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【第三章開幕】異世界転移したおっさん保育士、子どもも大人も世界の歪みも、愛と受容でまるごと抱きしめる  作者: まどか
第三章:ひよこエプロンと、抗う露天街の子

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第41話:【湿原に吹く風、約束の音色】

「坊主、暴れんじゃねぇぞ」


低い声が、湿った風と一緒に耳に届いた。


船の底に膝をついたドランは、ぎゅっと唇を結んで前を見た。両側に座るリザードマンたちは、鱗に覆われた腕を組み、じろりとこちらを見下ろしている。


船は速かった。


水に浸った湿原を、風を切るように滑っていく。水面が白く跳ね、顔にかかった。後ろを見ると、さっきまでいた場所が遠くなっていた。


(先生は……)


ドランはクリムをぎゅっと抱きしめた。胸元の紅い羽が、風にはためいている。


笛を握りしめた。ポシェットの中ではなく、最初から手の中にあった笛を。


「飛び出そうなんて思うんじゃねぇぞ。この速さで落ちたら、ただじゃ済まねぇ」


リザードマンの一人が、低く言った。


ドランは答えなかった。ただ、クリムを抱く腕に力を込めた。


(先生は、絶対来てくれる)


────────────────


少し前のことだった。


みずひかり広場を発ってから、どれくらい経っただろう。


樹海を抜けたのは、昼過ぎのことだった。


「……空が、広い」


ドランが顔を上げた。樹海の中では頭上を覆っていた梢が消え、代わりに灰色がかった白い空が広がっていた。


足元の感触が変わっていた。腐葉土の柔らかさが消え、水を含んだ重たい土が靴底に張り付く。一歩踏み出すたびに、ぐちゃ、と湿った音がした。


「湿原だ」と聡介が言った。「ここからが、新しい場所だよ」


視界の端に、何かが見えた。


街道沿いに、石造りの塔が立っていた。樹海の木立の切れ目から覗くそれは、どこか不自然な存在感を放っていた。窓に明かりはなく、入り口には人影がある。旗が掲げられ、遠目にも「人間の施設」だと分かった。


「……あの塔」


イグニシアが足を止めた。その目が細くなる。


「兄上から聞いたことがある。交易路の要所に建てられた塔だ。道標と詰所を兼ねているらしいが……」


彼女は言葉を切った。剣の柄に、無意識に手が触れていた。


「少し、見てくる。ここで待っていてくれ」


「気をつけてくださいよ」


「すぐ戻る」


イグニシアの背中が、街道の方へ消えていった。


聡介はドランと顔を見合わせた。


「先生、あの塔……なんか、嫌な感じがする」


「そうだね」と聡介は言った。「シアさんも気になったんだろうね」


二人は街道から少し外れた場所に腰を下ろした。湿原の草が風に揺れている。ピヨすけがポケットから顔を出して、きょろきょろと周囲を見渡した。


「先生、ちょっとあっちの草、見てきていい? 面白い形のがあるんだ」


「見える範囲でね」


「うん!」


ドランがクリムを抱えて立ち上がった。草の間を歩いていく。その背中が、湿原の風景に溶け込んでいく。


聡介はお散歩リュックを開いて、水筒を取り出した。


その時だった。


草の向こうから、どさり、という音がした。


「ドランくん?」


返事がない。


聡介が立ち上がった瞬間、草を掻き分けて大柄な影が現れた。鱗に覆われた肌、鋭い目、湿原の泥を纏ったような重厚な体躯。


リザードマンだった。


その腕の中に、ドランがいた。


「ドランくん!」


聡介は走り出した。その瞬間、別のリザードマンが横から現れて行く手を塞いだ。


「どいてください!」


「人族、大人しくしろ」


「離して…ください!」


聡介の声が、静かになった。


怒りを押し込めた、低い声だった。


その瞬間、周囲の空気がふっと凪いだ。


リザードマンが、動けなくなった。


足が、見えない何かに押さえられているように、ぴたりと止まった。男は困惑した顔で自分の足元を見下ろした。


聡介には、何が起きたか分からなかった。ただ、目の前のリザードマンが止まっていた。


その隙に、船が動き出した。


「ドランくん——!」


「先生——!」


リザードマンの動きが戻った瞬間、聡介は駆けだした。


(走れる、まだ足が出る……っ!)


頭のどこかで、45歳だった頃の自分の記憶が驚いていた。


いつもならすぐに膝が笑い、息が切れるはずの泥濘ぬかるみ。なのに、20代の肉体は聡介の焦燥に応えるように、力強く地面を蹴り続けていた。


だが、それでも船は速かった。


水を切る音が、みるみる遠ざかっていく。


聡介は走りながら、ピヨすけのいるポケットを叩いた。


「ピヨすけ! ドランくんの方向!」


「ピヨッ!」


ピヨすけが弾かれたように飛び立った。小さな体が、船の消えた方向へ一直線に飛んでいく。


──────────────


ドランは船の揺れに合わせて体を安定させながら、前を見ていた。


周囲の奴らより一回り体の大きなリザードマン――自分を抱え上げて船に放り込んだ男が、じろりとこちらを見下ろしてきた。


「怖いか、坊主」


「……怖く…ない」


「強がりだな」


男はニヤリと笑った。


(怖いよ…先生)


怖い。暴れてやろうかとも思う。でも船は速い。


ぐちゃぐちゃになりそうな感情を押さえるように、ドランは手の中のクリムをさらに強く抱きしめた。


その時ふと感じる。


クリムが熱くなっている。


ドランは不意に手の中の笛を見つめると、決死の思いで唇に笛を当てた。


そして…思い切り吹いた。


高く、透明な約束の音色が、湿原の風を切って響いた。


──────────────


その音を聡介は確かに捉えた。遠くから鳴っているのはわかる、でも確かに聞こえる澄んだ音色。


聡介は足を止めずに、その音の方向を見た。

湿原の向こう、ピヨすけが飛んでいった先に船が見えた。


「……来てくれ、シアさん」


呟いた瞬間、背後の草むらが爆発したかのように激しく揺れた。


「ソウスケ! ドランはどこだ!」


猛烈な勢いで湿原を駆けてきたイグニシアだった。類まれなる竜人族の戦士は、あっという間に聡介に追いつく。


その目が、遠ざかる船を捉えた瞬間、迷いが消えた。


「追う」


「あの速さで追いつけますか」


「やってみなければ分からん」


イグニシアが走り出した。聡介もその隣に並んだ。


泥が跳ね、顔を叩いた。


それをものともせず、2人は湿原に吹く風の如く駆けていく。約束の音色を頼りに。

第三章スタートです。楽しんで読んでいただけたら幸いです。

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