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闇に朱色がよく似合う  作者: 太郎鉄
Chapter1 日本
8/12

後悔

 あれは、一撃で俺を殺すことができる。


 小田桐ソウクの左腕が、巨大なハンマーへと変わっていた。


 矢部浩昭は悲鳴を上げ茂みから転がり出た。ひょっとしたら、失禁してしまったかもしれない。


 俺はあれで叩き割られる。確信めいた予感がした。


 3年前、妻の愛子を殺されて以来、矢部は吸血鬼を呪い続けてきた。


 保護法の権利を放棄した吸血鬼を街で見かければ、時には殴った。反抗してくる者などいない。吸血鬼など、クソみたいな生き物だった。


 それなのに、よくも愛子を殺しやがって。


 鬱屈した毎日の中、社長の谷口が信じられない採用をした。


「今日から、うちで働くことになったソウちゃんだ」


 矢部も同僚も、谷口に詰め寄った。


 吸血鬼を雇う会社など、聞いたこともない。そもそも法律違反ではないか。


「みんなの気持ちもわかるがよ。ソウちゃんは、オイラの大事な女の恩人なんだ。それに、いいやつなんだよ。すまんが、ここは汲んでくれ」


 最初は、皆が反対していた。


 こんなことをして、会社はどうなる。助成金を止められるかもしれない。銀行から金を借りられなくなるかもしれない。


 ところが、そのどちらも起こらなかった。


 役所の人間が一度訪ねてきて、厳重な注意を受けた。それだけだった。


 加えて、小田桐は真面目だった。


 残業も、皆の嫌がる仕事も進んで引き受けきちんとこなした。同僚たちは次第に小田桐と打ち解けていった。


 矢部には、それが許せなかった。


 1日に1度は難癖をつけた。時には殴り、この間はとうとう手を刺した。


 妻を吸血鬼に殺されたことは皆が知っていた。矢部を咎めるのは、谷口だけだった。


「なぁ、矢部よ。お前さんの気持ちもわかるんだが、ソウちゃんがやったんじゃねぇんだ。ソウちゃんにあたるのは、もうやめたらどうだい。お前さんらしくないだろう」


「労働所で働かない吸血鬼に、人権なんてないですよ。社長。申し訳ないけど、俺は吸血鬼を見ると、殴らずにいられないんです」


 吸血鬼などダニだ。吸血鬼などクソだ。吸血鬼など、雑魚だ。


 俺には奴を殴る権利がある。小田桐を殴る権利があるのだ。


 そう言い聞かせてきた。


 なのに、何だ。あの腕は。


 吸血鬼同士の戦いを目の当たりにして、矢部は思い知らされた。


 弱いのは、自分の方だった。


 奴らがやり返さないのをいいことに、俺は殴り続けてきた。小田桐を、殴り続けてきた。


 殺される。


 今度こそ、小田桐に殺される。


「俺の後ろから、今度は絶対に動くな」


 声がした。


 小田桐が、目の前に立っていた。猿ヅラの吸血鬼から矢部を庇い、腹から血を流している。


 俺を、守った?


 その後も、小田桐は矢部の前を離れなかった。胴を千切られながら、猿ヅラの吸血鬼を倒した。


 自分の身体をつなぎ合わせ、立ち上がった小田桐が、手を差し伸べる。


 矢部は、その手を振り払った。


「吸血鬼の手なんざ、借りられるかよ」


「……勝手にしろ」


 振り払った自分の手が、なぜか、とてつもなく痛かった。


 朝になっても、手の痛みはひかなかった。


 腫れてはいない。矢部は手のひらを見つめ、ゆっくりと握る。


 ほとんど眠れなかった。


 昨夜の恐怖が残っているせいか。おそらく、違う。


 眠れないまま何度も考えて、そのたびに同じところへ戻ってきた。認めたくなくても、他に理由は思い当たらなかった。


 自分の命を救ってくれた小田桐の手を、振り払ってしまったこと。


 吸血鬼はクソだ。吸血鬼はダニだ。吸血鬼は雑魚だ。


 笑わせるな。


 それは全部、俺の方じゃないか。


 吸血鬼が殺したのではない。愛子を殺したクソ野郎が、吸血鬼だっただけだ。


 愛子を奪われた憎しみも、悲しみも。吸血鬼というだけで、目の前の小田桐にぶつけていた。


 谷口の言う通りだった。


 あれほど辛くあたった。殴った。刺した。


 それでも、小田桐は俺を助けた。


 その手を、俺は振り払った。


 くそ。


 朝飯は喉を通らなかった。矢部はシャワーを浴び、着替えを済ませた。


 愛子の写真を手に取る。


 眺めているうちに、三年前の夜が蘇った。


♦︎


 仕事を終えて帰った矢部は、玄関に入ったところで足を止めた。


 鉄のような匂いがする。


 だが、鉄ではない。もっと生温かい、部屋の奥から漂ってくる匂いだった。


「愛子」


 思わず名前を口にして、リビングへ走った。


 暗い部屋で、男の銀髪だけが光っていた。


 その足元に、愛子が横たわっている。血だまりの中で、動かない。


 吸血鬼の顔は、暗がりに隠れていた。男はゆっくりと息を吐いた。その様子が、ひどく満ち足りて見えた。


 矢部は殴りかかった。


 拳は、確かに顔面へ当たった。


 だが男は気にした様子もなく、携帯電話を取り出した。


「ああ、遅れてすみません。いい女がいたもので。無事、近づけましたよ」


 もう一度、殴った。


 男は電話の向こうの声に耳を傾けていた。


「ええ。気をつけます。しばらくは我慢することにしましょう。その方が、色々と判りそうだ」


 なおも殴りつける矢部を相手にせず、男は玄関へ向かった。


 矢部のことなど、見えていないようだった。


 その背を追わず、矢部は愛子の傍らに膝をついた。


 身体が冷たい。


「愛子」


 名前を叫んだ。


 何度呼んでも、返事はなかった。


 矢部は写真を戻した。


 愛子の仇を、赦すつもりはない。


 だが、それが小田桐に謝らない理由にはならなかった。


 何と言えばいいのかは、まだわからない。昨夜の礼だけで済む話でもないだろう。


 それでも、顔を見て話さなければならなかった。

話さなければ、手の痛みが消えないことなど、わかりきっていたのだ。


♦︎


 出勤すると、矢部は作業場へ向かった。


 いつもの場所に、小田桐の姿がない。更衣室にもいなかった。


「社長。小田桐は?」


 事務所から出てきた谷口を呼び止めた。


「ああ、ソウちゃんか。今日は休みだよ」


「休み?」


「朝、電話があってな。急用ができたんで、しばらく休みたいってさ」


「……いつまでですか」


「そこまでは聞いてねぇな。何か用だったか?」


「いや。ちょっと、本人に話があったんで」


 矢部は小田桐の作業場所を見る。


 腫れてもいない手が、また疼いた。


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