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第三章 正体と選択 その2

 次の日、授業はほとんど頭に入らなかった。


 黒板の字を写しても、ノートの行だけが増えて中身が残らない。教師の声は聞こえているのに、意味がちゃんと形にならない。こういうとき、人は自分でもわかるくらい雑になる。


 昼休みに夕が来て、机に肘をついた。


「ひどい顔」

「お互いさまだろ」

「私は寝不足なだけ」

「俺も似たようなもんだ」

「じゃあ余計だめじゃん」


 夕はそう言ってから、少しだけためらって続けた。


「今日さ」

「うん」

「花音さん、もし本当に危なかったら」

「……」

「ちゃんと決めてよ」

「何を」

「助けるのか、戻るのか」

「二択にするなよ」

「でも結局、そういうことになるでしょ」


 その言い方は厳しかった。でも、間違ってはいなかった。


 俺は弁当の卵焼きをひとつ口に入れて、ろくに味もしないまま飲み込む。


「夕」

「何」

「お前はどうしたい」

「私?」

「現実に戻れ、って言うんじゃなかったのか」

「言うつもりだった」


 夕は窓の外を見た。校庭の端の桜は、もうほとんど葉に変わりかけている。


「でも、あの子が公園のなんかだからって、それで切り捨てられるほど簡単じゃない」

「……」

「それに、あんたがもう切り捨てられない顔してるのも知ってる」


 図星すぎて何も言えない。


「だから」

 夕がこっちを向く。

「私は、戻れなくなるのは嫌。でも、見捨てるのも嫌」

「わがままだな」

「知ってる」

「俺も似たようなもんだ」

「でしょ」


 そこで夕は少しだけ口元をゆるめた。


「だから、一緒にちゃんと悩きなよ」

「悩む、だろ」

「ほんとだ。うつってる」

「お前のせいでもある」

「花音さんのせいでしょ」


 たぶん、その両方だった。


 放課後になると、俺たちはほとんど同時に席を立った。


 待ち合わせたわけでもないのに、足の向かう先が同じなのが少し可笑しい。校門を出て、見慣れた道を公園へ向かう。何度も歩いたはずの道なのに、今日は少しだけ遠く感じた。


 夕凪公園の入口に着いた瞬間、空気が違うとわかった。


 静かすぎた。


 車の音も、風も、遠くの子どもの声も聞こえる。なのに、公園の内側だけ、その全部が一枚膜をかけられたみたいに遠い。景色の彩度だけが少し上がっているような、夕方にしては出来すぎた色だった。


「嫌な感じ」

 夕が言う。

「うん」


 公園に入る。ベンチ、砂場、ブランコ。全部いつも通りに見える。でも、いつも通りに見えようとしすぎている感じがあった。


 花音は日時計のそばに立っていた。


 こちらを向く。笑う。

 でも、その笑顔は普段よりきれいすぎた。整いすぎている、と思った瞬間、逆にぞっとする。


「来てくれた」

 花音が言う。

「当たり前だろ」

 俺が答える。


 花音はうなずいたけれど、その動きが少しだけぶれる。輪郭が揺れるんじゃない。動作の終わりだけが別の時間に置いていかれているみたいだった。


「大丈夫か」

 夕が先に聞いた。

「八割くらい」

「昨日より下がってるじゃん」

「正直だね」

「そこ褒めてない」


 夕は花音の顔をじっと見て、それから小さく息を吐く。


「今日は、もう隠さなくていいから」

「何を」

「きついの」

「……」

「見ればわかる」


 花音は少しだけ目を伏せて、それから、柔らかく笑った。


「ありがとう」

「お礼はあと」

 夕が言う。

「終わってからにして」


 その言い方に、今日が何かの終わりか始まりになるんだと、急に現実味を持ってわかってしまった。


 花音は日時計の台座に手を置いた。


「今日、ここが決めたがってる」

「何を」

 俺が聞く。

「私を戻すか、このまま崩すか」


 夕が顔をしかめる。

「その二択ひどくない?」

「うん。だから困ってる」

「じゃあ第三の選択肢にしなよ」

「第三?」

「そう。戻さないし、崩さない」

「そんな都合のいい」

 言いかけたところで、夕が俺を睨んだ。

「何」

「今、あんたが諦めるな」

「いや、でも」

「でもじゃない」


 夕は花音のほうを見る。


「花音さん」

「うん」

「あなた、自分でどうしたいの」


 花音は黙った。


 風が吹く。葉桜になりかけた枝が、乾いた音を立てる。前みたいな桜のやわらかい景色じゃない。春が終わりに向かっている音だった。


「……いたい」

 やがて花音が言う。

「どういう形でもいいから、いたい」

「公園に?」

 俺が聞く。

「違う」


 花音は首を振った。


「恒一と話したり、夕に変って言われたり、プリンを覚えたり、そういうほうに」

「……」

「でも、それを選ぶと、ここにいる私じゃなくなるかもしれない」


 その言葉で、やっとわかった気がした。


 花音は「公園の怪異」から離れたいわけじゃない。公園にいることで保たれてきた今の自分を失うのが怖いんだ。変わりたい。でも、変わることで今の輪郭まで壊れるかもしれない。俺がずっと抱えてきた矛盾を、花音は存在そのものでやっている。


「それ、俺と同じだな」

 思わずこぼすと、花音が少しだけ笑った。

「うん。だから好きかも」


 夕がすぐ反応する。

「今さらっと何て言った?」

「事実」

「重いって!」


 そのいつもの調子に、少しだけ救われる。

 でも、次の瞬間にはそれどころじゃなくなった。


 日時計の影が、真逆の方向へ伸び始めた。


 太陽はまだ西にある。なのに影は、夕日のほうへ向かって伸びていく。ありえない。そんなこと、もう何度見ても慣れない。


「来る」

 花音が言う。


 地面が暗くなる。空じゃなく、地面から夕方が深くなるみたいに。日時計のまわりの石畳の目地から、黒い染みがにじんで広がっていく。前に見たものより大きい。濃い。輪郭がはっきりしすぎている。


 そこから、いくつもの影が立ち上がる。


 ノートを抱えた制服の子。

 ブランコに座る小さな子。

 ジャングルジムの隙間からのびた白い腕。

 砂場の中央にしゃがんでいる、見えない誰かのくぼみ。

 それらが全部ひとつの方向を向いていた。


 花音へ。


 ――ちがう

 ――かえして

 ――のこって

 ――ここにいて


 声が重なる。耳じゃなく頭の中に、ざらざらした紙が擦れるみたいな音と一緒に流れ込んでくる。


「うわ……」

 夕が顔をしかめて耳を押さえる。

「最悪」


 俺も頭痛みたいな圧迫感に耐えながら、花音を見る。


 花音は動かない。

 逃げない。

 ただ、黒いものたちに向き合っていた。


「花音!」

「大丈夫」

「どこが」

「まだ、決めてないから」


 まだ、という言い方が逆に怖い。


 黒い影のひとつ、ノートを抱えた子が一歩前へ出た。白く抜けた顔の中に、目だけが深い穴みたいに見える。


 ――あなたは、わたしたち

 その声が落ちる。

 ――おいていかれたもの

 ――かわれなかったもの

 ――ここにのこるもの


 花音が、小さく息を吸う。


「違うよ」


 静かな声だった。でも、それだけで公園の空気が少し揺れる。


「最初は、そうだったかも」

 花音が続ける。

「でも今は、もう少し増えた」


 黒い影たちがざわめく。

 ざわめく、という表現が合っているかはわからない。形のないものが揺れて、そこにいる全員の記憶をかき混ぜるような感じだった。


「恒一と話した」

 花音が言う。

「夕にクッキーもらった」

「花音」

 夕が小さく呼ぶ。

「ミルクティーも、プリンも知った」

「……」

「だから、私はここだけじゃない」


 その言葉に応えるみたいに、影たちが一斉に揺れた。


 日時計の影が花音の足元へ伸びる。今度は遅れない。真っすぐで、冷たい意志を持った線みたいに。


 花音の輪郭が、そこから崩れ始めた。


「っ」

 俺は反射的に前へ出た。


「待って、相沢!」

 夕が止める。

「危ない!」


「でも!」

「今行っても飲まれる!」


 正しい。また正しい。正しすぎて腹が立つ。


 花音がこちらを振り向く。

「恒一」

「何だよ!」

「選んで」

「だから何を」

「私を、公園のままにするか」

「嫌だ」

 俺は即答していた。


 自分でも驚くくらい早かった。


 花音が少し目を見開く。


「じゃあ、外に連れていく?」

「……」

「それだと、今の私じゃなくなるかも」

「……それでも」

 喉がつまる。言葉にするのが怖い。言った瞬間、何かが本当に決まる気がした。


 でも、ここで黙ったら終わるともわかっていた。


「それでも、ここに縛られてるよりはいい」

 やっと言い切る。

「お前が、お前のままでいられなくなるとしても」

「ひどい言い方」

 花音が、少しだけ笑った。

「でも、うれしい」


 夕が俺の隣に並ぶ。

「一人でかっこつけないで」

「え」

「私もそっち」

「……いいのか」

「よくはない。でも見捨てるのはもっと嫌」


 そう言って、夕は花音に向かって叫んだ。


「花音さん! ちゃんとこっち来て!」

「ちゃんと、って何」

「知らないけど! とにかく現実側!」


 その雑な励ましが、妙に夕らしくて、花音が少し笑う。


 その笑いと同時に、黒い影たちが一斉に花音へ手を伸ばした。


 俺は走った。


 何が正しいとか、もう考えられなかった。日時計の影が足元を掠める。黒い染みの境目を越える瞬間、頭の中でいくつもの知らない記憶がちらついた。桜の下の会話。誰かのノート。放課後の待ちぼうけ。置いていかれた気持ち。忘れられる恐怖。全部が一気に流れ込んでくる。


 それでも止まらない。


 花音の手をつかむ。


 冷たい。

 でも、ちゃんとそこにある。


「行くぞ!」

 叫ぶと、花音の体がぐらりと揺れた。


「恒一、それだと」

「知るか!」


 もう片方から、夕が花音の腕をつかむ。

「引っ張るよ!」

「え、ちょっと雑!」

「今さら何!」


 三人で綱引きみたいになっている構図が最悪すぎるのに、笑う余裕はない。


 黒い影たちが、花音の足元から伸びてくる。

 日時計の影が、俺たちの影を測るみたいに重なる。

 公園全体が、「変わるな」と言っている気がした。


 変わらないこと。

 ここに留まること。

 置いていかれたもののままでいること。


 それはたぶん、この町にも少し似ている。


 何も起きないほうが安全で、何も変わらないほうが壊れない。そうやってずっと先送りにしてきたものが、今、花音を引き留めている。


「っ、重……くないな」

 俺が思わず言う。

「そこ今!?」

 夕が怒鳴る。

「だって軽すぎるだろ!」

「私、前から軽いよ」

 花音が言う。

「今しゃべるな!」


 そのやりとりのせいか、ほんの少しだけ空気が揺らいだ。


 笑う隙間なんてないはずなのに、日常のテンポがそこに割り込む。それが、公園の均衡を崩したのかもしれない。


 黒い影が一瞬だけためらう。


 その瞬間、夕が叫んだ。


「相沢! 公園の外まで!」

「わかってる!」


 俺たちは一気に走り出した。


 花音を引く。夕も一緒に走る。門までの道が、また遠くなる気配がした。でも今度は、夕がすぐ叫ぶ。


「惑わされないで! まっすぐ!」

「言われなくても!」

「相沢そういうときすぐ景色見ちゃうから!」

「見てない!」


 実際、視界の端ではベンチや砂場が何度も同じ位置に現れかけていた。でも、夕の声と、握った花音の手の冷たさだけを頼りに走る。


 門が見える。

 遠い。

 でも、今度はちゃんと近づいている。


 背後でざらざらした声が重なる。


 ――のこって

 ――ここにいて

 ――かわらないで


 その声が、妙に胸の内側に刺さる。


 それは怪異の声だけじゃない。

 たぶん、俺自身のどこかにもある声だ。


 変わりたくない。

 壊したくない。

 今のままでいれば、少なくとも失わずに済む。


 でも、それを選んだら、花音は公園に戻される。

 そして俺もたぶん、また観察者のふりをして留まるだけだ。


「嫌だ」

 気づけば声に出ていた。


「え?」

 花音がかすかに振り向く。


「もう、それは嫌だ」

 走りながら言う。

「変わらないままで、見てるだけなの」


 その言葉は、花音へ向けたものでもあり、俺自身へのものでもあった。


 門まであと数歩。

 その瞬間、足元の影が急に重くなる。体を後ろに引かれる感覚。


 夕がきつく花音の腕を引いた。

「花音さん、前見て!」

「うん!」

「相沢、最後ちゃんと!」

「お前その言い方ほんと」


 そこで、花音が笑った。


 ちゃんと笑った。

 今まででいちばん自然に。


 それと同時に、俺たちは門を越えた。


 空気が変わる。


 膜が破れるみたいに、夕凪公園の重さが後ろへ落ちた。車の音、遠くの犬の声、住宅街の生活音が一気に戻ってくる。普通の世界の音だ。


 その勢いのまま、三人そろって歩道に倒れ込んだ。


「いった……」

 夕が最初に言う。

「膝打った……」

「それは知らん」

 俺も息を切らしながら答える。

「花音は!?」


 真ん中で倒れた花音を見る。


 いる。

 ちゃんといる。


 でも、少し違う。


 制服の輪郭が前よりはっきりしている。透明感が減ったわけじゃない。ただ、公園の夕焼けで作られていたみたいな不自然な美しさが、少しだけ薄れている。その代わり、息の乱れ方とか、髪の乱れ方とか、そういう人間っぽい雑さが増えていた。


「……どう?」

 俺が聞く。


 花音は数秒ぼんやりして、それからゆっくり上半身を起こした。


「重い」

「は?」

「体が」

「いいことなのか?」

 夕が聞く。

「たぶん」

「またそれ」

「でも前より、ちゃんといる感じ」


 そう言って、自分の手を見下ろす。指を曲げる。開く。確かめるみたいな動きだった。


「公園、戻らなくて平気か」

 俺が聞くと、花音は少しだけ振り返った。


 夕凪公園は、門の向こうにいつも通りの顔で静まっている。何も起きていないみたいに、古い遊具と日時計を抱えたまま。


「平気じゃないかも」

 花音が言う。

「でも、ここにいるほうがいい」


 その答えを聞いた瞬間、全身の力が抜けた。


 夕が座り込んだまま空を見上げる。

「……終わった?」

「いや」

 俺が言う。

「たぶん終わってない」

「最悪」

「でも、一応」

「一区切り、くらい?」

 花音が言う。


 夕はため息をつく。

「その言い方なら、まあ」


 少しだけ笑った。


 しばらく、誰も立ち上がれなかった。


 夕方はほとんど終わりかけていて、空の端だけに赤が残っている。もう公園の色じゃない。住宅街の夕方だった。


「ねえ」

 花音がぽつりと言う。

「これで、私はどうなるのかな」

「知らない」

 俺は正直に答えた。

「でも、前と同じじゃないだろ」

「うん」

「学校とか行けるのか?」

 夕が聞く。

「どうだろう」

「戸籍とか以前に、まず朝にいるの?」

「試したことない」

「そこから!?」

 夕が頭を抱える。


 その反応がおかしくて、俺は少し笑ってしまう。夕が睨んでくる。

「何」

「いや、お前ほんとちゃんとしてるなと思って」

「今それ言う?」

「今だからだろ」

「花音さん、こいつまだ余裕ある」

「いいことだよ」

「甘やかさないで」


 花音は歩道の縁石に手をついて、ゆっくり立ち上がった。ふらついたが、今度はちゃんと重力に従っている感じがした。俺も立って、念のため手を差し出す。花音は少し迷ってから、その手を取った。


 冷たい。でも、前より少しだけ温度がある。


「……ほんとだ」

「何が」

「ちょっとだけ、あったかい」

「恒一も」

 花音が言う。

「前よりちゃんと触れる」


 その言い方に、夕が微妙な顔をする。

「何それ。ちょっとずるいな」

「何が」

 俺が聞くと、夕はそっぽを向いた。

「別に」


 でも、そのあと小さく付け足した。


「……私も触って確認していい?」

「確認って何だよ」

「ちゃんといるか」

「本人の前で言うな」

「だって大事でしょ」


 花音は素直に夕へ手を差し出した。夕が恐る恐る握る。


「……あ」

「どう?」

 花音が聞く。

「ほんとに、ちょっとだけ普通」

「それ褒めてる?」

「半分だけ」

「夕らしいね」

「何それ」


 三人で、少しだけ笑う。


 それは、公園の中では出なかった笑い方だった。変なことの最中に無理やり差し込む軽口じゃない。ちゃんと息を吐ける場所での笑いだった。


 その帰り道、十字路まで来ても、花音は消えなかった。


 街灯がつく。

 白い光が落ちる。

 花音の影は、一拍遅れなかった。


 俺と夕は、ほぼ同時にそれに気づいた。


「……」

「……」


 先に口を開いたのは夕だった。

「ねえ」

「うん」

 花音が返す。

「影、普通」

「普通だよ」

「その言い方むかつくけど、今日だけは許す」


 花音が少し笑う。


「じゃあ」

 夕が腕を組んで言う。

「明日、朝も試す?」

「何を」

 俺が聞く。

「花音さんが朝に存在できるか」

「言い方」

「大事でしょ。これからのことなんだから」

「……そうだな」

「学校に来られるなら来る。無理なら別の方法考える」

「別の方法?」

「放課後だけ会うとか、まず住所どうするかとか、保護者どうするかとか、いろいろあるでしょ!」

「急に現実が重いな」

「現実担当なので」

「自称だろ」

「でも必要でしょ」

「まあ……」


 花音はそんな俺たちを見て、少し不思議そうに、それから嬉しそうに笑った。


「これ、好き」

「何が」

 俺が聞く。

「先の話をするの」

「……」

「卒業の先はないと思ってたから」


 その一言で、胸の奥が少し締まる。


 俺は昨日、進路希望調査の紙に県外の大学名を書いた。夕はたぶん、本当にこの町を出るための道を考えている。花音には、そもそもその線がなかった。


 でも今、夕はその先を勝手に現実のリストへ入れ始めている。住所、学校、朝の存在確認。雑で強引で、でもちゃんとしているやり方で。


「夕」

 花音が言う。

「うん?」

「ありがとう」

「……別に」

「うれしい」

「そういうの真正面から言うのずるい」

「好きだから」

「だから重いって!」


 いつものやりとりだ。

 でも、それが今はやけに愛おしかった。


 十字路で、今度は花音も止まらなかった。


「ここから、行ける」

 少し驚いたように自分で言う。

「ほんとに?」

 俺が聞く。

「うん。たぶん……じゃなくて、今は」


 夕がすぐ言う。

「じゃあ今日は、家の方向ちゃんと確認しよう」

「え?」

「このまままたふっと消えられても困るし」

「扱いが雑だな」

「現実側に引きずるって、こういうことでしょ」

「力技すぎる」

「でも必要」

「まあ、夕だしな」

「何それ」


 結局、その日は三人で少し遠回りしながら歩いた。


 花音は住宅街の景色を、前よりずっと近い目で見ていた。自販機、犬の鳴き声、二階の窓に干された洗濯物、カレーの匂いが漂う家の前、塾帰りらしい小学生の自転車。そういう、何でもない町の断片をひとつずつ確かめるみたいに。


「変だね」

 花音が言う。

「何が」

「公園の外、ちゃんと生活の音がする」

「そりゃするだろ」

 夕が言う。

「今まで何だと思ってたの」

「遠かった」

「……」

「でも、今は少し近い」


 その言葉だけで十分だった。


 完全に人間にはならないだろう。

 全部が解決したわけでもない。

 花音がこれからどういう形で町に存在するのかも、まだわからない。


 それでも、境界の片側にだけ縛られていたものが、少しだけこちらへ寄ってきた。

 たぶん、それでいい。



 数日後。


 花音は朝の光の下ではまだ少し不安定だったが、完全に消えることはなかった。学校へ正式に通う、みたいな現実的な処理は当然そんな簡単ではない。夕は本気で市役所とか教育委員会とか言い出しかけて、俺に「落ち着け」と止められた。


 結局、花音はしばらく「放課後の公園か、その周辺にいる不思議な知り合い」という曖昧な位置に落ち着いた。曖昧なまま現実にいる。いかにも花音らしい。


 夕凪公園は、前ほど露骨におかしなことを見せなくなった。


 怪異が完全に消えたわけじゃない。ときどき日時計の影が妙な向きを向くし、桜の木の下に見覚えのない紙片が落ちていることもある。でも、それらは前みたいに花音を引き戻そうとはしなかった。


 たぶん、公園のほうも受け入れたのだ。

 残りたかったものが、少しだけ外へ出たことを。


 俺は進路希望調査を提出した。


 第一志望の欄は、完全な本音ではない。でも、前みたいな真っ白よりずっとましだった。外へ出る、という単語を書いた瞬間、少しだけ怖くて、少しだけ救われた。


 夕は相変わらずちゃんとしていて、でも前より少しだけ笑うことが増えた。花音に振り回されるたびに「ほんと変」と言いながら、その実わりと面倒を見ている。


 花音は、相変わらず少し変だ。


 食べ物の感想はずれているし、会話の受け答えもときどき妙だ。制服の着こなしも何となく古いし、ときどき夕方の色に溶け込みかけることもある。でも、あの日よりはちゃんと「そこにいる」。


 完全な人間にはならない。

 でも、最初からいなかったものでもない。


 ある放課後、俺たちはまた公園のベンチにいた。


 桜はもう終わって、若い葉が風に揺れている。日時計は相変わらず使われないまま立っていて、ジャングルジムはまだ錆びている。何もかもが大きく変わったわけじゃない。


 でも、少しだけ違う。


「恒一」

 花音が言う。

「何」

「プリン食べたい」

「急だな」

「覚えてる味だから」

「それ理由になるのか」

「なるよ」

「じゃあコンビニ寄る?」

 夕が聞く。

「ついでにノートも買えば。花音さん、字の練習しなよ」

「字?」

「そう。今度は消えないやつ」

「あ」

 花音が少し目を丸くする。

「それ、いいね」

「でしょ」

「夕、ちゃんとしてる」

「もうその評価で喜ばないからね」

「でも好き」

「……はいはい」


 俺は立ち上がる。

「行くか」

「うん」

 花音が立つ。

「行こ」

 夕も鞄を持つ。


 三人で公園を出る。


 門を越えても、花音はちゃんと一緒にいた。

 街灯の下でも、影は遅れない。

 夕方の外側まで、ぎりぎり届くくらいの存在として。


 たぶんこれからも、曖昧なままだ。


 恋人かどうかも、まだよくわからない。

 友達と言い切るにも少し違う。

 幼なじみと怪異と観察者だった関係は、もうそのどれでもなくなっている。


 でも、それでいい気がした。


 地方の町はすぐには変わらない。

 俺も急には変われない。

 花音だって、完全には人間にならない。


 それでも、夕暮れの公園から一歩だけ外へ出た。

 その微かな変化だけで、たぶん今は十分だった。


 コンビニの看板が見えてくる。


「恒一」

 花音が、歩きながら俺を見る。

「ん」

「ちゃんといたね」

「……お前もな」

「うん」


 花音は満足そうに笑った。


 その笑顔は、もう夕暮れの景色に貼りついたものじゃない。

 少し不安定で、少し変で、でもたしかに今ここにいる、白栖花音のものだった。

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