第44話:【雨の集落と、語られた過去】
翌朝、雨だった。
高床の床板を叩く雨音で目が覚めた聡介は、外を見て思わず息を呑んだ。
昨夜は暗くて分からなかったが、集落はこれほど水の上にあったのか。
雨が降り注ぐ湿原は、どこまでが水たまりでどこからが地面なのか、もはや判然としない。霧が立ち込め、遠くの巨木がぼんやりと煙っていた。
「これは……確かに不慣れな者には危険ですね」
「分かったか」
背後からゾルグの声がした。
「しばらく雨が続く。湿地帯の雨は長引く。不慣れな者が無理に動けば、足を取られて沼に落ちる」
「……ありがたく、お世話になります」
ゾルグは短く頷いた。
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朝食を終えた後、広間に再び向き合って座った。
「昨日の続きを聞かせてください」と聡介は言った。
ゾルグはしばらく雨の降る外を見ていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「俺の妻は、バザールを作った人間だ」
「バザールを……作った?」
「元々、大湖水の周りには、俺たちリザードマンをはじめとした湿原の種族とたまに来る人族の商人が、細々と物々交換をする場所があった。それを本格的な市場にしようと言い出したのが、俺の妻だ…」
「…あいつは言ったんだ。『大湖水の恵みと、私たちを守る龍への感謝を、もっとたくさんの人に知ってもらいたい』ってな」
ゾルグの声は淡々としていた。でも、その目の奥に何かがあった。
「あいつは、湖岸にある龍の聖堂を起点にして、本格的な市場を開こうと言い出したんだ。みんなが笑顔で集まれば、龍だって喜ぶはずだと…」
「妻は人を集めるのが上手かった。人間の商人を説得して、各種族の長と交渉して、場所を整えて。俺には到底できないことを、あいつは笑いながらやってのけた」
「……素晴らしい方だったんですね」
「俺たちリザードマンは、バザールのおかげで生活が変わった。物が手に入るようになった。子どもたちに、栄養のあるものを食べさせられるようになった」
ゾルグは言葉を切った。
「それが……数年前から変わり始めた」
「商団が台頭してきた頃ですか」
「ああ。どこから来たのかも分からん連中が、気づいたらバザールの中心に座っていた。商売が上手くて、金を持っていて、あっという間に実権を握った」
その手が、また膝の上で握られた。
「その頃に、妻が死んだ。湿原での事故だと言われた…。だが……あいつは湿原育ちだ。足を踏み外すような場所で、沼に落ちるような奴じゃない」
広間が静かになった。
雨音だけが続いていた。
「証拠はありません、と言っていましたね」
「ない。何もない。だから俺は……何もできなかった」
ゾルグが顔を上げた。その目に、怒りと後悔が混ざっていた。
「子どもの失踪も、同じ頃から始まった。バザールに出かけて、そのまま帰らない子がいた。リザードマンだけじゃない。湿原に住む様々な種族の子どもが、何人も」
「今は……起きていないんですか」
「ここ何年かは聞かない。だが、油断はできん。それが今も、子どもを連れた見知らぬ者を見れば体が動く理由だ」
聡介は静かにその言葉を受け取った。
「……ご迷惑をおかけしました」
「謝るのはこっちだ」
ゾルグが珍しく視線を外した。
「坊主を怖がらせた。それは……悪かった」
仲間の一人が、目を丸くした。隣の仲間と顔を見合わせる。おそらく、ゾルグが素直に謝るのは珍しいのだろう。
「…バザールまで、案内しよう」とゾルグは続けた。
「……なぜそこまで」
「詫びだ。それ以上でも以下でもない」
聡介は少し間を置いた。
「ありがとうございます。お願いします」
雰囲気がほぐれ、打ち解けた空気が流れたその時だった。
「ゾルグ」
低い、重みのある声が広間の入り口から響く。
振り返ると、入り口に老いたリザードマンが立っていた。体格はゾルグより一回り小さいが、その目には長年の権威が宿っている。
「また懲りずに、よそ者を引き込んでいるのか」
「……里長」
ゾルグが立ち上がった。その顔から表情が消えた。
「浅はかな夢を追い、その結果どうなった。…湖水の守り龍は姿を消し、我が娘は命を落とした…。そこで終わったのだ。いい加減、外に目を向けるのはやめろ。あの商団と関わったせいで、この集落はどのような目に遭った」
「関わったのは商団じゃない。人間の商人と、市場を作ろうとしただけだ」
「結果は同じだ」
里長の視線が、聡介たちの方へ向いた。
「人族、竜人族。……どこから来た者かは知らんが、こやつらに関わっても良いことはないぞ。厄介事に巻き込まれるだけだ」
「里長」
ゾルグの声が、低くなった。
「俺の客に、余計なことを言うな」
「客だと? どの口がそのような事を言う。わしが何も知らぬとでも思っているのか」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。
聡介は口を挟まなかった。
やがて里長が、鼻を鳴らして踵を返した。
「もういい、好きにしろ。ただし、また何かあっても、集落は関知しない」
それだけ言って、立ち去った。
広間に残ったのは、ゾルグと、その仲間たちと、聡介たちだった。
仲間の一人が「いつものことだ、気にするな」と小声で言った。
ゾルグは何も言わなかった。ただ、外の雨を見ていた。
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それからの数日間、聡介たちは集落に留まった。
雨は続いた。
聡介はせっかくだからと、集落の子どもたちと遊ばせてもらうことにした。
「今日は何をしようかな」
お散歩リュックを開くと、子どもたちが一斉に覗き込んできた。
リザードマンの子どもたちは、鱗に覆われた小さな手を伸ばして「これは何だ」「あれは何だ」と次々に声を上げた。
「じゃあ、まずはこれから」
聡介が取り出したのは、折り紙だった。
「かみ、だ」
「こんなペラペラのもので何をするんだ?」
「見てて」
聡介の指先が動く。カサ、カサ、と紙の擦れる音がして、数秒後に一羽の鶴が生まれた。
子どもたちが「おお」と声を上げた。
ドランが「僕も作れるよ」と言って、少し歪な鶴を取り出した。子どもたちがさらに沸いた。
あっという間に、聡介の周りに子どもたちが集まってきた。
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その輪の少し外で、イグニシアは腕を組んで立っていた。
ゾルグが近くに来た。
「あの人族は、不思議な奴だな」
「……そうだな」
「あんたは警戒したままか」
「当然だ」
「あいつはああも馴染んでいるのに?」
「ソウスケの判断と、私の判断は別だ」
ゾルグは少し笑った。
「そういうところが、俺と似てるな」
「……似ていない」
「似てるよ。不器用なところが」
イグニシアは答えなかった。
ゾルグはそれ以上何も言わずに、子どもたちの輪の方を見た。
聡介がドランと並んで、子どもたちに手遊びを教えていた。鱗だらけの小さな手が、不器用に動いている。
「……俺たちがあの坊主を連れて行った時、どこにいたんだ」
「っ……」
「そういうことか」
ゾルグが短く言った。責めるわけではない。ただ、確認しただけだった。
「俺も、妻が死んだ時に傍にいなかった」
それだけ言って、ゾルグは輪の方へ歩いていった。
イグニシアは、その背中を見届けたあと、自らの手首に巻かれた、黒い種のブレスレットへとそっと視線を落とした。
そして、握っていた剣の柄からゆっくりと手を離し、その愛しい贈り物を慈しむように親指で撫でた。
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聡介が折り紙の鶴を子どもたちに配り終えた頃、ふと視線を感じた。
少し離れた高床の柱の影に、腕を組んで立つ女性がいた。リザードマンの鱗を持つ、イグニシアと近い年頃だろうか。
その目は子どもたちではなく、聡介をじっと見ていた。値踏みするような、冷静な視線だった。
聡介が目を向けると、女性は視線を逸らさなかった。
「……失礼ですが、あなたが例の人族ですか」
「そうです。別俣聡介と申します」
「子どもたちへの関わり方を拝見していました。……理に適っていますね。何者なんですか、あなたは」
「保育士です」
「……ほいくし」
女性はそれ以上何も言わなかった。ただ、腕を組んだまま、また子どもたちの輪を眺め始めた。
後でゾルグに聞くと、短い答えが返ってきた。
「妻の妹だ」
それだけだった。
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数日後、雨が上がった。
「出発するか」
「お世話になりました」
律儀に頭を下げる聡介に、ゾルグは苦笑しつつも表情を整え言葉を紡ぐ。
「礼はいい。……俺たちが好きでしたことだ」
「はい」
「バザールは、今や俺たちの居場所じゃない。だが……お前みたいな奴が行けば、何か変わるかもしれんな」
「買いかぶりすぎですよ」
「そうかもしれん」
ゾルグは短く笑った。それから、船に乗り込んだ。
子どもたちが高床の縁から手を振った。
ドランが笛を吹いて応えた。
その音色が、晴れた湿原に響いていった。




