EP2-8 涙
父さんが病院まで迎えに来た。俺は松葉杖をついて歩いていた。
タクシーに乗り込んでからも、しばらく父さんは黙っていた。
「大丈夫か?」
外の景色を見ながら、父さんが口を開いた。
「また手術だ」
「そうか」
「ごめんね、仕事だったんでしょ」
「気にするな」
「……あぁ」
「なぁ、一海」
さっきまで外の景色を眺めていた父さんがこちらを向いた。
「ん?」
「勝ったのか?」
「勝ったよ」
俺はニコッと笑いながら答えた。
「よかったな」
「あぁ」
俺を家の前で下ろすと、父さんはそのままタクシーでどこかに出かけて行った。
俺は一人で玄関を開けて、真っ暗な部屋に入った。
ついさっきまで、みんなの声に囲まれていた。運動会の光景を思い出すと、胸の奥にはまだ楽しさが残っていた。その楽しさが遠いものになって、寂しさだけが残った。
何か飲もう。冷蔵庫を開けるがからっぽだった。俺は水道水を汲むと一気に飲み干して、コップを乱暴に置いた。
その時、家の呼び鈴が鳴った。
「一海くん」
遥だった。
「どうした?」
「どうしたって、心配で」
「あぁ、何も言ってなかったな。ごめん」
「いいの」
「入れよ」
俺は壁に手をついて、足を引きずりながら歩いた。
「一海くん……足、どうなったの?」
「……」
俺は遥になんて言えばいい。
「……大丈夫」
「ねぇ、なんて言われたの?」
「アキレス腱が切れてるって」
「そんな……」
「手術だって」
俺はようやくソファーにたどり着いて、腰を下ろした。
「どうした? 座れよ」
「私が……」
「ん?」
「私が走らせたから……」
「俺が勝手に走ったんだよ」
「無理なトレーニングを……させたから……」
遥は泣き出してしまった。でも俺は遥のところまで行くのも困難だった。ゆっくり立ち上がると遥に声をかけた。
「遥……泣いてもいいけど、こっちで泣いてくれよ」
「……っ……一海くん」
「そっちまで行くの……大変なんだよ」
遥のところまで行こうと思ったが、途中で足が止まった。さっきまで大丈夫だったのに。
遥が泣くからだ。
俺は壁にもたれながら、ゆっくりしゃがみ込んだ。
「一海くん……」
「泣くなよ。俺だって泣きたいんだ」
遥は何も言わず、俺の前でしゃがみ込んだ。そして、そっと俺を抱きしめた。
俺は遥の肩に顔を埋めた。
「もう……一緒に走ってやれないかも」
「……うん」
「俺は、泣いてる彼女のところにも行けない……」
遥の服をぎゅっと掴んだ。
「遥……俺を置いていかないで……」
「一海くん……」
「……一人にしないで」
「……うん」
それから、俺は遥の制服がぐしょぐしょになるまで泣いていた。ずっと掴んでいた服を離すと遥が口を開いた。
「一海くん、泣き止んだ?」
「……ごめん」
「大丈夫」
「俺、子どもみたいで……」
遥は俺の頭を撫でた。
「泣きたい時は、いっぱい泣いたらいいの」
「……遥には、甘えてばかりだ」
そんなことを言いながら遥の胸に頭を預けた。遥に頭を撫でられるのが好きだった。
俺が遥に甘えていると、ガチャと玄関が開いて、父さんが帰ってきてしまった。
「父さん……」
「一海、何時だと思ってる?」
「え? あ、ごめん、もう送っていくから」
「すみません。私……藤原遥です」
「一海と仲良くしてくれてありがとう。今日はもう帰りなさい」
「はい。私一人で帰れます」
「ダメだ。一海も行ってきなさい」
「わかってる。行こう、遥」
「すみません。お邪魔しました」
松葉杖をついて、遥と夜の町を歩いた。
「ごめんね。そんな足なのに」
「気にすんなよ」
「どのぐらいで治るの?」
「手術したら二ヶ月ぐらいで歩けるかもって」
「そっか、長いね」
「あっという間だよ」
その言葉通り、遥と歩く時間はあっという間に過ぎていった。
「じゃあね、明日は休む?」
「明後日が手術だから、一週間ぐらい休むかも」
「わかった。また連絡して」
「あぁ」
遥は手を振りながら家に入っていった。来た道を一人で戻りたくなかったので、俺はフラフラと寄り道してから帰ることにした。
まだ九月だが、夜風は冷たく、気持ちが良かった。
星空を見上げ、この一ヶ月のことを思い出した。楽しかったんだ、俺。遥より速く走りたくて、キツい身体に鞭打って、タイムが伸びるたびに嬉しくなった。
……でも、もう疲れた。もう十分だろ。きっと、みんな許してくれる。
「兄さん」
「え?」
「大丈夫かい?」
「二湖……こんな時間にどうした?」
「さっきひまわりを出たところだよ」
そうか。俺はひまわりの近くまで歩いてきたのか。ボーッとしてたな。
「ケガ……酷いの?」
「まぁ」
「僕が走れなんて言ったから」
「気にすんな」
「でも……」
俺は二湖を捕まえると、頭を少し乱暴に撫でた。
「大丈夫だから」
「……三葉には?」
「俺から話すから余計なこと言うな」
「わかった」
「じゃあ、気をつけてな」
「ねぇ、兄さん。カッコよかったよ」
「あぁ。もう走らねぇからな」
「……うん」
「じゃあな」
胸がぎゅっとなる。走ってほしいと言われないことが寂しいことのように思えた。
「ただいま」
「一海。こっちに来い」
「なに?」
家に帰ると父さんが封筒を渡してきた。
「手術だって言ったろ?」
「あぁ」
「五十万あれば足りるか?」
「……ごめん。わからない。明日聞いてみるよ」
「足りなかったら言え」
「ありがと。父さん」
父さんはそれだけ言うと部屋に戻って行った。
シャワーしなきゃ。砂だらけだ。
頭からシャワーを浴びると、お腹が空いてきた。そういえば昼から何も食べてない。冷蔵庫は空っぽだったし、カップ麺でもあればいいけど……。
左足も痛くなってきた。後で冷やさないと……。
明日、病院に費用のことを聞いて、明後日には入院だから準備して……。
…………。
涙が止まらない。つらいことはずっと避けてきたんだ。
遥に甘えてばかりもいられない。こんな泣いてばかりじゃ捨てられてしまう。
でも今は、許してくれ……。




