友来たる
社長室で、俺は出された茶を啜っていた。
社長室といっても小さな町工場の一室を改造しただけの部屋だ。俺の座る黒いソファーはあちこち破れている。窓の向こうには、この町の看板でもある森林公園が見えた。
湯呑みを持つ左手も、もう普段どおりに動く。
あの夜、アパートの裏手で意識を取り戻した時には、クスカの気配は消えていた。火の消えた自室から左腕を回収しようと思ったが、すでに炭になって使い物にはならず、新しい腕の再生を待つ羽目になってしまった。
幸い他の部屋への延焼は防げた。住人も全員無事のようだ。俺の部屋だけは、どうにもならなかったが。
「ソウちゃん、矢部と揉めたんだって?」
社長は執務机に腰掛け、首に掛けたタオルで顔の汗を拭っていた。冬だというのに、額にも首筋にも、次々と汗が浮かんでくる。
作業着がはち切れそうなほど肥えているが、これで意外と女性にもてるらしい。
「いつもの事ですから」
「あんまし、気を悪くしないでな。あいつも根は悪い奴じゃねぇんだがよ。吸血鬼の事になると、どうしてもな」
「わかってます。気にしてませんから」
矢部は3年前、吸血鬼に妻を殺されている。奴が28の時だった。
「人間てぇのは、厄介だよなぁ」
社長は汗を拭き終えると、何故かわざわざタオルの匂いを嗅ぎ、顔をしかめる。
「1人を好きになって、その国まで好きになっちまう。逆に、1人を憎んだら、その国の奴らまでみんな嫌いになる。そういうところが、あんだよな」
社長の言いたい事はなんとなく判る。
俺は黙って、茶を啜った。
「そりゃ、オイラも矢部のかみさんを殺した吸血鬼は許せねぇ。でも、それはソウちゃんじゃねぇだろ。真面目に働いてくれてるし、何より、アズサの命の恩人だ」
社長はタオルを首へ戻した。
「ソウちゃんにあたるのは間違ってる。そんな事、あいつだって、わかっちゃいると思うんだがなぁ」
両膝に手を置き、ため息をつく。
「わかってても、誰かにあたんなきゃ、どうにもならねぇ時があんのよ。矢部にはオイラからも注意しとく。だから、すまねぇが、許してやってくれな」
社長が頭を下げた。
「大丈夫ですから。社長がそんな事、気にしないでください。吸血鬼の俺を雇ってくれているだけで、どれだけ働いても返しきれない恩があるんです」
「よせやい。アズサの事を思えば、そんな恩、針の穴より小さいもんさ」
社長は照れくさそうに頭を掻いた。
「そういや、ソウちゃんの部屋、火事に遭ったらしいけど。大丈夫なのかい?」
アズサが話したらしい。まったく、余計な事を。
「あぁ、小火ですみましたから」
「ならよかった。そんじゃ、午後もよろしく頼むなぁ」
俺は頭を下げ、社長室を出た。
♦︎
仕事を終えると俺はアズサのマンションへ戻った。
アズサに連絡すると、彼女はすぐ、うちへ来ればいいと言った。
今までは俺が断っていたのだ。住人に見つかればアズサまでここを追い出される。
焼け焦げた部屋にはさすがに住めない、とはいえ、その俺が転がり込むのだから、まったく、本末転倒だった。
マンションは木々に囲まれた小高い丘の上に建っている。アズサの部屋は最上階の10階だ。
俺は周囲に人がいない事を確かめ、建物の裏手から屋上へ跳んだ。
眼下には街の灯りが広がっていた。ここから見える夜景には、無感動な俺でさえ何か心を揺さぶられるものがあった。
屋上の扉には鍵が掛かっている。指先を細い針へ変え、鍵穴に差し込んだ。中の形に合わせて変化させ、回す。
扉を抜けて階段を下りると、今度はポケットから合い鍵を取り出した。
アズサの部屋へ入った途端、シャワーの音が聞こえた。
「おかえり」
浴室に反響した声が届く。
「ただいま」
返事をして、靴を脱いだ。
誰かにただいまを言う事が、これほど心地よいものだとは知らなかった。150年も生きてきて、最近になって知ったのだ。
水音が止まり、やがてバスタオルを巻いたアズサが洗面所から出てきた。そのままこちらへ駆け寄ってくる。
抱き留めるとシャンプーの香りがした。血には及ばないが、やはり、ある種の甘美さがある。
「うん、いい感じ。やっぱり、誰かが帰ってくる家っていいね」
「できればしばらくこのままでいたいが、お前に風邪を引かせるわけにもいかない。それに、玄関はじゃれる場所じゃないしな」
「ソウクって、無駄にキザだよね。別に嫌いじゃないけどさ」
アズサは悪戯っぽく笑い、俺から離れた。洗面所へ戻ると、今度はドライヤーの音が聞こえ始める。
俺はリビングのベッドへ腰を下ろした。
その時――同胞の気配を感じた。
近い。50メートルほど先だ。
バルコニーへ出て、外を見た。
ヤマシだった。
気配を隠そうともしていない。が、こちらへ近づいてくる様子もなかった。どうやら、俺が気づくのを待っているらしい。
ドライヤーの音が止まった。洗面所から、パジャマ姿のアズサが出てくる。
「アズサ」
「なに?」
「悪いんだが、ビールを買ってきてくれないか」
「冷蔵庫に入ってるよ?」
「発泡酒に飽きたんだ」
アズサは目を細め、口を尖らせた。
「もう、ワガママなんだから」
クローゼットからダッフルコートを取り出し、パジャマの上に羽織る。
風邪を引かない事を祈る。
「行ってくるから、ちょっと待っててね」
扉が閉まるのを待って、俺はもう一度バルコニーへ出た。
手招きすると、ヤマシが動いた。
街の灯りを背に闇を跳び、瞬く間に、バルコニーの手すりへ降り立つ。
「よう」
黒い短髪に、彫りの深い顔。上は黒のパーカーで、下は茶色のハーフパンツだった。
「寒そうな格好してるじゃないか、ヤマシ」
「どうも長ズボンってやつが苦手でな。時間、大丈夫か?」
「アズサは買い物に行ってる。10分は帰ってこない」
ヤマシは頷いた。
「話があるぜ。わかってると思うが、ドラキュラの話だ」
いつになく深刻な顔をしていた。この男には、元来、蒼白さが似合わない。
クスカの言葉が頭をよぎる。
伯爵は近いうちにこの国へ進出する予定です。
その話なら、追い返すわけにはいかなかった。
「聞こう。だが、その前に」
「何だよ」
「靴を脱いで中に入れ。そこは目立ちすぎるし、寒すぎる。俺はお前みたいに、体育会系じゃないんでね」
ヤマシは愉快そうに笑った。
手すりへ手を掛け、そのまま滑るようにリビングへ降り立つ。
靴を脱ぐのは、後回しにしたようだ。




