第7話 アンコールにはまだ早い
「お兄ちゃん、ちょっとお兄ちゃん!! 起きて!!」
ドタドタとドアが蹴破らんばかりの勢いで開き、泥のように眠っていた俺は、強制的に布団を剥ぎ取られた。
「……何だよ。まだアンコールの時間には早いぞ……」
「アンコールじゃないわよ! お兄ちゃんが昨日ライブしてたやつ、アーカイブは消えてるけど、切り抜きと再投稿動画が再生数十万超えてる! ネット中のプロの探索者と、魔力分析官が、『この黒い変身者は新しい神の使徒か何かか!?』って大パニックになってるんだけど!」
俺は眠い目をこすりながら、結菜が突き出してきたスマホの画面を凝視した。
かつて「ノイズがうるさい」「鼻息がキモい」と叩きまくっていたアンチがいたはずのコメント欄が、今や未知の言語とガチ勢による物々しい長文考察で埋め尽くされている。
「……ああ。サビを見せれば、こうなるって言っただろ」
俺はボサボサの頭をかきながら、ニヤリと笑った。
この世界には「マイ〇ル・ジャ〇ソン」という名前も、その輝かしい歴史も存在しない。
住人たちにとって、この変身姿は今この瞬間、「あまりにも美しく、あまりにも凶悪な、未知の超越者」としてこの世に産声を上げたのだ。
だが、スクロールする結菜の指が止まったところで、俺の心臓も止まりかけた。
『【衝撃】King of Pop、まさかの生配信事故。「膝エロ」「括約筋を信じろ」発言の全貌』
そんなタイトルのまとめスレが、動画のすぐ下にランクインしていた。
「……お兄ちゃん、これ何? 『膝エロ』って。あと『括約筋』って、昨日トイレそんなに我慢してたの?」
「……違う、それは……いや、事故だ。防犯用ライブの機材トラブルなんだよ!」
慌てて言い訳をする俺の耳に、掲示板の書き込みを読み上げる結菜の声が追い打ちをかける。
「あ、見て。『この王は俺たちと同じ側にいる』とかいう熱い信者まで現れてるわよ。……お兄ちゃん、有名人になったわね。変態的な意味で」
誇らしさと羞恥心。
5分間の伝説と、5分間の絶望。
それらが綯い交ぜになったまま、成瀬奏の「サビ」は、予想もしなかったリズムで幕を開けた。
▲△▲
リビングへ降りると、そこにはスマホを食い入るように見つめる父さんと、お玉を持ったまま石像のように固まっている母さんがいた。
「……奏。これ、本当にお前が変身してるのか?」
父さんが震える指で動画の『トウ・スタンド』の瞬間を指差した。
「ああ。一週間くらい頑張っていたレベルが上がって変身の持続時間が一気に伸びたんだ」
「お父さんの職場の連中がな……朝からこの動画の話でもちきりなんだ。『新宿にヤバい超越者が現れた』『この黒いジャケットの人物は失われた文明の王じゃないか』ってな。まさかそれが、昨日まで鼻息フンスフンス言わせてた自分の息子だとは言えなくて……」
父さんの顔は、困惑と、ほんの少しの誇らしさが混ざり合った複雑な表情だ。
一方で、母さんは極めて現実的な「不安」を口にした。
「奏、これ……この『王様』に変身してる時って、ご飯とか食べるの? お母さん、肉じゃが多めに作っておいたほうがいいかしら?」
「いや、母さん。変身はダンジョンに行ってするからだから大丈夫だよ……」
そして、最も激しく動揺しているのは、さっきまで「バグ映像」と切って捨てていた結菜だ。
「ちょっと、お兄ちゃん。さっきからラインが止まらないんだけど! 学校の友達から『あんたのお兄さん、もしかしてこれ投稿した【成瀬奏】なの!?』って。まえにキモいから転校するって言ったの、取り消していい?」
「調子いいな、お前」
「だって! 見てよこのコメント! 『この優雅なステップこそが、真の魔導の極致だ』だって! 私、昨日までお兄ちゃんの配信を馬鹿にしちゃったじゃない!? お詫びにゴリゴリくんを買ってくれば許してくれる!?」
家族の、このあまりにも「現代日本らしい」手のひらの返しっぷりに、俺の中の五十代の魂が苦笑した。
だが、その騒ぎの中でスマホの画面をスクロールしていた俺は、ある重大な事実に気づいて指を止めた。
「……説明、してねーな。俺」
あらためて自分の投稿した動画の概要欄を見る。
そこには一言、『鼻息消しました』。それしか書かれていなかった。
スキルの名前も、変身した姿の正体も、なぜゴブリンが踊りながら爆発したのかも、何一つ解説していない。おっさんの悪い癖だ。自分が知っていることは、他人も当然知っていると思い込んでしまう。
世界中に「マイ〇ル・ジャ〇ソン」なんて名前を知る奴は一人もいないというのに、俺は『見ればわかるだろ?』という傲慢なスタンスで、伝説の劇毒をノーヒントでネットの海に放流してしまったのだ。
「お兄ちゃん? 急に黙ってどうしたの? 怖いんだけど」
「いや……なんでもない。ただ、ちょっと『不親切』すぎたかと思ってな」
世間では、この「黒いジャケットの男」が、投稿者である俺自身が変身した姿だとはまだ誰も気づいていない。
画面の向こうでは、何万もの人々が「この男は、古代の破壊神か?」「いや、召喚された失われた舞闘魔術の継承者だ」と、的外れな、しかし熱狂的な議論を戦わせている。
「……まあ、いいか。語りすぎるのは野暮だしな」
俺は味噌汁を啜り、スマホをポケットに突っ込んだ。
正体不明、解説不能。だからこそ、伝説はより神秘的に、より強固に人々の心に突き刺さる。……ということに、今だけはしておこう。
自室に戻る間際、ふとスマホが震えた。
また通知の嵐か、と思って画面をスワイプした俺の動きが止まる。
『ギルド【アクア・レジーナ】代表、氷室冴香があなたをフォローしました』
「……っ、ぶふぉ!!」
啜りかけていた味噌汁が変なところに入り、盛大にむせた。
あまりの衝撃に、指先がスマホを落としそうになる。
「ゲホッ、ゴホッ! ……うそだろ、おい」
画面に並ぶ、冷徹なまでの美しさを湛えた彼女のアイコン。
日本のトップ探索者の一人、氷室冴香。効率と理性の化身であり、最もMJから遠い場所にいるはずの「氷の女王」だ。
彼女のフォロワー数は数百万。その彼女が、たった一人のアカウントをフォローした。……それはもはや芸能ニュースどころか、ダンジョン業界を揺るがす地殻変動に等しい。
「お兄ちゃん、汚いなぁ……って、えっ!? ちょっと、氷室冴香にフォローされてるじゃない!? なんで!? お兄ちゃん、あの女王様に弱みでも握られたの!?」
結菜が横から画面を覗き込み、悲鳴のような声を上げた。
無理もない。彼女のフォロー欄は常に「公式」か「トップランカー」で埋め尽くされている。そこに紛れ込む、昨日まで鼻息フンスフンス言わせていたモヤシ男。……誰がどう見てもバグだ。
(……これ、明日から新宿ダンジョンの入り口、記者が張ってたりしないだろうな?)
一気に血の気が引いていく。
攻略法はおろか、中の人の性癖(膝)や内臓事情(括約筋)まで一部に晒してしまった状態で、あんなガチ勢にロックオンされるのは、隠居を夢見るおっさんにとって死刑宣告に近い。
崩れゆく平穏な日々の予感に頭痛を覚えながら、俺は震える指で一通のメッセージを飛ばした。
相手はこの世界で唯一、俺を「鼻息男」時代から知っているあいつだ。
▲△▲▲△▲
「ガハハ! お前マジで何なんだよ! あの動画、奏のスキルだったのかよ!」
数時間後、新宿駅近くの喫茶店。
鉄平は、テーブルが揺れるほどの勢いで身を乗り出してきた。
「久しぶりだな、鉄平。……見てくれたのか」
「見た見た! っていうか、見ない方が難しいぜ。今、どのチャンネルもあの『黒いジャケットの男』の話ばっかりだ。……まあ、お前が自分の膝にうっとりしながら『括約筋』って呟いてるライブの方も、一部じゃ伝説になってるけどな!」
「……っ、それは言うな。死にたくなるから」
俺が顔を覆うと、鉄平はさらに声を上げて笑った。
鉄平はあれから大手のクランには入らず、いくつかの中堅パーティーを転々としながら【重撃】のスキルを磨いていたらしい。日焼けした顔と一回り大きくなった肩幅が、彼が着実に「探索者」として歩んでいることを物語っていた。
「で、奏……これからどうするんだ? あのアクア・レジーナの女王様にまでフォローされてよ。もうソロで槍突いてる場合じゃねえだろ」
「それが、変身し続けるのはMP消費が激しくてな。安定して戦闘をするとなるとMPポーション代で俺の財布はスッカラカンだ。またしばらくは泥臭いソロ活動に戻るつもりだよ。……『括約筋』の件で、ギルドから呼び出しを食らうのが先かもしれないしな」
俺が自虐気味に言うと、鉄平はニカッと笑って自分の大きな拳を突き出してきた。
「だったらよ奏。次は俺も連れてけ。お前のその『王様』はヘイトを集める力は半端ねえだろ? モンスターが見惚れてる隙に俺が【重撃】でブチ抜く。これならお前の変身時間も短縮できるし、ポーション代も浮く。お前の腹の具合も俺が盾で隠してやるよ」
「……鉄平」
おっさんの魂が不覚にも少しだけ熱くなった。
世間が「古代の神」だの「未知の変質者」だのと騒ぐ中、こいつだけは相変わらず、俺を放っておけない幼馴染として見てくれている。
「……いいな。二人なら、もっと深いところまで最高のステージを届けられるかもしれない」
「おう! 難しいことはわかんねえが、俺の『ラグビー魂』で、お前のその『芸術』とやらを守ってやるぜ!」
俺たちは笑い合い、拳を合わせた。鉄平との合流。それは、俺が一人で背負うには重すぎた「伝説」を、この世界の現実に繋ぎ止めてくれる唯一の錨だった。
鉄平と別れ、夕暮れの街を歩く。
俺のバッグの中には、まだ数本の空ポーション瓶が転がっている。
世界が俺《MJ》に注目し、親友が隣を歩いてくれる。
次はどんな曲で、この退屈な世界を驚かせてやろうか。
俺は一歩、軽くアスファルトの上でステップを踏む。
頭の中ではすでに、次の名曲――『Bad』の重厚なベースラインが鳴り始めていた。




