第39話:【夜、穏やかな水面の光】
みずひかり保育園が開園して数カ月経ったある日。
その日は、あまり呼ばれなかった。
朝から夕方まで、聡介は保育園の各所をゆっくりと歩いて回っていた。急ぐ必要がなかった。誰かに呼ばれて駆け回る必要も、なかった。
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朝の準備が始まる頃、広場はもう動いていた。
お姉様方が手際よく食事の支度を進め、シルクが糸でハンモックの具合を確かめ、ソラが花壇の様子を見て回る。
ゴルドが昨日子どもたちが使った遊具の点検をしている。大きな手が、丁寧に、丁寧に、木の継ぎ目を確かめていく。
「ゴルド先生、ここの結び目、少し緩んでますよ」
お姉様方の一人が声をかけた。
「あ、ほんとだ。直しときます」
誰かに言われなくても、それぞれが動いていた。
子どもたちが親に連れられて広場に来始める頃、イグニシアが調理場から「朝食の準備ができたぞ」と声を上げた。
たちまち子どもたちが「やった!」と駆け寄り、お姉様方が笑いながら席へと誘導する。
その流れを、聡介は少し離れた場所から眺めていた。
誰も聡介を呼ばなかった。それで良かった。
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子どもたちを預けた後、母親たちはそれぞれの仕事へ戻っていった。
フィラは糸仕事の場所へ。マーラは植物の管理へ。ガーラは今日の狩りへ向かう仲間に合流するため、大きな背中を見せて歩いていった。
以前なら、子どもから目を離すことへの不安が、その背中に滲んでいた。今は違う。預けた先を信じて、自分の仕事に向かえる。
その変化を、聡介は静かに見送った。
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午前中、いと組の方から明るい笑い声が聞こえてきた。
「シルク先生! もう一回!」
「もう一回、か……。じゃあ、次はこの形はどうかしら」
シルクが体から細い糸をするりと伸ばし、宙に大きな蝶の形を描いた。
子どもたちが「わあ」と声を上げる。リネアがその糸の端に自分の糸を繋げて、羽を動かしてみせた。
「リネア、上手い!」とシルクが笑った。
その笑顔は、開園初日の緊張した表情とはまるで別人だった。
フィラが糸仕事の手を止めることなく、ちらりと娘の方を見た。そのまま視線を戻して、また手を動かし始めた。それだけで十分だった。
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くさ組の木陰では、ソラが子どもたちの前に座っていた。
エルドから受け継いだ話を、今日は自分の言葉で語っている。
「むかし、樹海の一番深いところに、誰も知らない泉があってね……」
低くはないが、穏やかな声だった。子どもたちが身を乗り出す。セラが根をそっと伸ばして、ソラの近くに寄った。
少し離れた切り株で、エルドがその様子を眺めていた。目を細めて、何も言わずに。
話が終わると、セラが「もう一つ聞きたい」と言った。
「ふふ、じゃあもう一つだけね」
ソラが笑いながら次の話を始める。その横でエルドが小さく頷いた。
マーラが植物の手入れをしながら、「セラ、また根が伸びてるわよ」と声をかけた。
セラが「あっ」と慌てて引っ込める。マーラが苦笑する。その周囲の草は、枯れていなかった。
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昼食の時間になると、広場は一番賑やかになった。
イグニシアとお姉様方が作った食事が、種族ごとに分かれた食事スペースに並んでいく。肉料理、野菜料理、栄養たっぷりの土や新鮮な水、それぞれの食性に合わせた配置は、今では誰も迷わない。
ガロが真っ先に席に着き、「いただきます!」と叫んだ。
「ガロ、みんなが揃ってからだよ」とゴルドが言う。
「ヤダ! もう食べる!」
「……ガロ」
「……わかった」
ガロが渋々待った。それだけで、ゴルドが少し誇らしげな顔をした。
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昼食の後、お昼寝の時間になった。
シルクが張ったハンモックに、アラクネの子どもたちが思い思いに収まっていく。
アルラウネの子どもたちは根を浅く差した土の上に横たわる。
オーガの子どもたちは、ゴルドが敷いてくれた柔らかい葉の上で丸くなっていた。
広場が、しんと静かになった。
時々、誰かの寝息が聞こえる。風がハンモックをゆっくりと揺らす。
ゴルドがガロの隣に横になっていた。目を閉じている。寝ているのか、起きているのか分からない。でもガロは、その大きな隣で静かに目を閉じていた。
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午後、子どもたちが目を覚ますと、広場はまた動き始めた。
今日は誰が声をかけるでもなく、子どもたちが自分たちで遊びを始めた。
アラクネの子どもが木の上で糸を使って何かを作り始め、それを見たアルラウネの子どもが「何してるの」と根を伸ばして近づいた。オーガの子どもが「ガロも入れて」と飛び込んでいく。
遊具も、すっかり使い込まれていた。ゴルドたちが作った木の台は、子どもたちの手垢で角が丸くなっている。
シルクが張ったハンモックには、子どもたちが選んだ色とりどりの石が飾られていた。ソラが植えた花が、水場の周りで静かに咲いている。
どれも、ここで生まれたものだった。
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夕方近く、ドランがクリムを抱えて広場の端に座っていた。
「クリム、今日も楽しかったね」
返事はない。でもドランは続ける。
「ガロがね、今日は自分でみんなを待てたんだよ。すごいよね」
クリムの胸元の紅い羽が、夕風に揺れた。
「……クリムも、見てたでしょ」
ドランがクリムをぎゅっと抱きしめた。
聡介はその様子を少し離れた場所から見ていた。クリムの重さを、また思い出した。あの日感じた、内側からの密度。何かが育っているような、あの感触。
(……ここにいて、良かったんだろうな。クリムも)
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日が傾いてきた頃、子どもたちが親の元に帰り始めた。
シルクが「また明日ね」と手を振る。ソラが花壇に最後の水をやる。ゴルドがガロの頭を撫でながら「また明日な」と言う。ガロが「ヤダ」と言いながらも手を振り返す。
お姉様方が片付けを進め、エルドが切り株からゆっくりと立ち上がった。帰り際に聡介の方を見て、小さく頷く。
聡介も頷いた。
それだけで良かった。
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夜、みずひかり広場は静かだった。
水場の水面に、月の光が揺れている。昼間の歓声が嘘のように、広場には風の音だけが満ちていた。
聡介は一人、園庭の端に立ち、今日一日の広場の様子をゆっくりと思い返していた。
誰の手も借りずに見事な蝶の糸を紡いだシルク。自分の言葉で子どもたちを惹きつけていたソラ。ガロの隣で不器用に寄り添っていたゴルド。
(……みんな、もう立派な保育士だな)
自分の出番がなかった今日という一日が、寂しくもあり、それ以上に誇らしい。聡介の口元に、ひとりでに優しい笑みがこぼれた。
足音が近づいてきた。
「今日も一日終わったな」
イグニシアだった。聡介の隣に並び、同じ水面を見る。
「ええ、今日は穏やかな日でした」
「ああ。保育園も落ち着いてきたな。規律とまではいかないが……しっかり過ごせていると思う」
「シアさんも随分と、保育士が板についてきましたしね」
「やかましい。今でも慣れてなどいないぞ」
風が通り過ぎた。
水面の月が、ゆらりと揺れた。
「…………」
「…………」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「そろそろ、大丈夫そうですね……」
聡介が静かに言った。
イグニシアが聡介を見た。
「……ソウスケ。いいのか」
「これで、いいんですよ」
月の光が、みずひかり広場を静かに照らしていた。
水面の揺れが、少しずつ、穏やかに凪いでいった。
本日もご覧いただき、ありがとうございます!
樹海での様々な出会いや試練を経て、聡介たちの物語も一つの大きな節目を迎えます。
明日の第40話をもちまして、第2章が完結となります。
樹海で彼らが出会った人々、そして紡いだ絆の結末を、ぜひ最後まで見届けていただけますと幸いです。
明日の最終話も、どうぞよろしくお願いいたします!




