7
「隆ィ」
「なんだよ」
移動教室の途中、西川は薄笑いを浮かべながら、隆を呼び止める。
またお得意の嫌がらせをするのだろうと、隆は心を強く持つ。
だが気持ちはわからないではない。ただでさえ受験のストレスでみんな殺気立っている。自分が浪人するかどうかの、瀬戸際にいる。追い詰められている現状から、誰かに苛立ちをぶつけたいのはわかる。
ただ隆だってサンドバックになりたいわけではない。辛いことを進んで受けたくはない。
だから距離を取っているのに、西川はそれを気にすることなく、学校で距離を詰めてくる。
(こいつは人をイジるのが大好きだったけど、なんで俺に対してはこんなに執念深いのだろうか)
シャーデンフロイデや人の不幸は蜜の味とは言うが、西川の隆に対する追い込みは度が過ぎていると隆は思う。
「これどう思う?」
そう言いながら、隆に何かを見せつけてくる。見たくもないが、チラリと隆の視界に入ってしまう。
歌劇の最新号だった。
(わざわざ買ったのか)
西川が自分で読むために、宝塚の雑誌を買うわけがない。ということは、隆に嫌がらせをするためだけに買ったということだ。身銭を切ってまで、隆を貶めたい執念に隆は恐怖すら覚えた。
「いやー、凄いよなー、タカラジェンヌって。女の人なのに、こんな男らしいなんてな」
ニヤニヤと笑っている。
西川の執念が、その笑いに凝縮されている。
こいつは自分に執着している。自分に明確な悪意をもってやっているのだと隆は、恐怖すら覚えた。
「綺麗な女の人なのに。男の俺よりも男らしいよな気持ち悪」
「ああ。そうだな。カッコいいよな」
気持ち悪いという部分には同意はしない。
「そうだよなー。隆さぁ、でもさ不思議なんだけどさ、なんで宝塚受験なんて、タイパ悪いことしてんの?」
「……タイパ?」
「そうだよ。だってさ。男が宝塚なんて、ぜってぇ受かんないだろ? 入学要綱とかに女しか入れないって、書いてあんじゃん。ぜったい落ちるって。無駄にもかかわらず、貴重な受験前の時間を使うんだよ」
「……」
「大学行って、新卒カード使って、いい会社入って、年収上げて、モテる。これが確実にいい人生歩めるぜ?」
それ自体は隆も否定しない。
間違いなく自分は人生で非効率なことをしている。
それは西川に指摘されなくても、自覚している。
「俺はさ。むしろ隆のためを思ってさ。こんな憎まれ口を叩いているんだよ。そこを感謝してもらいたいなー」
そこで一瞬西川は言葉を止めて、歌劇をパラパラとめくりながら、隆を見て。
「まぁ、好きにすればいいけどさ。で、隆が精子をぶっ放したところは、どこなの?」
気持ち悪いニヤケ面で臭い息を絡ませながら、そう隆に言い放った。勝手なことを言ってから、身銭を切った分、その身銭分を回収しようと、隆を追い込もうとしてくる。
「ここ? 俺はまったくチンピクしないけど、ここ?」
隆は一瞬何が起きているかわからなかったが、理解が及んでくると色々な思いが溢れてくる。
何故俺が目標としている俺の大切な、小さい頃からの俺の大好きなものが、ここまで貶められなければならない。
俺はただ目標を見つけて、それに向けて努力をしているだけだ。
西川に何も迷惑をかけていない。
俺は俺であろうとしているだけだ。
それなのに何故こいつは、わざわざ歌劇を買ってまで、隆の夢を汚しに汚してくるのか。
夢に向かって頑張っていると言えば聞こえがいいが、それ程良いものではないと思い知らされている。
自分が絶対に宝塚に入学できる確固たるものなんてもっていないし、制限時間がどんどん少なくなってくるのも知っているし、自分がやっていることが普通とは違うこと、端から見れば道化にすぎないことなんて、とっくの昔にわかっている。
でもそれはあくまで自分の問題だ。放っておけばいいじゃないか。
「隆ー、答えてくれよー。男で宝塚受験しようとする頭がおかしくておかしくて、きっと将来刑務所に入りたくなって殺人事件をする奴の、性癖を知りたいんだよ。同級生ということで、将来インタビューを受ける時のネタを知っておきたいんだよねぇ」
(俺がお前に何したっていうんだよ!)
隆はそう思った瞬間、気がついたときには、西川の胸倉をつかんで、思いっきり壁に叩きつけていた。
何も考えられなくなって、感情だけで行動したのは、隆が生きてきた中で初めての経験だった。
「ぐっ」
襟をねじり上げて、壁に力任せに打ち付けられた西川から苦しそうな音が出る。
「あ、あれー。キレちゃったー。大人げないな隆君。暴力かい? 問題おこすと受験できなくなるよ?」
西川は引きつってはいるが、笑みを浮かべて隆を見ていた。
ここで隆は少し冷静になった。
目だけで、周りを見渡す。
移動教室の最中で助かった。周りにクラスメイトがいない。人に見られることが無い。
「うるせぇ。黙れカス」
つまりは何をしでかしても問題ない。
そう思ったら、もうどうでもよくなった。
周りの協力を得ながら、自分があれだけ努力をして目指していることが、ここまで貶められたのだ。
それにかつて、そんな唾棄すべきことに、かつて隆自身も乗っかってしまった。
村上先生は、生徒を宝塚音楽学校に一人でも入れようと悩ませている。
他の受験生で高校受験と並行して、宝塚音楽学校を迷いながら、それでも諦めきれず目指しているヤツもいる。
円は自分を切り売りしてまで金を稼いで、全てを費やして宝塚受験を目指している。
(その全てにこの男は、汚らしい精子をぶっかけやがった)
隆は黙って済ませる気がなくなった。
「何もかもどうでもよくなることだって、あるんだよ」
その言葉と同時に、隆は右の拳を固く固く握りこむ。
そして顔の位置まであげ、思いっきり振り抜こうとする。
西川の顔が酷く歪む。
「ひっ」
西川の悲鳴を聞いた瞬間、自分の動きが一瞬止まる。
そして頭の中に、隆の母親が隆を励ます光景が浮かんできた。
このままコイツを殴りつけるのは簡単だ。スカッとして、精神上、とってもいいだろう。
ただそれをすることで、どうなってしまう?
西川がこれ幸いに暴力沙汰として、学校に訴えたら?
隆の宝塚受験に、間違いなく影響してくるだろう。
もしかしたら受験すら、出来なくなってしまうかもしれない。
そうなったら、これまで隆の手助けしてくれていた人たちになんて言えばいいのだろう? カッとなったと説明して、自分は納得できるのだろうか?
ましてや隆自身の努力も、無駄になってしまう。
あれだけ周りから辞めろと言われ、馬鹿にされて悔しい思いをし、それでも一生懸命努力した日々が、この行動で全て無駄になってしまうのか。
そして何より、母親が悲しむ。
真剣に自分の将来を考えてくれたのに、それを裏切ることになってしまう。
隆は振りかぶっていた、握りこぶしを下げた。
溢れそうになる怒りを、必死に押しとどめる。
「悪かったな」
小さい声で告げると、隆はその場から去ろうとする。
(もしかしたら円がしている思いは、こういうものなのかもしれない)
そう隆は呟いて、西川が壁に呆然とよりかかる姿を尻目に、さっさと教室へ戻っていった。
夢を追うために、嫌な思いをしている。犠牲にしている何かがある。
「ただいま」
家事を終ったタイミングで、母親が家に帰ってきた。
「いつもありがとうね」
あらかた片付いた家事を見ると、母親はそう言って嬉しそうに笑う。隆もその笑顔を見るために家事をこなしていた。
だがそんな笑顔ではあったが、母親の顔には化粧でごまかせない目の下のクマが浮かんでいた。
疲れているのだろう。最近母親の帰りは遅い。意図的に残業を増やしているように思える。
ある程度貯金があるといっても、隆の宝塚受験のために、予想外の出費は発生してしまう。隆の希望を叶えるために、母親は母親なりに全力を尽くしている。
(自分だけが弱音を吐けるわけがない)
円だけじゃない。自分の母親だってそうだ。子供に巻き込まれる形で苦労している。誰もがみんな辛い思いをしたりしている。隆だけが辛い思いをしているわけではない。愚痴なんて吐けない。こんな問題、自分でなんとかするべきだと隆は思う。
隆も母親と同じように、自分に悩みなどないかのように笑った。
「ご飯一緒に食べようよ」
母親との間の時間だけが、最近の隆が気を休められる時間だった。
お金をかけていないが工夫をこらした食事をしながら、ときおり日常の事などを喋る。母親の話を聞いているだけで楽しい。
母親は自分を優しく包み込んでくれる。学校の連中みたいに馬鹿にしてこない。
そんな隆にとって愛しい食事が終わり、洗い物をしている隆の近くに、母親はスススと、音もなく寄ってきた。
「どうしたの母さん?」
何も言わずに隆の近くに忍び寄ってきたので、何か悪戯されるのかなと、隆は半笑いで話しかける。
こうゆうときは、母親は意地悪というか、かまって欲しいのか、隆のことを急にくすぐったりする。口を押し付けてきて、暖かい息を吹き込んだりしてくる。その度に熱い! と言って抗議するじゃれ合いが、隆にとっては好きだった。
親子というよりも、まるで気を許した友達のようだと隆は思う。
「隆ちゃん」
「なに?」
「……大丈夫?」
隆は洗い物をする手が止まる。
思わず洗い物をする手を止めて振り向くと、母親は笑っている。どこか影があるように隆は見受けられた。
見抜かれているのだろうか? 隆の眉が下がる。
母親は洗い物で濡れた手をいとわず、隆の右手首をつかむとゆっくりと、リビングに連れていく。
「まだ洗い物の途中だから。手が濡れているから」
隆は母親の行動を止めようとするが、その止め方も弱弱しく、母親のするがままに誘導される。
隆をゆっくりと床に座らせると、母親も向かい合って座る。そして、ひざをぽんぽんと叩いた。
隆は躊躇する。母親の意図はわかる。
もう高校生の、もうすぐ成人になる男だ。そんな男が母親に膝枕なんて、かなりのマザコンの使い手じゃないか。
そんな思いに駆られ、隆はまごまごとしている。
ただ思い切り、甘えたいという思いにも駆られていた。
すると母親は、隆の頭に手を置くと、優しく自分のひざに誘導した。
ある意味、強制的ではあるが、もう隆は抵抗はせずに、されるがままだった。
母親の膝に頭を置くと、やさしく隆の頭を撫でてくる。
隆は自分の気持ちが、母親が優しく頭を撫でるたびに、心が落ち着いていくのを感じた。不安が全て無くなったかのような、そんな感覚すら覚える。
「大丈夫大丈夫」
優しい声と、優しい力加減で頭を撫でる。
あんなにあった不安が、母親がひと撫でするたびに、隆からごっそりと消え去っていく。
変な強張りが抜けていき、体中から力が抜けていくようだ。
「子供じゃないんだから」
隆は口では抵抗するが、頭を膝からどかせようとしない。もっと撫でて欲しいとまで思っていた。
だって悩みが嘘のように消えていくから。母親が撫でてくれる手は、まるで魔法の手だった。
しばらく母親はただただ頭を撫でてくれた。そして隆の体から、完全に力が抜けきった時だった。
「隆ちゃんのやっていることは、辛いことだと思うよ」
母親は優しく語りかけてくる。
「だって隆ちゃんがやっていくことは新しいことなんだもの。みんなとやかく言うよ。馬鹿にされたり、中には善意で隆を止めてくる人もいる。それは新しい道を切り開く人にはつきものなのよ」
「何故なら、みんな夢を最初から諦めていったわけじゃないの。どうにかしようと一度は考えて、それで諦めていった。諦めていった人達からしたら、隆ちゃんのやっていることって、羨ましいし、そしてそれ以上に目障りなのよ。自分は諦めたのに、なんでお前は挑んでいるんだって。隆ちゃんが頑張っている姿を見ると、まるで自分が諦めたことが間違いのように思えてきちゃうものなの。隆ちゃんのやっていることは、夢を諦めた人を人知れずに傷つけている。傷つけられた人は反撃をしてくる。だから隆ちゃんは辛い思いをしていると思う」
そこで母親は言葉を一旦止めた後、思いっきり笑う。
「ただ、どんな状況になっても、夢を諦めても、諦めきれなくても、私は隆ちゃんの味方。でもね。これだけは言っておくよ。隆ちゃんのやっていることは、絶対間違ってないよ。私が保証する」
隆の目をしっかりと見て、笑顔で間違っていないと、伝えてくれる。
隆は涙があふれそうになった。
これまで隆は自分が間違っていることをしているとしか、思えなくなってきていた。
最初は絶対に正しいと思っていた。
誰にも迷惑をかけていない。あくまで自分の夢に向かって頑張っている。それのどこが悪いのだと、確信していた。
しかし学校のみんなは、許してくれなかった。先生すら隆を馬鹿にした。
大学受験をしないことは悪だと、それはお前の人生には役に立たないと言われる。学校の先生にも進路指導で、笑われたりする。
だからいつしか、自分のやっていることに迷いが生じていた。
自分はおかしなことをしているのではないだろうか? その思いから逃げることが出来なかったのだ。
「だからね。体を壊さない程度でいいから、隆ちゃんは自信をもって、隆ちゃんがやりたいことをやりな? もし間違ってたなら、一緒にやり直そう」
でも母親は自分がやっていることを認めてくれた。
隆がやっていることは間違いではないと言ってくれた。
もし失敗したら、一緒に立ち直っていこうと言ってくれた。
その言葉は、隆を一番勇気づける言葉だった。
「ありがとう。母さん」
涙が溢れないよう、目をしっかりとつぶる。
(そうだ。俺は間違っていないんだ)
隆は母親に撫でられて、ここ数カ月で、久しぶりに心の穏やかさを感じていた。
自分の目標の実現の為に、我慢をする。
その我慢が自分の実力を高めるためなら、納得できる。
その道を目指すなら、避けては通れない道だからだ。
その思いに至った後、円のことが思い浮かぶ。
円は貴重な時間を使って、金を出してくれる知らないおじさんの気分を上げて、受験に集中できない。
隆にとっては西川のゲスいじりを我慢して、学校生活を円滑に回す。
そんなくだらない、本来なら、しなくてもいい我慢をしている。
円が知らない男に、体を委ねている情景が頭の中に浮かぶ。
そんなことはない。体は売っていないと言っていた。
でももしかしたら。
あんなに誇り高い、気高い美しい少女が、たかだか金の問題で彼女らしく生きることが出来なくなっている。
その境遇を解決できるかもしれない手段を、隆は持っている。
もしかしたら失敗するかもしれない。円の受験を邪魔をすることになるかもしれない。
しかしうまくいけば、円が残りの時間を宝塚受験に充てることが出来る。
それはデカいはずだ。やってみる価値はあるかも。
「うだうだ言わないで試しにやってみるか」
レッスンが始まる前に、村上先生に円のことを相談してみると、母親に撫でられながら、隆は決めた。
授業が終わり、隆が自主練をしている時だった。
「ちょっと面を貸しなさい」
先ほど先生に呼び出された円が、物凄く冷たい顔をして、隆を睨みつけていた。
美人が怒ると怖いという言葉を、体現したような様子だった。
外に出て、隆と円以外誰もいなくなったところで、円は隆をドン! と、思いっきり壁に押し付けてきた。もしかしたら隆が西川にやった時よりも、勢いがあったかもしれないと、隆が思うくらいの勢いだった。
「円らしいな」
「あ?」
「いや、なんでもないです」
円のあまりにもな迫力に、軽かった隆の声のトーンが小さくなった。
「アンタ、何してくれてんのよ」
「え、何が」
隆は円に目を合わせずに、横を向いたままだった。
「さっき先生に呼び出された後、こう言われたわ。月謝と会費について、一旦先生の方で立て替えてくれるって。お金は受験が終わった後で、いつになってもいい、分割でもいいから返してくれればいいって」
戦々恐々としている隆を気にせずに、円は淡々と言葉を発していた。
感情がこもっていないことに、隆は血の気が引くほどの恐怖を感じていた。円が怒っているのがよくわかる。
隆は野生動物に出会ってしまったときと同じような対象方をする。円と決して目を合わせない。目を合わせたら殺られそうだと思ってしまう。
「よかったじゃないか。練習に集中出来るな」
動揺しながら、なおも横を向いて、そう言葉を隆は返す。
知っている。 そうお願いしたのは、自分だから。ただ、あくまで自分は関係ないと、隆は振舞う。
「先生は素直にハイそうですかと言えない私を、一時的に立て替えるからとだけとだけ言って、帰らせようとしたわ。理由とか一切話さずよ」
円はなおも横を向いている隆の顎をぐいっと掴み、隆の視線を無理矢理上に円に合わせに来た。
(顎くいまでさせられている)
円の目の中は、まるでキャンプファイヤーしているくらいに、怒りで燃え盛っている。
「さすが先生。全てお見通しなのだろう」
「勝手なことしてんじゃないって、言ってんのよ!」
円は壁ドンできるくらいの距離で、隆に思いっきり怒りをぶち当ててきた。
あまりの声の大きさに、顎を掴まれながらも、隆は目をギュッとつむって、その場をやり過ごす。
そこで円は隆から体を離して、普通に会話するくらいの距離に戻った。ただ追及の手は緩めない。
「なんで勝手なことするのよ。もしかしたらアタシが迷惑に思うかもしれないでしょ?」
お金が無いのであれば、あるところにお願いすればいい。
隆の行動はそれだけだった。別に難しい解決方法ではない。
しかし問題はどこにお願いするかだ。そもそも理解がある人でなければ、お金は貸してくれない。
現状もっとも理解があるお金持ちは、先生だけだ。
だから隆は先生に相談した。必要とあればパパ活の話もしようと思っていた。しかし先生は内容を深く聞こうとはしなかった。
先生も円の事情を、薄々感づいてはいたのだろう。
あんな宝塚と心中するくらいの勢いの女が、レッスンを理由なく休むわけはない。なので、すぐに隆の相談を受け入れてくれた。
結果的に隆の賭けは成功した。
「あー、もしかして、意に反したか?」
隆は恐る恐るといったように、円を見た。
ただもし、それが円にとってありがた迷惑なら話は別だ。その場合は土下座でもして全力で謝らなければならない。
円は腕を組んで、こちらが震えるくらいの冷たい目で睨みつけている。そして少し時間を置いてから。
「反してないわよ」
そして腕をだらりと下げて、右手の手首を左手で掴んだ後、隆から顔を背けて、目線を逸らし、ぶっきらぼうに呟いた。
「助かるわよ。後回しでも月謝と会費払わないですむなら、あのすみれコード違反なバイトをしなくても大丈夫だわ。ありがたいわよ。性欲まみれのジジイ。それもこちらが未成年であると薄々感づきつつ、法律でしょっ引かれることを承知で、マッチングしてくるクソジジイどもが、いつもお茶でいいわけないじゃない。毎回誘いを躱すの大変だったわ」
段々と円の声が小さくなっていく。
「それにあんなことがあって、もう益々ダメ。怖くて待ち合わせ場所に行こうとすると、足が震えてくるの。今度は逃げられないかもしれないって。だからいよいよレッスンも辞めようと思ってたの。自主練だけで本番に挑もうと思ってた」
隆は自分の体から力が抜けていくのを、安心を共に感じた。
(よかった)
最低限迷惑はかけてないし、むしろ自分がやったことが無駄ではなかったとわかって、安心できる。
安心したら喜びがあふれてくる。自分の行動は間違っていなかった。人を助けることにつながったことに隆は幸福感に満たされた。
「正直、最近練習時間が取れなかった。だからこそレッスンに出られる日は徹底して集中したけど、それでも限度はあるわ。これからアタシは宝塚受験に向けて集中することが出来る。本当にありがとう」
円はしおらしくお礼を言う。だが言い終わった後円はクッと隆を睨みつけ、
「でもアンタの、独りよがりな、またオレ何かやっちゃいました? みたいな格好つけた行動はいただけないわね。せめてアタシに相談してからにしなさいよ。ちなみにアンタ、先生にどこまで喋ったの?」
円は返答次第では許さないとばかりに問い詰める。
「あのバイトのことは言っていない。円が学費とか宿泊費にちょっと苦しんでますって、言っただけ」
それだけで先生は察してくれた。流石にバイトの内容まではわかっていないとは隆は推測している。
「そう。それならいいわ」
円の懸念は解消されたみたいで、矛先を収める。
「あ、別に初めての事じゃないらしいよ」
一つのヤマを越えたと感じたので、隆はもう一つ、円に伝えようとしていたことを続けて話す。
「え?」
「だから円みたいに、お金の相談をされて、立て替えてもらって後払いにした生徒も過去いるらしい」
「あー、そうなんだ」
自分が初めてではないと聞いて、心なしか、円の表情が和らいだように隆は感じた。
「でも村上先生もそこはシビアで、真面目じゃなかったり、見込みがあまりない生徒にはやらないらしいがな」
「え?」
「円は真面目で才能があるからねって、先生は二つ返事で免除するって言ってくれたぞ」
円が目を開いて、驚いたように隆を見た。隆は大まじめに円の目を見ながら続ける。
「過去先生が月謝を免除した人は、漏れなく各組のトップスターになったらしい。何組かまでは教えてくれなかったけど」
宝塚歌劇団では、花組、月組、雪組、星組、宙組、五組の劇団で公演をしている。ちなみに専科というどこの組にも所属していない、一芸に特化した役者集団もある。
専科は別として、各組で男役主役を演じる人をトップスターと呼ぶ。
トップスターになれるのは、当然、一握りのジェンヌだけだ。
「そうなの……」
「そうだよ! よかったな。才能豊かだと先生に認められて。羨ましいったらないよ」
円はさっきの鬼のような形相とは一変、可愛らしいはにかんだ笑みを浮かべていた。隆も自然と顔が緩んでいく。
「つまりだな。円の努力とか、想いとか知っているから、先生も免除してくれたってことだ。月謝の建て替えは誰でも勝ち取れるものじゃあない」
「うん」
「円は、やっぱり凄いな」
隆は緩んだ笑顔に尊敬の念を込めて、円を見た。これまで宝塚に合格していなかったとしても、円の何年間もの努力は先生には認められていたのだ。宝塚に合格するのも大変だが、あの偏屈な先生を認めさすのがどれだけ大変なのかは隆にだってわかる。
「ありがとう」
円も隆を笑顔で見返す。
「甘えてつい、憎まれ口言っちゃうけど、本当はありがたく思っているのよ。隆が行動してくれなかったら、こうはならなかった。そして私は最後の宝塚受験を納得するまで練習して、落ちても諦めがつくくらいの時間を手に入れることが出来た。本当にありがとう。あとごめん。なんか怒っちゃって」
そして眉を顰め、困ったように頬をかく円。
「うん。俺もこうなるとは思わなかった。基本的には円のこれまでの努力があってこその話だから」
円が適当に授業を受けていたら、こんな展開にはならなかっただろう。この結果は、あくまで円が努力をしていたから。円の日頃の想いが勝ち取ったものだ。隆の行動は、あくまできっかけに過ぎないと隆は重々承知している。
「大人に相談すると、意外と解決してくれることあるんだな」
これまでは子供だけの想いで突っ走ってしまったが、大人に頼るという行動してよかったと、隆は満足げに笑った。
「そうね」
円も一緒に笑う。
「でも今後はこういうことがあったら、まず当事者に相談しなさい」
この一言の時は円の笑みは隆と違って、額に青筋が浮かんでいた。
「……はい」
円の笑いが苦笑いになっている中、隆は笑顔を消して、円にしっかりと目線を合わせた。
「あのさ。円」
隆は自分の悩みを円に聞いてもらいたかった。
懺悔を聞いて欲しかった。
「実は俺はまだ宝塚受験することに迷っているんだ」
そう言って、隆は自分の恥を無理矢理に笑った。
円はギョッとしながら、隆を見てきた。
その反応は当然だろうと、隆は受け止める。男なのに受験をしようとこれまで頑張ってきたのに、いまさら何を言うのかと思うだろう。
(円へのエールになればいいが)
これから伝えようとすることは、隆なりに勇気がいる。恥をさらす覚悟が必要となる。くだらないプライドを守るために必死な自分なので、覚悟は余計に必要だ。
自分が小さい人間であることを、隆が小さい人間と思われたくない人達に、告白するから。自分で自分の死刑執行書にサインをするというヤツ。
でもそれでも隆が死刑執行されたとしても、少なくとも宝塚受験については、円には隠し事をしていたくなかった。
「俺、学校では宝塚を目指しているって、……恥ずかしくて隠しているんだ」
円は目を見開いて、こちらを見た。
「俺の周りでは、ほとんどのヤツが大学受験勉強をやっている。俺の学校はまがりなりにも進学校だからさ、受験しない奴は少数派なんだ。同級生は堅実に勉強しているけど、俺だけは男なのに宝塚に入ると、傍から見れば、わけわからないことを言っている。高校の先生は呆れかえっていたよ。馬鹿じゃないかって。俺はそれに反発して、周りのことなんて知ったことかって、腹をくくったつもりだったけど、やっぱりいつも迷うんだ。こんなことをしているのは無駄じゃないかって」
円が泣き顔を忘れて、呆気にとられた顔をしている。そんな顔に隆は苦笑しながら、話を続けた。
「この間さ、友達にニヤニヤ半笑いでお前、宝塚受けるって本当かって言われた。そこで俺、宝塚受験するって言えなかった。日和っちまった」
隆にとっての、何カ月も続く後悔のきっかけを白状した。
「『いや男なのに宝塚受けるわけじゃないだろ!』みたいなことを言った。話の流れで俺はヅカのことをそいつらと一緒に馬鹿にした。前時代的なエンタメだって。時代遅れだって。気持ち悪いなって。学校での立場を守りたくて、自己保身に走った。俺の思いだって、その程度だよ」
隆は下を向いて、自嘲する。
「やっぱりその後、すげぇ罪悪感があった。なんであんなこと言ってしまったのだろうと、時折夢に見る。まるで円、先生を馬鹿にしたみたいな気持ちになった。あんな一生懸命やっているお前らを、嘲笑ったような気がした。男だけど宝塚受験には関係ない! ってあたかも立派なことを言っているけど、俺の想いなんてそんなもんだって言われた気がした。そんな俺が宝塚受験なんてしていいのかって」
そこで隆は顔を上げた。自分なりの結論を円に伝える。
「でもそれでも! ここまで真剣にやってきたから、もしかしたらって気持ちもある。どんなに小さい思いだっていい。宝塚に入りたいなら、それでいいんだ。思いの強さだけが試験項目じゃないだろ。だったら、いいじゃないか。別になんとなーくで受かっちゃいけないなんて、応募要項なんてないだろ?」
過去歴代最短記録でトップスターになったタカラジェンヌ、審査員がよくぞ産んでくれたと絶賛されたタカラジェンヌも、実は宝塚にそこまで思い入れがあったわけではなかった。
学校の先生に進められて、入学したらその才能が開花したというケースもあるのだ。
「あとさ。もし俺が受かったらだけど、円いないと、確実にイジメられるよ。だって男だぜ? 今でもイジメられているのに、もうイジメられるのはいいよ。俺を助けてくれよ。阪急電車が通ったら、一緒に阪急電車に頭下げようぜ。俺、円と一緒に宝塚生活送りたい。ここまで来たんだから、やるだけやってみようよ。円が同級生になってくれたら俺も心強い。俺を助けると思って、一緒に合格してくれよ」
話はこれで終わりと、隆が頬をかきながら、円を見る。
円はポカンとした表情で、隆を見ていた。
沈黙が続き、隆はその間の長さに汗が滴り落ちてくる。
そして次第に円の表情が笑顔に変わっていった。
その表情は、それなりな女性慣れしている隆がハッとするほど、円の涙まじりの綺麗な笑顔だった。雨上がりの青空を、隆は連想した。
この表情は誰が何と言おうと、美しい。そう隆は思えた。
「なんかあたし、益々、宝塚受かりたい気分になっちゃった」
笑ってそう言うと、ふっきれたようにそのまま言葉を続ける。
「思いの深さは隆に負けちゃうかもしれないけど、私だって宝塚の舞台に憧れたもの。隆と一緒に、私、宝塚音楽学校に行きたい」
憑き物が落ちたような、晴れ晴れとした笑顔。
「そうだよ。円。俺と一緒に阪急電車に頭下げまくりだな!」
「今、生徒達、阪急電車に頭下げたりしないけどね」
円は苦笑交じりに、同意してくれる。
(なんだか自分が苦しんでいるのが馬鹿に思えてきた)
みんな悩んでいる。
脇目も振らずに立ち向かっている人間ですら、そうだ。
隆も踏ん切りがついた。
今ならなんでも出来そうな気すらする。
やるならこの時だ。
隆はポケットから、スマホを取り出した。
(ちっちゃい自己保身はやめた)
そして西川の連絡先を表示させた。
しばらくじっと画面を見た後、少し震える指で通話ボタンを押した。
「あ、もしもし。西川、今大丈夫か?」
急に電話をし始める隆を、円が驚いたように見つめる。
唐突に過ぎる。
ただ隆はこの場でケリをつけたかった。
何故なら、この二人が見届けてくれるのなら、自分は格好つけようとする。しっかり自分でケジメをつけざる負えないだろうから。
『は。隆、なんだよ急に。俺なんかに電話するより、受験にもっと時間をとったほうがいいんじゃないか』
若干、西川の声が震えているような気がした。
もしかしたらこの間の、円ばりの壁ドンの影響かもしれない。
隆は少し罪悪感を覚えた。
「あー、そういうのもういいからさ。あと、ごめん俺嘘ついてた。俺、宝塚受けるの本当だよ。お前の彼女の言う通りだからさ。あぁ。男なのに変だよな。それだけ」
『は? なんだよお前。ま』
「あ。お前が付き合ってる女な。実は性病だから、うつされないように気をつけろよ。じゃあな」
まだ西川は喋っていたが、隆は容赦なく電話を切った。
その後、隆は自分とよくつるむ友達たち全員に電話をかけて、自分が専門学校に行くのではなく、宝塚受験をすることを告げていった。
突然自分は宝塚受験をするという内容の電話をしまくる隆に、円は唖然として見ている。
そんな円に対して、隆は笑いかけ、
「これで俺の退路はなくなった。学校では変態扱いだ」
円がわたわたしている姿が印象的だった。
翌日、隆はかろうじて残っている、最後の陽キャ力を発揮させた。
朝礼前のクラスの全員が集まっているみんなの前で、
「みんなに伝えておくことがある! 俺は演技の専門学校に行くと言っていたが、それは嘘! 実は宝塚音楽学校を目指している!」
クラス中でざわめきが起きた。
いやお前、男じゃんという呟きが、そこらかしこから、漏れだしていた。
事実を理解する時間、しばらくするとキモと言う言葉が、そこら中から聞こえてくる。
以前ならその一言に、隆は深く傷ついただろう。
考えてみれば、隆は人に嫌われる経験が少なかった。いつでもそれなりの立ち位置にいた。人に認められる自分に固執していた。
だが嫌われてもかまわないと、隆は腹をくくった。
クラス中で隆の発言が、おすすめリールとなり、拡散され、後ろ指を指されキモ!
と言われる反応にそれほど傷つかなくなっていく。
「恥ずかしかったから、専門学校に行くって言ってた。嘘ついてスマン! でも俺は! 男だけど! 募集要項には、がっつり女子って書いてあるけど! チンチンかくして、股に挟んで、宝塚音楽学校を目指す!」
曲がりなりにもクラスの中心人物からの突然のカミングアウトに、この時はざわついている。そして直ぐに誰からも侮られる学生生活が始まるだろう。
ただ西川が苦虫を潰したような顔をしているのが、隆にとっては少し愉快だった。
(笑いたければ、笑えばいいさ)
円みたいに自分の目標にむかって頑張ることは、決して間違いではないのだから。
この後、一連のカミングアウトのストーリーが、かなりの勢いで拡散される。クラスの中心人物だった隆だったが、学校中での拡散で、ヒエラルキー的に
空前絶後の、『変態』に成り下がることになる。
ただ隆は、笑顔でその立場を受け入れた。




