第19話 マスターの珈琲(5828.am7:40)
「ああ、ある程度の推測は何通りかすでに立てている。少し長い話になるが構わないか?」
「時間に振り回されているのはもう慣れてますよ」
「……やめてくれ」
私のジョークに、その振り回している張本人は苦笑いをした。
どうやらこれまでの時間のやり取りに罪悪感を抱かなかったわけではなさそうだ。
「お待たせ致しました」
またもいつの間にか来ていたマスターがコーヒーを運んできてくれた。
ちょうど飲みたかった頃合いだったのでタイミングがよい。
テーブルに置くときですら食器が鳴ることがなく一礼するとまた戻っていった。
どちらかともなくカップに口を付ける。
2人とも砂糖もミルクも入れずにブラックで飲む。
口に入れた途端、衝撃を受ける。
浅煎りの寄りのフルーティな味わい。飲み応えも程よくとても飲みやすい。
「――苦くない」
つい口に出してしまう。そう、しっかりと苦いはずなのに嫌な苦味を感じないのだ。
正しくは雑味がないと言うのが正しいのだろうか。
一瞬で舌の上を通り過ぎていくので後味がよく、香りだけが残っている。
「ここのマスターは淹れ方が上手い。ここに来たらまずこれを頼めば間違いない」
葉山はカップを音を響かせることなく置く。
出来る大人というのは音を立てないものなのか?
組んだ手をテーブルに乗せて私の方を見据える。
その目には何が映っているのだろう。
いまだ癒えなぬ悲しみか?
それとも安らぎを妨げる私への怨恨か?
いまの私には読み取ることができない。
だがこれからの話で答えが分かるのだろうという確信があった。
彼はゆっくりと語り出す。
私の知らなかったあの日について。
初めてあった1周目のその後についてだ。
「落下しながら妻の声が聞こえたんだ」
◇
最後に見えた景色は眼前一杯のアスファルトだった。
正確に言うならばマンション入り口の歩道をややマンション寄りだ。
その時確かに聞こえた。
懐かしい声が頭の中に響いてきた。
聞き間違いなのかは分からなかった。
考え直すには時間が足らず地面へと到達していた。
痛みは一瞬でほぼ感じなかった。
脳に伝わる前に潰れてしまったのだろう。
だがその時の頭蓋骨が砕ける感触はいまも身体全体で覚えている。
あの嫌な感覚で終わったと思っていたが違かったのだ。
真っ暗な視界に突如光が差した。
LEDなどの冷たい光ではない、暖かく温もりのある光。
それが葉山の頭部全体を包み込んでいる感覚がする。
それに不思議なことにどこかに座っている体勢のようだ。
異変を察し起き上がり目を見開くと見慣れた場所にいることが分かった。
(ここは……俺の部屋なのか?)
先ほどの光はカーテンの隙間から差した日差しのようだった。
ベッドに伸びる角度からして東寄りから、つまり朝方の早い時間ということになる。
正確な時間を知りたい。
壁際のデスクに備え付けてある卓上時計にピントを合わせる。
時刻は7時12分。
いつのまにかデスクで寝て起きたということになる。
では、さっき飛び降りたのは夢だったというのか?
パニックになるほどではない。
だがあの体験を単なる夢と断ずるには信憑性がありすぎる。
水でも飲もう。
少し頭を落ち着かせるためキッチンは行こうと立ち上がるときに写真立てが目に入る。
葉山と美佳子が2人が映った写真。
なんの変哲のないものだったが美佳子はえらく気に入っていた。
たしかどこかの動物園に行った時のものだったはずだ。
シマウマの柵とは反対の背景だったのを覚えている。
突然隣にいたある観光客が記念にとカメラで撮ってくれたのだ。
特に記念日でも何でもなかったがその時はその好意に甘えることにした。
ただそれだけの写真だと思っていたので、美佳子になぜ気に入ってるのか聞いてみたことがある。
「写真写りがよかったからよ!だってあなたカメラ向けるといつも怖い顔になるから」
それに撮ってくれた子、すごく可愛かったし。
そう言いながら美佳子ははにかんだ。




