吸血鬼
別れ際、矢部は柳沢と連絡先を交換し、約束していた書籍を受け取った。
「何かあれば、ご連絡ください。些少ですが、謝礼もお支払いしますよ」
「柳沢さんも、小田桐のことが何かわかったら、連絡してください。それと……」
矢部は口籠もった。どう伝えればいいのか、うまく言葉を組み立てられない。
「谷口さんのことですか?」
「ええ、そうです。できれば、その、小田桐と金井さんのこと、社長には……」
「わかっています。安心してください。そこまで無粋ではありませんよ」
「ありがとうございます。本、読ませてもらいますね」
柳沢と別れ、コンビニで惣菜と缶ビールを購入してから、矢部は帰宅した。
柳沢という男は、テレビで見るよりも気さくだった。かといって、その愛想のよさが、そのまま信用に結びつくわけではない。十分に話を聞いたはずなのに、肝心な何かを伏せられたような感触が残っていた。
小田桐と金井アズサの関係も、気に掛かった。
谷口は数年前に離婚したと、矢部は聞いていた。前妻とは矢部も面識がある。その経緯について谷口は多くを語らなかったが、当時の憔悴ぶりは、従業員なら誰もが知っていた。
そんな谷口が立ち直ることができたのは、金井アズサの存在によるところが大きい。少なくとも、矢部にはそう見えていた。
その金井アズサと、小田桐が男女の関係にあるというのか。
にわかには信じられなかった。小田桐はアズサの恩人なのだと、谷口は言っていた。具体的に何をしたのかまでは知らない。だが、その小田桐が、谷口の女を寝取るなんて――。
矢部は、そこで苦笑した。
そんな男ではないと、小田桐を庇おうとしている自分に気づいたのである。
たった一晩で、俺の小田桐に対する印象が、こんなにも変わっている。
当人に確かめられない以上、憶測を重ねたところで埒は明かない。とはいえ、いくつもの疑念を抱えたままでは、今夜も眠れそうになかった。
矢部は、柳沢から受け取った本を手に取った。
『人間と吸血鬼の共存〜保護法の改正を目指して〜』
矢部は、柳沢の著書を読み進めた。
普段は小説すら読まない。まして、物語の筋を追うわけでもない本を、最初から最後まで読むことには抵抗があった。しかし、吸血鬼の生態から歴史へ、そして150年前の戦争へと頁を繰るうちに、箸を取る間隔が次第に長くなっていった。
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第1章は、吸血鬼の始祖について記されていた。
ドラキュラ・ブラド・ゼペシ。推定年齢、2,150歳。
彼以前に吸血鬼の存在を確認できる記録はなく、現在知られている吸血鬼は、いずれもその血統に連なる。そのため、彼は始祖と呼ばれている。
居城を構えるのは、日本から遠く離れた南半球の半島、ワラキア。吸血鬼たちの国として認められている土地だった。
その名は、メシア教の聖書にも登場する。
聖書におけるゼペシは、創造主メシアと共に世界の創生に携わった神の一柱である。様々な奇跡を起こし、人間を救ったとも記されているが、やがてメシアと対立し、悪魔へと堕ちたとされていた。
もっとも、柳沢は、この伝承をそのまま歴史上の事実として扱ってはいなかった。聖書の記述と、現実に存在し続ける吸血鬼。その2つを照合しながら、どこまでが記録で、どこからが信仰なのかを分けて論じていた。
第2章では、彼らの生態が説明されていた。
本来、吸血鬼の生存には、人間の血液が必要不可欠だった。
聖書には、ゼペシのもたらす奇跡と祝福の代償として、人間が血を捧げていたという記述もある。少なくとも2,000年前には、そのような慣習があったと伝えられているらしい。
だが、矢部の目を引いたのは、血よりも、その寿命に関する記述だった。
ドラキュラをはじめ、その子孫たちについても、現在に至るまで老衰によって死亡した個体は確認されていないという。
加えて、肉体は極めて強靭である。四肢を切断されようと、胸を貫かれようと、欠損した部位は修復される。人間なら致命傷となる損傷も、彼らにとっては必ずしも死を意味しない。
その生命を支える核は、脳内に存在する《魔性炉》だった。
これを破壊されれば、いかに吸血鬼といえども生命を維持することはできない。裏を返せば、胴体や手足をいくら傷つけても、それだけで確実に殺すことはできないのである。
そして魔性炉は、生命維持の核であると同時に、彼らの異能の源でもあった。
彼らは《魔性の解放》という工程を経て、想像力を創造力に変換する。
肉体や、体内に取り込んだものを、思い描いた形へ変容させるのだ。腕が刃となり、骨格が翼となる。血液や唾液さえ、その力を具現する材料になり得る。
昨夜、小田桐の腕が巨大なハンマーへ変わった光景が蘇った。
続いて、切断された上下半身が、何事もなかったかのようにつながっていく様子まで。
矢部は頁を押さえる指に力を込めた。書かれていることを、荒唐無稽と笑う余地はなかった。
これほど長命で、しかも容易には死なない生物にとって、子孫を残すことは、種を存続させるための切実な要請ではない。古い世代が死に、新しい世代へ命をつなぐ必要が、ほとんど存在しないのである。
柳沢の本は、この性質を、吸血鬼の生殖に見られる特異な偏りと関連づけていた。
吸血鬼には、女性が存在しない。
子孫を残すには人間の女性を必要とするが、受精の確率は、人間同士に比べて著しく低い。個体としての強靭さに対し、繁殖の能力は極端に乏しかった。長命であるにもかかわらず、その総数が人間を大きく下回る一因でもある。
ところが、ひとたび妊娠が成立すると、胎児は異常な速度で成長する。
わずか2週間で成人に等しい身体を獲得し、母の腹を破って生まれてくるのだ。その出産を、母親が生き延びることはない。
吸血鬼が1人増える。そのたびに、人間の女が1人死ぬ。
人間と彼らの歴史を考える上で、避けて通れない事実だった。
その一方で、生まれてくる子孫は、親と全く同じ性質を受け継ぐわけではない。
始祖ドラキュラを第1世代とし、その子を第2世代、孫を第3世代と数える。現在、日本に住んでいる吸血鬼は、第4世代にあたるという。
第1世代と第2世代は、生存のために吸血を必要とし、日の光に弱い。
第3世代では、その制約が薄れる。生きるための吸血は依然として必要だが、摂取する量は少なく、間隔も長くて済む。日光の下でも、一定の活動が可能になる。
そして第4世代に至ると、生存のための吸血が不要になり、日中の活動にも支障がなくなる。長命と強靭な肉体を備えたまま、生存の条件だけが、人間に近づいたのである。
血を吸わなくても、生きていける。
昨夜、小田桐自身が言っていたことだった。それなのになぜ愛子を殺したのかと、矢部は食ってかかったのだ。
答えは、続く頁に記されていた。
血液は、どの世代にとっても、魔性の力を増幅させる作用を持つ。いわば、彼らに共通する麻薬でもある。
古い世代には生命を維持するための糧であり、同時に、力を高めるものでもあった。しかし、第4世代では前者の必要性が失われ、麻薬としての意味合いだけが残った。生きるために必要がなくても、その味への渇望は消えない。一度味わった増幅と陶酔を求め、吸血を繰り返す者がいる。
さらに、第4世代に限っては、吸血中に無防備になるという性質があった。
生存のための摂取ではなくなった血は、彼らを強烈な陶酔へ引き込む。周囲への警戒が失われ、身を守るための魔性の制御すら困難になるのだ。
必要がないのに、吸う。
そのために、人を殺す。
矢部は、しばらく同じ箇所を見つめていた。理由がわかったところで、愛子の死を受け入れられるわけではなかった。
第3章から、話は150年前の戦争へと移った。
第3世代が日中にも活動できるようになったことは、ドラキュラたちに、さらに制約の少ない次世代への期待を抱かせた。
彼らは、子孫の増殖を求めた。
そのために、多くの人間の女性が攫われ、ワラキアへと連れ去られた。受精の確率が低い以上、求められる女性の数も少なくは済まない。そして妊娠の成立は、その女性にとって死を意味した。
この略奪が、吸血鬼戦争の発端となった。
吸血鬼は個々の圧倒的な力で、人間は数で戦った。双方が甚大な損害を被った末、人間側の勝利によって戦争は終結する。ドラキュラ側から提案された休戦協定が結ばれ、現在の秩序が形づくられたのだという。
矢部が知っていたのも、概ね、そこまでだった。
戦争に負けた吸血鬼が、人間の下で働く。当然の成り行きだと思っていた。
しかし、その先の記述は、矢部の理解とは大きく異なっていた。
休戦協定に基づき、日本へ送り込まれた第四世代の吸血鬼たちは、労働所で働き、管理と保護を受ける《権利》を与えられた。
吸血鬼保護法。
その名の下で用意された労働条件は、1日最大15時間、月に1日の休日、そして月給10万円だった。
この数字は昨夜小田桐が口にしていた。
矢部は敗戦国の生き物なのだから我慢しろと吐き捨てた。その言葉を、紙面の上で突き返されたような気がした。
労働所で働くことは、義務ではない。彼らは、自らその権利を放棄することができる。ただし、その代償として、人権の一切を認められなくなる。
過酷な労働か、人権の喪失か。
柳沢はこれを選択の自由と呼ぶことに疑義を呈していた。
第4章では、その制度がもたらす弊害が論じられていた。
多くの吸血鬼が権利を放棄し、労働所の外で暮らしている。法の保護を失ったところで、彼らの肉体が脆くなるわけでも、魔性炉が消えるわけでもない。抑圧を受けながらも、彼らは生き延び、街を歩き続ける。
人権を奪うという措置は、彼らの行動を封じる手段にはなっていなかった。
その上、社会の表側で仕事や住まいを得にくい吸血鬼を、利益のために利用する人間もいる。彼らの力を暴力に使い、法の目が届かない場所で働かせる。吸血鬼を排斥する建前の陰で、その力を商売にする者たちがいた。
人間への反感を募らせる吸血鬼と、それを利用する人間。両者の利害が結びつき、犯罪の温床となる。吸血を目的とした襲撃も後を絶たず、とりわけ若い女性の被害は看過できないものとなっていた。
本文にはこう記されていた。
『人間を襲った吸血鬼には、その犯罪の責任を負わせなければならない。しかし、罪を犯していない吸血鬼が、合法的に生活を営む道も必要である。
真面目に働いても財産を守られず、暴力を受けても救済を求められない者に、社会の規範を守ることで何が得られるのか。
現行の制度は、彼らから生活の保障を奪いながら、人間への服従だけを要求している。その要求を、法律の文言だけで実現できるほど、彼らは弱い生き物ではない』
矢部は缶ビールへ伸ばしかけた手を止めた。
昨夜まで自分もそうしていた。
人権がないのだから、殴っていい。相手がやり返さないのを弱さの証拠と見なしていた。
ところが、小田桐には一撃で矢部を殺せる力があった。
それを使わなかった理由まで、保護法が説明してくれるわけではない。
柳沢の主張は、吸血鬼の危険性を認めた上で、人間がどう身を守るべきかという一点へ向かっていた。
『働いて賃金を得る権利を保障すること。住居や財産を守り、暴力によって奪われたときには救済を受けられるようにすること。その代わり、彼らにも法を守り、犯罪の責任を負うことを求める。
人間の社会で生きていくことに価値を見いだす者を増やせば、それを自ら壊す行為への抑止にもなり得る。権利の保障によって、すべての犯罪が消えるわけではない。だが、彼らを社会の外へ追いやり、憎悪と違法な取引に委ねる制度を、今のまま続けるべきだろうか。
吸血鬼を愛することはできなくても、彼らが人間を襲わずに生きられる条件は整えられる。
私は、人間の安全のために、彼らとの共存を提言する』
吸血鬼を憎むな、と言われているのではなかった。
憎んでいるだけでは、人間は安全にならない。
矢部は、冷めきった惣菜を前にしたまま、最後の一節を読み返した。
愛子を殺した男への憎しみは、少しも薄れていない。それでも、吸血鬼を見下し、殴りつければ、何かを取り戻せるように思っていた自分の振る舞いが、ひどく危ういものに見え始めていた。
ふと、奇妙な疑念が矢部の胸中に兆した。
この法律はそもそも、吸血鬼に人間を憎ませるために作られたのではないか。
そう考えると不合理にしか思えなかった制度が、一つの意図に沿って組み上げられたものに見えてくる。
矢部は本を閉じた。それでも、その疑念は消えなかった。
Chapter1
end




