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第二章 日常と怪異の混線 その2

 砂場の足跡を見つけてから、弁当の時間は妙にぎこちなくなった。


 夕は明らかに早く帰りたがっていたし、俺も平気な顔をするのに少し疲れていた。花音だけが、卵焼きを箸で持ち上げては角度を変えて見たり、唐揚げの衣を不思議そうに観察したりしていた。


「食べる前に研究するな」

 俺が言うと、花音は真顔で答えた。

「研究じゃないよ。確認」

「何を」

「おいしそうって、どういう形かなって」

「そんなの食べればわかるでしょ」

 夕が言う。

「うん。でも見てる時間も好き」


 そう言って、花音はようやく卵焼きを口にした。少し噛んで、飲み込むまでやたら慎重だったのに、飲み込んだあとは目を細めた。


「やさしい」

「味の感想それ?」

 俺が言う。

「違う?」

「間違いではないけど、珍しいな」

「夕が作ったの?」

 花音が聞く。


 夕は一瞬だけ言葉に詰まった。

「……少しだけ」

「へえ。すごい」

「全部じゃないから」

「でも、並べたのは夕だよね」

「まあ」

「じゃあ、やっぱりすごい」


 夕は露骨に目をそらした。こいつは面と向かって褒められるのに弱い。


「ねえ」

 花音が続ける。

「明日もある?」

「あるわけないでしょ、毎日作って持ってくるわけじゃ」

「じゃあ今度」

「今度、って」

「お弁当、いいね。夕方に合う」

「夕方に合う食べ物って何だよ」

 俺が言うと、花音は少し考えた。


「ちゃんと誰かが作ったもの」

「重いな」

「でも、そういうのって色があるでしょう」

「色?」

「うん。家の色とか、気分の色とか」


 よくわからないようで、わかる気もした。コンビニのパンと家の弁当の違いなんて、栄養とか値段とか以外にもたしかにある。そういうものを、花音は別の方向から見ているのかもしれない。


 夕が弁当箱を閉じながら、わざとらしく咳払いした。


「で。今日は結局どうすんの」

「何を」

 俺が聞く。

「ノート」

「ああ」


 花音がすっと表情を引き締める。

「戻したほうがいいよ」

「どこに」

「桜の下」

「前と同じ場所か?」

「ううん。持ち主が置いたところに近いところ」

「わかるのか」

「少し」


 少し、というのが頼りない。でも、今までの流れを考えると、下手に他人の理屈を持ち込むより花音に従ったほうがいい気もした。


「今持ってない」

 俺が言う。

「家にある」

「じゃあ、取りに帰るの?」

 夕が顔をしかめる。

「また戻ってくるの?」

「そうなるな」

「やめなよ、もう今日」

「今日のうちがいい」

 花音が言った。

「明日になると、少し混ざるから」

「何が」

「ここのことと、恒一の部屋のこと」


 嫌すぎる表現だった。


 夕も同じことを思ったらしい。

「それもうホラーの説明じゃん」

「たぶん」

「その“たぶん”腹立つ」


 でも、花音は本当に困っているとき、逆に声が静かになる。今がそれだとわかった。


「わかった」

 俺は立ち上がった。

「取ってくる」

「私も行く」

 夕が即答する。

「別に一人でいいだろ」

「よくない。あんた一人だと、途中で変なもの拾ってきそう」

「そこまで信用ないか」

「今のあんたにはない」


 ひどいが否定もできない。


 花音はベンチに座ったまま、俺たちを見上げた。

「私はここで待つ」

「一緒に来ないのか」

「今日は公園の外、少し合わない」

「合わない、便利だな」

「ほんとだよ」


 その答え方が少し子どもっぽくて、妙に笑いそうになる。


 夕と二人で公園を出る。住宅街の道に出た途端、さっきまでの薄い膜みたいな空気が少しだけ剥がれる感じがした。


「……ねえ」

 夕が歩きながら言う。

「何」

「あの子といるとさ」

「うん」

「普通の会話してるつもりなのに、たまに自分まで変なこと言いそうになる」

「わかる」

「でしょ」

「慣れてくると余計にな」

「慣れたって言わないで。怖いから」


 夕は本気でそう言ったあと、少しだけ声を落とした。


「でも」

「でも?」

「さっきのお弁当、おいしいって言ったのは……ちょっと嬉しかった」

「ちょろいな」

「うるさい」

「だってあんな真顔で言われたらな」

「そういう意味じゃないし」


 そう言いながら、夕の耳が少し赤くなっていた。


 家に寄って青いノートを取ってくる。引き出しを開けると、昨日よりさらに存在感が薄くなっていた。そこにあるのに、目がうまく焦点を合わせたがらない感じがする。


 ノートを手にした瞬間、指先が少し冷えた。


「最悪」

 夕が言う。

「ほんとに持つの?」

「今さらだろ」

「私、触りたくない」

「触らなくていい」


 そのまま公園へ戻る。


 夕方の色はさっきより深くなっていた。オレンジより赤に近い。花音は約束どおり桜の木の下で待っていた。誰もいない公園の中で、彼女だけが最初からそこに組み込まれていたみたいに自然に見えた。


「おかえり」

「ただいまじゃないだろ」

 俺が言うと、花音は少し笑う。

「でも、戻ってきたから」

「これ」

 ノートを見せる。


 花音はすぐには受け取らず、桜並木の奥へ歩き出した。

「こっち」

「またピンポイントだな」

「覚えてるから」

「誰が」

「たぶん、この子」


 そういう言い方をされると、ノートの持ち主がまだどこかにいるみたいで嫌だった。


 花音が止まったのは、並木の中でも少し奥まった場所だった。ベンチも遊具も見えにくい、木の根がいびつに張り出したところだ。地面には去年の花が乾いて土に混ざったみたいな、古い桜色が染みついていた。


「ここ」

「置けばいいのか」

「うん。でも開いて」

「何で」

「最後のページ」

「見たくないな」

「見ないと、閉じない」


 何が、とは聞かなかった。たぶん答えが気持ち悪い。


 しゃがみ込んでノートを開く。最後のページには、昨日見た文字の下にさらに続きが増えていた。


 ――会いたい

 ――今度は忘れないように

 ――桜の下で待つ


「うわ」

 夕が後ろで小さく言った。

「ほんとに増えてる……」


 花音が、俺の手元を覗き込む。

「ここで大丈夫」

「置くぞ」

「うん」


 ノートをそっと地面に置く。


 風が吹いた。今度は強めだった。桜の花びらが、もうほとんど残っていない枝から、それでも何枚か剥がれて落ちてくる。ノートのページがぱらぱらと勝手にめくれた。白い紙面が何度も見えて、最後にまた閉じる。


 それだけ。


 何か劇的なことが起きるのを少し警戒していたが、拍子抜けするくらい何もなかった。


「……終わり?」

 夕が聞く。

「たぶん」

 花音が言う。

「静かになった」


 俺は念のためノートを見下ろす。さっきまであったはずの表紙の青色が、もう少しだけ褪せて見えた。今ここで拾い直したら、たぶん前と同じものではない。そんな感じがした。


「帰るか」

 俺が言うと、花音はうなずいた。


 三人で並木を戻る途中、日時計の前を通る。


 そのとき、花音がぴたりと足を止めた。


「どうした」

「影」

 彼女が言う。


 俺と夕も見る。


 日時計の針が作る影が、石台の目盛りと合っていない。それだけなら前にも見た。でも今回は違った。影がじわじわ動いている。太陽の動きとは別の速さで、ゆっくりと。


「……何あれ」

 夕が息を呑む。


 影は本来の位置から少しずつずれて、地面へ落ちた。その先端が、まっすぐ花音の足元まで伸びてくる。


 花音は動かない。


「おい」

 俺が声をかける。

「うん」

「避けろよ」

「まだ大丈夫」

「まだって何だよ」


 影の先が花音の靴先に触れる。その瞬間、彼女の輪郭がほんの少しぶれた。水面に映ったものを突いたみたいに、肩の線が揺れる。


 俺は反射的に花音の腕をつかんだ。引き寄せる。


 花音の体が軽い。軽すぎて、一瞬、本当に引っかかりのないものを抱き寄せたみたいだった。


 影はそのまま地面の上を数センチ進み、そこで止まった。


「……っ」

 夕が青ざめる。

「今の、見たよね」

「見た」

 俺も答える。


 花音は少し息をついていた。苦しそうではない。でも、明らかに消耗している感じだった。


「何だったんだ」

「たぶん、測られた」

「何を」

「どれくらい、ここにいるか」


 まるで説明になっていないのに、嫌な意味だけは伝わる。


「それ、まずいのか」

「少し」

「少しかよ」

「でも、恒一が引いたから平気」

「……ならよかったけど」

「うん。よかった」


 そう言って笑う花音の頬は、少し透けて見えた。夕もそれに気づいたらしく、珍しく茶化さず真面目な声で言う。


「あんた、ほんとに大丈夫?」

「大丈夫」

「強がってない?」

「少しだけ」

「あるんだ」


 夕は眉を寄せたまま、でもこれ以上は責めなかった。


 そのあと、何となく公園を出る流れになった。


 今日は早めに外へ出たのに、まだ空は十分に夕方の色を残している。境界が少し曖昧だ。家路につくにはきれいすぎる時間だった。


「……何か、その」

 夕が不意に言う。

「何」

 俺が返すと、夕は視線をそらしたまま口をとがらせる。

「帰るの、ちょっと早いから」

「うん」

「駅前のコンビニ寄る?」

「急に普通だな」

「悪い?」

「いや」

「花音さんも来る?」

 夕が聞く。


 花音は少し考えてから、うなずいた。

「入口の近くまでなら」

「近くまで?」

「中は明るすぎる」

「吸血鬼か」

 俺が言うと、花音は首をかしげた。

「似てる?」

「知らないけど、たぶん違う」

「じゃあよかった」


 三人でコンビニへ向かう。


 この組み合わせにも少し慣れてきた。俺と夕だけなら昔からの帰り道だし、そこに花音が混ざると、急に現実の端がめくれる。でも、今日はその二つがわりと普通に並んでいた。


 コンビニの前のベンチに花音を座らせて、俺と夕で店に入る。


「何か飲む?」

 俺が聞くと、夕が小声で答えた。

「どうすんの、あの子。飲めるの?」

「飲めるやつとそうじゃないやつがあるっぽい」

「アバウトすぎる」

「しょうがないだろ」

「……ミルクティーなら昨日ちょっと気に入ってたよね」

「覚えてるんだ」

「うるさい」


 結局、俺はカフェオレ、夕は炭酸水、花音にはミルクティーを買った。ついでにプリンもひとつ。なんで買ったのかは自分でもよくわからない。


 外へ出ると、花音がガラス越しに店内を眺めていた。


「おまたせ」

「中、きれいだね」

「コンビニをそんな目で見るやつ初めて見た」

 夕が言う。


 花音はミルクティーを受け取って、前よりは少しだけ慣れた手つきでストローを刺した。ひとくち飲んで、少し考える顔になる。


「どうだ」

 俺が聞く。

「昨日より、ちゃんと甘い」

「昨日も甘かっただろ」

「今日は少し、私のほうが近いから」

「何に」

「人に」


 その返答に、夕が飲みかけの炭酸水を危うく吹きそうになった。


「何その言い方」

「だって、クッキー食べて、ノート返して、影に触られて、コンビニの前にいるから」

「その並びにコンビニが入るの変だろ」

 俺が言う。

「でも大事だよ。人っぽい」

「人っぽさの基準どうなってんの」


 花音はプリンのカップを見つめた。

「これも食べていい?」

「食べられるなら」

「挑戦」


 スプーンで少しすくう。口に運ぶ。飲み込む。数秒後、目を見開く。


「どうした」

「やわらかい」

「プリンだからな」

「すごい。崩れてるのに、ちゃんと甘い」

「感想が毎回新鮮すぎる」

 夕が呆れたように言う。でも、その顔は少しだけ笑っていた。


 花音が二口目を食べる。

「これ、好き」

「そうか」

「うん。覚えたい味」


 その一言で、妙に胸がざわついた。


 覚えたい。

 花音にとって、それはたぶん普通の人間よりずっと重い言葉だ。


 夕もそう感じたのか、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと聞いた。


「ねえ、花音さん」

「うん」

「あなたってさ」

「うん」

「……消えたり、しないよね」


 かなり踏み込んだ質問だった。


 花音はミルクティーのストローをくわえたまま少し考えて、それから視線を空へ向けた。電線の向こうに、夕焼けの残りが細く引っかかっている。


「しないようにしてる」

 やがて彼女は言った。

「でも、ときどき少し薄い」

「それって」

「見つけてもらえないと、困る」

「……」

「でも今は、大丈夫だよ。たぶん」


 夕が顔をしかめる。

「その“たぶん”やめてって言ってるのに」

「じゃあ、八割くらい」

「生々しいな」

 俺が言うと、花音は少し笑った。


「恒一がいるし、夕もいるから」

「私もカウント入るんだ」

 夕が言う。

「入るよ。ちゃんとしてるから」

「そこまだ言うんだ」

「好きだよ、その感じ」


 夕は完全に反応に困っていた。怒ればいいのか照れればいいのかわからない顔。見ていて少し面白い。


「何笑ってるの」

 すぐ睨まれた。

「いや、別に」

「別にじゃない」

「二人とも、近いね」

 花音が言う。


「幼なじみだからな」

 俺が答える。

「うん。でも、それだけじゃない」

「何だよ」

「長く同じ景色を見てる感じ」


 その言い方に、夕が少しだけ静かになる。


 たしかに俺たちは、この町の同じ道をずっと見てきた。同じ学校、同じ公園、同じ帰り道。退屈だと思いながら、その退屈の形まで共有してきた。


「……あんた、変なくせにたまにまともなこと言うよね」

 夕がぼそっと言う。

「逆かも」

 花音が答えた。

「たまに変なくらいが、人にはちょうどいいよ」

「何その名言っぽいやつ」

「名言?」

「今のは忘れていい」

「えー」


 そのやりとりが、思ったより自然で、俺は少し驚いた。夕はまだ花音を信用していない。花音の正体は相変わらず不明だし、公園の気味悪さもなくなっていない。それでも、こうしてコンビニ前のベンチでプリンを食べながら話していると、三人の距離だけは少しずつ現実の形に近づいている気がする。


 曖昧なまま、少しずつ。


 その帰り道、十字路で夕と別れるとき、夕が俺をじっと見た。


「何」

「別に」

「その言い方やめろ」

「……今日のあんた、ちょっと楽しそう」

「そうか」

「うん」

「悪いか」

「悪くはない」

「じゃあいいだろ」

「でも」

「でも?」

「ちゃんとしなよ」


 やっぱり最後はそれだった。


 夕が去って、俺と花音だけが残る。前に消えた十字路まで来ると、花音は足を止めた。


「今日もここまで」

「そうか」

「うん」

「なあ」

「何?」

「さっきの影のやつ」

「ああ」

「お前、本当に平気なのか」

「……今日は大丈夫」

「今日は、ってことは」

「明日はわからない」


 その答えに、胸が少し重くなる。


「そういうの、平気な顔で言うなよ」

「ごめん」

「謝るな」

「じゃあ、ありがとう」

「何で」

「聞いてくれたから」


 真っ直ぐに言われると、何も返しづらい。


「恒一」

「ん」

「明日も来る?」

「行くと思う」

「よかった」


 またその言葉だ。でも今は、少しだけ意味がわかる気がした。


 彼女にとって、俺が来ることはただの約束じゃない。存在の輪郭を保つための、何かに近いのかもしれない。


「じゃあな」

 俺が言うと、花音は一歩下がって、少しだけ首をかしげた。

「じゃあね」


 その瞬間、街灯がぱっとついた。


 白い光が落ちる。花音の影が一拍遅れて伸びる。


 その遅れを見たのは俺だけだった。



 夜、部屋で机に向かう。


 進路希望調査はまだ空欄のままだった。でも、その隣のノートには、最近のことが少しずつ増えている。


 四月十六日。砂場に足跡。

 四月十七日。青いノートを返した。

 四月十七日。日時計の影が花音に触れた。

 四月十七日。花音はプリンが好きだった。


 最後の一文だけ、浮いている気がした。


 でも、たぶん大事なのはそっちだ。


 怪異の気配とか、影の異常とか、消えた生徒のノートとか。そういうものももちろん怖い。でも俺が本当に覚えておきたいのは、コンビニ前で花音がプリンを食べて「覚えたい味」と言った顔のほうだった。


 スマホが震える。夕からだ。


『今日のこと、ちゃんとメモした?』


『した』


『ならいい』


 そのあと、少し間を置いてもう一件来る。


『……花音さん、プリン好きなんだね』


 俺は少し笑って返信した。


『覚えたい味らしい』


 数秒で既読がつく。


『何それ』

『重い』

『わかる』


 それだけのやり取りなのに、少し安心した。


 ノートを閉じ、机の電気を消す。


 窓の外の夜は静かだった。

 でも静かなだけじゃない。昼間の続きとしての夜だった。今日をちゃんと引き受けたあとの夜。


 ベッドに入って目を閉じると、夕焼けの公園が浮かぶ。

 桜の木。

 日時計。

 揺れるブランコ。

 少し遅れる影。

 プリンの甘さに驚く花音の顔。


 そして、その全部を見ながら、「ちゃんとしなよ」と言う夕の声。


 怪異と日常はまだはっきり分かれていない。

 たぶん、この先もっと混ざる。

 戻れなくなるかもしれない。


 それでも、今のところ俺はまだ、そこへ行きたいと思っている。


 少なくとも、明日の夕方までは。

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