後悔
あれは、一撃で俺を殺すことができる。
小田桐ソウクの左腕が、巨大なハンマーへと変わっていた。
矢部浩昭は悲鳴を上げ茂みから転がり出た。ひょっとしたら、失禁してしまったかもしれない。
俺はあれで叩き割られる。確信めいた予感がした。
3年前、妻の愛子を殺されて以来、矢部は吸血鬼を呪い続けてきた。
保護法の権利を放棄した吸血鬼を街で見かければ、時には殴った。反抗してくる者などいない。吸血鬼など、クソみたいな生き物だった。
それなのに、よくも愛子を殺しやがって。
鬱屈した毎日の中、社長の谷口が信じられない採用をした。
「今日から、うちで働くことになったソウちゃんだ」
矢部も同僚も、谷口に詰め寄った。
吸血鬼を雇う会社など、聞いたこともない。そもそも法律違反ではないか。
「みんなの気持ちもわかるがよ。ソウちゃんは、オイラの大事な女の恩人なんだ。それに、いいやつなんだよ。すまんが、ここは汲んでくれ」
最初は、皆が反対していた。
こんなことをして、会社はどうなる。助成金を止められるかもしれない。銀行から金を借りられなくなるかもしれない。
ところが、そのどちらも起こらなかった。
役所の人間が一度訪ねてきて、厳重な注意を受けた。それだけだった。
加えて、小田桐は真面目だった。
残業も、皆の嫌がる仕事も進んで引き受けきちんとこなした。同僚たちは次第に小田桐と打ち解けていった。
矢部には、それが許せなかった。
1日に1度は難癖をつけた。時には殴り、この間はとうとう手を刺した。
妻を吸血鬼に殺されたことは皆が知っていた。矢部を咎めるのは、谷口だけだった。
「なぁ、矢部よ。お前さんの気持ちもわかるんだが、ソウちゃんがやったんじゃねぇんだ。ソウちゃんにあたるのは、もうやめたらどうだい。お前さんらしくないだろう」
「労働所で働かない吸血鬼に、人権なんてないですよ。社長。申し訳ないけど、俺は吸血鬼を見ると、殴らずにいられないんです」
吸血鬼などダニだ。吸血鬼などクソだ。吸血鬼など、雑魚だ。
俺には奴を殴る権利がある。小田桐を殴る権利があるのだ。
そう言い聞かせてきた。
なのに、何だ。あの腕は。
吸血鬼同士の戦いを目の当たりにして、矢部は思い知らされた。
弱いのは、自分の方だった。
奴らがやり返さないのをいいことに、俺は殴り続けてきた。小田桐を、殴り続けてきた。
殺される。
今度こそ、小田桐に殺される。
「俺の後ろから、今度は絶対に動くな」
声がした。
小田桐が、目の前に立っていた。猿ヅラの吸血鬼から矢部を庇い、腹から血を流している。
俺を、守った?
その後も、小田桐は矢部の前を離れなかった。胴を千切られながら、猿ヅラの吸血鬼を倒した。
自分の身体をつなぎ合わせ、立ち上がった小田桐が、手を差し伸べる。
矢部は、その手を振り払った。
「吸血鬼の手なんざ、借りられるかよ」
「……勝手にしろ」
振り払った自分の手が、なぜか、とてつもなく痛かった。
朝になっても、手の痛みはひかなかった。
腫れてはいない。矢部は手のひらを見つめ、ゆっくりと握る。
ほとんど眠れなかった。
昨夜の恐怖が残っているせいか。おそらく、違う。
眠れないまま何度も考えて、そのたびに同じところへ戻ってきた。認めたくなくても、他に理由は思い当たらなかった。
自分の命を救ってくれた小田桐の手を、振り払ってしまったこと。
吸血鬼はクソだ。吸血鬼はダニだ。吸血鬼は雑魚だ。
笑わせるな。
それは全部、俺の方じゃないか。
吸血鬼が殺したのではない。愛子を殺したクソ野郎が、吸血鬼だっただけだ。
愛子を奪われた憎しみも、悲しみも。吸血鬼というだけで、目の前の小田桐にぶつけていた。
谷口の言う通りだった。
あれほど辛くあたった。殴った。刺した。
それでも、小田桐は俺を助けた。
その手を、俺は振り払った。
くそ。
朝飯は喉を通らなかった。矢部はシャワーを浴び、着替えを済ませた。
愛子の写真を手に取る。
眺めているうちに、三年前の夜が蘇った。
♦︎
仕事を終えて帰った矢部は、玄関に入ったところで足を止めた。
鉄のような匂いがする。
だが、鉄ではない。もっと生温かい、部屋の奥から漂ってくる匂いだった。
「愛子」
思わず名前を口にして、リビングへ走った。
暗い部屋で、男の銀髪だけが光っていた。
その足元に、愛子が横たわっている。血だまりの中で、動かない。
吸血鬼の顔は、暗がりに隠れていた。男はゆっくりと息を吐いた。その様子が、ひどく満ち足りて見えた。
矢部は殴りかかった。
拳は、確かに顔面へ当たった。
だが男は気にした様子もなく、携帯電話を取り出した。
「ああ、遅れてすみません。いい女がいたもので。無事、近づけましたよ」
もう一度、殴った。
男は電話の向こうの声に耳を傾けていた。
「ええ。気をつけます。しばらくは我慢することにしましょう。その方が、色々と判りそうだ」
なおも殴りつける矢部を相手にせず、男は玄関へ向かった。
矢部のことなど、見えていないようだった。
その背を追わず、矢部は愛子の傍らに膝をついた。
身体が冷たい。
「愛子」
名前を叫んだ。
何度呼んでも、返事はなかった。
矢部は写真を戻した。
愛子の仇を、赦すつもりはない。
だが、それが小田桐に謝らない理由にはならなかった。
何と言えばいいのかは、まだわからない。昨夜の礼だけで済む話でもないだろう。
それでも、顔を見て話さなければならなかった。
話さなければ、手の痛みが消えないことなど、わかりきっていたのだ。
♦︎
出勤すると、矢部は作業場へ向かった。
いつもの場所に、小田桐の姿がない。更衣室にもいなかった。
「社長。小田桐は?」
事務所から出てきた谷口を呼び止めた。
「ああ、ソウちゃんか。今日は休みだよ」
「休み?」
「朝、電話があってな。急用ができたんで、しばらく休みたいってさ」
「……いつまでですか」
「そこまでは聞いてねぇな。何か用だったか?」
「いや。ちょっと、本人に話があったんで」
矢部は小田桐の作業場所を見る。
腫れてもいない手が、また疼いた。




