第42話:【泥濘の剣戟と、通りすがりの保育士】
クリムが、重くなっていた。
最初は気のせいかと思った。でも、船が湿原を滑るたびに、腕にかかる重さが増していく。
熱も上がっている。普段はふんわりとした暖かさと感触のはずのクリムが、今は手のひらを通して体温を感じるほど熱かった。
「クリム……どうしちゃったんだよ」
ドランは抱きしめた腕を緩めた。それでも重さは増す一方だった。
やがて、耐えられなくなった。
ドランはクリムをそっと船底に置いた。
瞬間、船の速度が落ちた。
「なんだ?」
舳先に立っていたリザードマンが振り返った。
「魔力の流れは……特に異常はないぞ!? 駆動式はちゃんと回ってる!」
「馬鹿な! じゃあなんで進まねえ、完全に止まっちまうぞ!」
リザードマンたちが慌てて船の床板に手を当てる。彼らの言う通り、船の魔力回路には何ひとつ不具合は起きていなかった。
――ただ、船体そのものが、まるで巨大な鉄塊でも積まれたかのように、湿原の泥の中へ深く深く沈み込んでいた。
ドランは船底のクリムを見つめた。
クリムの小さな体からは、鮮烈な、熱を帯びた赤い魔力が物理的に溢れ出し始めている。その圧倒的な熱量に耐えかねて、木材でできた船底は内側からじわじわと黒く焦げかけていた。
「クリム……」
紅い羽が、風もないのに揺れていた。
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湿原を駆けるイグニシアの足が、止まった。
「……止まった」
遠くに見えていた船が、動きを止めていた。
「今だ」
彼女は地を蹴った。
水を含んだ湿原が足元で跳ね、泥が飛び散る。それをものともせず、イグニシアは船に向かって一直線に駆けた。聡介もその後を全力で追った。
距離が縮まる。
船の上でリザードマンたちが騒いでいるのが見える。
イグニシアが最後の一歩を踏み込んだ。
跳んだ。
湿原の空を切って、上段から一気に斬りかかる。
「ドランを返せ——!」
「っ、なんだ!?」
首魁と思われる大柄なリザードマンが間一髪で体を捻り、分厚い剣でイグニシアの一撃を受け止めた。
金属の激突音が湿原に響いた。
「竜人族の戦士か……!」
「話を聞く気はない!」
イグニシアが連撃を仕掛けた。炎を纏わせた赤き刃が、空気を灼きながら首魁に迫る。
「水壁!」
後方のリザードマンが叫んだ。湿原の水が巻き上がり、炎の前に壁を作る。蒸気が立ち込め、視界が白く染まった。
「邪魔を——!」
イグニシアが蒸気を切り裂いて前進した。首魁が受け止める。その背後で仲間たちが水を操り、イグニシアの足元を滑らせようとする。
「くっ」
足元が崩れかけた瞬間、イグニシアが跳んで回避した。着地と同時に横薙ぎ。首魁が後退する。
「こいつ、一人でここまで……!」
「黙れ!」
炎と水が交錯する。蒸気が晴れるたびに、イグニシアがじわじわと頭目を追い詰めていく。一対多数でも、彼女の剣は止まらない。
やがて、頭目の動きが鈍った。
「……グッ」
背後の仲間も、連続した水魔法で消耗してきていた。
イグニシアが剣を構えた。切っ先が首魁の喉元に向く。
「終わりだ」
その時だった。
「待ってください!」
聡介の声が、湿原に響いた。
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聡介が追いついた時、ドランがすぐに駆け寄ってきた。
「先生!」
「ドランくん、怪我は!?」
「ないよ、大丈夫…」
「良かった…」
安堵した聡介はイグニシアを見やる。
首魁と思わしきリザードマンは仲間の支援を受けているためか粘り強かったが、イグニシアが負ける姿は微塵も想像できなかった。
「……先生、聞いて」
微かな安堵を見せる聡介のエプロンの裾を、ドランが掴んだ。
視線を移すと、その顔は険しかった。でも何かを必死に伝えようとしている。
「なんだいドランくん」
「あいつら……変なんだ」
「変?」
聡介は訝しみながらも、どこか納得したような気持ちになり、目配せをして先を促す。
「縛らなかった。痛くもしなかった。怖そうに見えるけど、なんか……違う気がする。普通の悪い人と」
聡介はドランの目を見た。
「もう少し、話してくれる?」
「船が止まった時、みんな慌ててたけど……僕に近づいてきた人が『怪我してないか』って小さい声で言ったんだ。悪い人が、そんなこと言う?」
キィン、と、ひときわ高く激しい金属音が湿原に響き渡り、ふっと静寂が訪れた。
聡介が顔を上げると、イグニシアの剣が首魁と思われる大柄なリザードマンの喉元に、ぴたりと突きつけられていた。
「待ってください、シアさん!」
聡介が前に出た。
イグニシアが振り返った。その目が「何を言っている」と物語っていた。
「ドランくんは無事です。……少しだけ、話を聞かせてもらえませんか」
「ソウスケ、こいつらはドランを——」
「攫ったんじゃないかもしれない」
沈黙が落ちた。
首魁が、剣を構えたまま聡介を見た。
「……人族。お前は」
聡介はエプロンの裾を軽く払って正すと、背筋を伸ばしながら名乗る。
「別俣聡介と申します。通りすがりの保育士です」
「ほいくし……?」
「子どもと、その周りの大人の味方ですよ」
聡介は首魁のいかめしい顔を真っ直ぐに見た。
「あなたたちが、人攫いなら、今頃もっとしっかり拘束していたはずです。でも、していなかった。乱暴もされてないとドランくんは言っていました。……理由を聞かせてもらえますか」
首魁のリザードマンは長い間、聡介を見ていた。
やがて、ゆっくりと剣を下ろした。
「……ちっ」
そして、舌打ちとともに、その太い腕を組み、疑いを隠しもしない声で問いかける。
「…お前ら、あの商団の連中じゃないのか」
「商団?」
「子どもを連れ歩く大人を見たら、疑うのが当然だ。この辺りじゃな」
その声が、低くなった。その奥に、古い傷のような何かが滲んでいた。
「……詳しく聞かせてもらえますか」
「長くなるぞ」
「構いません」
首魁はしばらく聡介を睨み据え。それから、大きく息を吐いた。
「……集落に来い。立ち話でする話じゃない。それに、お前らみたいな不慣れな奴が湿原をうろつくのは危険だ」
イグニシアが口を開きかけた。
「シアさん」
聡介が静かに言った。
「行きましょう」
イグニシアは一瞬だけ剣の柄を握ったまま固まり、それから短く息を吐いた。
「……後悔させるなよ」
首魁は答えなかった。ただ、踵を返して歩き始めた。
ドランが聡介の隣に来た。その手にクリムが戻っていた。さっきまでの重さも熱も、嘘のように消えていた。
「クリムが、元に戻ったよ…。きっと助けてくれたんだ…」
「そうだね」
聡介はクリムを一瞥した。何も変わっていない。同じふわふわした赤い毛並み、同じ胸元の紅い羽。
でも確かに、何かがあった。
湿原の風が、一行の背中を押すように吹いた。




