三十五、膨れた腹 四
「あれは私のお人形さんです」
「その通りですが、トラバス氏からみんなの身を守るために、私が緊急使用したのです。まだ、その状況は終わっていません」
「トラバスさんはいなくなりましたわ」
「でも、暴徒は解散してませんよね? 衛兵も全滅。ならば、当面は危機のままです」
「じゃあ、あなたはどうなさりたいんですの?」
テティは、厳しくペンドルを見あげた。
「まずは、ミラー参事会員のお部屋を捜索しようじゃありませんか。トラバス氏が、あんな台詞を残したのですし」
「そうするにしても、あなたには席を外して頂きたく存じます」
「これはこれは。トラバス氏を遠ざけた功績の第一人者はこの私です。その私が蚊帳の外とは、いささか意地の悪いご発言ですな」
「私のお屋敷に、誰がたちいって良いか悪いかを判断するのは私です」
「しかしあなたは未成年……」
流れるような能弁が急にとぎれて、ペンドルは顔をしかめた。ついで、胸を抑えながら咳こみはじめる。
「お風邪を召しましたの?」
「い、いや……たぶん、灰かほこりでも喉に……」
『リネット病の初期症状ね。人形に富裕区の死者の魂を封印するなんて冒涜をやらかしたから、教会は相手にしないわ。あなた達が黙っていれば別だけど』
レッタが、軽蔑をこめて吐きすてた。当のレッタ自身、リネット病に苛まれていたのだから、あながち的外れではないだろう。
富裕区の住民は、死後も教会から深い礼遇をもって何百年でも弔われる。何故なら、定期的にまとまった額の献金を寄付するからである。たとえ召使いや使用人であっても、貧民はもちろん中間層よりはずっと重く扱われる。人形に封印して使役など、もってのほかだ。緊急避難と弁明するにしても、テティが許さなければそれまでである。
「教会で治してもらえばすむでしょう。何ならアコーもいますし」
リネット病だけでなく、たいていの病気は、金さえ払えば教会での祈祷で治る。アコーでも同じ。むろん、レッタの発言を踏まえて、わざと勧めた。
「私が治すのでしたら、その前に死者の魂を冒涜した罪について赦免状を……。非常時なので規定の十倍は頂戴します。現金で」
庶民の十か月分の収入に当たる。いくらペンドルが大商人でも、そんな金額を持ちあるいているはずがない。
「て、手形を組む」
「決済まで時間がかかりますよね? その間に、あなたがどんな立場になるのかわかりませんから、お断りします」
「も、もういい! どうせすぐ治る!」
「じゃあ、治るまでそこで休んでいてください。テティ様、私は調査に同行してよろしいですか?」
『調査』が、ミラーの部屋の捜索を指すのはいうまでもない。
「ええ、もちろん。いきましょう、ノンド」
「かしこまりました」
「ま……待て。私を……置いて……」
咳の連続で息がつまり、ペンドルは膝を曲げた。
彼を無視して、トラバスがうがった溝を迂回し、四人で玄関の前まできた。
「お嬢様、ここからは……」
ノンドの立場になれば、七歳の少女に凄惨な虐殺現場など見せたくはない。
「何があってもしっかり見ておかないと。お気遣いはいらないわ」
「ははっ。仰せのままに」
死にかけた者がいたとしても、ペンドルが人形に用いたあとだ。つまり、自分としては夢葬が起きないから安全である。もちろんこれも、いちいち言葉にはできない。
ノンドが扉を開けると、天井に吊るされた真鍮製のシャンデリアの蝋燭や、壁かけ角灯の明かりが昼間さながらに屋内を照らしていた。壁のそこかしこに走るひび割れや、血飛沫も。
廊下を歩く内に、一体二体と死者が見つかった。テティは一言も口を利かず、涙も浮かべなかった。むしろ、怒りで拳を握りしめていた。アコーは、そっと聖印を胸に掲げている。
死体が四体目を数えた時、ミラーの部屋についた。ノンドが試したら、ドアに鍵はかかっておらず、すぐに開いた。
違和感……そういって悪ければ、異質感が、自分達を速やかに包みこんだ。
この部屋だけ、きれいすぎる。ほこり一つ落ちておらず、整理整頓の権化とすらいえる。探し物も、散らかり放題よりははるかにやり易いだろう。
「ノンド……」
「いえ、大旦那様がこのお部屋に何かを隠していたとしても、私は存じません。……長年、秘書を勤めていて情けない限りでございます」
「あ、いや、そういうつもりじゃないです。失礼」
つまらない誤解を招くのも馬鹿らしい。自分の胸に湧いた疑念は閉まっておくことにして、すぐ作業にかかった。誰が仕切るでもなく、それぞれ分担した。
目の前にある本棚から、一冊ずつ本を抜きとっては、ぱらぱらめくって元にもどす。法律だの歴史だの、堅い内容のものばかりで怪しいものはない。
ちらっとノンドを見やった。一心不乱に机の引き出しを調べている。そういえば、先日の昼食は、彼が運んできた。
感傷に浸っている場合ではないが、自然と思いだされる。あの時は……確か、自分がこの席に……ミラーはあそこ……。
ミラーは、机を背景にして、こちらや戸口を眺める位置にいた。頭の中でその視線を再現すると、誰も見むきもしない壁の一点が目にとまった。じっと集中すると、ただの模様が立体化して浮かんでくる。もちろん、目の錯覚だが。




