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【第三章開幕】異世界転移したおっさん保育士、子どもも大人も世界の歪みも、愛と受容でまるごと抱きしめる  作者: まどか
第三章:ひよこエプロンと、抗う露天街の子

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第42話:【泥濘の剣戟と、通りすがりの保育士】

クリムが、重くなっていた。


最初は気のせいかと思った。でも、船が湿原を滑るたびに、腕にかかる重さが増していく。


熱も上がっている。普段はふんわりとした暖かさと感触のはずのクリムが、今は手のひらを通して体温を感じるほど熱かった。


「クリム……どうしちゃったんだよ」


ドランは抱きしめた腕を緩めた。それでも重さは増す一方だった。


やがて、耐えられなくなった。


ドランはクリムをそっと船底に置いた。


瞬間、船の速度が落ちた。


「なんだ?」


舳先に立っていたリザードマンが振り返った。


「魔力の流れは……特に異常はないぞ!? 駆動式はちゃんと回ってる!」


「馬鹿な! じゃあなんで進まねえ、完全に止まっちまうぞ!」


リザードマンたちが慌てて船の床板に手を当てる。彼らの言う通り、船の魔力回路には何ひとつ不具合は起きていなかった。


――ただ、船体そのものが、まるで巨大な鉄塊でも積まれたかのように、湿原の泥の中へ深く深く沈み込んでいた。


ドランは船底のクリムを見つめた。


クリムの小さな体からは、鮮烈な、熱を帯びた赤い魔力が物理的に溢れ出し始めている。その圧倒的な熱量に耐えかねて、木材でできた船底は内側からじわじわと黒く焦げかけていた。


「クリム……」


紅い羽が、風もないのに揺れていた。


────────────────


湿原を駆けるイグニシアの足が、止まった。


「……止まった」


遠くに見えていた船が、動きを止めていた。


「今だ」


彼女は地を蹴った。


水を含んだ湿原が足元で跳ね、泥が飛び散る。それをものともせず、イグニシアは船に向かって一直線に駆けた。聡介もその後を全力で追った。


距離が縮まる。


船の上でリザードマンたちが騒いでいるのが見える。


イグニシアが最後の一歩を踏み込んだ。

跳んだ。


湿原の空を切って、上段から一気に斬りかかる。


「ドランを返せ——!」


「っ、なんだ!?」


首魁と思われる大柄なリザードマンが間一髪で体を捻り、分厚い剣でイグニシアの一撃を受け止めた。


金属の激突音が湿原に響いた。


「竜人族の戦士か……!」


「話を聞く気はない!」


イグニシアが連撃を仕掛けた。炎を纏わせた赤き刃が、空気を灼きながら首魁に迫る。


「水壁!」


後方のリザードマンが叫んだ。湿原の水が巻き上がり、炎の前に壁を作る。蒸気が立ち込め、視界が白く染まった。


「邪魔を——!」


イグニシアが蒸気を切り裂いて前進した。首魁が受け止める。その背後で仲間たちが水を操り、イグニシアの足元を滑らせようとする。


「くっ」


足元が崩れかけた瞬間、イグニシアが跳んで回避した。着地と同時に横薙ぎ。首魁が後退する。


「こいつ、一人でここまで……!」


「黙れ!」


炎と水が交錯する。蒸気が晴れるたびに、イグニシアがじわじわと頭目を追い詰めていく。一対多数でも、彼女の剣は止まらない。

やがて、頭目の動きが鈍った。


「……グッ」


背後の仲間も、連続した水魔法で消耗してきていた。


イグニシアが剣を構えた。切っ先が首魁の喉元に向く。


「終わりだ」


その時だった。


「待ってください!」


聡介の声が、湿原に響いた。


────────────────


聡介が追いついた時、ドランがすぐに駆け寄ってきた。


「先生!」


「ドランくん、怪我は!?」


「ないよ、大丈夫…」


「良かった…」


安堵した聡介はイグニシアを見やる。


首魁と思わしきリザードマンは仲間の支援を受けているためか粘り強かったが、イグニシアが負ける姿は微塵も想像できなかった。


「……先生、聞いて」


微かな安堵を見せる聡介のエプロンの裾を、ドランが掴んだ。


視線を移すと、その顔は険しかった。でも何かを必死に伝えようとしている。


「なんだいドランくん」


「あいつら……変なんだ」


「変?」


聡介は訝しみながらも、どこか納得したような気持ちになり、目配せをして先を促す。


「縛らなかった。痛くもしなかった。怖そうに見えるけど、なんか……違う気がする。普通の悪い人と」


聡介はドランの目を見た。


「もう少し、話してくれる?」


「船が止まった時、みんな慌ててたけど……僕に近づいてきた人が『怪我してないか』って小さい声で言ったんだ。悪い人が、そんなこと言う?」


キィン、と、ひときわ高く激しい金属音が湿原に響き渡り、ふっと静寂が訪れた。


聡介が顔を上げると、イグニシアの剣が首魁と思われる大柄なリザードマンの喉元に、ぴたりと突きつけられていた。


「待ってください、シアさん!」


聡介が前に出た。


イグニシアが振り返った。その目が「何を言っている」と物語っていた。


「ドランくんは無事です。……少しだけ、話を聞かせてもらえませんか」


「ソウスケ、こいつらはドランを——」


「攫ったんじゃないかもしれない」


沈黙が落ちた。


首魁が、剣を構えたまま聡介を見た。


「……人族。お前は」


聡介はエプロンの裾を軽く払って正すと、背筋を伸ばしながら名乗る。


「別俣聡介と申します。通りすがりの保育士です」


「ほいくし……?」


「子どもと、その周りの大人の味方ですよ」


聡介は首魁のいかめしい顔を真っ直ぐに見た。


「あなたたちが、人攫いなら、今頃もっとしっかり拘束していたはずです。でも、していなかった。乱暴もされてないとドランくんは言っていました。……理由を聞かせてもらえますか」


首魁のリザードマンは長い間、聡介を見ていた。


やがて、ゆっくりと剣を下ろした。


「……ちっ」


そして、舌打ちとともに、その太い腕を組み、疑いを隠しもしない声で問いかける。


「…お前ら、あの商団の連中じゃないのか」


「商団?」


「子どもを連れ歩く大人を見たら、疑うのが当然だ。この辺りじゃな」


その声が、低くなった。その奥に、古い傷のような何かが滲んでいた。


「……詳しく聞かせてもらえますか」


「長くなるぞ」


「構いません」


首魁はしばらく聡介を睨み据え。それから、大きく息を吐いた。


「……集落に来い。立ち話でする話じゃない。それに、お前らみたいな不慣れな奴が湿原をうろつくのは危険だ」


イグニシアが口を開きかけた。


「シアさん」


聡介が静かに言った。


「行きましょう」


イグニシアは一瞬だけ剣の柄を握ったまま固まり、それから短く息を吐いた。


「……後悔させるなよ」


首魁は答えなかった。ただ、踵を返して歩き始めた。


ドランが聡介の隣に来た。その手にクリムが戻っていた。さっきまでの重さも熱も、嘘のように消えていた。


「クリムが、元に戻ったよ…。きっと助けてくれたんだ…」


「そうだね」


聡介はクリムを一瞥した。何も変わっていない。同じふわふわした赤い毛並み、同じ胸元の紅い羽。


でも確かに、何かがあった。


湿原の風が、一行の背中を押すように吹いた。

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