第4話 サビのない兄貴、作業員の日々
「奏、おかわりは? まだ炊飯器に残ってるわよ」
ダンジョンから帰宅した俺を待っていたのは、湯気を立てる肉じゃがと焼き魚、それに豆腐の味噌汁だった。
つい一時間前まで、あのカビ臭い地下迷宮で「化学薬品の味がする安物ポーション」を啜っていたのが嘘のようだ。五十代の魂を持つ俺にとって、この家庭料理の温かさは、胃袋以上に五臓六腑に染み渡る。
「……いただくよ、母さん。やっぱり家のご飯は落ち着くな」
俺が茶碗を差し出すと、母さんはお玉を動かしながらも、その瞳には隠しきれない不安を浮かべていた。
「いいのよ、無理して食べなくても。……それより奏、今日の稼ぎはどうだったの? お父さんの今の会社も先行きが怪しいんだから、怪我でもされたら治療費だってバカにならないのよ。探索者保険だって高いんでしょう?」
「いや、大丈夫だって。ちゃんと低層で魔石を拾って、日銭は稼げてるから」
俺の言葉に、リビングのソファで新聞を広げていた父さんが、鼻を鳴らした。新聞の端から覗く目は、典型的な「頑固親父」のそれだ。
「稼げてるって言っても、お前が毎日上げてるあの動画……あれは何だ? 職場の同僚に『息子さんが探索者配信を始めたらしいな』と言われてな。内緒にしてたんだが、どこから漏れたのか一緒に見るハメになったんだが……」
父さんがスマホを取り出し、俺のチャンネル画面を表示する。
そこに映し出されているのは、例の「1秒40円」の命を削る、あの超短尺動画だ。
「これよ、これ。お兄ちゃん、これマジで何なの?」
横から口を出してきたのは、スマホをいじっていた妹の結菜だ。
「お兄ちゃんのチャンネルなのに、映ってるの全然知らない外国人風のイケメンじゃない。しかも10秒ちょっと。で、ポーズを決めた瞬間にブツッと切れて、最後にお兄ちゃんの『……っはぁ!』っていう死にそうな吐息だけが入ってる。意味不明すぎて、もはや恐怖映像なんだけど。学校の友達に見つかったら私、転校するからね」
家族の容赦ないツッコミが胸に刺さる。
無理もない。今の俺のMPでは、MJが「決まった」瞬間にスキルを解かざるを得ない。視聴者……ましてや家族から見れば、「謎の美形が、キメ顔をした瞬間に断末魔を残して消える怪現象」にしか見えないのだ。
「奏、お前……実はスキルなんて発現してなくて、どっかの有名配信者の映像を無断転載して編集してるんじゃないだろうな? 役所に虚偽の報告をしてたらライセンス剥奪だぞ」
「父さんまでそんな……。違うんだよ、あれは俺自身なんだ。本当の凄さは、これからもっとMPが……魔力が上がればわかるんだ」
「『これから』って……毎日毎日、もう一ヶ月もやってるじゃない。いつになったらサビが来るのよ。サビのない曲なんて誰も聴かないよ? あと、その人のフリして変なポーズ取るのやめてよね。中身がお兄ちゃんだって思うだけで、そのイケメンに同情しちゃうから」
結菜の言葉がトドメになった。
サビ。俺が一番見せたい、あの爆発的なダンス。だが、それを見せるには高性能MPポーション数本分の「軍資金」が必要だ。現状、低層の魔石換金ではそれが買えない。
「……まあ、生きて帰ってきてるならいいけどさ。あんまり無茶しちゃダメよ。あと、動画を上げるならもっとちゃんとしたのを撮りなさい。お母さん、恥ずかしくて近所の人に教えられないわ」
「……善処するよ」
俺は肉じゃがを口に運び、咀嚼することで言葉を飲み込んだ。
五十代のプライドが、十九歳の体の中で小さく震える。
(わかってない。みんな、わかってないんだ……。あの姿が、かつてどれだけ世界を熱狂させたか。あのステップがどれだけ神聖なものか……!)
家族の心配はありがたい。だが、彼らの「理解できない」という困惑が、逆に俺のオタク魂に火をつけた。
「ごちそうさま。……明日、ちょっと多めに潜ってくる。ポーション代、なんとか工面するから」
「奏! 無理はしちゃダメだって言ったでしょ!」
母さんの声を背に俺は自室へ戻った。
バッグの中には、今日ダンジョン庁の売店で買ったばかりの数本の安物ポーション。
家族にさえ「盗作」か「バグ映像」扱いされている現状を打破するには、もう、命《MP》を削って「最高の数秒」を繋ぎ合わせるしかない。
「見てろよ結菜、母さん……。いつか、度肝を抜かせてやるからな」
俺は暗い部屋で、一人指を鳴らした。
ッ、チャ!
静寂の中に響くその音だけが、今の俺の唯一の希望だった。
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「……今は耐える時だ。すべては最高のステージのために」
薄暗い新宿ダンジョンの下層。俺は一ヶ月前なら真っ先に指を鳴らしていたであろうゴブリンの群れを前に、ぐっと拳を握りしめていた。
指が疼く。変身した瞬間に肉体を駆け巡るあの万能感、耳の奥で鳴り響く重厚なベースラインが、今か今かと解放を待って暴れている。だが、俺はそれを意識の奥底へ力ずくで押し込めた。
今の俺に課せられた使命は、伝説を体現するパフォーマーとしての華やかな仕事じゃない。ただの「槍を持った作業員」に徹することだ。
「……ふぅーっ」
一歩踏み出し、安物の槍を無機質に突き出す。
前世で見た少年漫画の主人公なら、ここで新技でも叫ぶんだろうが、俺の口から漏れるのは、五十代の魂が漏らす「よっこいしょ」に近い吐息だけだ。
サクッ、と手応え。ゴブリンが粒子になって消える。
かつての俺なら、ここでMJに変身して「今の回避、スリラーの1分20秒目の動きを意識したんだ!」と一人で悦に浸っていたところだが、今は違う。
1秒でも変身を控え、1円でも多く稼ぎ、一滴でも多くの魔力を温存する。
「……これで5匹目。魔石、確保」
拾い上げた小さな石を、俺は「小銭」を数える老人のような目で見つめた。これを換金すれば安物のMPポーションがまた一本買える。
「MJ断ち」――それは、サブカルオタクの前世を持つ俺にとって、息を止めるような苦行だった。
変身せず、ステップを踏まず、ただひたすらに効率だけを求めて泥臭く槍を振るう。
かつて深夜ラジオの録画をミスした時の絶望や、楽しみにしていたアニメが特番で潰れた時のあの飢餓感に似た、ヒリヒリとした渇きが胸を焼く。
だが、この「渇き」こそが、俺の魔力を研ぎ澄ませていた。
(……見てろよ。あんたを『バグ』や『偽物』呼ばわりした奴らを見返してやる。そのためなら、俺はいくらでも『モヤシの槍使い』に甘んじてやるよ)
休憩中、俺は一口の水を飲み、手帳に記した「ポーション貯金額」を眺めた。
目標金額まで、あと少し。
レベルアップによるMPの自然増加と、この血の滲むような節約生活が合致したとき、俺の「貯金《MP》」は爆発的なキャパシティを迎える。
鉄平からは「奏、最近付き合い悪いな。そんなにソロで槍の練習してんのか?」と呆れられた。
家族からは「あの子、自室で黙々と槍の手入ればかりして……」と不気味に思われた。
だが、いいんだ。
合体シーンをじっと待つロボットアニメのファンの如く、修行シーンを黙々と読み進める少年漫画の読者の如く、俺は「その時」を待っている。
「……よし、次だ」
俺は再び槍を握り直し、暗い通路の奥へと消えていった。
鼻歌すら歌わない。リズムも刻まない。
ただ、心臓の鼓動だけが、静かに「伝説の再来」へのカウントダウンを刻み続けていた。




