16.抑えていた不安が溢れてきたので
宣言通り、篠崎くんは早朝私の部屋までご丁寧に起こしにきた。
「萩村、起きろ! あの怪し過ぎる谷へ行くぞ!!」
ドンドンドン、バン、ドン!!
壊れる。壊れるよ! そんなに扉を叩かなくても起きます。起きますから!!
私はガバッと起き上がり、扉の外にいる篠崎くんへ叫ぶ。
「もーっ! 分かったよ! 今行きます」
女の子の用意は時間がかかる。
しかし、そんなこともうこの犬世界でかまってなんていられない。
私はちゃちゃっと顔を洗って、歯を磨く。
犬用の部屋のためか、洗面台の高さは少し低い。
しかし、私の背も高い訳ではないので問題なく使えた。
「遅い!」
扉の外できらるたんを抱いて待っていた篠崎くんの第一声がこれだった。
かなり不機嫌だ……と思うのだが、きらるたんの毛並みを撫でている篠崎くんの頬は緩みかけている。
今にも怒った顔が崩れそうだ。
「ごめんごめん、それじゃあ行こうか」
いざ、猫世界への扉を探して。
私の心には不安しかなかったが、もうこの際そんなもの忘れてしまった方がいい。
さっさと猫世界から姫を取り戻して、私たちの世界に帰るのだ。
まあ、篠崎くんは現実世界よりも犬世界にいた方が幸せそうではあるが。
* * *
「で、どうするの? これ」
「…………」
「ねぇ、篠崎くん。ちゃんと答えて」
「い、いや……」
口ごもる篠崎くんに、私は盛大な溜息をつく。
「篠崎くん、この状況、いつまで続くの?」
私は目の前に広がる光景を指さして、篠崎くんを軽く睨む。
どこからか情報が漏れたのか、門の外には救世主目当てにわんさかと人だかり……じゃなかった……犬だかりができていた。
そのせいで、せっかく朝早く起きて準備をしたにもかかわらず、屋敷から出られないでいた。
しかも、サインや握手にすべて丁寧に篠崎くんが応えてしまうものだから、そうこうしているうちにどんどん数が増えてしまい、今では50匹をゆうに超えている。
はじめは私も犬好きの篠崎くんなら放置はできないか、仕方ない、と容認していたのだが、いっこうに犬の数が減らないばかりか増えてきているので、さすがに我慢できなくなった。
(私には準備が遅いって怒ってたのに……!)
早起きして、急いで準備した私がバカみたいじゃないか。
こんなことなら、もう少し眠れたし、ゆっくり用意ができた。
そんなイライラもあって、普段なら篠崎くんに対してこんな強気な態度なんてとれないのに、今は完全に立場が逆転していた。
篠崎くんの方にも、少しばかり気まずい思いはあるのだろう。
しかし、犬たちの声援に応えない訳にはいかないのだ。
なぜなら、彼は救世主様だから。
そして、そんなご主人様をきらきらしたまんまるな瞳で見つめるきらるたん。
私が口を出す度に、威嚇するような表情をみせる。
とことん、篠崎くんは犬を愛し、犬に愛されている。
もう知らない。
私は篠崎くんの説得を諦めて、犬集団の間を抜けて外に出る。
「………はぁ。さっさと元の世界に帰りたい」
ゲームやラノベの創作物を見ている時は楽しそうだと思っていた、異世界への転移。
ネタになると面白がっていられたのははじめだけ。
実際自分が経験してみると、全然楽しくない。
幸せそうにしているのは、犬に求められている篠崎くんだけだ。
私はおまけでついて来ただけだから、犬たちには求められていない。
だからこそ、居心地が悪くて仕方ない。
気にしないようにしていたけれど、救世主としてアイドル並みに人気がある篠崎くんを見ていると、抑えていた不安が溢れてくる。
慣れ親しんだ家が懐かしい。
家族はどうしているだろうか。
きっと、私が帰ってこないことを心配している。
今まで寄り道なんてしたことなかったから。
でも、もしかしたら犬世界と人間の世界は時間の経過が違っていて、まだ終業式の日のままかもしれない。
そうだったらいい。家族に変に心配をかけたくない。
(だって、犬の世界に行ってましたなんて誰が信じるのよ……)
心細くなって、私は一人で屋敷を背に遠ざかる。
初めてこの世界に来た時の場所を目指して。
あの場所に、人間世界との出入口があるかもしれない。
姫が帰ってくるのを待たなくても、帰る方法があるかもしれない。
主役である篠崎くんは、救世主として犬世界を救えばいい。
エキストラでしかない私は、元の世界へ帰るのだ。
というか、絶対帰る。帰りたい!!
犬にばかりいい顔をして、私のことなんて眼中にない篠崎くんだけが、この世界で唯一の人間なんて悲しすぎる。
しかも、そんな篠崎くんがむかつくのに嫌いになれない自分が悔しかった。




