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7/10

 隆は元々オーバーワーク気味だったのに、輪をかけてガムシャラに練習をするようになる。

 傍から見たら、まるで自分を痛めつけるように練習を自らに課していた。

 授業がある日は、夜12時近くまで練習し、学校では寝むい目をこすり、毎日、日々練習に打ち込んで過ごした。

(円のことを考えると、俺はまだ恵まれている)

 少なくとも、集中して宝塚受験に挑むことが出来る。円は隆と違って、色々なことに注意を払わなければならない。

 それを感謝しながら、レッスンに打ち込んだ。練習は裏切らないし、打ち込んでいる間は悩みを忘れられる。

 体調を崩したら元も子もないだろという周りの意見を一切聞かずに、ガムシャラに練習と声楽、面接対策に力を入れていた。

 隆が打ち込む姿は、まるで自分に罰を与えるようだと、塾の誰かが言っていた。

 それを聞いて、隆自身、納得したものだ。

(こんな自己保身だけの俺が、円に偉そうに説教できるはずがない)

学校でも、劇的に状況が変わるよりも、現状を選んだ。

(自分の自己保身さ加減に、嫌になる)

 まるで、境遇を変えないことを意固地に選んでいるかのよう。

 そしてその選んだ現状だが、受験に近づけば近づくほど、隆は学校での居場所を無くしていった。

 隆はカースト上位のグループにいるが、そのグループでもパッとしないような、いるのかいないかわからない、とりあえずそのグループにいるような、そんな立ち位置に成り下がっていた。

 カースト上位でも、そのグループの中で、弄られるようなことが多くなった。

 体育の授業で、ボールをぶつけられる。

 朝の挨拶に、わざとらしく体当たりされる。

 隆が体重管理の為に、サラダばかり食べていると、

「意識高いねー、女子だねー」

 と周りに聞こえるような大きな声で、笑いながら言われる。

 友達は自動販売機で当たり前のようにジュースを買うが、隆は自分が持ってきた水筒でお茶を飲む。

 それを

「意識高いからプロティン飲んでる? ……いや普通のお茶じゃん!」

 と、ネタみたいに言われる。

 以前は弄られても、面白い返しが出来ていたのだが、それも出来なくなっていた。愛想笑いでお茶を濁し、イジられっぱなしな状況が続く。

 同級生はそういった、それまでの立場の変化に、敏感でもあった。

 隆はカースト上位の人間だけでなく、クラスの色々な人から、侮られるようになっていく。侮れながらも学校に通い、毎日を過ごす。かつてのカッコいい隆なんて、影も形もなかった。

 加えて西川の嫌味が段々、周りにも聞こえるような声量になり、隆の宝塚受験を周囲に匂わせるような感じになってきた。

このままだと、いずれはクラス全員がわかるようになるだろう。

(学校に行きたくないっていうのは、こういうことか)

不登校になるやつの気持ちが、隆にも理解出来た。

これまでの学校生活では、味わったことがない気持ちだった。

学校生活ではいつだって友達にも困らなかったし、勉強も困らなかったし、運動でだって活躍出来た。自然と一目置かれる人間だった。

だから学校に行きたくないなんて、これまで思ったことはなかった。

でもこの状況は、学校に行けば嫌な気持ちにさせられる。西川に精神面で追い詰められる。

朝起きたら吐きそうになった。通学の途中で、視界が真っ白になった。このまま歩けないと思い、道路に蹲った。

それでも足を無理やり動かし、学校まで這いずるように登校した。

学校はちゃんと卒業しなければならない。中卒なんて洒落にならない。母親の努力を無駄にすることになる。宝塚音楽学校だって受験できなくなる。

その思いが、隆を支えていた。

 そして授業が終われば家に帰り、レッスンをし、最低限の勉強をし、料理を作ること、家事に集中する。

 何かに集中する時は、学校でのことや、円のことを忘れていられる。

 そんな時間が、ある意味、隆にとって救いになっていた。



「隆!」

 授業でも精彩に欠く行動が多いことに、隆自身でも気がついていた。

 疲れから来るのかもしれないが、集中力が足りない。それを先生に怒られ、そこで萎縮してしまい、また悪循環に陥っていく。

「隆 アンタ大丈夫?」

 レッスンが終わった後、お互い自主練をしている最中に、円から声をかけられた。円は久しぶりにレッスンに顔を出していた。

「おぉ。大丈夫だよ」

 隆は円に心配をかけないようにと、自然と笑顔を浮かべていた。

「大丈夫って、アンタ……」

「大丈夫だって、練習続けようぜ」

 隆は自分が出来うる完璧な笑顔を見せて、前面の鏡に集中して踊る。

 とにかく集中して動き回って、動きの完成度を上げて、悩みをどこかに追いやりたかった。

 何もしていないと、宝塚受験のこと、これからの人生のこと、学校でのことを思い出してしまい、また気分が落ち込んでしまう。

 円がいなくなってからも、ひたすら隆は練習を続けた。

 疲れで、何も考えられなくなるくらいにしないと、布団に入っても寝れる気がしなかった。

 隆は、自分がやっていることが正しいのか、今更ながらわからなくなっていた。

「隆、もう止めときなさい」

 強い口調に、隆は声をかけられたことに初めて気がついた。

 先生に強めに声をかけられるまで、わからないくらい集中していた。

「あ……」

 時計を見ると、もう十一時。教室に自分が一人しかいない。自転車でこの教室に通っている隆だが、あまり遅すぎると明日に影響してしまう。

「練習もいいけど、オーバーワークはいけないわ」

「はい」

「あんた、練習することによって、ダイエットをしているつもりなのだろうけど、やりすぎはよくないわ。痩せすぎよ。ダイエットをする目的としては、自分の一番スタイルがいい体を見せるのが目的であって、痩せればいいというものではないわ」

「……はい」

 先生は隆を痛ましいものを見るように、視線を向けていた。

 何秒かの沈黙の後、先生は隆と視線を合わせたあと、

「それか、何かあった?」

 悩みを吐き出すことを促してきた。

 その一言に、隆は全てを打ち明けてしまいそうになる。

 でも言えなかった。言えるわけがないと隆は思ってしまった。隆は吐き出してしまいそうになるものを、なんとか堪えた。

 抜け抜けと言えるだろうか?

 自分がやりたいといったことなのに、今更本当によかったのかと迷っているなんて。ましてや大見得をきった相手である。

 教室のみんなが頑張っているのに、その頑張っていることが恥ずかしいと思っていて、大学受験をやって方がいいかなんて思っているなんて、口が裂けても言えない。

円の顔も思い浮かぶ。

「いえ。大丈夫です。心配かけてすいません」

 隆はなんとか笑顔を浮かべて、先生の助けようとしてくれた手を、ゆっくりと拒絶した。

「そう……」

 先生はそれ以上、追及はしようとしなかった。

「まぁ、月謝貰ってるから。何か困った時には相談くらいしろ。それくらいは助力してやるから」

 先生は困ったような笑顔を浮かべて、相談の糸口を残してくれた。それだけでも隆にはありがたかった。

「ありがとうございます」

 隆は頭をペコリと下げた。

 そう言ってくれるだけ、少し気持ちが楽になる。

「ただ。厳しいようなことを言うけど、これは覚えておいてくれ」

 そこで先生は表情を無にして、笑顔を消した。

「もし辞めたくなったら、早めに言って頂戴。アンタの行動次第で、来年アタシの教室は閉めるかもしれないわ」

 先生の言葉に、隆の全身の血が冷たくなったような、そんな感覚に見舞われる。

「わかりました」

 隆はそう言って一礼して、その場を足早に去った。

(先生はなんとなく察しているのかもしれない)

 だからこそ、注意をしたくなってしまう気持ちは、隆にも理解出来た。それに最後の一言、自分の行動には、それだけの影響があるのだと再認識させられた。

 この教室に入塾する前に言われたことは、例えとか冗談ではなく、まぎれもない事実であった。

 先生は自分のせいで、この教室を閉めるかもしれない選択を選んでいる。

 何事にも覚悟を決めないといけない。自分は甘い考えだったと、隆は再認識した。

 ふらふらと隆が自転車に跨ろうとしたその時だった。

「話は終わったの?」

 闇夜の中、急に声をかけられたので、ギョッとして見ると、そこには円が立っていた。

 久しぶりに円に話しかけられた気がする。

(こいつ、待ってたのか)

自分のことで手一杯のはずの円に、余計な心配をさせてしまった。隆は自分の迂闊さに自己嫌悪した。

「何ボーっと、突っ立てるの」

 隆は円に再度話しかけられるまで、黙って円を見つめ続けてしまった。

色々な出来事が立て続けに起きて、何を喋ったらいいか、わからなくなってしまったからだ。

 そして場違いだが、薄明るい照明に照らされた少女は儚げで美しく、隆は感じた。

「円か……。すまん。待っていてくれたんだな。こんな遅くまで」

 スマホの時計を見ると、もう十二時近くになっていた。

「今日は送っていく」

「へ?」

「俺の腕っぷしだと撃退はできないけど、逃げる時間くらいは稼いでみせるよ」

「おぉ……。急にどうした? フェミか?」

「うるせ。いいから送らせろ」

 後ろに円を乗せて、隆は慎重に自転車を運転した。

 万が一にでも転んで、受験に影響をするような怪我を円にさせたら、隆は一生後悔すると思ったからだ。

 この時期、宝塚の受験生は徹底して体調管理に努める。

 普通の受験生もやっていることだが、宝塚の受験生の体調管理は、空恐ろしいものがある。

 何故なら例え二、三日の休みだが、その遅れを取り戻すのに、かなり時間がかかるからだ。風邪なんて引いている暇はない。

(それくらい影響してしまうのに、円は)

 あらためて隆は円の境遇を思って、歯を食いしばっていた。

「隆はさ、最近何かあったの?」 

「あー、うん。まぁ、あった」

 誤魔化すのも限界があるなと隆は思ったので、悩みがあることだけ伝える。

「やっぱり。何?」

「いや自分の中でまだ消化できてないんだ。何かあったら相談するよ」

 ただ内容は言えなかった。言えるはずがない。

「ふーん。そう」

「でもありがとう。聞いてくれて、それだけでも俺にとっては有難い」

「当り前よ。この借り、ちゃんと返しなさいよ」

 久しぶりにこうやって会話出来るのだから、本当は円の状況を隆は聞きたかった。

 好奇心ではなく心配で。でも隆は二の足を踏んだ。聞いたら後戻りが出来ないような気がしたから。

(こんなところでもわが身可愛いか、俺は)

 そんな会話をしているうちに、あっという間に円の自宅についた。

 どこか頼りない街燈に照らされた集合住宅。

「じゃあな」

「ありがとう。お礼は言ったからね」

 いちいち気が強いなと、苦笑をしながらその背中を見送る。

 円はそのまま自分の家に向かうかなと思いきや、立ち止まり、隆の方を振り向いた。

「あのね。隆」

「どうした?」

 円の表情は暗闇のせいか、隆には良く見えなかった。

「えーとね」

「うん」

 だが、なかなか話そうとしない。

「やっぱいいや」

 言い淀んで、結局円は何も言わなかった。

「なんだよ。気になるじゃんか」

「何でもない」

「ん? おぉ、わかった」

 何か言いたいことがあるのか思い、促してみるが、円は何も言わなかった。隆は何となく腑に落ちない思いをかかえながら、とりあえず頷く。

「あと、アンタ。あんまり抱えないほうがいいわよ」

「あぁ。何かあったら、円に相談するよ」

 隆がそう返事をすると、円は表情をくしゃくしゃにして笑った。

「じゃあな」

「うん。またレッスンでね」

 円は手を振って隆を見送ってくれた。

 当たり前のことのように思えるが、円のそんなフレンドリーな態度は、隆にはとっても珍しいことに思えた。

 本当はそうではない。

 極論を言えば、隆と円は敵同士だ。

 宝塚は一学年に入学できるのは40名ほど。二人は言ってしまえば、四十くらいしかない席を奪い合う、まぎれもない敵同士。

(こんな中途半端な俺が、本当に宝塚を目指していいのかな)

 自分のやりたいことを、大手をふって言うことが出来ない。馬鹿にされても何も言い返すことが出来ない。あんなに大口を叩いたのに、行動では何もできていない。

 そんな奴が身を切って、頑張っている円を押してのけて受験してもよいのだろうか?



 昼休みの時だった。

 次の移動教室に行くために、移動している最中。普段一緒にいるグループの最後尾を歩いている最中、

長い階段の目の前を通った。

 その際、西川が唐突に

「宝塚の真似」

 と、唐突に言い、不自然に笑顔を振りまき、手を振りながら、階段を降り始める。

 宝塚の大階段での劇を大げさに誇張している。弄ってきている。

「急にどうした?」

 と周りが言いながら、拍手をして西川のボケに付き合う。

 西川の左右で、別の奴も踊り始める。

 ムカつくことに、それなりに再現度があった。youtubeか何か、動画を見て、ちょっと練習していたのかもしれない。

 大階段で一人だけライトに当たったときのリアクションも、なんだか再現していこうとしている。

 けどおおげさ極まりなくて、ファッションショーみたいな、弄ってきている感じがしてきて、隆は若干ではあるが、吐き気すら感じていた。

「お前、キレキレに足とか伸ばしてんじゃないよ」

「今やんなよ。修学旅行まで、取っておけよ」

 ただ隆が腹が立つことに、なんだかんだで友達達の受けがよかった。それが余計に気に入らない。

 こういうボケをした場合、スベッていた時、隆はフンっと鼻で笑える。

 つまんねーんだよ、クソが。と馬鹿にできる。

 しかし、ウけてしまった時が、隆にとって屈辱な時間となる。

 西川は普段自分のボケでそんなウケることがないため、噛みしめるが如く徹底的に何度もそのウケた芸を繰り返してくる。何度も何度も不快な思いをさせられることになる。

 それも腹が立つし、そして西川はチラチラと隆を見てくる。

 その視線はどんなリアクションをしてくるのかな? みたいにこちらを見てくる。

 そして隆が悔しそうにしているのを、嬉しそうに眺めるのだ。

「もう行こうぜ」

 性格が終わっている。

 次の移動教室先まで5分切っているのを言い訳に、たまらず隆は一連の流れを終わらせようとする。

「んだよ。ノリ悪いなー」

 西川は言葉とは裏腹に、満面の笑みだった。

「じゃあ、隆がやってくれたら行くわ」

「は?」

 全員がニヤニヤしながら、こちらを見てくる。

「役者志望ならできんじゃね?」

「もしかしたら専門学校で役に立つかもしれないじゃん」

「やってくれよ」

 全員半笑いで、粘りついた笑顔で隆を見る。

 はっきりと断りたかった。

 いや、断ればいい。やる理由なんてない。

「もう時間ねぇからさ」

 隆はそう言って、腕時計をトントンと指で示して見せた。

「隆がやらねぇなら、俺は次の授業いかねぇ!」

 そう言って、西川が階段に座りだす。

 座ってから隆と視線を合わす。

 ここ最近見たくもないのに、見せられる風呂掃除を放置して発生したピンク色のぬめりにような笑顔。

 周りの人間もそれを見て、ぬめりがしたたり落ちそうな笑顔を浮かべながら、途端にはやしだす。

「隆、遅刻しちゃうよ」

「早くやってくれよ」

「宝塚なんて、どうでもいいだろ」

 こいつらが馬鹿にする舞台に立つために、隆は人生で一番大事な時期をかけて、毎日努力している。

 こいつらとは違って、勉強はしていない。勉強はしていないが、周りの人間が勉強に当てている時間以上に隆は努力しているのだ。

 勉強という形ではないが、隆はそこに全力を傾けている。

 それなのにこいつらは、隆が全力を傾けていることに、隆自身で否定しろと言うのか。

(こいつらをほっぽいて、行けばいいんだ)

 そうは思う、そうは思うのだが。

 隆は階段の上で、震える足を大きく上げて見せた。

 悔しいことに日頃のバレエの練習の成果で、バランス感覚豊かなキレのある足上げだった。

 ドッ。

 笑いを取りたくないが、笑いをとってしまった。

「さすが役者志望!」

「キレがある!」

「腹筋6LDKかーい!」

「最後違うだろ!」

 大うけだった。

 それはそうだろう。再現度がまるで違う。

 受験志望者のモノマネだ。

 隆は砕け散りそうになるくらい、奥歯を噛みしめる。

「もういいだろ。行くぞ」

 隆は疲れたように、移動教室へ我先へと歩きだす。

「いやー、面白かったなぁ。隆の足上げ」

 西川は先ほどの隆の行動を嘲笑うことに全力を出し始める。

 それを隆はうつむいて聞く。

 ついに自らの手で、自分の大切なものを貶めてしまう。

 もう既に西川が周りにばらしているかもしれないことに対して、それでもばれていないと。

 周りの評判が落ちることを恐れて、己の自己保身を図ることは忘れていない醜い自分。

 円と村上先生の顔が、しばらく頭から離れなかった。


 自らの手で宝塚を貶めた日の夜、隆は宝塚音楽学校の願書を書いていた。

 まだ書くには早い。でも隆は願書を先に書いてみたかった。

(いい? あらかじめ願書のコピーとって、下書きを書いておきなさい。そうして自分の書きたいことを纏めとくの)

(間違っても一発書きなんてしたら駄目よ。願書って一つ、二千円もするんだからね。また本番の時は汚くてもいいから、丁寧に書きなさい。丁寧に)

(字の綺麗さなんて、簡単になんとかならないんだから。でも丁寧に書くことは出来るでしょ。とにかく丁寧によ)

 以前ファミレスで円はそんなアドバイスをしてくれていた。

 隆は志望動機の欄以外は、全て書き上げていた。

 そこ以外は書き上げた。隆は筆記用具を片付けだした。なかば自分に言い聞かせるようだなと、心の中では自嘲していた。


 スマホが震えた。ラインかなと、画面を確認すると、一言だけ。

『たすけて』

 それとどこかのリンク先が添付されていた。

(円からだ)

 すぐに隆はリンク先を開いて確認する。

 しょっぱなでは何かわからなかったが、どうやら建物。

 地図を縮小していくと、どう考えてもラブホテルの名前。ことの問題の大きさを悟る。

『すぐいく』

 円が助けを求めている。

 場所はそれほど遠くない。

 隆は部屋着のまま、スマホと財布をもって、自転車に乗った。

 隣町の寂れつつある繁華街まで、自転車を勢いよく漕ぐ。

 楽に稼げる仕事なんて、そうはない。ましてや大人より立場が不安定な子供なら尚更。

 円が金を貰っているのは、元々そこまで褒められた大人ではない。

 お金を払って、女性との何かを求めている人たち。

 もちろん全ての人が悪い人ではないだろうが、ただ基本的に法律的にグレーな部分な金銭的なやり取り。

 言い方が悪いが、ハズレを引く確率も高い。

 スマホのマップアプリが件の場所に到着したころを教えてくれた。

 是非レビューをしてくださいと、お願いしてきているが、後回し。

 ラブホテルの中に入り込み、店内を見る。

 受付がない。非対面で完結する仕組みのようだ。

「よし」

 思わず、独り言がこぼれた。受付とかいたらどうしようと思った。

 ただ何号室だかわからない。

 しかも騒ぎにするわけにはいかない。ここで警察沙汰にでもなったら、円の受験の道が断たれる。

 どうやって円を探すかが、まったくわからない。

 するとまたスマホが震える。

『前会ったカフェまで来て』

「ん?」

 ラブホとはまったく関係ない場所。状況が変わったのかと、隆はとりあえず急ぎで指示されたカフェに向かう。

 カフェについた後、注文もせずに円の姿を探す。

 するとキャップをかぶって俯いた女の子がいる。

 近づくと、レッスンの時とは違って、縮こまって誰も見られないように小さくなった円がいた。

 その姿を見た瞬間、全身の血液が急速に冷やされたような悪寒を感じた。

「大丈夫か?」

 隆が開口一番、挨拶もせずに声をかける。

「なんとかね……」

 小さい声でかろうじてという感じで、円は返事をしてくれた。

 隆は円の向かいに座ると、円は紙コップを自分の口元に運んだ。

 軽く手が震えている。

「何があったんだよ」

 本当は聞きたくない。でもせめて話だけ、隆は聞いてあげたかった。もしかしたら円は誰にも相談できていないかもしれないのだから。

「お茶を飲んだ後、帰ろうとしたのよ。そしたら男2人くらい私をひょいと捕まえてきてね。そのまま車に押し込まれそうになったのよ」

 何かしらの犯罪に被害にあったのだろうと思ったが、まさかそんな事態になっていたとは。

「私、死ぬほど抵抗してね。というか護身用の催涙スプレーをとにかくまき散らして、ひるませたのよ。そしたらそこから逃げ出せたのだけど、今度はさっきのお茶の男が現れて、お腹をぶん殴られて、あのラブホに連れ込まれそうになったの」

 次善の策を考えている。

 円をどうにかするための執念を感じさせる。多分打ち合わせとか、していたのかもしれない。

「私、気絶しそうになりながらも、今度は痴漢対策用の安全ピンを太ももにぶっさしてね。怯んだ隙にフロントにあったトイレに入ったの」

「マジすげぇな」

 そんな軽口叩く場合ではないのだが、決して怯まない円の戦う女ぶりに隆は素直に驚嘆してしまう。

「で、しばらくそのままトイレに籠っていたのだけど、ここまで逃げてきたってわけ」

「そうか」

 つまり、被害は未然に防げたということだ。

 深刻な事態にはなっていないことに、隆は大きく息を吐いて、椅子にドカッと座った。

 以前、円がうまくやれていると言ったことは嘘ではなかった。体から力が抜けていく。そして今更ながらパジャマスエットで外を歩いていることを改めて自覚する。

「ちなみに警察には」

「連絡できるわけないでしょ。というか通報したら、私がパパ活やってることがバれるわ。そうなったら何もかもおしまいよ」

 隆は何も考えずに発言したことを、激しく後悔した。

 通常のバイトとは違って稼げる理由は、アングラであること、円がリスクを負って、働いているからだ。

 そのリスクとは、なまじ違法スレスレのことをしているため、公的機関に相談できないこと。相談できるかもしれないが、バレたら円の本来の目的が達成できなくなる。

 そんな法律も守れない生徒を、宝塚音楽学校が入学させるとは思えない。つまりは円は宝塚音楽学校に入学できなくなる。

「隆、悪いんだけど家まで送ってってくれない?」

 円は珍しく、歯切れが悪いように隆にお願いをしてきた。

「もちろんだ」

 まだ犯人たちがうろついているかもしれない。隆に出来ることはするつもりだった。

「じゃあ、帰ろうか」

 そう言ったが、円は動かない。

「……ごめん。立ち上がれない」

「そうだよな。待ってるから、ゆっくりな」

 隆は浮かせた腰を落とす。どんなに戦う女だとしても、円は18歳の女の子。いくら避けれたとはいえ、自分の間近に迫った恐怖で足がすくんでもしょうがない。

 ちょっと間違ったとしたら、少しでも運が悪かったとしたら、円は取り返しがつかないことになっていた。その事実に恐怖を覚えるのも当然。

 そこからお互い何も喋らず。閉店近くまで店にいて、ようやく円は立ち上がれた。

「ごめん。待たせた」

「そうでもないぞ」

 帰り道もゆっくりとでしか、歩けなかった。

「なぁ円。金は溜まったのか?」

「ううん。まだまだ足りない。最近パパ活ってデフレ化してるのよ」

 円の声量は普段と違って小さかった。

「前は20代で若くて綺麗な女の子と、お金持ちのオジサンが出会う場だったけど、最近は女性は20代だけでなく、独身、専業主婦、シングルマザー、30代から60代までより取り見取り。それに男側も若い、金のない人たちも増えているのよ」

「そっか」

「それだけ競争も激しくなるし、お金を持っている人も減った。以前はお茶するだけで5千円もらえたけど、もうお茶だけだとお金は貰えない。だからお茶飲むだけでお金稼ぐのって、ちょっとしんどいのよね」

「そうか」

 隆はそれしか言えなかった。円に対して、何も解決策を提示してあげられない。そんな状態に益々気落ちしてしまう。

「ごめん。ここまででいいよ。ありがとう」

 それでも円の家の前まで来た。

「玄関まで送るよ」

 寂れた団地の入り口は、心細いライトに照らされて、弱った円を置いて帰ってよいとは思えなかった。

「そう?」

 円も断らない。

(普段ならキモイの一言と共に切り捨てて終わりそうなのに)

 玄関の前まで来た。

「あのさ」

「なんだ?」

「背中撫でてくれない?」

 隆はこの日初めて、目を合わせて会話した気がした。

 円は口角を下げて、口を閉じている。

「おう」

 隆はゆっくりと円の背中を撫でる。

 華奢な背中だった。隆はゆっくりとゆっくりと背中を撫でる。

 円はしばらくそのままだった。下を向いているので表情がわからない。

 ふいに円は額を隆の肩にくっつける。

 隆はそれに何も言わずに受け入れる。背中を撫でるのも止めない。

 ずっと撫で続ける。

「大丈夫……」

 小さな声が聞こえた。

「大丈夫、私は大丈夫……」

 円は小さい声で、つぶやき続ける。

 体感で2、3分時間がたった後、

「ありがとう。もう大丈夫」

 そう言って、円はこちらを見た。目を細め、口角が上がっている。笑顔だった。

「かっこ悪いところ、見せちゃったわね」

「そんなことねーよ。円はよくやってるよ」

「そう? あと、ここまでありがとね。本当に助かった」

 円は玄関のドアに手をかける。

「あのさ! 今度また活動するときは呼んでくれよ。俺、カフェとかで控えているから」

 本当は辞めろと言いたい。でも言えない。言える権利もない。

 ただ隆は何か役に立ちたかった。

「ありがとう。でもいいよ。隆のレッスンの時間奪っちゃう。本当は今日、来てくれただけでも例外だよ」

「でもさ……」

「私もそうだし、隆もそうだけど、与えられた環境で、最善を尽くすしかないのよ」

 円は自分に言い聞かすようにそう言って、笑った。

「じゃあね。またレッスンでね」

 そして円の家の、無機質な団地のドアが閉まった。

 危険で誰にも頼れない。下手すると宝塚受験が出来なくなってしまう環境。けどそこから離れられない。なぜならお金がないから。

(こんな場所に清く、正しく、美しい女性がいるのは相応しくないはずなんだ)



 隆自身迷いが生じている問題、誤魔化して答えるという不誠実なことも出来ない。隆に出来ることは先送りすることだけだった。

 円はあれからレッスンを、休み休み参加している。受験も追い込みに近づいているのに、金銭面の問題でそうなってしまうのだろう。

 しかし、だからこそ参加している日の集中力は凄みすら感じた。追い詰められた手負いの獣を連想するくらいの凄まじさ。

 あんなに才能があるヤツがなぜ自分の思う通りに、目標に打ち込めないのだろう。

(決まっている。金が無いからだ)

 金があっても全て手に入らないなんて、嘘にも程がある。 

 金が無いから、自分の思う通りにいかないことがほとんどだ。

 金があれば、嫌な思いをしなくて済む。

 金があれば、余計なプレッシャーを感じずに、宝塚受験に専念出来ただろう。

 金があれば、円も大切にしているレッスンの時間を削らずに済むはずだ。

 問題が明らかになると、隆の頭にどうしたらこの問題が解決できるのだろうか? と自然に解決方法を考え始める。

(俺が金を貸す? 俺の家だって、金が無い。バイトだって時間の関係上出来ない。カンパは? そんな簡単に集まらないし、あのプライドが高い円がそれを簡単に受け取るわけじゃないし。他の生徒にお願いする? 論外すぎる。他人の家の子にそこまではしてくれない。成功率が低い。仮に成功しても、円は受け取らない)

 金の問題は隆でも完全に解決できたわけではない。自分のことが出来ないのに、どうして円を助けることが出来るのか。

 宝塚受験は一時期、良家の子女しか受けれないと噂された時期があった。

 実際に受験する立場になってわかるが、あながち嘘ではないと思う。

 でも無理だと諦めることに、どうも抵抗がある。

 この間は、考えがまとまったのに、今回は歩けども歩けども、まったくいい方法が思いついてこない。

 いい方法を思いつくことに期待している自分。そんな自分に隆は少し驚いていた。

「ん? 待てよ」

 隆の中で違和感を感じた。

 それは独り言として、声に出てしまうほどの違和感だった。

 これまでは金を用意することだけを考えていた。

 しかし必ずしも金を用意すればいいかと、そういうわけではないのではないのではないか。

(だがそれをやるにしても、色々な問題がある)

 円が潔く認めるだろうか。プライドが高いし。

 それに自分の行動が必ずしもいい結果になるとは限らない。むしろ引っ掻き回して円の受験を台無しにしてしまうかもしれない。

 そうなった時、自分は責任が取れるのだろうか。

(それに俺のやり方は間違いなく、先生に迷惑をかける)

 誰かが割を食ってしまうのは、確かだ。誰もが幸せにはならない。 誰かが重荷を背負う。

 それにそもそも出来るかどうかもわからない。下手に打ち明けると、円にとってマイナスな状況になってしまうかもしれない。

 そう思うと、思いついたとしても行動するのに、隆はすぐに行動に移せなかった。

「勘弁してくれ」

助けてはやりたい。ただ自分のことだけで、学校のことだけで、隆は精一杯だった。

 

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