第七十六話
舞台で例えると、今はまさに起承転結の【転】だろうか。
飢えから人々を遠ざけてくれる【神の愛し子】を巡って、物が人が国が動く。小さな小川が合流し、誰も止められない大河となり、やがて歴史となる。
そして群衆はいつだって英雄を求めていて、劇的な出来事に熱狂する。
私もその他大勢の一人。
これから歴史に残る一幕が起こる。
そこで役を演じることができるなら、何を差し出しても構わない。
ネイリアスは目をすがめた。
「…へえ、エリカを? それは是非方法を聞かせてもらいたいね」
「え~大したことないんですよぉ? …大勢の精鋭を、贅沢に捨て駒覚悟でぶつけただけだもの」
ユンケはこれまでの態度をがらりと変えた。
「エリ姉様ってほんとに化け物じみてるんだもの。姉様一人でどれだけ人員を割いたか…まあでも、それはもういいわ」
ネイリアスを嘲る様に唇を歪めた。
「…ね、ホイップさん。私、裏切ったりしていないわ。もともと、私はあちら側」
しかし次の瞬間にはまたがらりと雰囲気を変え、拗ねたように口をすぼめた。
「でもぉ、あちらの情報だって、ちゃあんと流してあげたでしょ? 感謝されてもいいじゃないですか~」
「そちらで選んで渡された情報になど価値はない」
「ひどぉい」
大げさに嘆いて見せるユンケはいつも通りだ。いつものお菓子屋で給仕をしていた彼女と。けれど、今は…
「…まあ、まんまとディーアちゃんに逃げられて、ユリウス様に邪魔されて右往左往しているあんた達じゃあ、折角の情報も宝の持ち腐れね」
刹那、細い刃がネイリアスを襲った。それを防いでユンケと距離をとる。飛んできた刃はユンケの方角からではない。
「……」
「ああ、弱い弱いと言われていたホイップさんも、やっぱり蔭ですものね」
ユンケもネイリアスから距離を取り、窓際に近づく。月明かりよりも明るい外の街灯がユンケを照らす。
「ごきげんよう」
窓際からユンケが部屋を出ていく。
「…行け」
ユンケも単独行動をしているとは思っていない。そして原則単独行動はしないのはこちらも同じ。ネイリアスの指示を受けた配下が音もなくユンケを追う。
「おっと、お返しだ」
それを阻もうとする先ほど刃を投げてきた何者かを今度は逆に阻んだ。
「おれはね、武芸はからっきしだから…勝つためには手段は選ばない」
ネイリアスは煙のようなものをくゆらせると、途端に相手が苦しみだした。その隙をついて相手の喉を掻っ切った。止めを刺したネイリアスは、しかし最早興味を失ったように頽れたそれに一瞥もしない。代わりに窓辺に目を向け、溜息を吐いた。
「…あぁあ、ソネットが落ち込むな~」
そして、すぐにすっかりいつもの雰囲気を取り戻して苦笑いを浮かべた。
レイディアは相変わらず碌に歩けもせず寝台の住民だった。ただ、近頃はオルテオと過ごす時間が増えたことで、意識のある時間帯が伸び、食事も僅かながらもとれるようになり、周囲は安堵していた。
「琥珀の方様、本日はあいにくのお天気ですねぇ、お庭への散策は難しいでしょう」
侍女の一人が窓の外を眺め残念そうに溜息をついた。ここ数日降ったりやんだり繰り返す空は本日は曇天のようで、王都中を覆い、昼間だというのに薄暗い。
「ですが、夜には晴れると庭師が言っていました。彼らは天気の移りが分かるのですって。不思議ですわね」
「…ええ、そうね」
ゆっくりと暖かい薬湯を啜るレイディアも窓の外を見る。レイディアの心は散策が出来ぬことへの落胆ではなく、別のことに気を取られていた。
バルデロの使者がついにこの国に来たらしい。
それは、つまり…いずれギルベルトも…。
どうしよう彼に見つかる前に、一人で消えたかったのに、今も一国の王城にのうのうと居座っている。オルテオの母親にしたように、テルミアナ王妃がレイディアを王城から追い出してくれることを期待してみたが、周囲の守りが厚く、テルミアナ王妃も多忙の様で今のところレイディアの周囲は良くも悪くも静かだ。
戦はもうたくさん。心が張り裂けそうになるのももう嫌だ。
…だめだ…鈴の音が…考えが纏まらない。
常に鳴り響く鈴の音がレイディアを苛む。ギルベルトの元を離れてどれくらいたっただろう。秋の祭りから、今は春が来るまであと少し…思ったよりも身体が動かなくなる速度が速い。鈴主であるギルベルトに代わり、レイディアを生かしているのはオルテオの母親の願いだ。限界を迎えても、辛うじてレイディアの身体を動かしている。だが、それもいつまでもつのか。
使者は誰だかわからないが…何事もなく帰ってくれれば良いけれど…
どうしたら、いいの…
ローゼは自信を失くしていた。矜持にかけて態度に出しはしないが、内心当てが外れて途方に暮れていた。その様子を侍女のダリアも気遣わし気に見守っているが、今は何の慰めにもならない。
「……」
原因はノックターン国の国王夫妻だ。謁見は無難に終わった。
…終わり、すぎだわ。
元々国王と話すのは随行してきた外交官で、ローゼは拍付けのために横にいただけだったが、国の威信にかけて着飾った自分は、必ずや国王の歓心を買えると自信があった。周囲からも羨望の眼差しを向けられたし、あちらの臣下達の脂下がった顔が隠しきれていなかった。
果たして彼はローゼに一瞥した。目が合い、ふいっとそらされ、終わった。
…それだけ?
勿論、ローゼはバルデロの側妃で、あちらはノックターンの国王だ。男女の仲になることなどないが、やはり人間は好ましい相手には優しくなるものだ。相手の好みを調査し、予め好ましいと思われる者を近づけさせ、親しくさせる。それを利用してできるだけ自国に有利な条件を飲ませるのは常套手段である。ローゼは王の歓心を買うべく目いっぱい美しく着飾った。派手過ぎず、でもはっと目を引くような艶やさをもった自分は間違いなく男性なら誰でも興味位持つはずだと踏んでいた。
なのに…! 一瞥以降は全くこちらを見ようとせず、外交官と歓談していた。
私は間違いなく美しい筈。王の隣に立っても見劣りしないといつだって称賛されている。教養だって、作法だって、優秀だと教師達からも絶賛され、後宮に入る前のローゼは毎日の様に舞い込む縁談に辟易したくらいだ。貴族女性も庶民の女達も、こぞってローゼを手本にしていたし、常に理想の女性である様に心掛けて…
ローゼはかつて矜持が打ち砕かれた過去を否応なく思い出した。
どうしてもギルベルトの妃になりたくて、時間をかけて根回しをして確実に正妃の座に据えようと目論んでいた父をせかしてさっさと入宮した。子を生せば、身分もあるローゼが確実に正妃になれるはずだと説得して。この自分がここまで愛しているのだ。必ずやその思いを返してもらえると思い込んでいた。だが、子も産めず、扱いは夏妃相応だが、それ以上でもそれ以下でもなく、特別愛されているというギルベルト個人から感じることは何もしてもらえなかった。王は淡白な性質なのだと思って自身を慰めていた。これまでは。
王の心には、他に誰かいる…
ローゼは醜い嫉妬心に苛まれた。
ギルベルトに認められたい。愛されたい。自分だけを。だから考えた。ギルベルト王は無能が嫌いだ。ローゼはまず自身が有能であることを示そうと、この外交団の一員に加えてもらいたいとギルベルト王に直談判した。根回しもない突然の申し出に、すげなく却下されることを覚悟していたが、意外にもギルベルトはすんなりと許可を出してくれた。
きっとわたくしに期待してくださっているんだわ。これで期待以上の成果をあげれば…
意気込んでノックターン国王夫妻と相対したが、結果はこれだった。
とはいえ、失態かといえばそうではなく、使者としての役目はきちんと果たしたと言えるが、問題は王妃の方だった。
「ローゼ妃。こちらは西国で栽培されている茶葉で、ノックターンに優先的に輸入されているものなの。きっとバルデロのように遠いお国にはない物かもしれないけど…お口にあうかしら」
「はい、テルミアナ王妃。とても美味しいですわ。それに爽やかな香りですわね。昨年の西国は冷夏で作物も良質な茶葉も不作で、貴重だと伺っています」
「そうだったかしら? そんなことより、こちらはアルフェッラの伝統菓子をノックターンの伝統ある菓子職人が改良したものよ。工芸品の手法を応用しているのですって。まだまだ改良途中だということだけど、わたくしに是非にと献上されてね。折角だから、ローゼ様にもご覧いただこうとお持ちしましたの。美しいでしょう?」
「ええ、菓子とは思えぬ繊細で美しいですわね。最も伝統あるアルフェッラの菓子は広く大陸に広まっていますが、近頃はメネステも非常に優秀な細工をすると評判で…」
「あら、我が国の他にもそんな国があるのね。ああ、それから――…」
何なのよ、この方は…。
謁見の翌日、王妃とローゼの交流する日だ。ローゼはにこやかな顔でもてなしを受けながら心の中で王妃のことを訝しんだ。
女性の代表として王妃と交流するのは当然として、色々王妃の評判や好みを調べてはいた。だが…
オズワルドが若いながらも立派に国を治めていると評判である一方で、テルミアナの評判は散々だった。市井でもいい話は聞かない。同性を嫌い、使用人も彼女付きは長く務まらないとか。自分よりも優秀な女性は特に嫌いだそうで、王侯貴族の女性の中にも親しい友人はいないという。本来は王妃の姉が王妃としてオズワルドと結婚する筈だったとか、さらにその裏にある黒い噂まで。この話は有名らしく、特に苦労することなく入手できた。そして実際に相対してみると、噂は概ね本当だと思っていいだろう。
テルミアナは、ローゼと同じく生まれた時から人も物も最上級のもので囲まれて育ってきた筈だ。それなのにお粗末な話題、ひけらかされる教養、これ見よがしな作法。初対面のはずなのに、ローゼへの敵意を感じる。周囲の補佐もあって王妃としての対面を保ち、無難にローゼをもてなすことはできているのに、いちいちローゼを不愉快にさせるのはローゼを心から歓迎していないからだろうか。
この程度の菓子、バルデロにもいくらでもあるわ。茶葉だって、西国どころか大陸中からバルデロに集まる。いかに自国が優れているかを誇示するのは当たり前だけど…見せびらかすならもっと素晴らしいものを見せるべきよ。
どれも確かに一級品で珍しい物だが、ローゼも見たことくらいある。テルミアナは最初から居丈高にふるまっているために、ローゼは素直にもてなしを受けられない。
相手へする自慢する時は、あくまでさり気なく、控えめに、相手に悟らせてこそ。
ローゼの教師陣の教えだ。テルミアナは彼女達が見たら卒倒する酷さだ。ローゼは何度目かしれぬ溜息を飲み込んだ。
疲れてきたわ…。
ローゼは国の代表としてきている。それも、今一、二を争う大国バルデロの妃だ。側妃とはいえ、実家は公爵家、母は王家から降嫁してきた姫君で、ローゼはギルベルトと従妹の関係である。それなのに、テルミアナは正妃としての己の身分とローゼの側妃の身分を肩書だけを単純に比べ、下に見ている節がある。
いずれ正妃にと目され生まれたときから妃教育を厳しく受けてきたローゼには理解できなかった。
受け流すのが正解であることは頭では分かっていても、己の誇りが許さない。これまで誰にもこのような対応をされたことはなく、誰もが跪いてくることを当然のものとして生きてきたローゼにとっては耐えがたかった。自身が蔑ろにされるのも、故国を軽く見られるのも、お粗末なもてなしを受け続けるのも。
だらだらと続く無益な会話も、好みからずれた茶葉も菓子も、もう充分耐えたわ。
ローゼはダリアにちらりと目配せした。
「ご歓談のところ申し訳ございません」
ダリアが進み出て、深々と礼をした。カチャンという茶器の音がやけに部屋に大きく響いた。テルミアナが持っていた茶器を乱暴に置いた音だ。
「何かしら。バルデロでは使用人風情が高貴な者の邪魔をするなんて知らなかったわ」
ダリアはそっとローゼの耳元に顔を寄せた。ローゼはひとつ頷くとテルミアナに向き直った。
「テルミアナ王妃殿下。素晴らしいおもてなしでございました。こんなに素晴らしいおもてなしをしていただき時間を忘れるほどでしたわ。ですが、これ以上王妃様のお時間をいただくのは申し訳ありません。これにて失礼させていただきたいと存じます」
実際、既に予定していた時間を大幅に超過していた。今退室しても失礼には当たらない。寧ろ、社交辞令でも、客人の貴重な時間を費やしてしまって申し訳ないと言って退室を促すのが通常の対応だ。ローゼもその言葉を期待していた。
「わたくしの許しもなく、退室するなんて無礼ではなくて?」
明らかに気分を害したと分かる顔をしていた。眉を吊り上げ、憎々し気に唇を歪めていた。上に立つ者として表情を極力表に出さないように教育されている筈だが、ひどく奇異に感じる。
「いえ、ですが、約束のお時間も過ぎ、これ以上妃殿下のお時間を…」
「妃殿下!? あなた、今この王妃であるわたくしを正妃以外にも使う呼称を使ったわね?」
「え…ですが」
「もういいわ! 出ていきなさい! このことは陛下にもお伝えいたします!」
「…御前失礼いたします」
「…ふんっ」
テルミアナはローゼが慌てて機嫌を取ることを期待していたのか、一瞬呆気にとられた顔をしたがすぐに顔を背けた。
なんて子供っぽい人…
全て自分の思い通りになるわけない。ローゼがテルミアナの機嫌をとればテルミアナはローゼの非を責め、ローゼの上に立とうとしたことだろう。お茶会でローゼが何らかの失敗をすればそれを理由に責められたのかもしれないが、長時間拘束してもその機会はなく、こうして最後の最後に退出する非礼を言い立てた、ということだろうか。
…ああ、嫌な女だわ。
だが、特に珍しくもなく、寧ろローゼにとっては慣れたものだった。かつて、自国の後宮にも国中の女達が集められていた。王太子時代より、あまりにも女性に興味の薄いギルベルトを気遣って臣下がこぞって娘達を献上したのだ。容姿も実力も身分も実家の権力も中途半端でぱっとしない女達。町一番と評判の美人も、後宮では美しいことは当たり前で、このままではその他大勢に埋もれてしまうことを恐れた女達がお互いの足を引っ張りあった。その争いは後ろ盾の家をも巻き込み、一人また一人と脱落し、ついには命を落とす者もでる始末。
結局残ったのは、実家が有用と認められたローゼをはじめとする数人の女達で、正式に妃として地位を与えられた。勝ち抜いた自負がある故に、矜持の高いローゼはこんな程度の低い女が王妃として君臨していることに理不尽を感じた。
実家が国で一、二を争う権威あるお家柄だということだが、そうでなければ妾にさえ選ばれないに違いない。
この王妃に対してこれ以上良い顔をするのも限界だ。ローゼは意識して美しい所作で礼をして部屋を辞した。
「…王妃殿下におかれましては、お加減が優れないようですわね」
扉の前で控えていた侍女らに目を向け、扇で口元を隠して聞こえるように呟いた。
「お気遣い痛み入ります……お部屋へご案内いたします」
深々と礼をする王妃付きの者達にこれ以上何かを言う気も失せ、そっと溜息を吐いた。
「…ええ」
今後このことが国交に響かないかだけが心配だが、これ以上何かできることもないので客間に戻ることにした。
夕食と入浴を終えたローゼは窓辺に立った。長年磨き上げてきた美貌が映る。頭を占めるのは昼間のこと、そしてテルミアナのこと。初対面のはずなのに敵意のようなものを向けられた。昨日の謁見時から。美しく優れた女性を特に嫌うという噂は本当だということがよく分かった。
それでも、一部とても共感できる部分もあった。それは自分の夫を愛していることだ。そう思えば、褒められることではないけれど、夫に近づく女性に敵意を抱く動機は理解できる。
それに、不愉快な思いはしたものの、抗議して、それでこちらに有利になるかといえばそうでもない。もてなし自体は無難なものだったし、ローゼを多少軽んじるような態度だったとしても直接暴言のようなことは言われていない。そのあたりは流石に弁えているらしい。
時間を超過してこちらを拘束していたのはあちらだが、この程度は抗議するほどではないし、使用人達だって、どことなく自国の王妃に対してもの言いたげな顔をしていたけれど、失態ととられるようなことはしなかった。
明日以降は慎重に、何事もなかったかのように振舞うべきだろう。
国としてはそれでよい、と外交官からも助言を受けた。だが、ローゼは各国の要人の妻達と誼を結び、ローゼ個人として国内外に影響力を持ちたいと考えていた。
…でも、あの王妃は駄目ね。良好な関係を築きたかったけれど、よろしくできそうにないし、よろしくしたくもない。あと数日の滞在期間はこれ以上必要以上に接触することなく無難に過ごそう。
ある程度考えが纏まり少し気の晴れたローゼは、散歩でもしようと思い立ち、扉に向かって腹心の侍女に声をかけた。
「ダリア」
しかし、答えはなかった。
休憩中かしら。
いくら常勤とはいえ、時折、休憩等でローゼの傍を離れる時はある。
「仕方ないわね…」
備え付けのベルを鳴らす。するとノックターン国の侍女が二人やってきた。
「はい、ローゼ妃様。御用でしょうか」
「庭を散策したいの。案内を」
「かしこまりました。庭園はいくつもございますが、どのような庭園をお望みでしょうか」
「そうね…できるだけ華やかな…この季節でも花が華やかに咲いている庭園はないかしら」
「かしこまりました。少々歩かれますが、よろしいでしょうか」
「ちょうど少し歩きたいところだったの。構わないわ」
侍女を先頭にローゼは回廊を歩いた。昼間も歩いたが、暗くなるとまた印象が変わる。バルデロとも違う様式で、アルフェッラと西国の文化が入り混じった独特の様式は、ここが異国であることを強く感じさせる。
侍女の言う通りそれなりに歩いたあと、美しい庭園に着いた。
「…素敵ね」
「光栄です。こちらは最近特に陛下がご熱心に手入れを命じられている庭園にございます」
「まあ、オズワルド陛下が」
オズワルドは精悍な顔つきで粗野ではないが庭園に興味があるようには見えない顔付きを思い浮かべた。意外だ。
「はい、琥珀の方様の為の…」
「こら」
侍女が言いかけ、もう一人の侍女が制する。だがローゼは聞き逃さなかった。
「琥珀の方様とは、最近お城へ上がった王子殿下の乳母ですわね」
「……左様でございます」
「ふぅん」
大方、嫉妬深い王妃に遠慮して乳母という名目で城へ上げた愛妾だろう。どこの国でも珍しくない。寧ろ側妃一人いない方が異常といえる。言いよどむ侍女に興味をなくし、庭を気ままに散策することにした。
お気に入りの愛妾の為の庭園というだけあって、非常に広く美しく整えられていた。冬に咲く花や、春先に咲く種も植えてあり、蕾を見つけて咲くのを楽しみに通えそうな庭園だ。
「愛されているのね…」
城に上げるほどなのだから王に気に入られているのは当然だが、この庭園を見ていると、大事にされているのが嫌でも分かってしまう。
きっとオズワルド王がわたくしに興味を持たなかったのは城に迎えたばかりだという例の乳母の為ね。今が一番可愛い時期だもの。それなら、間が悪かっただけね。
だいたい、城に上げたばかりの頃が一番寵愛深い時期だ。それ以降は徐々に興味が薄れていき、その他大勢の一人になることが多い。妃の位があれば簡単に城から出されたりはしないが、愛妾という立場は寵愛が薄れたらそれで仕舞だ。
琥珀の方様とやらは、いつまでもつのやら。
その前に、例の王妃に追い出される可能性の方が高いかもしれないが。
暫く歩いていると、大きな東屋が見えた。宮殿から直接屋根が繋がっている。真新しいそれは最近造られたようだ。
そこに人影が見えた。
「あれは…」
誰だろう。同じく散策しに来た臣下の誰かだろうか。少し近づき、人の姿が分かると、ローゼは思わず走り出した。
「お前!」
東屋に設置された寝台で庭を眺めていた人物は、ゆっくりと振り返った。
「…どなた?」
「お前、うちの後宮の下女よね。どうしてこんなところに!」
「…ローゼ妃様?」
ずっと探していた。後宮の女主人と噂される【誰か】。その女がきっとギルベルトに想われている女だと。でも、なかなか目ぼしい者はいなかった。シルビアもナディアも違った。
だけど、ナディアが後宮の女主人を気取って騒ぎを起こした件で、ギルベルトの側近のテオドールと面識があった少女を見つけた。よくよく調べてみると、どうしてこれまで気づかなかったのか分からないくらい、ローゼら側妃や王の傍に“いつも”いた。
ローゼの直感が告げる。彼女が、ギルベルトの…
「何故、お前がここに? 説明なさい!」
「……」
レイディアは酷く気だるげにローゼに向き直り、小さく息を吐いた。
ここで働いているようには見えない。一見しただけでわかる、身に着けている夜着は、ローゼだってなかなか手に入れることができない最高級の絹だ。それこそ王妃が昼間に身に着けていた物よりも。
先程の侍女との会話を思い出す。まさか…
「お前が“琥珀の方様“?」
「ローゼ妃様…お声が…人が来てしまいます」
「言い逃れするおつもり?」
この時、ローゼは冷静さを失っていた。声を大きく上げるなど、淑女にあるまじき振舞いだ。
ギルベルトに想われ、今またオズワルドにも取り入っているように見えるレイディアに、どうしても我慢が出来なかった。
足早にレイディアに近づきはっと息を飲んだ。薄暗がりの中にあっても、レイディアの美しい容貌に…そして。
「漆黒の…瞳?」
レイディアははっとして咄嗟に顔を隠したが、ローゼは見逃さなかった。
「お前…いえ、貴女…何者なの?」
レイディアは俯いて答えない。ますますローゼは疑念を抱く。今一歩近づき、レイディアに触れようとした、その時。
「侵入者だ! 捕らえろ!」
突然の乱入に、ローゼは身体を強張らせた。
先程までローゼと少女の二人きりだった東屋に、ぞくぞくと衛兵が雪崩れ込んできた。
ローゼは混乱している間に捕らえられた。
「きゃあ! 無礼者、放しなさい!」
「何者だ。どうやってここに侵入した!」
「わたくしはローゼ! バルデロ国の使者です。ただ散策に庭園を歩いていただけですわ!」
「ここは立入禁止区域だ! ここには何人もの兵が巡回している。誰にも会わずにここまで来られるはずがない」
「そんなはず…」
庭園に出たのは間違いないが、ここが立入禁止区域だなんて知るはずもない。そもそもノックターンの侍女に連れられていたのだ。侍女がそのような場所に連れていくはずが…
「そうよ、侍女よ! そちらの侍女達に連れてこられたのよ。私は付いてきただけだわ」
「侍女だと? その者達はどこにいる?」
「それは…」
あたりを見渡すが、つい先程まで一緒にいたはずの侍女達の姿が見えなかった。
まさか…
ローゼは青ざめた。
「昔々、ある時代のある国に、一人の天才女優がいました。何も持たぬ田舎娘だった彼女は、たゆまぬ努力を積んでついに国一番の劇場で主役に抜擢されました。彼女は努力が実り、実力が認められ、充実した日々は幸せの絶頂にありました。けれど、いつしか、彼女は彼女に群がるハイエナ達に食い物にされ、愛する舞台との狭間で苦しみ、さらには信じていた恋人の裏切りを知り、絶望に打ちひしがれた哀れな彼女は死を選びました…とさ」
ユンケは侍女のお仕着せ姿で王都を見下ろしていた。城の一等高い塔のその屋根の上は王都を一望できる。
「とっても可哀そうで、とってもありきたり。そう思いません?」
後ろを振り返り、暗い奥にいる同じく侍女服の女に話しかける。
「……無駄口を叩くな」
「えぇ~折角一緒にお仕事したんだし、ちょっとはいいじゃないですかぁ。おしゃべり、楽しいでしょ? まあ、貴女達の大事なお姫様だって、おしゃべりにはいつも付き合ってくれましたよ」
「姫などではない、無礼だ。至高なる方であるぞ」
「はいはい」
ユンケはぷらぷらと手を振って、王都の方へ顔を戻した。
女優の死に大衆は大いに悲しんだ。その稀有な才能の消失に。けれど、同時にとても興奮した。滅多に見られぬ悲劇に。
ユンケ達のような後ろ暗い世界に身を置くと珍しくもないが、凡そ平坦な生活を送る大衆には絶好の娯楽となった。
このまま生きていればより素晴らしい演技を見せてくれただろうと。
不遇の身の上でさえなければ、もっと輝けただろうにと。
本当にそうだろうか?
その時の演技は天才的でも、女優だって人間だ。才が揮わなくなり、落ちぶれるのはありふれた話だし、欲におぼれて身持ちを崩すなんて誰にでもあり得る。特に何事もなく彼女が長生きしたとしても、大したものを残さずに消えていったかもしれない。
寧ろ、逆光のなかにあったがために、演技にひたむきに向き合えたのかもしれないし、太く短く人々の記憶に残ったがために、彼女の栄光はその一瞬を切り取られ、永遠に輝くことになったのかもしれない。
世界中の富を手に入れた王が謀反に討たれたり、地べたを這いずっていた貧民が巨万の富を得たり、平和を願う者が戦争に巻き込まれたり、世間知らずのお妃様が、悪者に嵌められて危機に陥ったり。
人は、平坦な物語は興味がない。いつだって、まさか、という展開を求めるのだ。
歓声! 興奮! 躍動!
飢えた民は実際に起こった出来事に歓喜するだろう。嘆き悲しむだろう。驚き、憤り、手に汗握る展開に目が離せなくなるだろう。
劇場ではない、この現実という名の舞台から。
「私の舞台は、私のものよ」