4.追っ手付きの新婚旅行
足元の氷が軋む。冬の海上に張った厚い氷の上を、いくつもの足音が追ってくる。
「グライル、やっぱりハナが……」
「いいや、俺がやる!」
ハナに力を使わせるわけにはいかない。念のため借りてきていた軍支給の剣を腰から抜き、振り返った瞬間。
「ぐっ……!?」
手元が強い衝撃によって弾かれ、抜いたばかりの剣が氷の上を滑っていく。鋼鉄の剣を構え、目の前の大男――王国軍第一師団長は、鉄仮面越しに俺を睨みつけた。
従軍時代、俺のスキル【シェイプシフト】は、同じ『転生組』のコイツの下位互換だと散々罵られた。しかし妙に無口なコイツは、力を使って見せたことはない。剣の腕だけでも十分、ということか――。
「……グライル、弱い」
ハナの呟きに、思わず顔を引きつらせた。
「しっ、仕方ねぇだろ! 俺こーいう才能はねぇんだよ!」
元の世界の中学時代、剣道に打ち込んだとはいえ、実戦とはワケが違う。王国の精鋭であるヤツの剣技は、スキルに頼らずとも圧倒的だ。
「相変わらずだなぁ、二等兵先輩?」
嫌な声がした。氷の上に立つ数人の兵士のうち、ひときわ軽薄な笑みを浮かべているのは、元・同じ隊にいたドルズ一等兵だ。
「まさか世話してた『最終兵器』を連れて逃げるとはなぁ! それにしても相変わらず……『転生組』なのに、ここまで使えない人間も珍しいって」
思わず舌打ちする。
相変わらず口だけは達者な生意気野郎だが、同じ『転生組』でもコイツは一等兵。動物にしか変身できない俺の【シェイプシフト】より、まだマシスキルってことだろう。
このクソみたいな世界では、転生者のほとんどが軍に編入される。その扱いはスキルの優劣によって決まるのだ。シュティングル師団長のように、優秀な戦闘スキルを持つ者は優遇され、そうでない者は俺のように雑用か、消耗品の盾役にされてしまう――。
「転生者は戦争のためにいるんだぜ? 二等兵先輩。いや、もうアンタは二等兵じゃなくて脱走兵か。使えねぇスキルで10年も二等兵やって、最後は軍を裏切って兵器泥棒だもんなぁ」
軍の上層部連中同様、スキルにしか価値を置いていないクソ野郎が――叫び出したいほどにムカつくが、今はただ静かに唇を噛み締めた。今さら何を言っても、この状況をひっくり返せるわけではない。
「んで、そこの最終兵器ちゃんも薄情だよなぁ。オレのアイスクリーム散々食っておいて、結局そいつが良いのかよ」
「は……?」
とっさに振り返ると、背中に隠れていたハナは気まずそうに顔を逸らした。
「……週にいっかいだけ。『検査』の時だけのごほうびって言われた。一等兵のアイス、悪魔的……」
「お前なぁ……」
ハナを兵器としてしか見ていなかったアイツが、何の裏もなしにアイスを施すわけがない。この状況を切り抜けた後、ハナを問い詰めなければ。
「お喋りをやめなさい、一等兵。その兵器、脱走兵もろともこの場で処します」
初めて聞いたヤツの声は、水の中のようにこもっていた。第一師団長シュティングル――ヤツが白く光る剣を構えているだけで、頬を刺すような殺気が伝わってくる。
「ハナが、逃げ出したから……?」
そうだった。ハナは処分命令が下されていたことを知らない。静かな視線を交わす師団長とハナの間に、今すぐ割り込みたいところだが――足が動かない。次元の違うコイツらの間に、俺ごときが入る隙はない。
ハナはじっと軍隊長を見返した後、ゆっくりと手を上げる。その手からじわりと金色の光が滲んだ。
「……やめろ!」
掴んだ細腕はすでに焼石のように熱く、びくともしない。師団長の動きが一瞬止まった。
「グライル……守る」
魔法陣が発動する前の余波が、氷に伝わり、表面の一部がひび割れた――その時だった。
狭まった視界の隅を、黒い頭の鳥――巨大なペンギンが滑っていく。四肢をばたつかせながら、必死で体勢を立て直そうとする姿を見た瞬間。緊張で引き締まった脳に衝撃が走った。
「あれだ……ハナ、来い!」
【シェイプシフト】
考えると同時にスキルを発動すれば、身体はみるみるうちに膨らみ、黒と白の羽毛に包まれる。流線型の身体に変化するやいなや、ハナを背中に乗せ、一気に氷上を滑り出した。
「なっ……!」
師団長のくぐもった声が、一瞬のうちに遠ざかっていく。戦場でのヤツは鬼神レベルで強いが、ペンギンになった俺の滑走速度に追いつけるわけがない。氷の表面を滑って進み、次々と裂け目を飛び越えていく。
「グライル、すごい!」
『だろ!? これなら追いつかれねぇ!』
これで追っ手は当分来ない。だがひと息吐く前に、話しておかなければ――凍氷町の港が完全に見えなくなるほど沖に出たところで、急ブレーキをかけた。背中のハナがよろめきながらも、俺の顔を覗き込む。
『……ハナ、お前、約束破ろうとしたな?』
昨晩の宿で、「力を使わない」と約束したはずだ。それなのに、ハナは師団長を前にして力を解放しようとした。
『情けねぇけど……俺の力を使えば、ヤツらから逃げ続けることはできるはずだ。お前が戦う必要はないんだよ』
普段はどこか気が抜けてしまう声を精一杯引き締め、可動域の広い首で真後ろを向くと。
「……ごめんなさい。もう約束やぶらないから、置いてかないで」
ハナの声は小さく、赤い瞳には不安の色が滲んでいた。俺に見捨てられると思っているのか――必死な瞳が胸を締めつける。
「俺は……」
ダメだ――やっぱりこういうのは向いていない。正面を見据え、ふっと息をついた。ペンギンの翼をぱたつかせながら、いつもの調子を何とか捻り出す。
『まあ……いい。お前がいなきゃ始まらねぇしな』
「え……?」
『ただの逃亡生活は疲れそうだから、どうせなら世界を見て回ろうぜ。そうだな……普通の夫婦が行く「新婚旅行」みたいなもんだ』
その提案に、暗い影を帯びていたハナの瞳が小さく輝いた。
「新婚旅行……ふつうの夫婦……」
彼女はしばらく考え込むように沈黙した後、ふいにこちらへ期待の眼差しを向けた。
「キス、してみたい」
『――!?』
いきなり何を言い出すのか。ペンギンの姿のまま、思わず硬直した。
「さっき、ペンネとコッサもしてた。それに夫婦のあいさつは大切……紙の束に書いてあった」
あの殺風景な檻の中で退屈しないように、と差し入れた本が、こんな形で俺を困らせるとは――。
彼女の見た目は明らかに十代半ば。元の世界で換算すれば、自分の半分も歳を取っていない子どもに手を出すのは完全アウトだ。いや、この世界の俺でもギリアウトだろう。
『お、おい、それは……』
言葉を探しているうちに、身体が大きく前へ傾いた。どうやら氷の端が途切れたらしい。そのまま海へと投げ出される直前。
『ハナ!』
冷たい海水が全身を包んだ瞬間、【シェイプシフト】を再発動した。
とっさに思いついたのは、大きな甲羅に覆われたコイツ――海ガメだ。
『掴まれ!』
ペンギンの身体よりも凍えそうに寒いが、コイツなら広い甲羅の上にハナを乗せられる。小さな身体を背に乗せ、氷の途切れた海を漂いはじめた。
「グライル……これ、動物ばかりの紙の束にのってた、カメ?」
『ああそうだ。とりあえず、竜宮城まで行くか』
「りゅーぐーじょー?」
ハナは興味津々といった様子で、甲羅の上から身を乗り出した。
『おい、落ちるぞ!』
何を考えているのかと思いきや。ツルッとしたカメの頭に触れる、小さな温度を感じた。
コイツ、まさか――。
「……くちびる、冷たい」
相変わらず抑揚のない声。
やはり、コイツにそういう情緒はまだ備わっていないらしい。
『……まぁ、この姿の時ならいいか』
動物の姿の時はセーフだと、自分に言い聞かせた。
そう、これは挨拶みたいなものだ。第一俺からしたわけじゃないし、あどけないコイツのお遊びみたいな口付けに何も感じてなんか――。
「グライル……! 前、みて!」
脳内言い訳タイムが、突然の異変によってかき消された。
前方の海面が大きく揺れ、巨大な波が立っている。次の瞬間、黒い影が水中から飛び出した。
『――鯨!?』
海中から塔のように突き出た巨体は、こちらの姿を認めると、貝がびっしりへばりついた口を大きく開いた。まったく抗う間もないうちに、巨大な口が迫る。
「グライル……!」
『掴まってろ!』
気づけば、周囲は真っ暗な闇に包まれていた――。




