危機
日が暮れた。枝の隙間に残っていた夕映えも、もう見えない。
俺は南雲と共に、荒野を目指して森を歩いていた。木々の間隔が、少しずつ広がってきている。抜けるまでに、もうさほど時間はかからないはずだ。
南雲の歩みは、目に見えて遅くなっていた。
傷は塞いだ。だが、失った血や体力まで戻ったわけじゃない。
「大丈夫か」
「ごめんなさい。大丈夫です」
愚問だった。返事をするために立ち止まった顔が、俺と大差ないほど白い。
背を向け、膝を折る。
「え」
「乗れ。無理して倒れられる方が厄介だ」
「……ごめんなさい」
背中へおずおずと体重がかかった。膝の裏へ両腕を回し、立ち上がる。
軽かった。それでも、歩くたびに脚が重くなっていく。
日本を発ってからまともに休んでいなかった。魔性を使い続けて海を渡り、上陸してからも気を張り詰めていたのだ。女1人を背負った程度で疲れる自分に、少しばかり腹が立った。
木立の向こうに、小川が見えた。岸辺には、大きな岩が張り出している。
「少し休もう」
南雲を下ろし、俺も岩へ背中を預けた。
彼女は小川のほとりへ屈むと、両手で水を掬った。何度か口へ運んでから、こちらを振り返る。
「小田桐さんも、飲んだら? 美味しいですよ」
「ああ」
腰を上げようとすると、南雲が何かに思い当たったような顔をした。
「あ、そっか。血の方が、いいですよね」
ためらいがちに、襟元へ指を掛ける。
「助けてくれたお礼に。私の、吸ってもいいですよ」
ボタンが外れ、首筋が露わになった。
皮膚の下を流れるものを、思い浮かべる。疲れているせいだろうか。その申し出を受け入れる事以外、何も考えたくなくなった。
「やめろ」
思ったより、強い声が出た。
「血を絶っているんだ」
「どうして? 吸血鬼なんですよね?」
「あんたには、関係ない」
口にしてから、自分の声音に気づいた。
俺は苛ついているのか。血を吸えないという、ただそれだけの事で。
南雲の表情が曇った。
「ごめんなさい」
「いや。こちらこそ、すまなかった。俺もどうやら、疲れているらしい」
彼女が襟元を合わせた。しばらく、川の流れる音だけが聞こえていた。
立ち上がろうとした時だった。
視線を感じた。
人間ではない。同胞の気配もない。
南雲が、短い悲鳴を上げる。
木々の隙間で、朱い目が光っていた。右にも、左にも。首を巡らせるたび、別の一対が暗がりに浮かぶ。
吸血狼。
いつの間にか、囲まれていた。
唇を噛む。彼女の血に気を取られている間に、ここまで近づかれたのか。
群れをまとめて退けるには、それなりの魔性が要る。使えば、他の吸血鬼に気づかれる恐れがあった。
もっとも、今はそちらを心配している場合ではなかった。それだけの魔性を、まだ引き出せるかどうか。
南雲が駆け寄り、俺にしがみついた。
女の匂いがした。合わせた襟元がずれ、すぐ目の前に首筋がある。そこを見た途端、鼓動が速くなった。
血を吸えばいい。
そうすれば、この程度の窮地はどうにでもなる。
吸ってしまえ。この女の血を。
1匹が、低く唸った。
南雲の肩を掴む。彼女は俺を見上げた。助けを求めるその目を見ながら、俺は首筋へ顔を寄せた。
牙を立てようとした瞬間、アズサの顔がよぎった。
くそ。
南雲を突き飛ばす。
同時に、1匹が跳んだ。開いた口へ、右腕を差し出した。
牙が食い込み、巨体が首を振る。引きずられるようによろめいた時には、右腕が肘の上から千切れていた。
「小田桐さん!」
小川に尻餅をついた南雲が、立ち上がろうとしていた。その背後から、もう1匹が飛びかかる。
左腕へ意識を集めた。ブレードを思い描く。
腕は、変わらなかった。
魔性炉から返ってくる反応が、鈍い。解放が間に合わない。
俺は南雲へ体当たりし、左腕を狼の口へ押し込んだ。
今度も、持っていかれた。
笑えない。
ドラキュラを狩りに来たはずが、その国の原生生物に食われている。この有り様で、どの面を下げて奴の前へ立つつもりだったのか。
よろめきながらも、南雲の前へ立った。
「大丈夫か」
「私のことより、小田桐さん、腕が……」
「気にするな。問題は、そんな事じゃない」
2匹は、俺の腕を貪っていた。その周りへ、ほかの狼も寄っていく。喉を鳴らし、互いを威嚇しながら、落ちた肉片へ鼻先を近づけていた。
包囲に、わずかな隙間ができる。
「南雲。あっちへ走れ」
顎で、木々の薄い方を示した。
「もう少しで森を抜ける。振り返るな」
「小田桐さんは」
「俺の事はいい。早く行け」
残った脚で、小石を蹴った。狼の鼻先を掠め、向こうの幹に当たる。食事を邪魔された1匹が、こちらを向いた。
俺を見ていろ。そっちの女は、お前らにはやれない。
腹に、弱い力がかかった。
南雲が、俺のシャツを掴んでいた。引っ張っている。自分1人で歩くのも覚束なかった足で、俺まで連れていこうとしていた。
「何をしてる。行けと言っただろう」
「一緒に、来てください」
声が震えていた。
「小田桐さんも。一緒に」
彼女が足を滑らせた。俺もつられて膝をつく。支えてやろうとして、腕がない事を思い出した。
それでも、シャツを掴む手は離れなかった。
狼が、また1歩近づく。
南雲を背中へ庇い、顔を上げた。魔性を引き出そうとする。頭の奥が熱い。思い描いた刃は、どこにも現れない。
「坊ちゃん」
声がした。
聞き覚えのある落ち着いた声だった。
乾いた音が森に響いた。
目の前の狼が、横へ弾かれる。木の根元へ転がった巨体が、土を蹴って身を起こした。
木陰に、男が立っていた。
頭から暗い色の外套を被った老人だ。その痩せた両腕が、1挺の猟銃を構えていた。
もう1発。
銃口が火を噴き、なおも近づこうとしていた1匹が、身をよじって倒れた。
群れが後ずさる。老人が1歩進むと、最も近くにいた狼が踵を返した。その1匹を追うように、ほかの狼も木々の奥へ退いていく。
老人は最後の影が消えるまで見届け、猟銃を下ろした。
「随分と、無理をなさったようですな」
外套の陰から痩せた顔が覗く。
アレン・ヘンスン。
俺が探しに来た男は、記憶にあるよりずっと頬がこけていた。
「どうして、ここに」
「懐かしい魔性を感じたものですから。まさかと思いましてね。森の方へ様子を見に来たのですよ」
あれほど隠していたつもりでも気づかれていたらしい。ヘンスンだけならいいのだが。
「迎えを頼むつもりは、なかったんだがな」
「話は、休んでから伺いましょう」
猟銃を片手に持ち替え、ヘンスンが俺の傍らへ屈む。空いた手が、肩に添えられた。
「お帰りなさいませ、坊ちゃん」
南雲はまだ、俺のシャツを離さなかった。




