ワラキア上陸
陸地が見えてきた。
ここまでの旅路にクスカをはじめとする同胞の襲撃はなかった。順調といえる。
もっとも油断するのはまだ早い。
ジェットに変えていた両足を元に戻し、魔性を鎮める。残りは自分の手足で泳ぐ。岸に着く前から同胞に居場所を知らせる事はない。
遠くからモーターの音が聞こえてきた。
顔を上げると2隻のボートがワラキアへ向かっていた。同胞の気配はない。人間の船らしい。
俺に用があるとは思えなかったが、わざわざ見つかってやる理由もない。2隻が向かう岸を避け、死角になる場所から上陸した。
海岸の向こうには森が広がっていた。ここを抜ければ荒野に出る。その先にある廃村に、俺のツテが住んでいるはずだった。
木々の奥から、遠吠えが響いた。
吸血狼。世界でも、この土地にしか棲まない巨大な狼だ。ドラキュラは奴らを眷属と呼んでいた。
魔性を操るわけではない。だが、凶暴な上に縄張り意識が強く、侵入者には容赦なく襲いかかる。雑食だが好物は人間の肉だ。相手が吸血鬼でも構わない。
さすがに吸血狼に殺された同胞の話は、聞いた事がない。それでも、襲われれば魔性を使わずに退けるのは難しい。そんなことで、親衛隊の連中に気づかれたくはなかった。
枝を避け、暗い森へ分け入る。
ぺき、と足元で音がした。
足を退けると、落ち葉の間から白い骨が覗いていた。人間のものだった。
人間のブローカーが、世界中から集めた人間を吸血鬼へ売り渡している。そんな噂は、日本にいた俺の耳にも届いていた。都市伝説として語られていた話だ。
爺さん達はメシア教の分派に属する人間から、自らの意思で差し出された血をもらっていると言っていた。
どうもそれだけでは済んでいないらしい。
先程のボートを思い出した。何を積んできたのかまでは、見ていない。
嫌な予感がした。
1時間ほど進んだところで叫び声が聞こえた。
女の声だった。
「やめて、やめて。お願いだから、やめて」
舌打ちして、立ち止まる。
俺の目的は、あくまでドラキュラだ。ここで余計な騒ぎを起こすわけにはいかない。
「いや、やだ。お願い。お願いします」
その声に、アズサの声が重なった。
俺は首を振り、声のする方へ向かった。
木々の間に朽ちかけた小屋があった。同胞の気配がする。2体だ。
甘美な血の匂いが、風に混じっていた。
呼吸を浅くし、物音を立てないよう小屋へ近づく。外壁の穴から、中を覗いた。
若い女が、両腕を縛られて吊るされていた。ロープは天井の梁に掛けられている。服はぼろぼろで、身体中に傷を負っていた。
「なあ。少し痛ぶりすぎじゃないか。プラトー様の生誕祭まで、持たないんじゃ」
「大丈夫だろ。どのみち今日、新しく10人連れてこられるんだ。最悪、死んでも誤魔化せるさ」
2体は、手をナイフに変えていた。
女の肌へ細い傷をつけ、滲んだ血を舐める。そのたびに女が声を上げた。
奴らは楽しんでいた。血の味も、女の悲鳴も。
胸糞が悪い。
血を舐めるたび、魔性の解放が途切れ、ナイフが手へ戻っていた。
俺と同じ、第4世代だ。
2体を排除するだけなら、難しくはないだろう。
だが、魔性を使えば親衛隊に気づかれる恐れがある。できればその賭けは避けたい。
逡巡している間にも、奴らは女をいたぶり続けていた。
「お願い、許して。許してください」
「でもなあ、女。俺達が許しても、結局、お前の命は明日の晩までなんだよね」
「そう。オードブルとして、生誕祭の食卓に並べられて、いろんな奴に血を吸われる。そのあとは吸血狼の餌だ。骨までしゃぶってもらえるぜ」
女は泣き叫んでいた。
くだらない。
これから戦争を止めようという男が、目の前の女1人を救えなくて、何ができる。
親父なら、そう言っただろう。
外壁の穴へ両手を寄せる。女に気を取られている2体の後頭部へ、人差し指を向けた。
魔性を、一瞬だけ解放する。
《貫く》。
指先が《針》に変わった。伸びた針がそれぞれの魔性炉を貫く。
2体が、崩れ落ちた。
指を元へ戻し、魔性を鎮めてから小屋へ入る。
女はまだ目を閉じ、唇を噛んでいた。
血の匂いがまた近くなる。
甘い。そして、刺激的だ。
俺も本能の赴くまま、この女の血を貪りたい。
くそ。血を前にすれば俺の本質も結局、今の奴らと変わらない。
衝動を押し込め、声をかけた。
「大丈夫か」
女が目を開けた。
ロープを解くと、彼女は俺に抱きついてきた。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
「悪いが、礼はあとにしてくれ。あんたの血は、俺にも毒だ」
女の肩をそっと押し、少し離れてもらう。
シャツを裂き肌に付着した血を拭った。それから自分の唇を噛み、傷口へ血を滴らせる。
細かな傷が、次々と塞がっていった。
「え、これ、どういうことですか」
「傷は塞がったはずだ。それより、あんたは誰で、どうしてこんなところにいる」
南雲光と女は名乗った。日本で水商売をしているらしい。
男に騙されて背負った借金を返すため、割のいい仕事を探していたところ、ブローカーに出会ったのだという。
吸血鬼のパーティに参加すれば、大金を得られる。
その甘い誘いに乗ってしまったらしい。
「本当にありがとうございます。私、まさか、こんなことになるなんて……」
「甘い誘いには、ツケがあるものさ。覚えておくといい」
俺は俺自身へ警鐘を鳴らすように、言った。
「あの、お兄さんも、吸血鬼ですよね。なんで、私を助けてくれたんですか?」
「さあな。それより、ここに長居するのは危険だ。あんた、ここへはどうやって来た」
「船で、連れてこられました。あの、私、どうすれば……」
先程のボートもおそらくブローカーのものだろう。
人間だけなら、制圧するのは難しくない。だが、引き取りに来た吸血鬼まで相手にする羽目になるかもしれない。
かといってこの森へ置いていけば、吸血狼の餌だ。
「悪いが、あんたを日本まで送り届けている余裕はない。だから選べ。俺についてくるか、一人で逃げるか」
南雲が俺を見上げた。
「運が死ぬほどよければ、海岸で人間の船を奪って逃げられるかもしれない。運が悪ければ、森を抜ける前に狼に食い殺される」
「お兄さんに、ついていくと、どうなるんですか?」
「知り合いに、あんたを預ける事はできる。ただ、そこまでの安全を約束できるわけじゃない。一人よりはまし、その程度に考えてくれ」
南雲の目に、また涙が浮かんだ。
慰めに使えそうな言葉は、持ち合わせていない。それに、彼女の答えを待つ時間も、あまりなかった。
吸血狼の遠吠えが聞こえた。
かなり近い。血の匂いを嗅ぎつけたのだろう。
「お兄さんに、ついていきます」
「わかった。行くとしよう」
「あの」
歩き出そうとした俺を、南雲が呼び止めた。
「名前、聞いてもいいですか?」
「小田桐ソウクだ」と、俺は言った。




