第59話:【隔たるもの、交わるもの】
それから二日ほど、聡介は旧バザールを歩き回った。
案内はライクに頼んだ。「なんで俺が」と言いながらも、ライクは断らなかった。
足場の上を歩くと、寂れた外観からは想像もつかないほどの人が残っていた。
空いた宿の一室に身を寄せるガビアルの家族、朝早くから水辺に向かうトードフォーク、荷物の少ない旅商人がカウンターを磨いている宿。
新バザールに馴染めなかった者、帰るに帰れない者、様々な事情を抱えた人たちが、ここで息をひそめるようにして暮らしていた。
「あの人たちは毎朝漁に行って、採れたものを新バザールで換金して、また物資を買い直して……」
ライクが説明しかけて、言葉を止めた。
「割に合わないよな、どう考えても」
「そうだね」と聡介は言った。
歩いていると、あちこちから声がかかった。
「ライク、元気か」「坊主、大きくなったな」「母さんに似てきたじゃないか」
ライクはぶっきらぼうに返しながら、それでも足を止めて一人ひとりと短い言葉を交わした。
どこかの宿では、老いたオッターフォークの女性が「少しだけど」と言って干し魚を押しつけてきた。
「いいよ、受け取れない」
「うるさい、持っていきな」
ライクは結局、受け取った。
その背中を見ながら、聡介は思った。この子は三年間、ここで生きてきたんだ。
シーヴァの息子として、旧バザールの人たちに覚えられながら。
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旧バザールには人がいる。現地の種族もいる。この人たちを新バザールの仕組みから解放して、もう一度ここに活気を取り戻せないか。
そのためにはまず、彼らがなぜ搾取されながらも新バザールに留まり続けているのかを知らなければならない。
聡介がそんなことを考えながら宿に戻ったのは、二日目の夕方のことだった。
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三日目の朝だった。
朝食を終えた年長組を見送り、聡介は食卓に一人残って湯気の立つカップを両手で包んだ。
イグニシアが使ってくれているマーラのハーブが、かすかに甘い香りを漂わせている。
さて何から手をつけようか。
ポケットからひょいと顔を出したピヨすけが、カップの中を興味深そうに覗き込んでいた。
その時だった。
「ピヨッ!」
ピヨすけが突然窓の外を向いて、羽毛を逆立てながら鋭く鳴いた。
聡介が顔を上げると、遠くから喧騒が聞こえてくる。
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外に出ると、足場の上に人だかりができていた。
年長組の作業が止まっている。その前に、大柄なリザードマンの姿があった。
「ライクくん……?」
ライクが、その人物と向き合って立っていた。
聡介がピヨすけに「ありがとう」と囁いて歩き出すと、背後でドアが開く音がした。ディーザだった。窓から気配を察したのか、その顔は既に強張っていた。
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「お前には関係ないだろ!」
「父親に向かってお前とは、どんな口の利き方をしている!」
「お前なんてお前で十分だ!」
ゾルグの喉の奥から、地鳴りのような唸りが漏れた。大柄な体躯から放たれる威圧感に、周囲の年長組が思わず一歩身を引く。だが、ライクだけは真っ直ぐに父親を睨みつけたままだった。
「小汚い仲間と路上で暮らす内に、品性までドブに捨てたか」
「俺たちをバカにするな!その汚い口を閉じろ!」
誰の目にも明らかだった。ゾルグが沸騰していた。
分厚い雲がゆっくりと太陽を覆い、足場の上に黒い影が落ちる。吹き抜けていた湿った風が、ぴたりと止んだ。
赤黒くなった顔に怒りの形相を貼り付け、その手が振り上げられそうになったその時、前に飛び込む影があった。
「ゾルグ!いい加減にして!」
ディーザだった。
「貴方は…何がしたいのよ!」
ゾルグは一瞬だけぎょっとしたように目を見開き、ライクに向けようとしていた拳を、その手前で辛うじて止めた。
剥き出しの敵意がわずかに削げ、酷く低い声で言葉を紡ぐ。
「ディーザ……お前もいたのか。そこをどけ、父親を馬鹿にするような息子には罰が必要だ」
「嫌よ!大体父親らしいこと一つしないで、何が罰よ!あなたこそ今まで何をしていたの。ライクがここにいることぐらい知っていたでしょ!」
ゾルグが黙った。
「ライクはね、確かに里を飛び出したわ。でもそれは逃げたんじゃない、自分で道を選んだのよ。少なくともその決断から逃げずに、今日まで仲間を守ってきた。ライクはもう一人前の大人よ!貴方にどうこうされる謂れはないわ!」
「……減らず口をベラベラと」ゾルグの声が再び低くなった。「そもそもお前がしっかりと面倒を見てやれなかったから、こんなことになっているんだろうが!」
矛先が、ディーザに向いた。
ディーザの体が、まるで見えない何かに胸を刺されたように、止まった。
言葉が出なかった。
その間に、ライクが前に出た。
「うるさい!叔母さんは何も悪くない!」
ライクの声が、足場に響いた。
「俺が一人で困っていたとき、側にいてくれたのは叔母さんだった!帰ってきもしなかったお前なんかとは違う!」
ゾルグが、虚を突かれたように動きを止めた。
「自分も辛そうなのに、俺のために慣れない料理を作ってくれた。苦しくて泣きたいような夜は、隣で眠ってくれた。そんな叔母さんを、お前なんかが馬鹿にするな!!」
ライクの背中を見ていたディーザが、目を見開いた。
信じられないものを見る目だった。その視界が、激しく滲んでいく。
遠く、静まり返った大湖水の水面で、ぽつんと魚が跳ねる音がした。その水音が、やけに大きく足場の上まで響く。
誰も何も言わなかった。
足場の上に、唐突に沈黙が訪れた。
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聡介は、その沈黙にそっと入っていった。
「ゾルグさん、ひとまず落ち着きませんか。現状の説明が必要なようですし」
ゾルグは答えなかった。
「ライクくん、ディーザさん、ここは僕に預けてくれませんか。一度食堂に戻って、お茶でも飲んでください。落ち着きますよ」
いつの間にかそこにいたイグニシアが、心得たように頷いた。
「さあ、いこうか」
ディーザとライクは、それぞれ納得のいかない顔をしていた。でも、視線が合った瞬間、二人の表情が変わった。先ほどのやりとりを思い出したのか、どちらも気まずそうに目を逸らす。
それから、ぎこちなく、隣同士で歩いていった。
「ゾルグさんは、こちらへ。お話させてください。それに僕から聞きたいこともあるんです」
「……お前に説明が務まるのか」
「ある程度は」と聡介は言った。
龍の聖堂に向けて歩き出す。しばらく間があって、重い足音がついてきた。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、足場の上には静寂が訪れた。
「俺たちは、どうすりゃいいの」
後に取り残された年長組の一人が、呟いた。
その声は再び吹き始めた風に乗って、大湖水の水面へと消えていった。




