9.幻山のモフ牧場
厚い雪雲に覆われた山頂を見上げながら、俺たちは山岳地帯に入った。これまでの湿気の多い密林とは打って変わって、冷たい風が肌を刺す。
「グライル、見て……あそこ」
ハナが指さしたのは、低い山の中腹あたり。「家がある」というハナの言葉を信じて近づいていくと、木造の洋館が見えてきた。
山の斜面に建てられたそれは、暖炉の煙がくすぶる大きな宿。入り口には「旅人歓迎」の看板がかかっている。
「ペンション、旅人の休むところ……合ってる?」
ハナは、かつて読んだ本の一節を思い出すように言った。
どこまで本の知識で生きてるのか――これからは、実際に体験させてやりたい。
「グライル、お金まだある……?」
「余計な心配すんじゃねぇよ」
軍を抜ける前に、コツコツ貯めた金はすべて引き出していた。
この世界の通貨であるクリスタル型の石を詰めた袋が、ポケットのあちこちにある。当面の宿代くらいは問題ない。
「ほら、行くぞ」
屋内に泊まれるのは何日ぶりだろうか――3階建ての立派な屋敷を見上げながら、まだ新しい玄関ホールへ足を踏み入れた瞬間。背後から馬のいななきが響いた。
「これはこれは珍しい! お客人かのぅ」
突然背後から現れた、立派な1本角を額に生やした巨大な白馬。その背に乗っているのは、優しい笑顔の老人だった。
年の割に背筋はまっすぐで、ある種の風格がある。何より物々しい黒皮の眼帯が、ただものではない雰囲気を漂わせている。
俺からハナへ視線を滑らせた彼は、片目を大きく見開いた。
「……旅人かの?」
まさか、俺たちの関係を怪しんでいるのだろうか――いい加減軍服を脱ぎたかったが、突然放り込まれた辺境の地において、衣服は貴重品だ。
「まぁ、そんなところです」
ここで「逃亡者です」とは言えない。
ハナの肩をそっと押し、できるだけ自然に振る舞うと。
「ハナたち、新婚旅行中!」
瞳を輝かせるハナに、視線を逸らして頭を掻くことしかできない。
老人は、一瞬ハナに見惚れたように目を細めた後、柔らかく微笑んだ。
「そうか……どの部屋でも良い、泊まっていきなさい。あとで朝食のホットサンドとミルクを運んでやろう」
その口ぶりには、どこか懐かしむような響き があった。
やはり彼は、ハナをじっと見ている――。
部屋で朝食をとり、ひと眠りした後。この巨大なペンションをひとりで管理しているらしき老人は、「動物はお好きですかな?」と庭に出るよう誘ってきた。
「……すげぇな、ここ」
ペンションの外にある広大な牧場には、狼や山猫など普通の動物だけでなく、珍しい魔獣族が暮らしていた。
群れをなして遊ぶ恐竜のような動物、鮮やかな羽を持つ巨大鳥――どれも人懐こく、放牧地を自由に駆け回っている。
「モフ……」
気づけば、手が勝手に動きかけていた。
スキルの影響なのか、俺はこの世界に転生して以来、犬や狼系のモフモフには異様に弱い。
「……グライル、触らないの?」
隣でハナが小首を傾げる。
しれっとした顔をしているが、絶対に俺の葛藤を楽しんでいる。
「べ、別に興味ねーし!」
「ウソ。もう知ってる」
「は?」
思わずハナを見下ろすと、彼女は涼しい顔で言い放った。
「好みのラジオ番組、雑誌、犬を見た時の目……ぜんぶバレてる」
「な……なんで知ってんだよ!」
コイツ――バッと後ずさる俺を、ハナは余裕の笑みで見据えていた。
「妻は夫のことをなんでも知ってる。いいからモフってこい」
「……っ、おう」
モフ欲を解禁された瞬間。くだらないプライドなど、もはやどうでも良くなった。本当は道中、犬に【シェイプシフト】した自分をモフりたいくらいだったが、ハナに引かれる気がして我慢していたのだ。
「はぁ……最高。お前ら可愛いなぁ」
巨大な魔獣犬の耳を優しく揉み、フワフワのしっぽを抱きしめる。それだけでは足りなくて、腹を見せてくれたモフモフ狼の暖かい匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「狼吸い…………はぁ」
「グライル、ちょっと気持ち悪い」
「うるせぇ!」
ハナは俺のように小型の動物ではなく、大きな馬や鳥に興味を持ったらしい。見上げるほどの巨大鳥に手を伸ばしていたかと思うと、いつの間にかソイツの背に乗り飛び始めていた。
「ハナ、すげぇな」
犬たちの耳を撫でながら呟くと。一角の白馬をブラッシングしていた老人が、青空に飛び立った巨大鳥を見上げた。
「ふむ、さすがは賢いアニマルたちじゃ。どちらが上か、本能的に分かっとるようじゃな」
「どちらが上か……?」
老人の言葉に、思わず首を傾げた。
巨大なペンションと牧場をひとりで管理するこの老人は、いったい何者なのか――。
「しかし、珍しいですね。魔獣族と動物が一緒に戯れる牧場なんて」
動物と魔獣は、「元の世界にもいたヤツら」と「そうでないヤツら」という違いだけではない。動物は群れで行動する連中が多いが、魔獣は群れているのを見たことがない。
「……魔獣族はの、人間のエゴが生み出した生き物なんじゃ」
老人の優しくも硬い響きに、思わず眉をひそめた。
「彼らは昔、動物たちと同じ自然に近い形をしていたが。それを人間の実験が捻じ曲げた」
「……実験、ですか?」
老人は、広大な牧場を見渡しながら続ける。
「ワシはの、過去に最低なことをした。だから今は、弱い立場にあるものを守って生きている」
「あなたはいったい……」
老人が白髭を撫で、何かを言いかけたその時。
「グライルー!」
声を見上げた瞬間、鳥の背からハナが飛び降りた。
「こら、危ねぇだろうが!」
ハナは俺の背中に飛びつき、無邪気に腕を回している。
「『怒鳴るなんてひどい人! アタシとのことは遊びだったのね?』」
「小説のセリフで会話すんじゃねぇ。降りろ」
「『まぁ、なんてお口の悪い! アタシの好みはウィットに富んだお方なの』」
「……テメ、ハナ、いい加減にしろ」
興奮しすぎのハナを、落ち着かせようとしたところ。老人は白髭を揺らし、豪快な笑い声を上げた。
「いや、すまん……『TYPE:C』がこんなにも元気に喋るようになるとはな」
老人の呟きに、思わず眼帯越しの右目を見つめた。彼はこちらを向かず、草原の中で戯れるモフモフたちを見つめている。
今、なんて言った――『TYPE:C』?
胸の奥で、妙な違和感が膨らむ。
やっぱりこの老人、ただの宿の主人じゃない。
ハナを初めて見た時の静かな驚きに、先ほどの意味ありげな呟き――まさか、ハナの正体を知っているのだろうか。




