第58話:【窓の外の背中】
年少組の寝息が廊下の奥に揃った頃、聡介はそっと部屋を出た。
エルマが子どもたちの隣で目を閉じているのを確認してから、イグニシアに小声で告げる。
「少しの間、見ていてもらえますか」
「分かった。長くなるなよ」
「努力します」
廊下を歩いていると、居間のあたりから気だるい空気が漂ってきた。
空いているドアからのぞき込むと、年長組が、思い思いに寛いでいた。壁にもたれる者、床に大の字になる者。どこか慣れない様子で、体は休んでいるのに落ち着かなそうにしている。
「どうしたの、みんな」
聡介が部屋に入って声をかけると、数人が顔を上げた。
「なんか……こういうの、慣れなくて」
一人が言った。正直な言葉だった。
ライクが壁際で腕を組んだまま、少し視線を逸らしながら言った。
「ストリートじゃ、気ぃ抜いたら終わりだからな。急に安心しろって言われても、そうはいかねぇよ」
「そうだよね」と聡介は言った。
「でも、今日みんなはちゃんと仕事をした。だから、休む権利がある。胸を張って、ゆっくりしていればいいよ」
誰も何も言わなかった。でも、壁にもたれていた子が、少しだけ肩の力を抜いた。
「大きい子たちが楽しめるような遊びも、そのうち用意するから」と聡介は続けた。「少し待っていてね」
「遊び……って、俺たちが?」
ライクが、珍しく素直な顔で聡介を見た。
「もちろん。働くだけじゃ疲れちゃうでしょ」
ライクは決まり悪そうに鼻の頭をこすり、それから唐突にドアに向かって歩き出す。
「……俺、もう少し外を見回ってくるよ」
そう言って外へと向かうライクの背中は、どこか嬉しそうな、年相応の背中に見えた。
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ディーザが使う部屋のドアをノックすると、返事があった。
「……どうぞ」
声のトーンが、どこか遠かった。
入ると、机の上に資料が広げられていたが、ペンは止まっていた。ディーザの視線は窓の外に向いている。
「ディーザさん、一段落ついたので、朝お話しした食料のことを相談してもいいですか」
「あっ……はい、大丈夫です」
ディーザが姿勢を正した。
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実務の話は、淡々と進んだ。
現在の備蓄で賄えるのはおよそ一週間。人数が増えれば、それより早く底をつく。
「何か良い手はありませんか」と聡介が聞いた。
ディーザは少し考えてから、口を開いた。
「……リザードマンの漁師と交渉する、というのはどうでしょう。ゾルグが近いうちにバザールへ来るはずです。彼に繋ぎを作ってもらえれば、漁の手伝いなどと引き換えに魚をもらえる可能性がある」
「なるほど」
聡介は少し考えた。漁の手伝い。魚の現物。それを別の食料に替える方法。頭の中でいくつかの流れが繋がっていく。
「かつてのバザールみたいに、物々交換の流れをもう一度作れないかな、とも思っていて」
「……現地の種族を巻き込む、ということですか」
「ええ。まずはゾルグさんが来るまでに、旧バザールで少し情報を集めようと思います」
ディーザが頷いた。
聡介は立ち上がりかけて、ふと窓の外を見た。
足場の上を、先ほど出ていったライクの背中が動いていた。午前の仕事はとっくに終わっているはずなのに、まだ何かを確認するように歩いている。
視線を戻すと、ディーザも同じ方向を見ていた。
思えば、路地裏でライクと鉢合わせした日から、こういう瞬間が何度かあった。
「ディーザさん」と聡介は言った。「ライクくんのことで、悩んでいますか」
ディーザが、ほんの少し体を強張らせた。
「……突然、何を言うんですか」
「気を悪くしたらごめんなさい。路地裏で彼を見かけてから、特にたつのこ園と関わり始めてからは、考え事をしている時間が増えたような気がして」
ディーザは答えなかった。
「ディーザさんとライクくんのこと、聞かせてもらえますか」
長い沈黙だった。
やがてディーザは目を閉じ、それから静かに口を開いた。
「……ソウスケさんは、本当にお節介ですね」
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姉が亡くなった後のゾルグは、何かに取り憑かれたように動き続けた。商団と衝突し、周りを巻き込むことも気にせず、ただ走り続けていた。
当時のライクは十歳だった。
母を亡くし、父親はほとんど家に帰らない。一度に両親が消えたような日々の中で、ディーザは彼と共に暮らすようになった。
「姉さんの代わりにならなくちゃ、と思っていました。子どももいない私が、そんな大それたことと分かっていても」
聡介は黙って聞いていた。
「私なりに、精一杯やってきたつもりでした。二年ほどそんな生活が続いて、あの子が十二歳になったある日……いなくなっていたんです」
ディーザの声が、少し乾いた。
「近所の方が教えてくれました。今朝早く出かけた、叔母さんには心配するなと伝えてくれと」
窓の外で、ライクの背中がまた動いた。足場の端にある木片を、手持ち無沙汰そうにつま先で蹴っている
「私がしてきたことは何だったんだろう、何がいけなかったんだろう。何度も考えました。ゾルグに詰め寄っても、あしらわれるだけで」
ディーザは小さく息を吐いた。
「風の噂でバザールにいると聞いていましたが……今更会ってどうするのか、もし拒絶されたらと考えているうちに、何もできなくなっていて」
しばらく、部屋が静かだった。
「まさか自分がまたバザールに来ることになるとは思っていませんでした。こんなに近くにいるのに、あの子は何も言ってこない。何を考えているのか、分からないんです。それが……とても、怖い」
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聡介はしばらく、ディーザの言葉を受け取っていた。
「打ち明けてくれて、ありがとうございます」と聡介は言った。「辛かったですね」
「……」
「最近出会った僕が、あなたたちのことで知ったふうな口をきくことはできません。でも、一つだけ言えることがあります」
ディーザが顔を上げた。
「ライクくんは、ディーザさんのことを嫌っても恨んでもいないと思います」
「なぜ、そう言い切れるんですか」
「仲間への接し方を見ていれば、分かります。本当に懐の深い子です。そんな彼がディーザさんに何も言ってこないのは……ただ、死ぬほど気恥ずかしいだけだと思いますよ」
「そんな……そんなわけ、ないでしょう」
「きっとそうですよ」と聡介は言った。「僕も昔は男の子でしたから。今更どんな顔をして話せばいいのか、彼自身も戸惑っている最中なんじゃないでしょうか」
ディーザは何も言わなかった。
「同じ屋根の下で過ごす間柄です。時間がいくらかかっても構わない。きっといつか、ちゃんと話せる日が来ます。僕が保証しますよ」
長い沈黙の後、ディーザは握りしめていたペンからふっと力を抜き、静かに言った。
「……少し、考えてみます。今日はこれで」
聡介は頷いて、立ち上がった。長居したことを詫びて、ドアに手をかけた。
その時だった。
「エルマ、おい、起きてくれ!」
廊下の奥から、イグニシアの切迫した声が響いた。続いて、昼寝から目を覚ました子どもたちの、活力に満ちた声が一斉に溢れ出す。
物悲しい空気を打ち破るような喧騒だった。
聡介は思わず、笑った。




