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隆の母親の帰りはいつも遅い。
四年前に派遣社員から正社員になったことで、帰りは九時くらいになるのが当たり前だった。
(疲れて帰ってきたところに、さらに疲れるであろう話をするのか)
とても気が重かった。
隆は母親が大好きだ。
もし母親がいなくなったら。と幼いころに想像してしまい、布団の中で一晩中泣いていたこともある。
反抗期らしい反抗期もなかったのは、母親が隆にとって、本当に大切だったから。
辛いことがあったら、話を聞いてもらったり、頭を撫でてもらったりした。
高校生にもなって、もう辞めないといけないと常住思っている。完璧にマザコンだとは思ってはいるが、頭や背中を撫でられると、不安がどこかへ消える。非常にリラックスした気分になる。
隆にとって、母親はそれだけ大きい存在だった。だからこそ隆は打ち明けてしまいたかった。
でもこれから相談することは、そんな大好きな母親をとても困らせるだろう。
ただそれでも話さないわけにはいかない。隆はそう覚悟して、母親の帰りを待っていた。
「ただいまー」
夜九時になって、母親が帰ってきた。
「お帰り。ご飯作っておいたよ」
簡単なものしか作れないが、基本的には夕ご飯は隆がいつも作っている。
「いつもありがとうね。先に食べた?」
母親は柔らかい笑顔を浮かべた。隆の肩から力が抜けそうになる。
「いや。まだだから一緒に食べよう」
「お腹空いていたら、先に食べていいのに」
母親は思いやりの言葉をかけながら、上着を脱いで洗面所に向かった。
母親の準備の間、テーブルに作った料理を並べていく。ご飯を皿にのせ、カレールーをかける。
生の野菜も食べたいので、あらかじめ切っておいて、冷蔵庫で冷やしていたきゅうりとトマトも出す。
季節の野菜なら美味しく安く食べられる。隆が学んだ生活の知恵だった。
母親が戻ってくる頃には準備は終えている。部屋着に着替えて、非常にリラックスした様子だった。
「じゃあ、食べようか」
「そうね。いつもありがとうね」
狭いテーブルに二人して座り、お互いにいただきますと言って、食事を始めた。
食事をしている最中に、隆は何げないように、気持ちを押さえながら話を切り出す。
「あのさ。進路のことなんだけど」
「うん?」
母親はテレビを見つつ、スプーンを口に入れながら返事をする。
隆は母親から目を逸らしながら、
「実は俺、宝塚音楽学校を受験したいって、思っているんだ」
そう母親にカミングアウトした。
ついにしてしまった。
(怖い。もしかしたら嫌われるかもしれない)
人に嫌われるのが怖い。しかもこんな大好きな母親から嫌われることになったら。
もし母親に拒絶されるようなことになったら、隆は自分が発狂する自信があった。
案の定、母親の動きが止まった。その反応に、隆は体が震えるのを自覚した。
「ごめん。もう一度いい?」
引き返すならこの時だと隆は思う。
「俺、宝塚音楽学校を受験したいと思っている」
しかし隆は踏ん切りをつけて、想いを振り絞った。
母親はリモコンでテレビを消して、スプーンを置いた。
途端に食卓を静寂が包む。
「一応聞いておくけど、冗談じゃないわよね? 大学受験はしないってこと?」
「うん」
隆は控えめに頷いた。
母親の目を見れない。どんな顔をしているのだろうか。
恐る恐る見ると、母親は黙って、目を閉じていた。そして何も喋らない。
隆がじれったくなるくらいの時間が過ぎた後。
「そうなの……。薄々は感づいてはいたよ。アンタ、異常なくらい宝塚好きだもの」
「うん」
「ちなみにそういう性の不一致とか、そういう問題もある?」
「いや、それはない」
自分は男が好きだとかは、隆は思ったことはなかった。
ただ単にあの場所に憧れた。あの場所で、自分も演じたいと思っただけだった。
「バレエを習いたいとか、声楽を習いたいとか、どう考えても一般的な男の子では抱かない発想よね。それにあんた、少ない小遣いとかお年玉を使って、宝塚のグッズとか雑誌とか買っていたからね。それはそういう風に思っちゃうのも、全然不思議ではないわよ。でもまさか受験をしたいとなるとは思わなかったけど」
ファンで終わらなかった。むしろそうなりたいと思ってしまった。
母親はそう呟いてから、またしばらく時間をおいて考え出す。
母親が悩んでいるのが凄くわかる。
悩ませていることを申し訳なく思っているのと、早く母親の想いを知りたいとハラハラとしながら、隆は答えを待つ。
「私の回答としては、親としてはその受験を応援してあげたいわ。でも大人としては反対ってところね」
隆はその一言に一瞬で、体中の血が冷たくなったような気がした。
隆の心のどこかでは、母親は応援してくれるだろうという思いがあった。母親はいつでも隆の理解者でいてくれたから。
「親としては、隆の好きなことをやらせてあげたいわ。素敵だと思うわ。自分の夢の為に、性別の差を超えて挑戦する。いいことね。それは当然。でもね」
そこで、母親は一旦息を吸った。
「隆の人生を総合的に考えると、無条件に、『応援するよ』とは言えない」
母親は視線をしっかりと、隆に合わせながら伝える。
「あなたは高校三年生。宝塚受験をするということは、大学受験には力が入らなくなるわよね。バレエも声楽も今はやっていないし、ブランクを取り戻さなければならない。宝塚受験がもしダメだったらって、考えたことある? もしダメだった場合、大学にそこから入り直そう予備校に通うとしたら、一年を無駄にすることになる」
「宝塚受験に失敗した場合だけど、最低限大学には入っておきなさい。まだまだ日本は学歴社会よ。あたしは高卒だけど、転職活動のときに高卒で嫌って言うほど、結構苦労したわ。高卒か大卒かそれだけで、その会社に応募できるかどうかがかわってくる。つまり自分の生き方の選択肢の数に関わってくる問題なのよ。なのでこれは強制したいくらい進めておくわ。あー、ちょっと話がずれちゃったわね。ごめんなさい」
母親はそこで、隆から目線を外した。
「それとね。これは、親として失格だと思うけど、我が家には経済的余裕がないのよ……」
絞り出すような声だった。
恥ずかしくてしょうがないという気持ちを表すような声。
言わせてしまったと、隆は思う。
「ストレートで入るなら、大学受験の学費は、学資保険でなんとかなる。でも浪人もして、翌年も予備校に通っていうとなると、少し心もとないのが、正直なところよ。だからもし、もし宝塚がダメで翌年に大学受験を目指した場合、隆の人生にとっていらない負担をかけることになる。それにね。浪人するとなると、大学四年間の学費が学資保険では正直足りないと思う。足りない部分を奨学金という名の借金を、隆に背負ってもらわないとならなくなる。これは想像以上に重たいのよ」
「奨学金を借りたら、就職してから、毎月お金を返していかなければならない。その心理的負担に耐えながら、どんなブラック企業だったとしても迂闊には辞められないという思いを抱きながら、隆は働くことになってしまう。下手したら体を壊すわ。そういったいらぬ重荷を背負うことになりかねない」
「それにね。宝塚を目指す隆に、世間は冷たいと思うわ。偏見や妨害、言われようのない中傷に耐えながらも宝塚受験に専念していかなければならない」
そこで母親は矢継ぎ早に話していたのを、いったん止める。
「私がぱっと思いつく限りで、これだけの障害があるの。恐らくもっと増えると思う。それを考えると、簡単に受験していいよとは言えないのよ……」
大人の目線。
もっともな話だ。
隆には耳が痛かった。
隆が想像及ばないところまで考えて、母親は伝えてきてくれた。
「そっか」
すぐに判断が出来ない。
隆は想像できなかった、備えていない悪い情報を与えられ、どうしたらいいいかわからなくなってしまった。
「だからもう一度、考えてみなさい。自分が本当に、今の私の話を聞いたうえで、それでも宝塚受験をしたいかどうか」
母親はこれで話は終わりとばかりに、カレーを食べ始める。
隆も黙って食べ始める。口には入れているが、カレーみたいな味がわかりやすいものを食べているのに、なんだか食べている感じがしない。
食事が終わったあと、隆は部屋に入って、再度自分の進路について考え始める。
(あんなに自信ありげに決めたのに、俺ってやつはどうしよもないな)
母親への相談したことにより、隆の考えが足りなかったことに気づかされた。
自分の決意なんて、そんなものだったのだなと突きつけられた気分だ。
でもここが最後の分岐点なのだろう。隆の人生に関わってくる。真剣に考えないといけない。
隆は母親に言われたことを一つ一つノートへ書き出していった。
・宝塚受験に失敗した場合、大学は入学し、卒業するのは絶対条件。
・また宝塚受験をした場合、大学四年間の学費が足りなくなり、途中奨学金を払わないとならない。
・就職しても迂闊に辞められない状況に、奨学金のために追い込まれる。
・宝塚を目指す隆に対して、世間は冷たく、偏見や妨害、嫌がらせのようなことをされるかもしれない。
(今書いたこれを読むと、なんで俺は宝験をするのかと思ってしまうな)
悪いことばかりだ。隆は自分の選択に、思わず笑ってしまった。
それでも本当に自分が宝塚受験をしたいのかと、もう一度考えてみる。
なかなか考えが纏まらない。
「母さん、俺ちょっとだけ外に出ていく。散歩してくる」
「気を付けてね」
迷ったときはさっきのように悩みを書きしてから、歩いて考えを纏めるようにしていた。ちなみに母親に教わった方法である。
(俺は大学受験に使う一年を無駄にするっていう覚悟はもうしてた。なのでそれはいいと思う。一年無駄にしたことによる金銭的な問題については、正直考えていなかった)
歩きながら考え事をしていると、隆の考えが少しづつ纏まっていく。
(幸いにして俺は勉強が出来る方だと思う。大学に入るだけなら、よっぽど高望みしなければ、二浪とかはしないだろ。最悪Fランとか、ボーダーフリーとかの大学に入ればいいかな)
(奨学金についての重さは正直、実感が湧かないな。やっぱり借金って、それだけ重いのだろうか。会社勤めをしたことがないから、勤めながら、毎月いくらか返さなければならないという辛さはわからない。けど母親があれだけ言うことだから、きっと辛いのだろう)
場合によっては、心の病に追い込まれる事態もあるのかもしれない。
(でもなぁ……。やっぱり挑戦しなかったら、後悔しかないと思う)
宝塚を受けるという思いになったのは、そもそも隆自身後悔することが嫌だからだ。だから受験をすると決めた。
辛さと奨学金返済の辛さを、隆の想像のつく範囲ではあるが、比較をする。
わからない。そもそも奨学金返済の辛さ、働く辛さがまだ隆には実感が湧かない。短期バイトはしたことがあるが、それは一般的な労働と全く違うだろう。
じゃあ諦めて、男なのに宝塚受験なんてそんなバカなことを考えていたなと、笑って話せるようになるだろうか?
隆はそうはならない気がしていた。
じゃあ、どうする?
高校二年生だったら、こんなに迷わなかっただろうか。仮定をしてもしょうがないと思いながら、つい都合がいい空想をしてしまう。結論を先延ばしにしそうになる自分を必死に止める。そして考える。
(これがラストチャンスなんだ)
自分なりに結論が出たと思う。
一晩寝て、それでも気持ちに変化がなかったら、母親に宝塚受験をすることを言おう。
そう隆は決めて、家に帰っていった。
帰り道の足取りは軽く感じた。
翌日、隆は母親に自分の想いを伝え、母親も隆の想いをを受け入れた。
隆は初めて自分の理解者を得て、少しだけ泣いてしまったことも思い出す。
それだけの理解を得て、隆はこの教室に来ている。伊達や酔狂と勢いだけで教えを請いに来たわけではないのだ。
「そう。それはよかった」
「ええ。ここに来るまでにそれなりに、すったもんだがありましたよ」
疲れたように、隆は呟いた。
でも結果的によかったと感じていた。
隆自身では考えられもしなかった点が、母親に相談することによって浮かび上がってきた。
「ちなみに月謝は三万円でよかったですよね」
入学できる条件が揃った。隆は早速といった感じで、財布からお金を取り出す。
「そうだけど、まだいらないわ。今月と来月は後払いでかまわない」
隆はさっさとお金を受け取らせたかった。だが責任者、生徒からは村上先生と呼ばれる白髪のおばさんとおばあさんの間といった人は、喜びながら報告する隆に事務的な、素っ気ない態度を取っていた。
「へ?」
母子家庭ということを考慮してくれたのだろうか。それなら配慮は無用だと隆が口を開こうとした時、間髪おかずに村上先生は隆の言葉を遮る。
「あなたのここに来るまでの覚悟はわかった。しっかり考えて、かつ実際に行動もしている。でもね。私の塾に入塾したとしても、アンタがたった一日で逃げ出さないなんて、保証はないからね」
村上先生は笑いながら、そう言ってのけた。
「……」
いくら鈍い隆だって、村上先生が言っている意味はわかる。
そうは言ったが、お前は口だけかもしれない。途中で逃げ出さすかもしれない。だから金は受け取れないと言いたいのだろう。
「私はね。金だけむしり取って生徒への責任を果たさないような声優専門学校や、youtuber養成スクール、esports学校が大嫌いでね」
先生は笑いながらも、淡々と事実だけを伝えるといった様に、隆に言葉を突きつけてきた。
「無謀な試みと把握しているのに月謝だけをきっちり取っておいて、さっさと逃げ出させたなんて、私が大嫌いなヤツラと同じことをしたみたいじゃない? そんなことをしたら信用問題になるのよ。誰も私の教室の門を叩かなくなってしまう」
「それは……」
隆としては、あれだけ考えて決めたこと。それなりに決意があってここに来ている。そんな風に言われるのは心外だった。
先生は笑みを消し、こちらを突き刺すような視線で見つめる。
「そんなことが無いと言うなら、才能と行動で示しなさい。口だけで終わらすにはあなたのお母さまが稼いだ三万円は重すぎる」
反論を許さない視線。
「とにかく、あなたの憧れが口だけでないということを、結果で私を黙らせて。具体的には最低一カ月以上ね。継続して教室に通い、努力なさい。そうしたら月謝受け取ってあげてものいいわ」
先生はそれだけ言って、机の上に視線を落とし、もう話すことはないとばかりに自分の作業をし始める。
「わかりました」
隆は言いたいことを、グッと抑える。
この高慢な婆を黙らせるのは、結果でしか黙らせられない。だったら行動で、結果でどうだと見せてやるしかない。やってやる。
月謝が入った封筒が、くしゃくしゃに握りつぶされる。
それは隆の、前例のない戦いの始まりの合図でもあった。




