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第二章 日常と怪異の混線

 次の日から、夕凪公園へ行くことは、ほとんど習慣になった。


 習慣と言うと聞こえはいいが、要するに毎日通っているだけだ。学校が終わる。適当に授業の内容を頭から流す。クラスメイトの雑談を聞き流す。進路の紙をまだ出していないことを担任に軽く釘を刺される。夕に「今日も行くの?」と半分呆れた顔をされる。そうして放課後になると、気づけば足が公園のほうへ向かっている。


 理由は相変わらず曖昧だった。


 花音に会いたいから、というのはある。

 ただ、それだけだと認めるのも少し癪だ。


 公園で起きることは気味が悪いし、花音自身もどう考えても普通じゃない。それでも、あそこだけは退屈じゃなかった。変なことが起きるから、じゃない。変なことが起きても、そこで時間を潰している自分を少しだけ好きでいられるからだ。


 これはたぶん、かなり面倒な感情だと思う。


 その日の夕方、公園には先に花音がいた。


 日時計の台座に腰かけて、散った桜の花びらを指で弾いている。落ち着きのない遊び方に見えるのに、本人の動作は妙に静かだった。


「危ないだろ、そこ」

 俺が言うと、花音が顔を上げた。

「あ、恒一」

「そこ、座る場所じゃない」

「でも今日は、少し高いところの気分」

「そんな気分あるのか」

「あるよ。人にも」

「人扱いを先に要求してくるな」


 花音はくすっと笑って、台座から飛び降りた。着地の音が、やっぱり少し遅れて聞こえた気がする。


「今日、ちゃんといたね」

「まあ」

「よかった」

「それ好きだな」

「好きだよ」

「言葉として?」

「それもあるし、状態としても」


 意味がわかりそうでわからない。


 俺はベンチに座る。花音も隣に座った。これももう定位置みたいなものだった。最初の頃は近すぎて落ち着かなかったが、人間は慣れる生き物だ。慣れてしまうと、それはそれで少し危ない気がする。


「夕は?」

 花音が聞く。

「今日は委員会とか言ってた」

「さみしいね」

「誰が」

「恒一が」

「別に」

「別に、じゃない顔してる」

「それはお前の見方が雑なんだよ」

「ううん。私はわりと丁寧」


 そんなことを言いながら、花音は俺の袖を見た。


「まだ持ってる?」

「何を」

「紙」

「……何で知ってる」

「入れたから」


 あっさり言われて、言葉を失う。


「お前が入れたのかよ」

「うん」

「いつ」

「たぶん、帰る前」

「気づかないだろ普通」

「気づかなかったね」

「怖いことをさらっと言うな」


 花音は少し首をかしげる。

「でも、見つけてくれた」

「そりゃポケットに入ってたらな」

「見つからないこともあるよ」


 その言い方に、また少しだけ重さがあった。


 俺は昨日の紙切れを思い出す。ちゃんといてね。あれはたしかに花音の言葉だった。でも、どうして紙にしてまで残したのかはわからない。


「忘れたくなかったの」

 花音が言った。

「何を?」

「恒一に、ちゃんといてほしいこと」

「……人の考えてること読むなよ」

「読んでないよ。顔に出てるだけ」


 それを言われると反論しづらい。


 ベンチの下に目をやる。例の黒いノートはなかった。あったらあったで嫌だし、ないならないで妙な感じがする。


「今日は何も落ちてないな」

「あるかも」

「どこに」

「見えてないだけで」

「それ言い出したら何でもありだろ」

「ここでは、わりとそう」


 ほんと便利だな、その理屈。


 俺がそう思ったのを読んだみたいに、花音が笑う。


「今日は、こっち」

 立ち上がって、桜並木のほうへ歩き出した。


 ついていく。遊歩道にはまだ花びらが残っていて、歩くたび靴裏に薄く貼りつく。夕方の光で、全部が少しだけきれいに見える。現実は大して変わっていないのに、色だけでごまかされる時間帯だ。


 花音が、一本の桜の木の下で止まった。


 根元に、ノートが落ちていた。


「おい」

「うん」

「何であるんだよ」

「桜の下の忘れ物だから」

「タイトルみたいに言うな」


 昨日の黒いノートとは違う。今度は淡い青色の表紙だった。角が擦れていて、女子が使いそうな小さいシールが貼ってある。


「また拾うのか」

「恒一が」

「お前は拾わないのか」

「私は、あんまり持てない」


 それも意味不明だが、もういちいち突っ込むのが面倒になってきた。


 しゃがんで拾う。表紙の内側に名前が書いてあった。


 二年A組 佐伯未羽


「名前あるじゃん」

「うん」

「今度こそちゃんと届ければ」

「その名前、学校で聞いてみる?」

 花音が言った。


「聞いてみるけど」

「たぶん、少し変だよ」


 嫌な前振りだ。


 ノートを開く。授業の板書らしきものと、端に小さな落書き。普通の女子高生のノートに見える。途中までは。


 後ろのページにいくにつれて、余白の書き込みが増えていた。


 ――いつも同じ時間にいる

 ――話しかけると普通

 ――でもたぶん違う

 ――白くてきれい

 ――忘れたくない


 俺はノートを閉じた。


「なあ」

「うん」

「これ、趣味悪いな」

「誰の?」

「公園の」

「そうかも」


 花音の返しは静かだった。


「知ってるやつか」

「少し」

「またそれか」

「でも、これはまだ新しいほう」

「新しいって」

「三年は経ってない」


 その言い方だと、古いやつもあるのか。


「ここって、そんなに人のもの落ちるのか」

「落とすんじゃなくて、置いていくんだよ」

「自分から?」

「忘れたくないとき、人はときどき置いていく」


 妙に詩的で、妙に納得してしまいそうになるのが嫌だった。


「意味わかんないな」

「わからないままでいいよ。届けるなら、明日までにしたほうがいい」

「なんで」

「それ以上経つと、名前が薄くなるから」


 名前が薄くなる。

 また曖昧な表現だ。でも、ノートを見下ろしたとき、本当に佐伯未羽という字が少しかすんだように見えて、背中が冷えた。


 その日は結局、ノートを持ち帰った。


 家に帰って中身を見返す気にはなれず、机の引き出しにしまう。しまったあとで、そのほうがまずかったんじゃないかと思ったが、もう遅い。


 翌日、学校で二年A組のやつにそれとなく聞いてみた。


「佐伯未羽?」

 同じ学年の男子が首をかしげる。

「そんなやついたっけ」

「前にいたとか」

「いや、知らん」


 別のやつにも聞いてみたが、反応は似たようなものだった。


 それを見ていた夕が、昼休みに弁当をつつきながら言った。


「何探ってんの」

「ちょっと」

「その“ちょっと”が一番信用ならない」

「二年Aに佐伯未羽っていたか聞いてただけ」

「誰それ」

「知らない」

「知らない人を探してる時点でおかしいでしょ」


 正論だ。


 夕は小さくため息をついた。

「相沢。ほんとにやめなよ、そういうの」

「何が」

「もう顔つき違う」

「そんなに?」

「前は退屈そうだったけど、今は面倒ごとに自分から近づいてる顔してる」

「それ褒めてる?」

「全然」


 そこで夕が少し声を落とす。


「……あの子と、まだ会ってるんでしょ」

「まあ」

「やっぱり」

「何だよ」

「ねえ、本気で聞くけど。可愛いからとかじゃないよね」

「何だその確認」

「大事でしょ」

「違うとは言わないけど」

「最低」

「最後まで聞けよ」

「聞いたらもっと最低かもしれないし」

「偏見だな」


 夕は呆れた顔をしたまま、卵焼きをひとつ箸でつまんだ。


「今日、帰り寄るから」

「どこに」

「公園に決まってるでしょ」

「委員会は」

「サボる」

「真面目キャラが崩れるぞ」

「今そこ気にしてる場合じゃないの」


 夕が本気だとわかったので、止めなかった。


 放課後、公園に行くと、花音はブランコの前に立っていた。


 夕凪公園のブランコは二台あって、片方だけ鎖が新しい。たぶん前に切れたんだろう。古いほうと新しいほうが並んでいるのを見ると、補修っていうより継ぎ接ぎみたいに見える。


「乗らないのか」

 俺が聞くと、花音が振り返った。

「押してくれるなら」

「面倒だな」

「面倒でもしてくれる?」

「……少しなら」


 花音が座る。スカートの裾を押さえる仕草は妙に普通だった。少しだけ安心しかけて、でも次の瞬間には、座っている姿が軽すぎることに気づく。ブランコの板が、体重をほとんど受けていないみたいに動かない。


 背中を軽く押す。


 花音が前に揺れる。

 帰ってくる。

 また押す。


「こういうの、好き」

「子どもか」

「子どもじゃないよ。普通の女子高生」

「毎回言うな、それ」

「大事だから」


 花音の髪が、揺れるたび夕陽を細かく裂いた。見ているだけなら、ただの放課後みたいだった。


「おーい!」


 そこへ夕がやってきた。制服のまま、鞄を肩にかけている。委員会をサボった罪悪感より怒りが勝っている顔だ。


「ほんとにいた」

「来ると思った」

 花音が言う。

「何その余裕」

「夕はちゃんとしてるから」

「その評価やめて」


 夕は俺の隣に立って、低い声で言う。


「何してんの」

「ブランコ」

「見ればわかる」

「じゃあ聞くなよ」

「そういうことじゃなくて!」


 花音はブランコを止めて立ち上がる。


「三人だと、少し狭いね」

「別に公園全体が狭いわけじゃないだろ」

 俺が言うと、花音は首を振った。

「ううん。夕方の幅の話」


 それを聞いて、夕がうんざりした顔になる。

「ほらまた意味わかんないこと言ってる」

「でも、ちょっとだけ本当だよ」

「だからそれが嫌なの!」


 夕は鞄の中から小さなタッパーを取り出した。


「何それ」

「クッキー」

「唐突だな」

「母さんが焼いたやつ。あんたどうせここでだらだらするなら、小腹空くでしょ」


 そう言いながら、俺に差し出す。ついでみたいな顔をしているが、たぶんわざわざ持ってきたんだろう。


「花音さんも食べる?」

「さん付けなんだな」

「距離感まだ決めてないから」


 夕らしい。


 花音はタッパーをじっと見た。

「きれい」

「今度は見た目か」

 俺が言う。

「いい匂いする」

「じゃあ食べられるでしょ」

 夕が言う。


 花音は一枚つまむ。動作が慎重すぎて、壊れ物でも扱ってるみたいだった。


「食べるの初めて?」

 夕が疑うように聞く。

「たぶん、あんまり」

「クッキーを?」

「ちゃんと誰かからもらうのを」


 その言葉に、夕が少し黙る。


 花音は口元まで持っていったが、すぐにはかじらない。匂いを確かめるみたいにして、それから小さくひとくち食べた。


 静かに噛む。

 飲み込む。

 そこで少し目を見開いた。


「どう」

 夕が聞く。

「甘い」

「そりゃクッキーだから」

「粉みたいなのに、ちゃんと形がある」

「感想が初心者すぎるだろ」

 俺が言うと、花音は真面目な顔でうなずいた。


「でも、おいしい」

 その一言に、夕の表情が少しだけゆるんだ。


「……そう」

「うん。ありがとう」

「別に。母さんのだし」

「でも、夕が持ってきた」

「まあ、そうだけど」


 夕は照れ隠しみたいに視線を逸らした。


 その空気が少しだけやわらいだとき、ブランコがひとりでに揺れた。


 三人ともそちらを見る。


 誰も座っていない、隣のブランコ。

 古いほうの鎖が、きい、きい、と小さく鳴る。


「……風?」

 夕が言う。

「風ないな」

 俺が答える。


 花音は揺れるブランコを見つめたまま、小さくつぶやいた。

「待ってる」


「誰が」

 夕が反射的に聞く。


「乗る人」


 その返答は、妙に自然だった。ブランコが誰かを待つなんておかしいのに、花音が言うと、夕方の公園ではそういうこともあるのかもしれないと思ってしまう。


 俺は近づいて、揺れているブランコの座面を手で押さえた。


 止まる。


 その裏側に、白いチョークみたいな粉で文字が書かれていた。


 ――のって


「おい」

「何」

 夕が俺の肩越しに覗き込む。

「最悪」

「うん」

 花音が言う。

「よくないね」


 夕が完全に顔をしかめる。

「こんなの、誰かのいたずらでしょ」

「たぶん」

 俺は言った。

「たぶんって言い方やめて」

「うつったんだよ」

「最悪」


 花音が、書かれた文字にそっと指を近づけた。

「消したほうがいいかな」

「触るな」

 思わず言うと、花音が少し驚いた顔をした。

「どうして」

「嫌な感じするだろ」

「恒一、ちゃんと嫌って言えるんだね」

「そこ褒めるとこか?」

「大事だよ」


 夕がスマホを取り出す。

「写真撮っとく」

「やめたほうがいい」

 花音が言う。

「何で」

「持って帰るから」

「写真が?」

「うん。このへんのものって、ときどきそう」


 夕の指が止まる。


「相沢」

「俺に聞くな」

「でも、前のノート持ち帰ったんでしょ」

「まあ」

「何もなかったの?」

「なくはなかった」

「何かあったの!?」


 そこで俺は、青いノートの話をざっくり説明した。佐伯未羽という名前。学校で誰も知らないこと。余白の書き込み。夕の顔色は説明に比例して悪くなっていく。


「……もうそれ、ただの怪談じゃないじゃん」

「最初からそうだろ」

「だから近づくなって言ってるの!」


 夕の言うことは正しい。でも、今の俺はその正しさだけで動ける感じじゃなかった。


 ブランコの文字は、見ているうちに少し薄くなっていった。消えているわけじゃない。粉が板に吸い込まれるみたいに、輪郭だけが曖昧になる。


「帰ろ」

 夕が言う。

「今日はほんとに」

「まだ早いだろ」

「早いとかの問題じゃない」


 そのとき、花音が空を見上げた。


「もう少しで、いい色になる」

「色?」

 俺が聞く。

「うん。いちばんきれいな時間」

「そんなの待ってどうする」

「デートっぽいこと」

「は?」

 夕が言う。

「何で今その単語出すの」


 花音は真顔のままだった。

「三人で公園にいて、おやつ食べて、夕方を待つの。たぶん少しデートに似てるよ」

「似てないでしょ!」

 夕が即答する。


 俺は少し笑ってしまった。夕が睨んでくる。

「何で笑うの」

「いや、急にラブコメみたいなこと言うから」

「今まで何だと思ってたの」

「怪談寄りの日常」

「最悪のジャンル分け」


 花音はそんなやりとりを見て、少し満足そうだった。


「ねえ、恒一」

「何」

「今度、お弁当持ってきて」

「急だな」

「食べるところ見たい」

「お前が食べたいんじゃなくて?」

「それもある」

「どっちなんだよ」

「両方」


 夕が呆れたようにため息をつく。

「それ、デートっていうか餌付けじゃん」

「違うよ」

 花音が言う。

「私はちゃんと、近づきたいだけ」

「さらっと重い」

 俺が言う。

「でも本当」


 またそうやって、真正面から来る。


 この町の人間は、もっと曖昧にしゃべる。空気を読んで、濁して、あとでどうとでも取れる形にして逃げる。花音の言葉は変なくせに、そういう逃げ方だけはしない。


 それが少し怖くて、少しだけ羨ましかった。


 空の色が深くなっていく。夕焼けが公園全体を薄い朱色で包む。日時計の影が長くのびて、桜の幹と重なり、ジャングルジムの足元まで届く。


 そのとき、花音の影だけが、また少し遅れた。


 俺は気づいたが、言わない。

 たぶん夕も気づいていた。でも何も言わなかった。


 言葉にすると、何かが決まってしまう。

 そんな理屈を信じるつもりはないのに、もう少しだけ信じてしまっている。


 三人でベンチに座る。


 夕が持ってきたクッキーを食べて、花音は二枚目に挑戦し、途中で少しむせた。俺が笑って、夕が「ほら、水」とペットボトルを渡して、花音が「水って難しいね」と真顔で言う。そんなやりとりが、たしかに普通の放課後みたいで、余計に質が悪かった。


 普通に見える。

 でも、普通じゃない。


 それでも、この時間が続けばいいと少し思ってしまう。


 暮れかけた公園で、誰もそのことを口には出さなかった。



 その夜、家に帰ると、机の引き出しの中の青いノートが半分だけ開いていた。


 ちゃんと閉じてしまったはずなのに。


 嫌な気分のまま近づく。ページの間から、細い紙片がのぞいていた。しおりみたいに。


 引き抜く。


 ノートの切れ端だった。

 そこに、見覚えのない字で短く書いてある。


 ――明日も、桜の下


 花音の字ではない。

 でも、どこかで見た気がする。


 青いノートを開く。昨日までなかったはずのページの端に、新しい書き込みが増えていた。


 ――見つけてもらえた

 ――まだ薄くならない

 ――でも白い子がいる


 そこで、インターホンが鳴った。


 びくっとして、紙を落としかける。


 こんな時間に誰だと思って階下へ降りると、玄関の前に夕が立っていた。制服じゃなく、部屋着の上にパーカーを羽織っている。かなり急いで来た顔だ。


「どうした」

「これ」

 夕はスマホを見せる。


 画面には、俺が昼に聞き込みした二年Aのやつからのメッセージが表示されていた。


『佐伯未羽って名前、昔の生徒名簿にあったかも。でも備考欄が空白で、転校か退学かも不明。記録変で気持ち悪いからやっぱなし』


「今来た」

 夕が言う。

「やっぱりいたんじゃ」

「“かも”ってレベルだけどね。でもそれより」


 夕は一度言葉を切ってから、俺をまっすぐ見た。


「なんか嫌な予感して来た」

「それだけで?」

「悪い?」

「いや」


 夕は昔から、理屈じゃなく勘で動くときがある。本人は認めないが、それは結構当たる。


「……入る?」

 俺が聞くと、夕は少し迷ったあとでうなずいた。


 部屋に通す。机の上に出しっぱなしになっていた青いノートを見て、夕が眉をひそめる。


「それ?」

「そう」

「うわ、ほんとにあったんだ」


 夕は近づいて、でも直接は触らずに覗き込む。


「字、普通だね」

「そうなんだよ」

「普通なのが逆に嫌」


 その感想はかなり正しい。


「なあ」

 俺は切れ端の紙を見せる。

「さっき増えてた」

「……は?」

「引き出し閉めてたのに」

「ねえ、ほんとに捨てようよそれ」

「捨てたらまずい気もする」

「何で」

「知らん。でも」

「“でも”で持ち帰るなっていつも言ってるでしょ!」


 夕は本気で怒っているというより、怖がっていた。怒ることで何とかしているだけだ。


 俺はノートの最後のページを開く。

 そこには新しい一文が増えていた。


 ――会いたい

 ――今度は忘れないように


「閉じて」

 夕がすぐ言った。

「見ないほうがいい」

「お前が言うんだな」

「今日の私はそっち側だから」


 言われるまま閉じる。


 部屋の中が妙に静かだった。時計の針の音だけが聞こえる。窓の外はもう完全に夜で、公園の時間じゃない。なのに、公園のものだけがこっちへ少しはみ出してきている感じがした。


「……相沢」

 夕が小さく言う。

「ん」

「あの子」

「花音?」

「うん」

「何」

「本当に、あんたの味方だと思う?」


 その質問に、すぐ答えられなかった。


 味方。

 敵。

 そういう単純な分け方が、花音には似合わない気がしたからだ。


「わからない」

 俺は正直に言う。

「でも、たぶん害そうとはしてない」

「“たぶん”」

「俺だってそう言うしかないだろ」

「……それが嫌なんだって」


 夕は唇を噛んだ。

「あんた、あの子には“たぶん”で許すのに、自分のことは全然許さない感じする」

「何だよそれ」

「変わりたいくせに、変わるための言い訳が怪異って最悪じゃん」


 言葉が胸に刺さる。


 それはたぶん、少し当たっていた。


 退屈な町。

 変わらない日常。

 そこへ突然入り込んできた、理解できない美少女。

 そんなもの、物語としては出来すぎている。

 だからこそ、俺はそこに意味を見たがっているのかもしれない。


「……帰る」

 夕が言った。

「送る」

「いい」

「でも」

「いいって。今日のあんた、ちょっと顔変だから」


 それだけ言って、夕は玄関へ向かう。引き止めようか迷ったが、結局できなかった。


 靴を履いて、ドアを開ける前に、夕が振り返る。


「明日も行くんでしょ」

「たぶん」

「やっぱり」

「……」

「だったら、私も行く」

「無理しなくていい」

「無理じゃない」

「委員会は」

「サボるって言ったでしょ」

「真面目キャラ」

「今ほんとにその話どうでもいい」


 少しだけ笑ってしまう。

 夕は呆れた顔をしたあと、でも最後にいつもより静かな声で言った。


「ちゃんと戻ってきてよ」


 その一言だけ、やけに重かった。


 ドアが閉まる。

 ひとりになる。


 机の上の青いノートは、さっきより少しだけ薄く見えた。


 俺はそれを引き出しにしまい直して、鍵までかけた。意味があるとは思えない。でも何もしないよりはましだ。


 布団に入っても、なかなか寝つけなかった。


 花音のこと。

 夕のこと。

 ノートのこと。

 公園のこと。


 目を閉じると、揺れるブランコの裏に書かれた文字が浮かぶ。

 ――のって


 夜の静けさの中で、それは妙に幼い声に聞こえた。



 翌日の放課後。


 俺が公園へ行くと、花音は桜の木の根元にしゃがみ込んでいた。


「何してる」

「探しもの」

「今度は何だ」

「まだ見つかってない忘れ物」


 そんなもの探すなよ、と言いかけてやめる。


 花音は振り返って、少し不思議そうに聞いた。


「眠れなかった?」

「……顔に出てるか」

「ちょっとだけ」

「誰のせいだと思ってる」

「私と、ここ」


 そこは否定しないんだな。


 俺はベンチに鞄を置く。

「昨日、またノートが増えた」

「うん」

「知ってるのか」

「わかるよ。持ち帰ったものが騒ぐ日は」

「騒ぐって表現やめろ」

「じゃあ、寄る」

「もっと嫌だな」


 花音は立ち上がり、俺の目の前まで来た。

「見せて」

「持ってきてない」

「そっか」

「そっか、じゃなくて。お前、何とかできるのか」

「少しは」

「少し」

「でも、戻したほうが静かになると思う」

「やっぱそうか」

「うん。桜の下がいい」


 また桜の下。


「何で桜なんだ」

「きれいだから」

「それだけか」

「それだけで十分なこともあるよ」


 その返事に、少しだけ納得してしまうのが腹立たしい。


 そこへ夕もやってきた。今日は本当に三日連続だ。しかも手には小さな弁当袋がある。


「何それ」

 俺が聞くと、夕は目を逸らした。

「余ったから」

「嘘つけ」

「うるさい」

「お弁当?」

 花音が目を輝かせる。

「いや、別にあんたのためだけじゃ」

「見たい」

「食べたい、じゃなくて?」

「それもある」

「やっぱり」


 夕は盛大にため息をついてから、ベンチに座った。

「もういい。今日は変なの起きる前に食べるから」


 三人でベンチに並ぶ。


 夕の弁当は、卵焼き、唐揚げ、ブロッコリー、おにぎり。いかにも家庭の弁当という感じで、変に安心する。花音はそれを本当に熱心に見ていた。


「きれい」

「昨日からそればっか」

 夕が言う。

「でも、きれいだよ。ちゃんと並んでる」

「弁当ってそういうものでしょ」

「そうなんだ」


 花音は箸を持つのもぎこちなかった。夕が半分呆れながら持ち方を直す。俺はそれを見ながら、たぶん今が一番まともな放課後なんじゃないかと思った。


 ただ、公園の向こう側で、誰もいない砂場に小さな足跡が増えていくのを見なければ。


 俺だけが気づいたのかと思ったが、花音も見ていた。夕はまだ弁当箱に集中している。


 砂の上に、裸足の足跡。

 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。


 砂場の中央まで続いて、そこで途切れる。


「……またか」

 俺が小さくつぶやく。

「うん」

 花音が答える。

「今日は静かなほうだと思ったのに」

「それ、静かなうちに入るのか」

「足跡だけなら」


 基準がもうおかしい。


「何?」

 夕が顔を上げる。

「いや」

 俺が誤魔化そうとすると、花音が素直に言った。

「砂場に足跡」

「は?」


 夕が振り返る。

 そして、見た。


「……帰ろうか」

 一秒でそう言った。

「まだ食ってるだろ」

「食べながら帰る」

「器用だな」


 でも、その気持ちはわかる。


 砂場の足跡は、それ以上増えなかった。ただ、夕陽が濃くなるにつれて、中央のくぼみだけが少しずつ深くなっていく。まるで、見えない誰かがそこにしゃがみ込んでいるみたいに。


 花音がぽつりと言う。


「待ってるね」

「何を」

 夕がうんざりしたように聞く。

「遊ぶ人」

「今日そういうの多くない?」

 俺が言うと、花音は少しだけ肩をすくめた。

「春だから」


 その答えは、なぜか少しだけ正しい気がしてしまった。

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