第53話:【等価交換のスープ】
翌朝、聡介とドランは聖堂の敷地で掃除を始めた。
「ドランくん、そっちのコーナーは任せたよ。どっちが早くピカピカにできるか勝負だ」
「負けないぞー! クリム、いくよ!」
ドランが雑巾を持って駆け出した。クリムを玄関のステップの一番上に座らせて、全力でその足元の階段を拭き始める。
聖堂と宿坊を囲む石の基壇の上は、ここ数日の作業で随分と綺麗になった。だが、その石畳が途切れる敷地の境界線には、まだ手をつけていない湿地帯の深い草むらが壁のように残っている。
その草むらの向こうから、複数の視線がそれを見ていた。
「……何が楽しいんだよ、掃除なんて」
ライクが小さく呟いた。
「どうせあの大人に無理やりやらされてるんだ」
隣のオッターフォークの子が、「でも楽しそうだよ」と言いかけて、ライクの目つきを見て黙った。
聡介は草むらの気配に気づいていた。でも、振り返らなかった。ピヨすけは聡介の肩の上で草むらをじっと見ている。
しばらくして、ピヨすけが草むらの前に飛んでいき「ピヨッ」と鳴いた。草むらが僅かに揺れた。
その様子にクスリと笑みをこぼしながら、聡介は手を止めずに声をかけた。
「あ、そんなところにいたんだね。みんな、おはよう」
草むらが、さらに揺れた。
「ちょっと人手が足りなくて困ってたんだ。そこの壁を拭くの、手伝ってくれないかな。ほかに手伝ってくれる子がいたら連れてきてもいいし。お礼に、出来立ての温かいスープを出すよ」
「……仕事? 俺たちにか?」
ライクの声は警戒していた。でも、お腹が答えを出していた。
ライクが草むらから無言で這い出て、聡介の手から雑巾をひったくるようにして壁に向かった。仲間たちもそれに続く。
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子どもたちは壁を拭いた。
不器用だったが、やらないよりはずっと綺麗になった。
「ありがとう、助かったよ。はい、これがお仕事の報酬ね」
聡介がスープの器を差し出した。
ライクが受け取った。
子どもたちは宿坊の敷居をまたがなかった。むき出しの石畳の真ん中で、立ったままスープをすすった。いつでも地を蹴って逃げられる、野良犬のような姿勢で。
熱い汁が喉を通る。体の芯が温まっていく。
誰も何も言わなかった。ただ、飲んだ。
しかし、途中で何かに気づいたようにライクの手が止まったかと思うと、じっと器に残ったスープを見つめ始めた。その様子に、ほかの子たちの手も止まる。
聡介はその様子に笑みを浮かべ、傍らにおいてあった鍋を差し出しながら言った。
「大丈夫だよ、ちゃんと用意してあるから。あっ、鍋はまた明日持ってきてね」
ライクはそれを見ると、一瞬迷うような表情を見せたが、一気に残りのスープを飲むと器を地面に置いた。
「……ごちそうさま! お前ら、行くぞ!」
聡介の差し出す鍋をひったくるようにして受け取り、脱兎のごとく駆け出す。子どもたちも慌ててスープを飲み干し後に続いた。
「まったく、礼くらい言ってもよかろうに」
イグニシアが腕を組んで言った。
「いいんですよ」と聡介は言った。「彼らは施しを受けたわけじゃない。自分の労働でスープを勝ち取ったんだ。だから、堂々と帰っていいんですよ」
イグニシアは黙った。
草むらの向こうに、子どもたちの姿が消えていった。
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翌日も、子どもたちは来た。ちゃんと鍋は洗ってあった。
人数が少し増えている。昨日はいなかったガビアルの子や見慣れない種族の子もいた。
子どもたちはまた壁を拭いて、スープをもらって立ったまま飲み、鍋を受け取って帰った。
その次の日も来た。
聡介はあえて名前を聞かなかった。どこから来たのかも、親はいるのかも、なぜそんなに汚れているのかも。一番聞かれたくないことを、一切口にしなかった。
「今日も手伝ってくれてありがとう。今日のスープは少し多めに作っておいたよ」
それだけ言って、また黙って作業に戻る。
三日目、子どもたちはまだ立ったまま飲んでいた。
四日目、気づくと玄関の階段に腰を掛けていた。
誰も何も言わなかった。聡介も、ドランも、イグニシアも。ただ、いつも通りに過ごした。
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五日目、午前中は宿坊の片付けを手伝ってもらった。長年使われていなかった室内の古い布類を、虫干しのために外へ運び出す作業だ。
子どもたちはまだ警戒を崩してはいなかったが、数日間の関わりで少しは慣れてきたのか、聡介の背中を追うようにして、静かに敷居をまたいだ。
廊下を通り、開け放たれた個室から荷物を運び出す。その時、ライクの視線が一瞬、ある部屋の奥で止まった。
窓際から差し込む陽の光を浴びて、ふっくらと整えられたばかりの、柔らかそうなベッド。
(……くだらねえ)
ライクはすぐにフンと鼻を鳴らして視線を逸らしたが、慢性的な睡眠不足の体に、その暖かそうな白さはひどく眩しく焼き付いた。
午後からは、少し大がかりな作業をした。
湿地帯の草むらから泥が流れ込むのを防ぐため、敷地の境界線から転がり落ちていた重い縁石を動かして、聖堂の周りの土留めを整える作業だった。
子どもたちも加わって、みんなで動かした。
混じっていたガビアルの子どもの、その怪力が思いがけず役に立った。
子どもでありながら、大人である聡介やディーザ並みの力で重い石を「よいしょ」と踏ん張って運んでくれる。
大人手が足りない中、彼が一人で大人一人分以上の働きをしてくれたのは、本当にありがたい戦力だった。
「すごいね、助かったよ!」と聡介が頭を撫でると、その子は鱗のついた顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
仕事が終わった時には夕暮れだった。
よく働いてくれたからと、その日の夕食は奮発して、イグニシアが作ったスープと、少しだが樹海産の木の実や燻製肉が並んだ。
子どもたちは階段に座って食べた。
大湖水から流れる風が、火照った頬を気持ちよく撫でていった。ドランたちの話し声が、宿坊の奥から聞こえてくる。
お腹が満たされていく。体が温かくなっていく。
慢性的な睡眠不足だった。毎晩、どこかで音がするたびに目を覚ます日々だった。でも今、何かが違った。
「……くそ」
ライクが呟いた。瞼が重い。
「おい、起きろ。帰るぞ」
隣のトードフォークの子を揺さぶった。返事がない。泥のように眠っていた。
「なんで……」
ライク自身の体が、傾いていた。
硬い階段に倒れ込む感触がした。
そのまま、意識が消えた。
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光が目に入った。
朝だった。
「……っ!? しまった、寝ちまったのか!?」
ライクは飛び起きた。周囲を見渡した。
縛られていない。荷物も近くにある。
ただ、体は室内の柔らかいベッドの上にあった。柔らかい毛布がかかっている。いくつか並ぶベッドの上では、仲間がまだ寝息を立てていた。
(待て、ここ……)
慌てて床へ飛び降りようとしたライクの動きが、ふと止まる。シーツから香るお日様の匂い。窓の鎧戸の隙間から薄っすらと差し込む、朝の光。
昨日、不要品を運び出しながら、ほんの一瞬だけ目を奪われたあの部屋だ。ライクが座っているのは、まさにあの時に見た、柔らかそうなベッドの上だった。
状況の変化についていけず。呆然とするライクに部屋の入り口から声がかけられた。
「あ、おはよう。よく眠れた? ずっと張り詰めてたから、疲れが出ちゃったんだね」
「俺たちを……どうする気だ」思わぬ声かけに身構えるライク、しかし聡介は笑いながら言った。
「どうもしないよ」
聡介は部屋に入ると簡素な木のテーブルに手に持っていた鍋を置き、鎧戸を静かに開いた。差し込む朝日に何人かが寝返りを打つ。
「ただ、お腹が空いたままだと力が出ないからね。朝ご飯、みんなを起こして食べよう。お仕事の前だけど、今回は前払いってことでいいかな」
聡介が置いた鍋から湯気が立っていた。
お粥だった。
ライクはその湯気を見ていた。
(どうする気もない、か)
何も取られなかった。働いた分だけちゃんと食べさせてくれた。邪魔だと追い出されなかった。ベッドに寝かせて毛布をかけてもらっていた。
ライクの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
自分でも気づかないうちに、こぼれていた。
拭こうとして、手が震えた。
聡介は、ライクの涙に気づかないふりをして、静かに窓の外を眺めていた。
励ますでもなく、哀れむでもなく、ただ男の子のプライドを守るように、静かな朝の光だけが部屋を満たしていた。




