第62話:【夜の集落、湿原の月明かり】
里長の言葉が広間に静かに落ちた後も、聡介の内側は驚くほど穏やかだった。
何もかもを分かっていたわけではない。ただ、湿原に来てからのクリムの反応の数々と、龍玉の輝きが戻ったこと。それらが胸の中でぼんやりと繋がっていた。里長の言葉は、その靄に形を与えただけだった。
だから、驚くより先に納得が来ていた。
「食料……か」
里長が静かに言った。「それは、たつのこ園とやらを賄うためのものか」
「はい、その通りです」
「で、わしに何を求める」
「僕たちはこの地に詳しくない者と子どもが殆どです」聡介は真っ直ぐに言った。
「そこで、リザードマンの生業である漁に参加させてもらう、若しくは加工などをお手伝いすることで、いくばくかの収穫物を頂戴できないでしょうか」
里長が目を閉じた。広間に沈黙が下りる。
「里長さん」
聡介が、願いを込めて呼びかけた。
「……バグラだ」
里長がゆっくりと目を開いた。
「まだ名乗っておらんかったな」
バグラは居住まいを崩した。肩の力が、わずかに抜けた。初めて会った時のよそ者を見る目ではなく、ただの老人の目がそこにあった。
「お主の問に答える前に、この老いぼれの愚痴を少し聞いてくれまいか」
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「……わしは里長じゃ。この厳しい湿地帯でこの里を導き守らねばならん。時に自身の考えを殺し、均衡を保つために立ち回らねばならんこともある」
バグラの声は低く、静かだった。その声からは、それまでの威厳が消え、かすかに掠れていた。
「わが娘、シーヴァがしたこと、もたらしたもの、その結果に至るまで……」
聡介はわずかに息を呑んだ。娘、という言葉が胸に引っかかる。
「孫のライクのことでさえ、残されたディーザにすべてを押し付け、わしは一人の父親や祖父であることを自らに禁じていた」
ドランが小さく目を丸くした。イグニシアも、気配が変わった。
「うまくいっているときはよい。しかし、それが立ち行かなくなった時、里ごと倒れ伏すことは何としてでも防がねばならんかった」
バグラは少し間を置いた。
「わしの考えはある意味間違ってはおらなんだ。だが、少なくとも里の中で対立を生むようにもなった。お主たちが関わろうとしている漁師の頭領は、バザールとのつながりを壊したゾルグを恨んでおる。いや……そこにしか感情の向けどころがなかったやもしれん」
広間がまた静かになった。
「わし個人としては、お主たちのしようとしていることを止めようとは思わん。なんなりと励むがいい。だが里長として、表立って命令することはできん」
バグラが聡介を見た。
「引き合わせはしてやろう。その場に同席して公正な采配もくだそう。じゃが、説得は自らおこなうことじゃ」
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長い話だった。
聡介は黙って聞いていた。詳しく聞きたいことは山ほどあった。シーヴァのこと、ライクのこと、バグラ自身のこと。
だが、今確かなことは一つだった。里長が、聡介の訴えを受け入れた。
「ありがとうございます」
それだけを言って、聡介は広間を辞した。
入り口を抜ける際、ふと振り返った。
バグラはすでに背筋を伸ばして座っていた。目元に鋭さが戻り、里長の顔になっていた。その姿は、どこか老け込んだようにも見えた。
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ゾルグに事のあらましを伝えた。
クリムの件を話すと、ゾルグは眉を寄せた。驚いてはいるが、まだ半信半疑の様子だった。
漁師との件については、多くを語らなかった。ただ「そうか……」と、硬い口調でそれだけ言った。
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その夜は、リザードマンの集落に泊めてもらった。
芦で編まれたすのこ状のベッドで目を閉じた聡介は、夜半にふと目を覚ました。
隣ではドランがクリムを抱えながら寝息を立てている。室内を見渡すと、窓辺に腰を下ろしているイグニシアの姿があった。月明かりが湿原を照らしている。
「眠れませんか、シアさん」
「ソウスケ、悪い、起こしてしまったか」
「いえ、目が覚めただけですよ」
聡介は少し離れた場所に腰を下ろした。イグニシアは窓の外を見たまま言った。
「里長の言っていたことを、考えていたんだ」
しばらく、風の音だけが続いた。
「私は今でも真紅の暴君が憎い。だが、奴がクリムになってからは、別の物だとも思えるようになってきていた」
「すいません、僕が軽率に話しすぎました」
「いや、ソウスケは何も悪くない。……ただ、形代だの、奴が実は龍だのと聞いたことで、訳が分からなくなってしまってな」
イグニシアは膝の上で手首のブレスレットを撫でていた。
「ドランが大切にしていることに、変わりはないと言うのに。こんなことで揺れる自分の不甲斐なさに、嫌気が差していたところだ」
「シアさん」と聡介は言った。「前も言いましたが、悩んだり悲しんだり、時に憎むことは、悪いことでも弱いことでもありませんよ」
イグニシアが、少しだけ聡介の方を見た。
「そして、それを恥じて折り合いをつけようとするのも、シアさんらしさです。全部引っくるめてシアさんなんですよ」
「……」
「僕には聴くくらいしかできませんが、たまに頼ってください。いつでも近くにいますから」
「ソウスケ……お前はいつもブレないな」
「保育士ですから」
イグニシアから、ふっと力が抜けた。
「さあ、そろそろ寝ましょう。明日の相手は少し手強いかもしれませんし」
「話し合いの場は任せる。何かあれば私が前に出よう」
「頼りにしてますよ、シアさん」
「それは私も同じことだ」
どちらともなく苦笑が漏れた。二人はそれぞれベッドに入って目を閉じた。
月明かりに照らされた水面だけが、静かに輝いていた。




