8.湯けむりのせいで
虫も鳴き止むシュティングルの気配から、できるだけ遠くへ逃げなければ――そうしてジャングルの奥深く、鬱蒼とした木々を渡っていくうちに、険しく切り立つ山が現れた。
『密林を抜けた……のか?』
「グライル……!」
こんなに長い間、ここまで大きな身体の動物に化けていたのは初めてだった。ゴリラの黒い体毛が抜け落ち、手が元の肌色へ戻っていく。
勝手に【シェイプシフト】が解けたかと思えば、身体が地面に倒れていた。
「グライル、待って……ここからはハナが」
抵抗する間もなく、俺よりひと回りもふた回りも小さな身体に背負われていた。足は引きずっているが、それでも華奢な四肢からは信じられない力だ。
「グライル、あそこ、岩に穴あいてる」
もう、返事をする力も残されていない。それでも絶望していないのは、コイツと一緒だからか――ハナに引きずられて入った穴の中は、真っ白な湯気に満たされていた。独特な匂いが漂っている。
「……温かい水、穴の中にわいてる」
「……んぁ? あぁ、そいつはアレだ……温泉ってヤツだろ」
「お風呂?」
近いが違う、と説明してやりたいところだが、腹に力が入らない。岩のくぼみに満たされた天然の温泉を前に、ハナは何かを考えているようだ。
「……グライル、お風呂は『ヒーロー回復』って言ってた」
それを言うなら「疲労回復」と突っ込みたくても、声が出ない。もどかしいまま、ハナの行動を待っていると。何を思ったのか、ハナは俺のコートと軍服、シャツを剥ぎ取り始めた。
「お、おい……!?」
ズボンのベルトに手がかかったところで、最後の力を振り絞る。やっとハナの手を掴むと、「なんで止める?」と首を傾げてきた。
「なんでってお前、突然何だよ?」
「裸のグライル、お湯突っ込む。ヒーロー回復、元気でる」
「なるほどな……」
コイツの頭の中のフローチャートは読めた。が。大の男を突然ひん剥くという、唐突かつ軽率な行動に関して正してやらねば、コイツのためにならない。
「いいか? こんなこと俺以外のやつにしてみろ、いくらお前でも――」
「いいからさっさと入れ」
「ブッ……!」
トンと背中を押され、温かい湯の中に顔面から突っ込んでしまった。今すぐ浮上して文句を言ってやりたいが、あまりにも心地よくて出たくない。かすかに弾ける泡が肌を滑り、全身がマッサージされているかのようだ。
「……なんだ、これ。みるみるうちに疲労がとれて、体力が回復しやがる」
「うん、気持ちいい」
「…………は?」
すぐ隣からの声を振り向くと。ミルク色のお湯の中を、ハナが悠々と泳いでいた。岩場には、散乱した俺の服、それからハナのワンピースが脱ぎ捨てられている。
「グライル? どうしてこっち、向かない?」
「……お前、後で覚えてろよ」
無知では許されないことがあると、コイツに知らしめてやらなければ気が済まない。とりあえず今は、錆びついたように硬い身体を休めることにした。
「あー……極楽極楽」
「グライル」
無邪気に犬かきをしていたハナが、こちらを真っ直ぐに見つめていた。
「さっき、コビトの村でハナ冠をかぶせてくれた時……いっしゅん、悲しそうな顔してた」
「……ん?」
「なんで?」
完全に脱力していた俺は、思わず身を強ばらせた。まさか、気づかれていたとは――あの時確かに、前世の後悔が頭をよぎった。
心のどこかで沈んでいたことを、コイツは見抜いていたのか。
「『夫婦の間に、無用な隠し事はなし』」
ハナはまっすぐに言った。まるで誰かの受け売りのような口ぶりに、思わず片眉を上げる。
「お前、そんな言葉どこで覚えた?」
「『夫婦円満のヒケツ特集』……グライルの持ってる、音のする箱から流れてたのを聞いてた」
ラジオの人生相談コーナーか――コイツの世話係になりたての頃、見張りの退屈しのぎに流していたあれを、まさか聞いていたとは。
思わず乾いた笑いがこぼれる。コイツは本当に、変なところだけハッキリと記憶しているのだから厄介だ。
「それで、なんで悲しかった?」
お祝いだったのに――ハナは少し寂しげに、濁った湯へ視線を落とした。
素直に告白するべきか、この先ずっと隠し通すべきか――いや、逃げても仕方がない。それにコイツが俺の過去を知ったところで、今更どうこうなる話でもないのだから。
「……前の妻には、結局向き合えなかった」
小さく吐き出した言葉に、ハナは大きく瞬きをした。
「前の……?」
「前の世界で、俺は結婚してたんだよ」
ハナは驚かなかった。
長年軍にいたコイツは、転生者のことも、俺が転生者であることも知っている。しかしそれ以上のことは、何も知らなかったはずだ。
「……俺、前の人生が終わった時、42歳だったんだ」
「42歳?」
「まぁ、そっちの話はいいんだ。問題は、俺がアイツを大事にできなかったことだから」
結婚してから10年。
最初は元妻――衣里の待つ家へ帰ることを使命に、仕事をこなしてた。それが少し昇進して、部下をもつ立場になってからは変わっていった。家に帰る時間すら惜しむほどに。
衣里の当たり前だった笑顔も、ささいな会話も、気づけば消えていた。
いつの間にか、アイツが作ってくれた食事に手をつけることすら、忘れるようになっていた――。
「気づいた時にはもう遅かった。向き合う機会すら、与えられなかった」
俺の不甲斐ない点すべてを冷静に吐き出し、離婚届だけを置いて、優しいアイツは家から出ていった。それが、俺が受けた罰だったのだ。
「……っ」
ハナは唇を固く引き結んだまま、濁った湯を見つめている。
やがて赤い瞳が、波立つ水面を映して揺れた。
「……じゃあ」
赤みを増した唇が、ぽつりと呟く。
「私には、向き合ってくれる?」
不安げな問いだった。
この問いは、どんな意味を含んでいるのだろうか――俺を試しているのか。俺が前世から成長していることに期待しているのか。
「……ハナは、アイツとは違う」
ただ、それだけは確かだった。
だが――。
「……ちがう?」
俺の言葉に、ハナの白い肩がピクリと震えた。
「……ちがう」
小さな呟きの繰り返しが、胸を鋭く貫いた。
そうか――こいつは今の言葉を、「前の妻のようには愛さない」と受け取ったのかもしれない。
凍氷町で、俺が「夫婦じゃない」と言ったときよりも、もっと深く、もっと強く――俺はコイツを、傷つけたのか。
「……私、いたい。ここ、いたいの」
ハナがぽつりと呟いた。
震える手が、無意識に胸を押さえている。
「グライルに『ちがう』って言われたら……ここ、いたい」
言葉を失った。
コイツがこんなふうに、自分の気持ちを言葉にすることがあるなんて――いや、感動している場合じゃない。
俺のせいでコイツを泣かせた。
涙は流していない。それでも、泣かせたんだ――。
「……ごめん」
ハナの肩をそっと引き寄せ、小さな身体を強く抱きしめる。
「俺自身が……俺と向き合えていない」
自分がどこへ向かおうとしているのかも分からないまま、ただ目の前のことに追われるように生きてきた。
アイツにも、ハナにも――俺は、向き合えていないままだ。
「……ごめんな」
そう口にすると同時に、熱い何かが頬を伝っていった。アイツが出ていった時すら流れなかったソレが、胸の奥から込み上げる。
「……グライル、泣かないで」
眉を下げたハナが、俺をじっと見つめている。
「……っ」
気がついたときには、ハナの透き通るようなまつ毛が視界の端に止まっていた。唇に、小さな熱が重なっている。
これはアレだ、全くの不意打ちだ――。
俺の胸にしがみつく手が、震えている。その手を取るかどうか。悩む間にも、静かに唇が離れていった。
「……おい」
今のは、どういうつもりだったのか――訊ねたくても、鳥についばまれたような可愛らしいソレの感触を思い出して、声が上擦りそうになる。
赤い瞳を揺らしたハナは、ふっと顔を逸らした。肩やうなじが、うっすら熱を帯びている。
「……夫婦のあいさつ」
ハナがぽつりと呟く。
洞窟の天井から垂れる水滴の音が、静かに響いた。




