EP3-10 不安
「一海くん……」
「ん?」
チーム練習からの帰り道。遥はなんだか不安そうだった。
「タイムが伸びないときってあった?」
「んー」
思い返してみるが、中一から陸上部に入って、中二の夏に引退しているせいか、俺にはそういう経験がなかった。
「全く伸びないってのは覚えてないな」
「やっぱり凄かったんだね、一海くんって」
「二年ぐらいでやめてるからな。成長期だったし」
「最近、タイムが伸びないの……むしろ遅くなってる」
遥は立ち止まって俯いた。
「どうしたんだよ。そんなこともあるだろ?」
「……うん」
「どうかした?」
「楽しくないの。最近」
「楽しくない?」
「うん。一海くんと一緒にいたいのに……。我慢して練習しても速くならないし、そもそもなんで陸上やってるんだろうって……」
「遥……」
「あなたが走ってるのが好きだった。私はあなたに憧れていたから頑張れたの」
「俺は遥を応援してる。頑張れよ」
「……うん」
「……悪い。なんか説得力ないよな」
「んーん。ありがと」
遥は俺の手を取って歩き始めたが、表情は暗いままだった。
十一月に入って、俺の左足から装具が外された。俺は遥の練習時間に合わせて自分のリハビリを進めていた。
「また走れるかな?」
「どうだろうな」
「一海くんと一緒なら楽しいのに」
「だから、こうしてリハビリも一緒にやってるんだろ」
「……うん」
遥はまだタイムが伸びないことを気にしているようだった。途中で辞めてしまっている俺は、遥にかけられる言葉がないかと探していた。
リハビリの本を買うからと、書店に立ち寄った。俺がスポーツ障害の本を眺めている間、遥は参考書のコーナーに行くと言っていた。
あいつは推薦でどこでも行けるだろうに、受験なんかいらないだろ。ほんとに真面目だな。いや、陸上を辞めるつもりなのか……。
ふと、『選手のためのこころの教科書』という本が目に入った。
手に取って目次ページを見てみると、「第2章 努力しても結果が出ないとき」と書かれていた。ついでに、買ってみるか。なんだか恥ずかしい気がしたので、遥に見られないように買うことにした。俺はスポーツ障害の本とその本を購入してから遥を探した。
家に帰ると、二湖と三葉が食事の準備をしていた。
「ただいま」
「おかえり、寒かった?」
三葉は元気そうだった。俺が視線を送っていると、少し睨まれたが笑って誤魔化した。
「だいぶ寒くなってきたな。鍋?」
「そう、寄せ鍋」
「……初めてかも。鍋」
「……そうだね」
俺と二湖は鍋を食べたことがなかった。離婚して離ればなれになる前も、家族四人で鍋を囲むなど一度もなかった。
「本当に?」
「あぁ……」
初めての鍋は良いものだった。具材を放り込んで蓋をして、それを開けたとき、俺の目は輝いていたかもしれない。
「ほら、一海、器」
言われるまま器を差し出すと、三葉は菜箸とおたまで具材をすくい、手際よく盛り付けていく。そうして俺の前に戻ってきた器には、小さな鍋ができあがっていた。
「うまそう……」
三葉はみんなの器にも、手際よく具材を取り分けると、空になった鍋に新しい具材を放り込んでいた。なるほど。これを食べ終わる頃には次が出来上がってるということか。
「味付けてないから、ぽん酢かけて食べてね」
「そういうもんなの?」
「昆布が入ってるだけ」
「ふーん」
言われた通り、ぽん酢をかけて食べる。
「はぁ……」
なんだこの染みる食べ物は。顔が綻ぶ。
「幸せそうな顔してるわね」
三葉が自慢げな顔でこちらを見ていた。遥も横で微笑んでいる。
「はっ……」
「見直しましたか?」
昆布を入れて、野菜と肉を入れただけで、どうしてこんな偉そうに……。しかし実際、幸せの味がした。二湖の目もキラキラしている。
「冬は毎日これでいいって、みんなが言ってるのはわかった」
「作るのも簡単だしね」
「月曜日の献立が決まったな」
「いや、君たちはまだお鍋の本当に美味しいところを知らないのだ」
三葉はなんだか意味深なことを言っているが、遥はうんうんと頷いている。とりあえず食えというからお鍋を食べ進めた。
「いっぱい食べた?」
「腹いっぱい」
「じゃあ始めましょう。遥さんやる?」
「今日は三葉ちゃんに任せる」
「わかった」
三葉は鍋に直接、ぽん酢を回し入れ始めた。
「へぇ、そこで味付けしちゃうんだ」
遥の知ってるものとは違うようだ。
「少しね、あとお塩も」
少し色が付いた出汁にご飯が入れられた。あー、なるほど。あれだ。
ぐつぐつしてきたら溶き卵を回し入れて、ネギを散らして蓋を閉める。
「少し蒸らして、卵がいい感じになったら完成」
そう言いながら三葉が蓋を取ると、雑炊が出来上がっていた。
「はぁ、いい匂い。三葉ちゃん上手ね」
「一海はお腹いっぱいらしいので私たちで食べましょ」
「おい! まだ食えるって」
「ふふっ」
雑炊は……悪魔的だった。腹いっぱいだったのに、二杯も食べてしまった。ソファーに寝転ぶと、動けなくなった。
「兄さん、お風呂」
二湖がお風呂から出たのは二十三時を回ってからだった。
「あぁ」
めんどくさかったのですぐに頭と身体を洗い終わって、湯船で温まっていた。
「一海くん?」
「んー?」
遥がドアの向こうから声をかけてきた。
「三葉ちゃんの料理……美味しかったね」
「……あぁ」
「いいお嫁さんになるな。とか思ってたでしょ?」
「なに言ってんだよ」
「私……あんな風に作れない」
正直、面倒くさい。せめて風呂が終わってからにしてくれないかな。
「教えてもらえよ。私できないからって」
「嫌よ」
その負けん気があるならスランプなんかならないだろ……。
「ったく……」
俺は湯船から出ると、構わず風呂のドアを開けた。俺の姿を見た遥は顔を真っ赤にしている。
「すぐ行くから部屋で待ってろよ」
遥は何も言わずに小さく頷いて、脱衣場から慌てて出ていった。
俺はすぐに身体を拭いて、ちゃんと服を着てから遥の部屋に向かった。
「入るぞ」
勝手に部屋に入ると遥はベッドで布団にくるまっていた。黙らそうと思ってやりすぎたか? 初めて見たわけでもないのに……。
「遥、寝てんのか?」
「一海くんはいいよね」
「は?」
「いつも自信満々で」
「……そんなことないだろ」
「私は……自信がない」
「なに言って……」
「お母さんに甘えるみたいに、三葉ちゃんに甘えちゃって……なによ」
イラッとした……。でも、何も言い返さなかった。
「私の料理を食べても、あんな幸せそうな顔しないじゃない……」
怒鳴ってしまいそうだった。俺は部屋から出ようとした。
「何か言ってよ!」
「明日になっても言いたいことがあったら聞く。俺に母親がどうこう言うな」
吐き捨てるようにして、部屋から出た。くそっ……。あの女のことを言われたわけじゃないのに……。




