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第三章 正体と選択

 季節はまだ春の途中なのに、夕凪公園の空気だけが少しずつ変わっていった。


 桜はほとんど散りきって、枝の輪郭がむき出しになる。花びらが覆っていたあいだはごまかされていた古さが、急にあちこちで目につくようになった。剥げた塗装。ひびの入ったベンチ。錆の浮いた遊具。もともとそうだったはずなのに、花がなくなるだけで、公園は「きれいな場所」から「古い場所」に戻る。


 たぶん、人間も似たようなものだ。


 何か一枚なくなるだけで、急に本体が見える。


 その頃から、花音の様子も少しずつ変わり始めた。


 最初に気づいたのは、現れる時間だった。


 前は夕方のかなり決まった時間帯にしか会えなかったのに、最近は少し早く行ってもいたし、逆に日がだいぶ落ちてからもまだ残っていることがあった。会える時間が増えた、と言えば聞こえはいい。でも花音本人は、その変化をあまり嬉しそうにしていなかった。


「前より長くいられるんだな」

 ある日、ベンチでそう言うと、花音は少しだけ困ったように笑った。

「うん。でも、そのぶん、少しずつ混ざる」

「またその言い方か」

「だって近いんだもん」

「何が」

「向こうとこっち」


 そう言って、花音は日時計を見た。


 あれ以来、俺も夕も、あの影には妙に敏感になっていた。花音の影が少し遅れること。日時計の影がときどき別の意志を持っているみたいに伸びること。見なかったふりをするには、もう何度も見すぎていた。


「混ざるとどうなる」

 俺が聞く。

「形が決まりにくくなる」

「……消えるのか」

 言ってから、少し後悔した。


 花音は一瞬だけ黙って、それから小さく首を振った。

「消える、とは少し違う」

「違うのか」

「見えなくなるとか、思い出しにくくなるとか、そういうほうが近い」


 それは消えるより嫌だった。


 消えるなら、まだ終わりがある。けれど、思い出しにくくなるのは、そこにいたこと自体が曖昧になる感じがする。


「やめろよ、そういうの」

「ごめん」

「謝るなって」

「じゃあ、うーん……困る」

「それは知ってる」


 花音は少し笑って、それから不意に俺の袖をつまんだ。


「でも、恒一は覚えててくれるでしょう」

「……まあ」

「夕も」

「たぶんな」

「それなら、まだ平気」


 その言い方が、軽い確認じゃなく、かなり本気の願いに聞こえた。


 夕も、それを感じていたんだと思う。


 最近、夕は前よりさらに頻繁に公園へ来るようになっていた。委員会だの用事だのと言いながら、結局ほぼ毎日顔を出す。俺を監視しているのか、花音を見張っているのか、それとも両方なのかはわからない。


 ただ、以前よりあからさまに拒絶はしなくなった。


 そのかわり、気にしすぎなくらい気にしていた。


「今日、花音さんちゃんといる?」

 公園に来るなり、そんなことを聞く。

「ちゃんといるって何だよ」

 俺が言うと、夕は苛立ったように返した。

「わかるでしょ。昨日ちょっと薄かったし」

「薄いって言うな」

 花音が抗議すると、夕はすぐに言い直す。

「じゃあ、輪郭が弱かった」

「もっと嫌」

「じゃあ何て言えばいいの」

「きれい」

「それは違う」


 そんなやりとりをしていると、傍目にはだいぶ普通の友達同士みたいだった。少なくとも、最初みたいな一方的な警戒だけではない。


 でもその普通さの裏で、妙なことは確実に増えていた。


 まず、俺の記憶に小さな穴があくようになった。


 花音とどんな話をしたかは思い出せる。夕がどんな顔でツッコんだかも覚えている。でも、その前後の細かい時間の流れが曖昧になる。公園へ行く途中で誰とすれ違ったとか、帰り道で何を買ったとか、そういうどうでもいい部分が、妙に抜け落ちる。


 最初はただの気のせいだと思っていた。


 でも、気のせいでは済まないことが起きた。


 昼休み、夕に言われたのだ。


「相沢、昨日の英語の小テストどうしたの」

「どうしたって?」

「白紙で出してた」

「は?」


 そんな覚えはない。少なくとも、問題用紙は見た記憶がある。長文がだるかったことも覚えている。でも、自分が何を書いて提出したかだけが、ぽっかり抜けていた。


「寝てたわけでもないでしょ」

「いや、起きてたはずだけど」

「はずって何」

「覚えてない」

「……それ、公園のせいとか言わないでよ」

「言いたくはない」

「でも少し思ってるでしょ」

「まあ」


 夕は露骨に嫌そうな顔をした。


「ねえ。ほんとに大丈夫?」

「まだ平気だろ」

「“まだ”って付けた」


 そこで夕は少しだけ口ごもってから、弁当の箸を置いた。


「私さ」

「うん」

「あんたが変な方向に変わってくの、別に全部が嫌なわけじゃない」

「何だそれ」

「前よりちゃんと生きてる顔してる時もあるから」

「褒めてるのか?」

「半分だけ」

「残り半分は」

「戻れなくなりそうで嫌」


 夕の言葉は、いつもより少しだけ柔らかかった。


 俺は何も返せなかった。


 放課後、公園に行く。


 花音はジャングルジムの前にいた。あの遊具だけは、何度見ても馴染まない。子どもの頃に見たサイズと、今のサイズが噛み合っていない感じがする。昔より小さいはずなのに、夕方になると逆に中が深く見える。


「恒一」

 花音が俺を見る。

「今日、少し遅かった」

「担任に捕まった」

「進路?」

「よくわかったな」

「最近、紙の匂いがついてる」


 そう言われて制服のポケットを触ると、確かに進路希望調査のコピーが入ったままだった。


「お前、変なとこ鋭いな」

「変じゃないよ。紙の匂いって、だいたい迷ってる時の匂いだし」

「それは意味わからない」

「でも本当」


 花音はジャングルジムの赤い鉄骨に手を添えた。その指先が、前より少し透けて見える気がして、俺は思わず近づく。


「何」

「いや……」

「また虫みたいな顔」

「その例え気に入ってるだろ」

「恒一に似合うから」


 花音は笑った。でも、笑い終わるのが少し遅い。前からそうだったが、今日はそれがよりはっきりして見える。


「体調悪いのか」

「体調って便利な言葉だね」

「便利でもいいから答えろよ」

「……少し、まとまりにくい」

「まとまりにくい」

「うん。公園にいると平気。でも外のことを考えると、少し散る」


 散る、という単語で桜を連想してしまうのが嫌だった。


「外って」

「駅とか、学校とか、コンビニとか」

「この前行っただろ」

「うん。楽しかった」

「ならいいじゃないか」

「楽しいと、少し崩れることもあるよ」

「意味わかんねえな……」


 でも、その意味不明さの中に、妙に本質っぽいものがあるのももう知っていた。


 そこへ夕が来た。


 最近では珍しく、少し息を切らしている。


「ごめん、遅れた」

「珍しいな」

 俺が言うと、夕は眉を寄せた。

「先生に話しかけられて」

「お前も進路か」

「うん」


 その一言だけで、少し空気が変わる。


 進路。卒業後。この町の外。あるいは、この町に残ること。


 三人のあいだにある問題じゃないはずなのに、最近は妙に公園の空気とつながっていた。


 花音が夕を見る。

「夕、どこ行きたいの」

「え?」

「卒業したら」

「……別に、まだ確定じゃないけど」

 夕は少し迷ってから言った。

「県外の大学」

「へえ」

「何」

「ちゃんとしてる」

「それ褒めてるんだろうけど、今ちょっとむかつく」

「でも、いいね」

「花音さんは?」

 夕が聞き返した瞬間、花音の表情が少し止まった。


「私は――」

 そこで言葉が切れる。


 答えがない、というより、答えられる形がない。そんな感じだった。


 夕もそれに気づいたらしく、「ごめん」と小さく言った。


「ううん」

 花音は首を振る。

「ないだけだよ」

「何が」

 俺が聞く。

「卒業の先」

「……」

「私は、たぶん、そういう線の上にいないから」


 その言葉が、何でもない調子のくせに、妙に重く落ちた。


 夕が視線をそらす。

 俺も、うまく言葉が出ない。


 花音はその空気を変えるみたいに、急に話題をずらした。


「ねえ、今日は乗る?」

「何に」

「ブランコ」

「急だな」

「この前、待ってたから」


 待ってた、という言い方があまりに自然で、少しだけぞっとする。


「やめとく」

 夕が即答する。

「私はそういう“待ってる遊具”系もう無理」

「分類するなよ」

 俺が言うと、夕は真顔で返した。

「必要でしょ」


 必要、かもしれない。


 結局、その日はブランコではなく、日時計のまわりを三人でぐるぐる歩くことになった。傍から見ればかなり変な光景だが、夕凪公園ではもう何が普通かわからない。


 歩きながら、花音がぽつりと言う。


「恒一」

「何」

「もし、私が少し見えにくくなっても」

「やめろ」

「まだ最後まで言ってない」

「最後まで聞くの嫌なんだよ」

「……じゃあ、覚えてて」


 そこで言葉が切れる。

 俺は立ち止まった。


「何を」

「私がいたこと」

「そんなの当たり前だろ」

「当たり前じゃないから言ってるの」


 花音は、まっすぐ俺を見ていた。


 その視線だけは、いつもよりずっとはっきりしていた。輪郭が曖昧になっても、そこだけは削れないみたいに。


「夕も」

 花音が言う。

「うん」

 夕が、小さく答える。

「忘れない」

「ありがとう」


 その会話のあと、公園の空気がほんの少しだけ静かになった。風も、遠くの車の音も、全部一段遠のくみたいに。


 嫌な静けさだった。


「……何か来る」

 夕が言う。

「来るって何が」

 俺が聞いた瞬間、日時計の影がすっと縮んだ。


 太陽の位置とは合わない。

 ありえない速さで、影が短くなる。

 そして、真下に落ちた。


「おい」

 俺が思わず声を上げる。


 石台の目盛りの上に、影とは別の黒い染みみたいなものが広がっていく。液体のようでいて、立体感がない。地面じゃなく「時間」そのものに染みができたみたいな見え方だった。


 花音が一歩下がる。

 夕が俺の腕をつかむ。


 黒い染みの中から、ぼんやりと輪郭が浮かぶ。


 女の子だった。

 制服姿。

 うつむいていて顔は見えない。

 ただ、片手にノートを抱えている。


「……佐伯?」

 思わず、青いノートの名前が頭に浮かぶ。


 その瞬間、染みの輪郭がぶれた。

 女の子の顔が少しだけ持ち上がる。

 でも、目鼻立ちは見えない。白く抜けている。消しゴムで何度もこすった紙みたいに。


 花音が低い声で言った。

「名前を呼ばないで」

「え」

「今はまだだめ」


 夕の指先に力が入る。

「これ、何」

「待ってた残り」

 花音が答える。

「戻れなかったほう」


 黒い輪郭が、ゆっくりこちらへ向く。

 ノートを抱えた腕がきしむみたいに上がる。

 その先が、花音を指した。


 ――ちがう


 声がした。


 耳で聞くというより、頭の奥に直接落ちてくるみたいな声だった。


 ――それは、ちがう


 花音の顔から、表情が消える。

 さっきまで少し透けていた輪郭が、逆に硬くなる。擬態がいちばんうまくいっていた頃よりも、ずっと人間っぽく、ずっと人間じゃない顔だった。


「花音」

 俺が呼ぶと、彼女は俺を見ないまま言った。

「恒一、夕を連れて離れて」

「でも」

「今は」


 そこで、やっと俺のほうを見た。


「今は、私じゃないとだめ」


 その言い方は、前にジャングルジムの前で言ったときと似ていた。でも、あの時より切迫している。


「何なんだよ、ほんとに」

 夕が震える声で言う。

「あなた、何なの」


 花音は数秒だけ黙って、それから、静かに答えた。


「たぶん、ここに残りたかったもの」


 夕が息を呑む。

 俺も何も言えない。


 黒い輪郭が一歩、こちらへにじむみたいに近づく。足音はない。でも距離だけが詰まる。


 ――かえして

 また声がする。

 ――そのままじゃ、ちがう


「返せないよ」

 花音が言う。

「私はもう、それだけじゃないから」


 言葉の意味はすぐにはわからなかった。

 けれど、その“それだけ”の中に、桜の下の忘れ物や、公園に縛られた記憶や、誰かの願いみたいなものが全部まとめて入っているんだと、直感でわかった。


 黒い輪郭が、さらに近づく。


 花音の足元の影が、大きく揺れた。


 そして次の瞬間、彼女の影だけが日時計のほうへ引っぱられた。


「花音!」


 叫ぶ。反射的に腕をつかもうとしたが、指先が空を切る。そこにあるはずの輪郭が、一拍ずれていた。見えている場所と、実際に存在している場所が少しずれているみたいだった。


「相沢!」

 夕の声が飛ぶ。

「危ない!」


 黒い染みが、俺の足元まで伸びてきていた。慌てて後ろへ下がる。


 花音が低く言う。

「見ないで」

「無理だろ!」

「見たら、そっちに残るから」


 何が、とは聞かなくてもわかる。記憶だ。視線だ。認識だ。この公園の怪異は、たぶんそういうものでできている。


 俺は歯を食いしばって、まともに染みを見ないようにする。けれど、視界の端にはどうしても入る。ノートを抱えた白い顔。花音の揺れる輪郭。日時計の真下で重なりかける二つの影。


 夕が俺の袖を引く。

「一回離れよう」

「でも」

「今あんたが行ってもどうにもならない!」


 正しい。


 それがいちばん腹立たしい。


 数歩だけ後退する。花音は日時計の前に立ったまま、黒い輪郭と向き合っていた。二人のあいだに会話はない。いや、言葉じゃないやり取りがあるのかもしれないが、少なくとも俺たちには聞こえない。


 ただ、空気だけが重い。


 そして、花音がふっと小さく息をついた。


「……わかった」

 誰に向けたものとも知れない声。


 その瞬間、黒い輪郭がほどけるように崩れた。墨を水に落としたみたいに広がり、日時計の台座を一周して、それから地面へ吸い込まれて消える。


 あとに残ったのは、古い石の台座と、夕方の傾ききった光だけだった。


 しばらく誰も動かなかった。


 最初に膝から崩れたのは花音だった。


「おい!」

 駆け寄る。今度はちゃんと腕をつかめた。冷たい。前よりずっと冷たい。


 花音は細く息をしている。意識はあるらしいが、焦点が少しぼやけていた。


「平気か」

「……少し、だめかも」

「だめかもって何だよ」

「薄い」

「またそれかよ」

「うん」


 夕も駆け寄ってきて、しゃがみ込む。

「花音さん、立てる?」

「たぶん」

「その答えやめて」


 夕の声は強いのに、少し震えていた。


 花音は俺の肩に手を置いて、ゆっくり立ち上がる。でも重さがほとんどない。支えている感覚が薄いことが逆に怖い。


「さっきの、何だった」

 俺が聞く。

「だから」

 花音はかすれた声で言う。

「ここに残りたかったもの」

「お前も、その一部なのか」

「……たぶん、最初は」


 夕が息を止める気配がした。


「最初は?」

 俺が聞く。

「でも今は、少し違う」

「何が違う」

「恒一と話したこととか、夕にクッキーもらったこととか、プリンの味とか」

「……」

「そういうのが増えたから、もう元の形だけじゃない」


 それは、救いみたいにも聞こえたし、逆に壊れやすさの証明みたいにも聞こえた。


 花音はふらついていた。夕がすぐに反対側から肩を支える。


「とにかく座ろ」

 夕が言う。

「今はもうそれ以上聞かない」


 三人でベンチまで移動する。


 座った花音は、いつもよりさらに静かだった。夕暮れの色がだいぶ薄れて、夜との境目が近づいている。こんな時間まで花音がはっきり残っているのは、今までなかった。


 それなのに、彼女はどんどん不安定に見える。


「ねえ」

 夕がぽつりと聞く。

「今まで、ずっとこういうの一人でやってたの」


 花音は少しだけ考えてから、首を振った。

「一人、っていうのも違うけど」

「何それ」

「ここが一緒だから」

「そういう答え方ほんとやめて」

「ごめん」


 夕は苛立ったように息を吐いて、それから少しだけ目を伏せた。


「……私、あんたのこと、まだよくわかんない」

「うん」

「たぶんこれからも、そんなにわかんないと思う」

「そうかも」

「でも、消えるのは嫌」


 それは、夕らしくないくらいまっすぐな言葉だった。


 花音が少し目を丸くする。

 それから、ゆっくり笑った。


「ありがとう」

「お礼で済ませないでよ」

「うん」


 俺はそのやりとりを見ながら、胸の奥が妙にざわついていた。


 花音はたぶん、公園に残った何かだ。

 誰かの記憶、願い、未練、あるいはその混ざりもの。

 完全な人間じゃない。

 最初から線の上にいない存在。


 それでも今、目の前で弱っているのは、クッキーの感想が変で、プリンの甘さに驚いて、俺に「ちゃんといてね」と言った、白栖花音だった。


 そこを切り分ける気になれなかった。


 たぶん、もう。


 空を見上げると、夕焼けはほとんど終わっていた。公園全体が薄い青に沈み始めている。


 花音が、それを見て小さくつぶやく。


「そろそろ、時間がない」


「何の」

 俺が聞く。


 花音は少し迷うようにしてから、答えた。


「たぶん、選ぶ時間」


 その言葉で、夕も俺も黙った。


 何を選ぶのか。

 聞かなくても、なんとなくわかってしまう。


 公園に縛られたままでいるか。

 外へ出ようとして崩れるか。

 あるいは、もっと別の形になるか。


 そして俺たちもまた、選ばされるんだと思った。


 ここをただの気味の悪い場所として切り捨てて現実へ戻るのか。

 それとも、曖昧でも不安定でも、この夕暮れの続きに手を伸ばすのか。


 夕が先に口を開いた。


「今日、一人にしないから」

「夕」

「何」

「それはたぶん正しい」

「“たぶん”うつってるし」

「しょうがないだろ」

「よくない」


 いつものやりとりなのに、少しだけ救われた。


 花音はそんな俺たちを見て、静かに目を細めた。


「ねえ、恒一」

「ん」

「もし、私がここじゃなくなるなら」

「やめろって」

「最後まで聞いて」

「……」

「そのとき、連れてってくれる?」


 それは、今までで一番はっきりしたお願いだった。


 公園の外へ。

 現実の側へ。

 この町のどこかへ。

 あるいはもっと遠くへ。


 その意味全部を含んでいる気がした。


 俺はすぐに答えられなかった。


 夕も同じだった。


 地方の閉塞感とか、変わらない日常とか、そういう大きな言葉にすれば簡単だ。でも本当に重いのは、そういう抽象じゃない。ここから一歩出ること。今ある形を崩すこと。花音を「公園の何か」のままにしないこと。そしてその結果、今の俺たちの関係が全部変わるかもしれないこと。


 変わりたい。

 でも壊したくない。


 その矛盾の真ん中に、ずっと立っていた気がする。


「……考えさせろ」

 やっとそれだけ言うと、花音は少し笑った。

「うん。恒一、そういう顔すると思った」

「悪いか」

「ううん。ちゃんとしてる」


 それを言われると、夕が不満そうに口を開く。


「それ、今は私の担当でしょ」

「担当制なのか」

 俺が言うと、夕は真顔で答えた。

「そうだよ」

「初耳だ」

「今決めた」


 花音が少しだけ笑う。

 その笑い方が、いつもより弱いのに、いつもより人間らしく見えた。


 その日、完全に夜になる前に、公園を出た。


 花音は十字路までは来られなかった。出口のところで足を止めて、少し名残惜しそうにこちらを見る。


「今日はここまで」

「送るの無理か」

 俺が聞くと、花音はうなずいた。

「うん。まだ公園のほうが近いから」

「近いって何に」

「私に」


 それが今の問題の核心なんだろう。


 夕が花音を見て言う。

「明日も来る?」

「たぶん」

「じゃなくて」

「来たい」

「……なら来て」


 夕の言い方はぶっきらぼうだったが、拒絶ではなかった。


「恒一」

 花音が俺を見る。

「ん」

「忘れないでね」

「何を」

「今日、私がちゃんとここにいたこと」


 そんなの忘れるわけがない、と思った。

 でももう、そう言い切ることすら少し怖かった。


「覚えてる」

 だから、短くそう答えた。


 花音は満足そうにうなずいて、それから公園の奥へ歩いていった。振り返らない。その背中が薄くなる前に、俺たちは先に帰り道へ出る。


 道の途中、夕が聞いた。


「……どうするの」

「何が」

「決まってるでしょ。あの子のこと」

「わからない」

「正直だね」

「そっちこそ」

「私もわかんないよ」


 夕はいつもより少し小さい声だった。


「でも」

「でも?」

「現実に戻れ、って言うつもりだったのに」

「うん」

「今はそれだけじゃダメな気がする」


 その言葉に、俺は少し驚いた。


 夕は現実側の人間だ。曖昧なものを嫌って、ちゃんと線を引こうとする。そんな夕が、「それだけじゃダメ」と言う。それはたぶん、花音が少しずつ俺たちの日常に入り込んだせいだし、俺たちのほうも少しずつ花音の曖昧さに触れてしまったせいだ。


「じゃあ、一緒に考えるか」

 俺が言うと、夕は少しだけ目を丸くした。

「今さら?」

「今さらだな」

「遅い」

「悪かった」

「ほんとに」


 それでも、夕は少しだけ笑った。



 その夜、俺は久しぶりに進路希望調査の紙をじっと見た。


 第一志望。第二志望。志望理由。


 書けないままだった欄に、少しだけ文字を入れてみる。

 県外の大学名をいくつか。

 曖昧な興味。

 逃げみたいな理由。

 それでもゼロよりはましな何か。


 公園を出ること。

 町を出ること。

 変わること。


 全部、つながって見えた。


 スマホが震える。夕からだった。


『明日、早めに行く』


『わかった』


『一人で変なこと決めないで』


『お前もな』


 既読がついて、しばらくしてから返ってくる。


『私はちゃんとするから』


 少し間を置いて、もう一件。


『相沢もして』


 俺は思わず笑ってしまった。

 それから、短く返す。


『努力する』


 机の上の紙に目を戻す。


 窓の外は夜で、公園のことは見えない。でも、見えないからといって、そこにないわけじゃない。


 花音は、ここに残りたかったもの。

 でも、もうそれだけじゃない。


 だったら俺は、どうする。


 公園に留まるのか。

 外へ連れていくのか。

 あるいは、自分も境界に立つのか。


 たぶん、もう選ばないふりはできない。

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