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 レッスンの初日、隆は村上先生からレッスン代やらなにやら塾の細かい説明を受けていた。

「宝塚の試験って、何やるかは知ってる?」

「知っています。バレエ、ダンス、声楽、面接です」

「で、バレエと声楽の経験は?」

「両方とも五年以上やってました。ただここ一年半くらいは何もやっていません」

 隆は周りには、宝塚を受けるためとは言わずに習っていた。公に言うと、馬鹿にされるし、自分でも受験すると踏ん切りがつかなかったから。

 だから隆は宝塚受験の為と言わないで、バレエと声楽を習っていた。自分にも宝塚受験は出来ないのになんで学んでいるのだろうと思いながら、レッスンに通っていた。

 心のどこかで諦められなかったのだろうなと、隆は推測していた。

「へぇ」

 村上先生は初めて口角を上げた表情を見せた。

「じゃあ、今日はバレエ出来る服は持ってきている?」

「はい」

 レッスンを受けると聞いていたので、バレエシューズや運動できる服装は持ってきていた。

「じゃあ、早速、今日からやっていきましょう」

「はい!」

 隆にとって、初めてのレッスンだったので、自然と力が入った受け答えになる。宝塚への道が始まった気がした。



 村上先生は

「これから一緒にレッスンを受ける隆君。みんな仲良くしてあげて」

 とだけ言って、普通にレッスンをスタートさせた。他の生徒たちも戸惑いながら、とりあえず受け入れている。

 他の説明は……? という気持ちを顔に出している人がほとんど。

(本当に何も言ってくれないんだな)

 男がなんでここにいるとかの説明は、一切無かった。

 一瞬自分で説明した方がいいかと思ったが、だがそんなことは授業には関係ない。言いたいなら、後で言えばいい。隆は自分自身を切り替えるように、気持ちを整えていく。

 隆自身、バレエ歴は長い。

 男だてらにバレエを習っていた。なんとなく宝塚のことが頭から離れなくて、半ば惰性でバレエを習っていた。

 ここ一年のブランクやこれまで受けていたレッスンと細かい違いはあるが、練習はオーソドックスなモノであり、特に違和感なくレッスンについて行けた。

 ただ、コイツ男なのになんでここにいるんだ? という訝しむ視線の方が、隆には辛かった。そんな視線に負けて、しょうもないミスを連発してしまったくらいだ。

 授業が終わった後、隆は自戒を心がける意味でも、自主練習をしていた。

 もう自分は宝塚音楽学校を受験すると決めたのだ。迷う暇があるなら、練習しよう。

 そう隆は自分に言い聞かせながら、バレエバーを使って、今日鏡の前の習った項目を復習していた。

「ねぇ」

 唐突に一緒に授業を受けていた女の子が、隆に話しかけてきた。背の高い女の子で、レッスンでも私が私がと、最前列で踊っていたのが印象的な子だった。

「なんでアナタ、男なのにここでレッスン受けてるの?」

 当然思うであろう質問をしてくる。

(誰もが思うことだよな)

 至極当然な疑問だと思う。ただバレエのレッスンを受けるなら、ここでなくてもいい。男のバレエ生徒は貴重だ。別のところでやれば、歓迎されるだろう。

 ここは宝塚受験専門の場所。この女の子が、そう思うのは当然かもしれない。

「俺も宝塚を受験したいんだ」

 隆は目を合わせずに、鏡で自分の動きを確認しながら返事をした。

「え!?」

 その女の子は大きな声を上げた。

 見ると、元々大きい目を、更に見開いていて、宝塚受験を志すくらいな端整な顔を歪めていた。

「あんた……、男でしょ?」

「そうだよ」

 見ればわかるだろと、隆は言いたかった。

 お前らと違って、股間がこんもりしているの見えるはずだと、セクハラまじりに言ってやりたいとすら思った。

「応募要項知ってるよ……ね?」

「それはそれは読み込んだ。この年なのに眼精疲労起こしそうなほど、相当読み込んだよ俺」

 なんとか男性も受験できるような文言が入っていないか、目を皿にして読んだ。結局時間の無駄だったが。

「へぇー」

 そう言うと、ニヤニヤしながら女の子は去っていく。

 女の子が見えなくなって、しばらくして。

「「「マジでー!?」」」

 という集団での嘲笑が聞こえてくる。大爆笑だった。

 隆は気分が悪くなるのを感じた。正直、これまでチヤホヤされてばっかりだったので、弄られ慣れていない。人に嫌われるのにも慣れていない。

 男が宝塚受験をするなんて聞いたら、誰だって同じリアクションをするだろう。

 隆が逆の立場だったら、思いっきり嘲るだろう。

 それはそうだよなと、思わず諦めのため息が出た。

 隆は見た目が良い分、クラスではどちらかというと、カーストは上だった。弄られるより、弄る方が多い立場だった

(覚悟はしていたが、しんどいなぁ)

 だからこんな状況に慣れていない。

 ただ隆は思う。これから、こういった反応は何度も経験することだろう。自分の事情を話すたびに、こういったやり取りが起きるはずだ。

 それでもかまわないと、自分自身決めた事だと、隆は再度気持ちを引き締める。

 そんなことより、目の前のことに集中しよう。受験は来年の三月。隆には一年も時間がない。時間を無駄には出来ない。

 隆は自主練習に戻っていった。



 他の女生徒からは、プリンス(笑)という、あだ名をつけられていることがわかってしまった。

 バレエレッスンでは、これまで受けていた男だけでのバレエレッスンとは違い、勝手がわからず上手くいかないこともある。隆のせいで、授業を中断させてしまうことがままあった。

 運動神経はいいと思っているので、すぐに修正してレッスンについていくことが出来るが、その度にレッスンを止めてしまう。それが気に入らないと思われ、周りから陰口を言われるようになってしまった。

 迷惑をかけていることは理解している。だから隆は尚更精神的にきつかった。

(アイツらの友達になれば、多少は和らぐのだろうけどな)

 こちらから歩み寄ればいい。そうも思った。

 周りの女性と、ちゃんとコミュニケーションをとれば、少しでも状況は変わったのかもしれない。

 ただそれは隆の意地が許さなかった。

 陰口を言っているヤツとなんで仲良くしなければならないのだと、隆はこれまでの学校生活でのプライドを出してしまい、上手くいかなかった。

 そんな日々が二週間続いた。

「先生。ダイエットって、俺はどうしたらいいと思います?」

 授業が終わった後、自主練だけでなく気になったことは。適時村上先生に質問に行っていた。

 宝塚受験はバレエとダンス、声楽だけ出来ればいいというわけではない。

 ほんの少し前までは、容姿端麗であることが条件だった。

 この時代さすがに明文化はさけたが、かつてはルッキズムであることを隠そうとしないその受験資格だった。しかし実際のところ舞台人としては求められることなので、しょうがないと隆は思う。

 ここで求められる容姿端麗ということは、顔だけでなくスタイルの良さもポイントになってくる。だから受験をするにあたって、ダイエットをして自分の綺麗なスタイルを得る努力をしなければならない。

 隆もそれをやらなければならないかと、ふと思ったのだ。ダイエットは一朝一夕で出来るものではなく、時間がかかったりするはず。

「あんたはどう思う?」

 先生は隆が質問すると、まず逆に問いかけてくることが多かった。

 なので前もって考えたことを言う。

「俺って、身長が百七十で、体重が五十五なんですよ」

 実はこの間の身体検査では、百六十九だった。

「そこまで太っていないし、BMIでは適正体重で、適度に引き締まっているし、このままの体重を維持するようにいこうかなと思っています」

 村上先生は、隆の言うことに頷いた。

「まぁ、概ね私も同じ意見ね。元々私はダイエットにはそれ程力を入れなくてもいいって思っているのよ。今でも後悔しているけど、昔、過度のダイエットをして、それも生理が止まるくらい体ボロボロにして不合格になった子がいたわ。痩せればいいと言うものではないから、気をつけなさい。ただ自己管理出来ていないとわかるような、体型は許さないけど」

 隆は自分が、体重の自己管理出来ていると思っている。宝塚受験をすると決めてから、毎日体重計に乗って、日々のチェックをしていた。

「まぁ、あんたは太らないんじゃない? 油断は許さないけど、今の体型が丁度いいなら、それを維持するように努力しなさい」

「ありがとうございます。わかりました」

「あと、身長を鯖読まないこと」

(バレた。この人凄いな)

 身長の鯖読みがバレた情けなさを感じつつ、見抜いた村上先生を驚愕して見直す。

何人もトップスターを排出した、先生の眼力は伊達じゃない。

「あんた、今日は何時まで自主練していくの?」

「あー、九時くらいまでやろうと思っています」

「終わったら、声かけなさいよ」

 先生は背筋を伸ばして、教員用の部屋へ向かって行った。

 隆は授業が終わった後に、一通り自分でも授業の内容をおさらいして、もう一度復習してから帰宅していた。講義は毎日やっているわけではない。だからこそ忘れないように、講義の後は再度自分の身に叩き込んでいた。

 鏡の前で、今日教わった内容をもう一度やってみる。

 ただ自分が満足するようには、なかなかいかない。

「ねぇアンタ」

急に声をかけられた。

 集中していたので、誰かが近づいてきていることに、隆はまったく気がつかなかった。

(鏡の前に立っているのにな)

 相手の姿がすぐにわかるはずなのに、わからなかった。そこまで自分が熱中できていたのが、隆は嬉しかった。

 ちらりと後ろを振り返ってみると、目の前にいたのは、以前宝塚受験をするかどうかを聞いてきた女の子だった。確か、マドカという名前だったと隆は思い返す。

 円は腕組みをしてこちらを見ていた。

「どうかしたか?」

「なんでまだこの教室に、通っているの?」

 男なのに、と言わんばかりの質問だった。

 全然辞める様子がないから、業を煮やして問い詰めに来たといったところだろうか。

 隆は引き続き鏡で自分の姿を、フォームを確認しながら、円に返事をする。

「宝塚音楽学校を目指しているから」

「男なのに?」

「あぁ、そうだよ。目指すのは自由だろ」

 そこで初めて向き合った。鏡越しから対面となる。

「LGBTQ?」

「違う。普通に男だ」

 文句を言った後、隆は次の言葉を鏡越しに見つめることで促した。

 この女の子は自分に何を言いたいのだろうと、隆はその真意を聞き出そうとする。

「正直、迷惑なんだよね」

 隆はそれに対して何も返事をしなかった。金を払ってレッスンを受けている。村上先生がいいよと言ってくれる間は、レッスンに来ても問題ないはずだ。正確にはまだ受け取って貰っていないが。

「あんたがいるとさ。この教室、女の子ばかりだから男の視線があると集中できないんだよね。実際そういう子もいてさ。ふざけてここにいるんだったら、迷惑かかっているし、もう辞めて欲しいんだよね」

 ただ心の底では隆自身迷惑をかけているという自覚はあった。

 授業は隆という異分子をいれたおかげで、中断されることが多くなった。

 それに女性達だけでしか、出来ないこともあるだろう。異性が入ると気にしなければいけないということもあるだろうと、隆は想像をつける。

「あーすまん。ただ俺もバレエをそれなりに長くやってるから、気にしない。例えば乳首とかは別に気にしねーから、安心してくれ」

 レッスン中レオタードを着ている子が多い。レオタードは当然、体にぴったりとしたものとなる。練習のときはブラジャーをつけない人が多い。

 子供の頃からバレエをしていたり、プロを目指していたりするとカラダの使い方や、ラインを気にすることが多いからだ。

 よって乳首とかの状態がわかってしまう。それでも気にする人はボディファンデーションをする人がいる。

 女性だけの教室だったころは、今まではそういったことは一切気にせずにすんでいたのだろう。それが隆という異分子が入ったことで、状況が変わってしまった。それに気に掛けるのは余計な労力だと言いたいのだろう。

「あんたが気にしなくても、後輩たちが気にすんのよ。マジでおふざけだったら、早く辞めてほしいんだけど」

 隆の顔が曇る。

 隆も異分子の自覚はある。

 ひっかきまわして迷惑をかけているとは思っている。だけど辞めろと言われるのは正直辛い。

「俺もふざけてここにいるんじゃない。真面目に宝塚入学を目指しているんだ。辞めろとか言わないでくれ。なるべく迷惑をかけないようにするからさ」

 いがみ合うようにはなりたくない。隆はその一心で、目の前の女の子にわかってもらおうと、鏡から顔を話して、相手の顔を見て笑ってお願いをする。

「真面目? 真面目に目指しているなら頭がおかしいわ。ここにいる時間使って、病院に行った方がいいんじゃない」

「いや、おかしなことを言っているのは、自覚しているよ。でも俺はそれを承知でここに通っているんだ。そんなことを言わないでくれ。頼むよ」

 隆が熱を帯びさせて、伝えようとすればするほど、目の前の女の子の形相は加速度的に悪くなっていく。

 宝塚を目指そうとするくらいの端正な顔立ちが、今や夜叉のようだった。

「いい? あたしは高三」

 苛立ちをはっきりと隆にぶつけるように、女の子は隆を睨みつけた。

「他にも同じような子が何人かいるわ。宝塚受験は今年が最後なのよ。中学卒業してから高校通いながら、何回も受験してきたのよ。正直何度も辞めようと思ったわ。それでも諦められない。だから努力している。それに今回がラストチャンス。そんなアタシたちの真剣な思いを馬鹿にしているにしか見えないのよ。アンタがやっていること……!」

 どんなに頑張っても、宝塚受験のチャンスは四回しかない。中学三年、高校一年、高校二年、そして最後は高校三年。

「私の家はね。お金がないのよ。正直ここのレッスン代を出すのもしんどいのよ。バイトとかしてんのよ。自分で学費とか稼いでいるのよ!」

 目の前の女の子は高校三年。最後の受験にかける意気込みは相当なものだとは、隆にも伝わってきた。

「別に馬鹿にしてない。そんな風に見えていたなら謝る。俺は真剣だ」

「仮にアンタが、もし、ありえないけど、世の中の風潮に押されて、宝塚に受かったとしたら、入学するための一枠が無くなるのよ」

 隆の弁明など聞かないとばかりに、その少女は切って捨てる。

「宝塚は毎年四十人くらいしか生徒を取らない。必死に努力した連中が集まってなお、倍率二十倍近い競争率なのよ。東大なんて目じゃないのよ。私みたいな高校生活の楽しいことを、全部宝塚受験にぶち込んだ女からしたら、あんたのやっていることって、見てるだけで腹立ってくるのよね……!」

 どんな声をかけても、最早、この段階では分かり合えないだろう。

 そんな風に思ってしまうくらいの気迫だった。隆はもう何も言えなかった。

「ダル。いいわ。せいぜい通ってなさい。隙あらば追い出してやる!」

 何も言わなくなった隆に、もう話は終わりとばかりに言葉を吐き捨て、その女の子は去っていった。

 いなくなってからしばらくした後、隆から深いため息が出た。



 村上先生は、自分の教室をレッスン開始二時間前から、生徒に解放している。

 理由としては、生徒たちが学校の勉強をするための場所を設けているから。

 村上先生は宝塚受験が全て! という生徒をことさら否定はしないが、勉強も同じくらい大切だと説いている。

 もし宝塚音楽学校に入れなかった場合、そういったことを考えて行動できるようでなければ、宝塚に入ったとしても、お芝居を長く続けることは出来ないということらしい。

 なので授業開始前に、生徒たちが勉強できる場を設けている。

 利用する人は一部だが、その一部の生徒には非常に重宝がられていた。

 この日は円を含む、四人の生徒が勉強していた。

 そこに隆は顔を出す。

 教室に緊張感が走ったような気がした。

 ニブい隆にもわかる。現在戦争中の二人が、非常に近い、同じ空間にいるから。

 授業中なら先生という監視の目があるが、この時間はそういった干渉がない。

 他の生徒は基本的にこの問題には関わらないようにしているように、隆には思えた。

 あえて円の向かいに、隆は座る。

 そして素知らぬ顔で、勉強をし始めた。

 受験のことは完全に隆の頭から飛んでいたが、別に勉強をやることは悪いことじゃない。定期テストだってある。なので隆もせっかくなので利用させて貰うことにした。

 円は俺のことをチラリとみると、

「うっとおしいんだけど」

 と言ってきた。

「俺がどこで勉強しようと、俺の勝手だ」

 隆は素っ気なく返事をした。

 そこで会話が終わった。

 翌日から、勉強部屋は隆と円しか使わなくなった。



 そんな日が何日か続いた。

 その日も円の向かいで、隆は勉強をしていた。軽妙にページをめくっていると、円の手が止まっているのがわかった。

 ちらりとのぞき込むと、どうやら躓いている様子だった。

 教科書の同じページを何度も見ている。

 ちなみに隆には答えがわかっている。でも何も言わなかった。

 授業が終わった後、自主練をしていると、誰かの気配を隆は感じた。

 円だった。

「俺はうっとおしいとは言わないぞ」

「うっさい。元々、アンタが来る前から、アタシも自主練してたのよ。学校のテストがあるから、辞めてたの」

 そこで円は隆にもはっきりとわかるくらいの嘲笑を浮かべて、こう言った。

「あとアタシがどこで練習しようと勝手でしょ」



 隆が入塾してしばらくたつと、二人で自習をして、レッスンを受け、二人で自主練する光景が見られるようになる。

 だが決してお互いに交流を持たない。

 他の生徒には、冷戦と例えられているらしい。

 その雰囲気に耐えきれず、レッスン後、生徒達が足早に帰る日々が続く。教室を利用した勉強は隆と円二人のみ。

 隆は自分が原因で他の生徒に迷惑をかけていると自覚していたが、だからと言って自主練を辞めるつもりはない。ただでさえ出遅れているし、不利な条件なのだ。少しでも時間が惜しい。

その日も黙々とお互いに練習をしていたが、唐突に円が隆に話しかけてきた。

「ねぇあんたさ。ピルエット出来る?」

 ピルエットとはバレエの動きの中で、一番メジャーなものといってもいいステップだ。

 バレエの回転するステップの代表的なもので、体を片脚で支え、それを軸に、そのままの位置で駒のように体を回転させる動きのことを言う。

 隆は目をいつもより少し開けながら、円を見た。

 隆と円、お互いのコミュニケーションを避けていた。特に円から全身で嫌いを表現されていた。一言も喋らない一日があったりするくらいなのに、この日は円から隆へ話しかけてきた。

 これから仲良くなれるのかと、一瞬だけ期待をしたが、すぐに冷静な自分が警戒を促す。

「あんまり得意じゃないけど、出来る」

なんとなくだが、この目の前の女が、嫌な空気感を解消するだけに妥協をするようなタマではないと、隆は感じ取っている。

「ふーん。そう」

 円はそう言うと、何気なしに

「じゃあ勝負しない?」

 と、急に勝負の提案をしてきた。

(ほれきた)

「勝負?」

「そう。お互いに何回回れるか、勝負してみるの」

「いや、別にかまわないが」

「負けた方はこの教室を辞める」

「いやいや。待て待て待て!」

 隆は声を少し大きくして、円の提案を止める。

 失敗した時の代償が、お互いにデカすぎる。

 やるかやらないか、隆は一瞬で答えが出た。

「お前が俺を追い出したがっているのはわかるが、そんな踊りの勝負一つで決めるのは違う。答えとしてはやらない」

 隆はそう言って、一切話を聞かないとばかりに、円から注意を外して、自分の練習に集中し始める。

「それに加えて、もしアンタが勝ったら、アンタに抱かれてやってもいいわ」

 宝塚を目指す女の子にあるまじき発言を聞いた気がした。

 隆は思わず振り返って、円を見た。

 そこには、蠱惑的な笑顔を浮かべた女がいた。

「どう? アタシ、宝塚を目指すだけあって、それなりに告白とかされるくらいな女なんだけどな」

 円の、自信ありげな笑み。

 しぶしぶ隆は、円が言うことを心の中で認める。

 円は同年代の中では比較的女性に耐性がある隆でも、ドキッとしてしまうような魅力的な女性である。

 少女でありながら大人へと成長している、未完成なアンバランスな色気がそこにあった。

(大変失礼ではあるが、他の女の子より圧倒的に見た目はいい)

 エロい提案を受けたこともあり、ついつい容姿の面でそんなことを隆は考えた。

「……やらん。あとお前の言動は、すみれコード違反だ」

 認めはするが、だからと言ってホイホイ釣られるつもりはない。

 すみれコードとは、宝塚版の放送コード、禁止用語のようなものだ。

 例えとしてだが、宝塚はかつて「シティハンター」という漫画を舞台にしたことがある。

 シティハンターでは「もっこり」という言葉があるが、劇中では「ハッスル」という言葉に置き換えられていた。表現を宝塚向けに直すさなければならないことを、すみれコード違反と言う。

 隆もそれなりに事情があって、この教室に通っている。

 そんな一時の誘惑で、これまでの苦労を台無しにするような選択は……、選びたいけど、本当に選びたいけど、ギリギリのところで踏みとどまった。

(下半身が絡むと、男は知能指数が下がる。下がるんだ)

 隆は自分はそうはならないと、必死に前頭葉を働かせる。

 芸能人とか、下半身が原因でいつも致命的な傷を負っている。

 それに話が怪しすぎる。

 一般的に、ピルエットは回転数だけ競う場合は、男性の方が有利だ。

 回転する回数は筋力によって大きく変わる。よって自然と男性が有利となる。

 圧倒的とは言わないが、男性の場合、女性以上の回数を当たり前のように回ることが出来る。

不利な勝負をあえて挑んできている。何かを企んでいるしか思えない。十中八九罠だと、隆の理性は警鐘を鳴らしている。

「お前、俺を追い出すためとはいえ、そこまでやらなくてもいいんじゃ、っておい」

 円は隆の返事を聞かずに、ピルエットを踊り出した。

 隆はやるなんて言っていない。

 一回、二回、三回。

 回転は三回で終わった。

 隆から見ても、美しいピルエットだった。

 回転数を重視しない、あくまで型の美しさを追求した、お手本のようなピルエット。

 ただ美しさを追求した結果、当然ながら回転数は少ない。

「見た?」

「あぁ。綺麗に回れたな。凄いと思う。じゃあ、俺は自分の練習を」

「そうじゃないでしょ?」

 再度円は男に媚びるような笑みを浮かべた。

「ピルエット。たった四回を回るだけで、アンタは私を好きに出来るのよ?」

 未熟な少女が浮かべる妖艶な笑み。

「どうする?」

 そのアンバランスな色気に、隆の気持ちが揺れる。

(このやろう……)

 隆は性欲に揺れた自分が嫌になる。

「なめてんじゃねーぞ!」

 隆はそう叫ぶと、その場で思いっきり勢いをつけるために、体をひねった。

 この勘違いクソ女に吠え面かかせてやると、隆は勝負に乗った。

 怒りを込めた勢いで、隆は体に力を込めて初動をこなす。

 結果、完璧。そう隆が直感的に悟るくらいミスはないフォームだった。

 普段とまったく問題なく隆の体は動いた。この教室を追い出されるかもしれないという重圧や、緊張からの手違いなどまったくない。円ほどの優美さはないかもしれないが、それを圧倒的に上回る力強さで美しく回り始める。

 一回転、二回転。まだまだ勢いは止まらない。

 このままいけば、問題なく円の記録を抜くことが出来る。

(十回くらい回ってやるわ!)

 隆は自分の勝ちを確信する。

 だが。

 隆は猛烈な迫る勢いを、足先に感じた。

 なんだ? と思った瞬間、感覚で理解する。

(このお転婆!)

回転する隆の軸足に向かって、円が何かをしかけてきている。

 確認できないが、感覚で恐らくスライディングか何かだろうと隆は当たりをつけた。

 掟破りの、円の強烈な物理的なダイレクトアタック。

 隆もまさか、円が物理攻撃をしかけてくるとは思っていなかった。

(男らしすぎるだろ!)

円の人となりがよく出ていると思う。思わず感心してしまうくらいだった。

 宝塚の男役を目指すなら、これくらいの気概はあって当然。

 認めざるおえないが、しかしこのままだと、円の攻撃によって、隆の回転が中断される。

 このままだと教室を辞めるよう、円に付け入るスキを与えかねない。

「うりゃぁ!」

 辞められないという思いを、隆はなんとか行動で表現する。

 隆は円の足が当たる寸前に、つま先に力を入れ、無理矢理に地面から飛んだ。

 これなら、わずかではあるが軸足が空中にあるため、避けることが出来る。空中なら円の男らしいスライディングも届かない。

 そしてそのまま、空中で回転をする。

 軸足が無い分、回転数は激しく落ちる。しかし怒りに任せた勢いは全て死んだわけではない。空中ではありながら三回。そしてかろうじて四回目、しっかりと回りきる。これで最低限回数では円には勝った。

(汚い手使いやがって。報いだ! 馬鹿野郎)

 円にほえ面かかすこと決定。

 隆が安心感を覚えながら、着地する地面を見る。

 そこには着地地点にスライディングを終わらせた円がいて、呆然と隆を見上げていた。

(やばい!)

 このまま着地をしたら、隆は円を踏み潰してしまう。

 男の体重が、何も配慮をせずにこの勢いで落ちたとしたら、円の柔らかい体は押しつぶされてしまう。場所が悪ければ骨折だって、十分にあり得る。

 骨折などしたら、回復に時間がかかる。円の今後の練習どころか、宝塚受験に差し支える。

 今回の宝塚受験は、円にとっては最後の機会なのだ。

 隆はとっさに体ではなく、あえて姿勢を崩して、円の体にぶつかることなく、腕から着地するようにする。

「つぅ!」

 腕に一時的でも全体重を支えたことによる、鈍い痛みが走る。

 だが最悪の事態は回避することが出来た。

 そこまでの配慮が限界で、隆はそのまま円にもたれこむ。

 もたれこんだせいで、鈍い痛みの後、円の感触が伝わる。

 すぐには動けない。出来ればこのまま、しばらく動きたくない。

 自分が倒れ込んだ柔らかいものを察した後、さっきの妖艶な円の笑みを思い出す。隆は慌てて体を起こした。

(この女で間違っても、勃起なんてしたくない)

 勃起したらタイツなので即わかってしまう。慌てて、円から離れた。

 隆は円から距離を取って、壁にもたれかかると、呼吸が落ち着くまで待つ。

 円は仰向けにぶっ倒れたまま、最初の位置からまったく動く気配がない。

 落ち着いてくると、次第に怒りが隆を包んでいた。

「お前なぁ」

 まず隆が口火を切る。そのまま怒りに任せて怒鳴りつけようと隆は思ったが、そんな元気も湧いてこなく、結果隆は心底疲れたように呟いた。

「俺は四回は回ったぞ。お前は?」

「三回」

 目線を合わせずに、円が不承不承といったように小さく呟く。

「しかもお前、スライディングなんかしてきやがって。いい度胸だよ本当」

「スライディング禁止とは言ってない」

「いやそうだけどさ」

 暗黙の了解というものがあるだろう。と隆は思う。

 隆は再度、疲れたようにため息をつく。

(だが約束は約束だ)

「で、俺が勝ったら、お前は何をするって言ってた?」

「教室を辞める」

「それだけじゃないだろ」

 隆はことさらに嫌な笑顔を浮かべるように心掛けた。

「アタシを好きにしていい……」

 円らしからぬ小さな、聞き取りずらい声量だった。

「そっか」

 隆は立ち上がった。

 立ち上がった隆に、円は若干怯えたように、後ずさりをした。

 隆はこれみよがしに、自分の唇を舐めた。

 それはそれは、生理的嫌悪感を抱くように隆は心がけて、ネッチョリと舐めた。

 隆のその仕草に、円の目元が嫌悪に歪んだ。自分が相手より二十歳は年上の、性欲丸出しのパパ活を想像しながら、唇を舐めたつもりだった。

 そして円の目の前に立ち、

「もう二度と、俺をこの教室から辞めさせようとしないこと。それがお前を好きにして、やることだ。文句ないな?」

 そう言い放った。

「え?」

 円はこちらを何か言いたげに見てくる。

「別にセックスすることだけが、円を好きにしていいことじゃないだろ」

 セックスという言葉に反応したのだろうか、円は少し顔を赤らめていた。

(セックスという言葉で顔を赤らめるような清く正しく美しくなヤツが、自分を景品にするなよ)

 隆は少し苛立たしい気分となった。

 隆が立ち上がったのは、足を含め、自分の体の状態を確かめる為だった。確認し終わると、もう一度床に座った。

 特に異常はなかった。ただ着地の時に、腕を少し痛めたくらいだ。

 円は仰向けから起き上がり、膝を抱えながら、顔を膝に置いている。

 隆は近くにあった自分のリュックから、水筒を取り出して勢いよく飲んだ。あっという間に中身が減っていく。

 隆は、円の視線を感じた。こちらを恨めしそうに見ている。

「飲む?」

 円にも水筒を差し出す。

「いらない」

 円は隆の提案をばっさりと断った。

「普通、ジュースとか奢ってくれない?」

 隆は表情を歪める。

「お前ね。俺にあんなことをしておいて、よくそんなことが言えるな。あとうちは母子家庭なの。貧乏なの。小遣いがないの。ジュース代だって、馬鹿にならないんだよ」

 隆は苛立たしい気持ちを、隠そうとせずに言った。

 きっと円は金銭的なことを気にしない暮らしをしているんだろうなと、やっかみ半分で伝える。宝塚音楽学校を受験するのは、それなりに裕福な家庭が多い。

「母子家庭なの……?」

 隆が母子家庭という言葉に、円は大きい目を更に大きくさせて、隆を見ていた。

「あぁ。だからここの月謝とかも正直キツイぞ」

 まだ払ってない、受け取って貰っていないが、月3万円の月謝は、偽りなどひとかけらもなく、隆家の家計にこれから重くのしかかるはずだ。

「そっか」

「そうだよ」

 隆はそう言うと、更に水筒を傾けて、渇きが収まらないかのように水を飲む。

「アタシの家も同じ」

「へ?」

 隆は水筒を傾けるのを辞め、円を見た。円は顔を上げてどこを見るでもなく、まっすぐと、視線で言うと上の方を見ていた。

「だからさ。アタシも自販機で飲み物とか買わないで、水筒のお茶とかを飲んでる」

「そうか。……一緒だな」

「それが正しいからよ。お金もったいないでしょ」

 独り言のように呟いた円の声。そこからまたしばらく沈黙が続いた。

「アンタはなんで、男なのに、宝塚を目指そうとしているの?」

 円は質問と共に、視線を隆に向けてきた。

「あぁ。やっぱり気になるよな。でもそんな大した話じゃないぞ。どこでも聞くような理由だ」

 男が思わず宝塚を目指してしまいそうになる、ドラマチックなエピソードがあるわけではない。隆は心なしか小さい声で、自信なさげに説明をする。

「子供頃、母親に連れられて劇場に行った。連れてかれた時は、宝塚なんて女の子が行くところだ! みたいに反抗しまくってね。でも実際劇を見に行ったら、どんな男よりも男らしい人たちがいたんだ。遊園地で見る戦隊ヒーローショーよりもな」

 女の人が演じていることは知っていた。でも思ってしまったのだ。自分もこうやって生きれる男になれたら。そう憧れた。

 隆は興奮しつつある自分を落ち着けるように、水筒を飲んで一呼吸置いた。

「魅入られた。いや呪いだな。こうやって男ながらに、綺麗な女の子たちにキモイと言われながらも、大学受験前の貴重な時間を、報われることがないかもしれないことにぶっこんでいるんだから。まぁ、何が言いたいかと言えば、そんな大した理由なんてないよ。ありきたりだろ? 子供の頃に劇を見て、憧れた。だから入りたい。そんな理由だよ」

 隆はもう一度水筒を呷る。もう喉は乾いていないが、全然落ち着いていなかった

「……遺憾ながら、動機は一緒」

 円は若干不満そうに呟いた。

「あ。そうなの?」

「そうよ。私も子供の頃にお母さんに連れられて、宝塚大劇場に行ったの。まぁー、綺麗な世界だったわ。SS席だったから、タカラジェンヌの息遣いから、銀橋を渡る際の微風を感じ、きらびやかな衣装が目の前にあるのよ。それはいけないわよ」

「それはいけないなぁ。あぁ、いけない」

 沼の入り口というヤツだと、隆は思った。

「私、小学生の途中までは関西に住んでいたからね。宝塚大劇場には比較的行きやすかったのよ」

「東京の宝塚って、チケット取りづらいよな」

 宝塚の劇場は、関西だけでなく東京にもある。

 ただ東京劇場は隆の感覚的に、チケットがすぐに売り切れてしまう気がしていた。

 関西にある宝塚大劇場は、いい席はすぐに埋まってしまうのだが、ちょっとグレードが落ちる席に関しては、比較的チケットが取りやすい。ちなみに立ち見もあった。

「宝塚大劇場のフェリエで食べるご飯も美味しかった。あと宝塚のメイクをしてもらって、写真も撮ってもらったのよ。一年に一度、クリスマスと誕生日の合わせ技で、なんとか連れて行ってもらっていたわ」

「いいなー」

 隆も実はメイクをしてもらいたかった。しかし子供ながらのプライドが邪魔して、結局やらなかったのを思い出した。

「憧れが、私もタカラジェンヌになるという思いになったの。だから、アタシが宝塚目指すのも当然なのよ」

「まぁ、わかる」

 円は自分と似通った境遇なので、否応なしにわかってしまった。

 隆も円と同じく、舞台を見て、感動して憧れて、宝塚を志した。

 円の宝塚に入りたいという真摯な思いは、隆と同じものだった。

 円の話が終わった後、また沈黙の時間が、空間を満たす。

「持っている教科書の、48ページの公式を使ってみろ」

 今度は隆が沈黙を破った。

「は?」

「この間勉強してた時、進んでいなかったところあったろ。苦手のままにしておくと、よくないぞ」

 しばらくキョトンとしたような顔をしていた円。

 だが、途中で隆が言おうとしていえることがわかったようで、思いっきり馬鹿にした笑みを浮かべて、

「とっくにわかっているわよ。アタシがいつまでも同じ問題に悩んでいると思わないでよね。想像力足りないんじゃないの?」

 と言い放った。

「……そうかよ」

(マジで性格悪いな)

 隆は間違ってフリスクを大量に出してしまって、しょうがないからそれをとりあえず口に収めたみたいな表情をした。

 言うんじゃなかったと隆が後悔していると、

「……でもありがとう」

 円の呟くような声が聞こえた。

 隆はしばらくたった後。

「どういたしまして」

 とだけ、返事をした。

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