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第五話 離せ

第五話です。


レストラン・ゲロマズは今日も元気に営業中です。


ただし料理の安全性は保証されておりません。


そして今回は少しだけ空気が変わります。


気まぐれ定食より危険なものが登場するかもしれません。


それではお楽しみください。

カタン。


男がカップを置いた。


それだけだった。


だが店内の空気が変わる。


酔っ払いの男は気付かない。


犬丸ブル子の腕を掴んだまま笑っていた。


「離してください!」


ブル子は必死だった。


店長はオロオロしている。


けつげしげるは厨房の奥から様子をうかがっていた。


田中は席で固まっていた。


誰も動けない。


男だけが立ち上がった。


ゆっくりと。


本当にゆっくりと。


酔っ払いが振り向く。


「あー? なんだお前?」


酔っ払いはヘラヘラ笑いながら言った。


男は答えない。


ただ歩く。


一歩。


また一歩。


そして酔っ払いの前で止まった。


「離せ」


低い声だった。


酔っ払いは笑った。


「なんだ?」


「聞こえなかったか?」


男は同じ声で言った。


「離せ」


酔っ払いは鼻で笑う。


「嫌だと言ったら?」


男は何も言わなかった。


ただ酔っ払いの手首を掴む。


次の瞬間だった。


「痛てぇ!!」


店内に悲鳴が響く。


酔っ払いの手が離れた。


ブル子は慌てて男の後ろに下がる。


男は酔っ払いを見ていた。


それだけだった。


しかし酔っ払いの額には汗が浮かんでいる。


「て、てめぇ……」


もう一人の酔っ払いが立ち上がる。


男へ向かって歩き出した。


その時だった。


胸ぐらを掴もうとして伸ばした手が止まる。


コートの内側が少し見えた。


ほんの一瞬。


何かが見えた。


それが何だったのか。


田中には分からなかった。


ブル子にも分からなかった。


だが酔っ払いだけは見た。


顔色が変わる。


酔いが一気に覚めたようだった。


「お、おい……」


男は静かに言った。


「帰れ」


酔っ払いは仲間の顔を見る。


仲間も青ざめていた。


数秒後。


二人は何も言わず店を出て行った。


カラン。


ベルが鳴る。


静寂が戻る。


店長が口を開いた。


「ダー……」


それしか言えなかった。


ブル子は男を見た。


男は何事もなかったように席へ戻る。


そして冷めたコーヒーを飲み干した。


「お客様……」


ブル子が声を掛ける。


男は顔を上げた。


「ありがとうございました」


男はしばらくブル子を見ていた。


「コーヒーのおかわりを」


ブル子は少し驚いた。


「はい」


「飯は不味いが、コーヒーは悪くない」


ブル子が入れたコーヒーだった。


しばらくして、


ブル子が入れ直したコーヒーが運ばれてきた。


男はカップを手に取る。


静かに口へ運ぶ。


喉の渇きは潤せても、


心の渇きは潤せなかった。


ブル子はしばらく男を見ていた。


見たことのない客だった。


それなのに――


なぜだろう。


もっとこの人のことを知りたいと思った。


【第五話 完】

最後まで読んでいただきありがとうございます。


静かな男が、少しだけ動きました。


それでも名前はまだ分かりません。


過去も分かりません。


分かっているのは、ゲロマズの料理よりコーヒーを気に入ったことくらいです。


そしてブル子は、少しだけ気になることが増えたようです。


次回、第六話でお会いしましょう。

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