つもあった。兄の馬を、何度も手入れした手だった。
父と兄のことを聞きたい。
どこで、どうして。
最後に何を言ったのか。
けれど、清兵衛は、今にも寝台から降りて頭を下げようとしていた。
「帰ってきたことを、謝るな」
俺は言った。
男の目が止まる。
「ですが、私は」
「父は、何と命じた」
清兵衛は、何度か息を吸った。
「……生きて、帰れと」
「なら、その命令を果たしたのだろう」
自分の声が、思っていたより低く聞こえた。
「これからは、傷を治せ。俺からの命令だ」
清兵衛の目から涙が流れた。
男は顔を隠そうとして片手を上げたが、脇腹を痛め、途中で下ろす。
俺は寝台脇の布を取り、手の届く場所へ置いた。
それ以上、何を言えばよいのか分からなかった。
窓の外で、城の鐘が鳴る。
清兵衛が泣きやむまで、俺はそこを離れなかった。
*
西棟を出ると、空気が冷たく感じられた。
宗玄が、俺の横で足を止める。
「陛下。少し、お休みください」
「まだ、報告が残っている」
「ええ。しかし、陛下がお休みにならなければ、直澄も落ち着いて床につけません」
俺は老人を見た。
宗玄は静かな顔をしていた。
「先ほど、御自らお命じになったことでございます」
「……そうだったな」
廊下の椅子へ腰を下ろす。
景綱は少し離れた場所で、玄庵から渡された紙に目を通していた。
俺の知らないところで、話が先へ進んでいる。
それを見て、少し安心した。
「宗玄も座れ」
「ありがとうございます」
老人が隣へ座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
「陛下」
先に口を開いたのは宗玄だった。
「午前中は、失礼いたしました」
「何がだ」
「先王陛下へ申し上げるのと、同じように報告しておりました。陛下がご存じないことまで、ご存じであるかのように」
俺は窓の外を見た。
王都の屋根が、夕方の光を受けている。
「知らないことは多い」
「はい」
「聞き方も、分からないことがある。間違っていたら、言ってくれ」
宗玄が顔を向けた。
「皆の前でもよい。後から気づいて手遅れになるより、その場で直したい」
老人は長い間、俺を見ていた。
やがて、深く頭を下げる。
「承知いたしました。遠慮なく、申し上げます」
「頼む」
宗玄が立ち上がり、景綱のもとへ歩いていった。
俺はその背中を見送った。
昔は、あの背中を見つけると、叱られる前に逃げていた。
今は、いてくれてよかったと思った。
*
執務室には、母と千歳が待っていた。
「悠真。昼は食べましたか」
「……食べました」
母はうなずき、西棟へ行ったと聞いた、とだけ言った。
妹は机の上の王冠を見つめている。
「お兄様。今夜は、一緒に食べられますか」
「ああ。食べよう」
千歳の表情が緩んだ。
俺は母へ向き直った。
「父も、最初は分からないことが多かったのでしょうか」
母は少し笑った。
「初めての会議の夜、知らない税の名を私に尋ねにいらっしゃいました。家臣に聞けばよいのに、と申し上げました」
俺の知っている父は、いつも答えを持っていた。
信じられずにいると、母は続けた。
「翌朝には、ご自分から担当の者を呼んでいましたよ」
「そう、だったのですか」
「分からないことを尋ねる相手がいるのです。大切にしなさい」
俺はうなずいた。
母が千歳の肩へ手を置く。
扉へ向かう途中で、一度だけ振り返った。
「食事の前には、呼びに来させます。支度ができたら、いらっしゃい」
「はい」
扉が閉まった。
俺はしばらく、その場所を見ていた。
それから椅子に座り、机へ両肘をついた。
「どうしよう……」
額を手で覆う。
「皆、思ったより、ちゃんと話を聞いてくれるんだけど……」
嬉しかった。
その分、怖くなった。
傷を見つけられた。
仕事を分けるよう、言うこともできた。
だが、食料は増えていない。
鉄嶺の炉も、まだ止まったままだ。
俺は王の宝庫を開いた。
【王の宝庫】
保有ポイント:0
初回無料ガチャ:使用済み
説明を探すと、次の文字が出た。
【ポイント獲得条件】
自身、または自身の指揮下にある者による魔物の討伐。
獲得量は、討伐した魔物によって異なります。
俺は、その文をゆっくり読んだ。
兵が魔物を倒せば、宝庫を使うための力がたまる。
なら、国を守る戦いで、何かを得られるかもしれない。
だが、何が出るかも分からないものを当てにして、兵を余計に危険へ送ることはできなかった。
「まずは、今あるものだ」
紙を引き寄せた。
食料。銀。鉄。魔石。
その下へ書き足す。
負傷兵の再診。
勤務の交代。
避難民の集計。
誰に尋ねるか、名前も添えた。
少なくとも、朝よりは分かった。
全部、自分で答えを出す必要はない。
そう思ったところで、扉が叩かれた。
「入れ」
俺は背筋を伸ばした。
*
入ってきたのは、宗玄と景綱だった。
景綱の手には、書き直された勤務表がある。
「陛下。医師と相談し、明日より、負傷者の再診を交代勤務の中へ組み込むことにいたしました」
「持ち場は維持できるか」
「はい。回復途中の者のうち、医師が認めた者を記録や伝令受付へ回します。休養の必要な者は、そのまま休ませます」
俺は紙を受け取った。
名前と時間を確かめる。
細かい配置の良し悪しは分からなかったが、弥一の欄には、医師の診断を踏まえた勤務変更が記されていた。
「これで進めてくれ」
「承知いたしました」
宗玄が別の紙を置いた。
「直澄は、補佐への引き継ぎを終え、休ませております。明朝には、ご命令どおり、配給対象を含めた備蓄の見通しを改めるとのことです」
「そうか」
少しだけ、ほっとした。
「それと、陛下」
宗玄が続ける。
「明日、倉庫の確認にお時間をいただけますでしょうか。以前から用途不明とされている魔道具が、幾つかございます。鑑定のお力で、使い道が分かるかもしれません」
俺は顔を上げた。
午前、この人は、俺に国の問題を説明していた。
今は、俺に頼めることを考えて持ってきている。
「見よう。だが、分からないものもあるかもしれない」
「そのときは、また別の手を考えます」
宗玄は、当然のように答えた。
景綱も口を開く。
「医師より、傷の状態を記録し、経過を比べたいとの申し出がございました。陛下のお時間を、定期的に頂戴できればと」
「全員を毎日、は難しいぞ」
「はい。優先する者を、医師に選んでもらいます」
「では、予定を持ってきてくれ」
「ありがとうございます」
景綱が礼をした。
その動きは朝と同じだった。
けれど、顔を上げたときの目が、少し違って見えた。
俺は机の上の紙へ目を落とす。
今日一日で、何かは動いた。
明日も、同じように一つずつ。
そう考えかけたとき、廊下から足音が響いた。
走っている。
景綱が扉へ向き直った。
強く、板が叩かれる。
「西部より急使です! 陛下へ、至急のご報告を!」
「入れ」
扉が開いた。
入ってきた兵の靴は泥にまみれていた。外套の裾が裂け、首元には乾いた汗の跡がある。
兵は膝をつき、封をした書状を差し出した。
「月白大橋の警備詰所より、駅馬を継いでまいりました。旧石切場へ入った確認隊からの報告でございます」
宗玄が書状を受け取る。
俺は急使を見た。
「報告の時刻は」
「昨日、日暮れ前でございます」
丸一日近く前。
俺がまだ、王冠を被っていなかったころだ。
「何が起きた」
兵は顔を上げた。
「旧石切場の坑道内に、ダンジョンが発生しております」
景綱の手が止まった。
宗玄は、封を切る手を速める。
「確認隊が接近した際、坑道から多数の魔物が出現。隊は退きましたが、その後も群れが途絶えず、南へ進んでおります」
俺は地図を引き寄せた。
旧石切場。
月白川の東岸。
その南には、月白大橋がある。
「スタンピードか」
景綱が低く尋ねた。
「はっ。現地では、そのように判断しております。橋の警備隊は周辺への退避を呼びかけ、後続の報告を出すと……」
宗玄が書状を開き、俺の前へ置いた。
文字の端に、泥の跡があった。
朝、俺はこの場所を、地図の印として眺めた。
そこにはすでに、魔物があふれていたのだ。
橋を渡れば、水瀬街道。
その先には、港がある。
黒鉄と赤岩の鉄を送り出し、紫晶と深灯の魔石を売り、その銀で食料を運び入れる場所が。
俺は地図の上で止まった自分の指を見た。
指先だけが、冷たかった。
**第一話・登場人物紹介**
- **暁月 悠真〈あかつき ゆうま〉/18歳**
父王と兄を失い、即位した新王。人前では威厳を保つが、一人になると慌てがち。〈王の宝庫〉と、初回ガチャで得た〈鑑定〉を持つ。
- **暁月 静乃〈あかつき しずの〉**
悠真の母である王太后。悲しみを胸に秘めながら、若い王となった息子を支える。
- **暁月 朱音〈あかつき あかね〉/24歳**
悠真の姉。〈鉄血姫〉の異名を持つ武人。北門砦を守っており、第一話では書状を通じて登場する。
- **暁月 千歳〈あかつき ちとせ〉/12歳**
悠真の妹。父と長兄を失い、王となった兄のことを案じている。
- **宗玄〈そうげん〉/67歳**
先王の代から仕える宰相。国政の経験が豊富で、悠真を幼いころから知る。
- **景綱〈かげつな〉/46歳**
王都守備隊長。合同遠征から生還した指揮官。槍と弓に優れ、右膝に古傷を抱える。
- **直澄〈なおずみ〉/42歳**
王国財務官。厳しい財政を支える実務家。仕事を抱え込み、睡眠不足に陥っている。
- **弥一〈やいち〉/21歳**
王城の近衛兵。左腕の負傷を隠して勤務していたが、悠真の鑑定で見抜かれる。
- **玄庵〈げんあん〉**
王家に仕える医師。城で療養する負傷兵たちの治療を担う。
- **新八〈しんぱち〉/20歳**
王国軍の歩兵。ほかの負傷兵に遠慮し、足の傷の悪化を言い出せずにいた。
- **清兵衛〈せいべえ〉/39歳**
合同遠征から生還した騎兵。かつて王太子の馬を世話しており、自分だけが生き残ったことを悔やんでいる。




