第41話:【湿原に吹く風、約束の音色】
「坊主、暴れんじゃねぇぞ」
低い声が、湿った風と一緒に耳に届いた。
船の底に膝をついたドランは、ぎゅっと唇を結んで前を見た。両側に座るリザードマンたちは、鱗に覆われた腕を組み、じろりとこちらを見下ろしている。
船は速かった。
水に浸った湿原を、風を切るように滑っていく。水面が白く跳ね、顔にかかった。後ろを見ると、さっきまでいた場所が遠くなっていた。
(先生は……)
ドランはクリムをぎゅっと抱きしめた。胸元の紅い羽が、風にはためいている。
笛を握りしめた。ポシェットの中ではなく、最初から手の中にあった笛を。
「飛び出そうなんて思うんじゃねぇぞ。この速さで落ちたら、ただじゃ済まねぇ」
リザードマンの一人が、低く言った。
ドランは答えなかった。ただ、クリムを抱く腕に力を込めた。
(先生は、絶対来てくれる)
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少し前のことだった。
みずひかり広場を発ってから、どれくらい経っただろう。
樹海を抜けたのは、昼過ぎのことだった。
「……空が、広い」
ドランが顔を上げた。樹海の中では頭上を覆っていた梢が消え、代わりに灰色がかった白い空が広がっていた。
足元の感触が変わっていた。腐葉土の柔らかさが消え、水を含んだ重たい土が靴底に張り付く。一歩踏み出すたびに、ぐちゃ、と湿った音がした。
「湿原だ」と聡介が言った。「ここからが、新しい場所だよ」
視界の端に、何かが見えた。
街道沿いに、石造りの塔が立っていた。樹海の木立の切れ目から覗くそれは、どこか不自然な存在感を放っていた。窓に明かりはなく、入り口には人影がある。旗が掲げられ、遠目にも「人間の施設」だと分かった。
「……あの塔」
イグニシアが足を止めた。その目が細くなる。
「兄上から聞いたことがある。交易路の要所に建てられた塔だ。道標と詰所を兼ねているらしいが……」
彼女は言葉を切った。剣の柄に、無意識に手が触れていた。
「少し、見てくる。ここで待っていてくれ」
「気をつけてくださいよ」
「すぐ戻る」
イグニシアの背中が、街道の方へ消えていった。
聡介はドランと顔を見合わせた。
「先生、あの塔……なんか、嫌な感じがする」
「そうだね」と聡介は言った。「シアさんも気になったんだろうね」
二人は街道から少し外れた場所に腰を下ろした。湿原の草が風に揺れている。ピヨすけがポケットから顔を出して、きょろきょろと周囲を見渡した。
「先生、ちょっとあっちの草、見てきていい? 面白い形のがあるんだ」
「見える範囲でね」
「うん!」
ドランがクリムを抱えて立ち上がった。草の間を歩いていく。その背中が、湿原の風景に溶け込んでいく。
聡介はお散歩リュックを開いて、水筒を取り出した。
その時だった。
草の向こうから、どさり、という音がした。
「ドランくん?」
返事がない。
聡介が立ち上がった瞬間、草を掻き分けて大柄な影が現れた。鱗に覆われた肌、鋭い目、湿原の泥を纏ったような重厚な体躯。
リザードマンだった。
その腕の中に、ドランがいた。
「ドランくん!」
聡介は走り出した。その瞬間、別のリザードマンが横から現れて行く手を塞いだ。
「どいてください!」
「人族、大人しくしろ」
「離して…ください!」
聡介の声が、静かになった。
怒りを押し込めた、低い声だった。
その瞬間、周囲の空気がふっと凪いだ。
リザードマンが、動けなくなった。
足が、見えない何かに押さえられているように、ぴたりと止まった。男は困惑した顔で自分の足元を見下ろした。
聡介には、何が起きたか分からなかった。ただ、目の前のリザードマンが止まっていた。
その隙に、船が動き出した。
「ドランくん——!」
「先生——!」
リザードマンの動きが戻った瞬間、聡介は駆けだした。
(走れる、まだ足が出る……っ!)
頭のどこかで、45歳だった頃の自分の記憶が驚いていた。
いつもならすぐに膝が笑い、息が切れるはずの泥濘。なのに、20代の肉体は聡介の焦燥に応えるように、力強く地面を蹴り続けていた。
だが、それでも船は速かった。
水を切る音が、みるみる遠ざかっていく。
聡介は走りながら、ピヨすけのいるポケットを叩いた。
「ピヨすけ! ドランくんの方向!」
「ピヨッ!」
ピヨすけが弾かれたように飛び立った。小さな体が、船の消えた方向へ一直線に飛んでいく。
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ドランは船の揺れに合わせて体を安定させながら、前を見ていた。
周囲の奴らより一回り体の大きなリザードマン――自分を抱え上げて船に放り込んだ男が、じろりとこちらを見下ろしてきた。
「怖いか、坊主」
「……怖く…ない」
「強がりだな」
男はニヤリと笑った。
(怖いよ…先生)
怖い。暴れてやろうかとも思う。でも船は速い。
ぐちゃぐちゃになりそうな感情を押さえるように、ドランは手の中のクリムをさらに強く抱きしめた。
その時ふと感じる。
クリムが熱くなっている。
ドランは不意に手の中の笛を見つめると、決死の思いで唇に笛を当てた。
そして…思い切り吹いた。
高く、透明な約束の音色が、湿原の風を切って響いた。
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その音を聡介は確かに捉えた。遠くから鳴っているのはわかる、でも確かに聞こえる澄んだ音色。
聡介は足を止めずに、その音の方向を見た。
湿原の向こう、ピヨすけが飛んでいった先に船が見えた。
「……来てくれ、シアさん」
呟いた瞬間、背後の草むらが爆発したかのように激しく揺れた。
「ソウスケ! ドランはどこだ!」
猛烈な勢いで湿原を駆けてきたイグニシアだった。類まれなる竜人族の戦士は、あっという間に聡介に追いつく。
その目が、遠ざかる船を捉えた瞬間、迷いが消えた。
「追う」
「あの速さで追いつけますか」
「やってみなければ分からん」
イグニシアが走り出した。聡介もその隣に並んだ。
泥が跳ね、顔を叩いた。
それをものともせず、2人は湿原に吹く風の如く駆けていく。約束の音色を頼りに。
第三章スタートです。楽しんで読んでいただけたら幸いです。




