第30話:【嵐を呼ぶ二歳児(オーガ級)】
明確な気配を感じたのは、宝物交換の夜から数えて三日目の朝のことだった。
その間も、オーガらしき気配は広場の外縁に何度か現れては消えていた。イグニシアがそれを察知し、聡介に告げるたびに「様子を見ましょう」と返ってくる日々が続いた。
アラクネやアルラウネの家族たちも、その重い気配には気づいていた。木の上から覗くアラクネたちの視線は、外縁の方向へ向くたびに鋭くなった。マーラは、広場に来る時間を少しずつ早めるようになっていた。
誰も何も言わなかった。ただ、広場の空気が少しずつ、張り詰めていった。
そしてその日の朝。
「……来た」
イグニシアが低く呟いた。
木立の向こう、普段は誰も踏み込まない広場の外縁。そこに、大柄な影が複数立っていた。
先頭にいたのは女性のオーガだった。身の丈はイグニシアの倍近い。
岩のような筋肉に覆われた腕、ごつごつとした赤みのある肌。その顔立ちは厳つく、眉間に深い皺が刻まれている。
だが、その瞳が、広場の中央をちらちらと窺っているのを、聡介は見逃さなかった。
(……あれは、威圧じゃない。緊張してる)
「ソウスケ、下がれ」
イグニシアが前に出た。
「待ってください、シアさん」
「しかし——」
「少し、見ていましょう」
その時だった。
木の上で過ごしていたリネアが、外縁の影に気づいて「きゃっ」と短い悲鳴を上げた。
その声に、オーガが反射的に一歩踏み出した。木立が開ける。圧倒的な体躯が、広場に姿を現す。
「っ、わ、悪い! 脅かすつもりじゃ——」
オーガが両手を上げかけた瞬間、アラクネの子どもたちが一斉に木の高い場所へと逃げ上がった。
マーラが「セラ!」と叫んで我が子を抱き込む。フィラが素早く樹上に上がり、リネアを背中に庇った。
「……っ、だから! そういうつもりじゃ——!」
焦れば焦るほど、オーガの声は荒くなる。その大きな声が、さらに子どもたちを竦ませた。
「落ち着け」
イグニシアが一歩前に出て、剣の柄に手をかけた。オーガの視線が、イグニシアへと向く。
「……竜人族か。こんなところで何をしている」
「おい、ガーラ…。」気色ばんだ声に、不穏な響きを感じて焦ったオーガの仲間が木立から声をかけながら姿を表そうとする。
「うるせぇ、あんたたちは黙って引っ込んでな!」ガーラと呼ばれた女性のオーガが木立に向けて怒鳴りつけると、その声を聞いた仲間は再び姿を隠した。
その様子を鋭い目突きで睨見つけながら、イグニシアは言葉を続けた。
「それはこちらの台詞だ。ここはお前たちの縄張りじゃない」
「分かってる! ただ、様子を——」
「様子を見るなら、他の者を怯えさせるな」
ガーラの口が、ぎゅっと結ばれた。言い返せない。言い返す言葉が見つからない。その苛立ちが、こめかみの血管を浮き上がらせた。
「……偉そうに説教たれてんじゃねえよ、てめぇらが軟弱なだけだろうが。それをうちらのせいにしてんじゃねぇ!」
ガーラの怒号が広場を震わせ、空気が凍り付く。イグニシアが剣を半分ほど抜き放った、その時だった。
「――ヤダァァァァァッ!!」
その場の全員の鼓膜を突き破らんばかりの絶叫が、足元から爆発した。
声の主は、いつの間にかオーガの足元に転がっていた小さな影――母親譲りの赤髪を振り乱し、顔を真っ赤にして泣き喚く幼いオーガだった
「ちょ、ガロ!? なんだい、いきなり!」
さっきまでの迫力はどこへやら、ガーラが狼狽えた声を上げる。しかし、ガロと呼ばれた幼いオーガのイヤイヤは止まらない。
「ママ、ヤダ! おねえちゃん、ヤダ! お水、ヤダ! ねんね、ヤダ!ぜんぶ、だいきらいー!!」
「ぎゃー!」と叫びながらガロが短い足をバタつかせ、近くの地面を蹴り上げる。
ドゴォォン! と、オーガの幼児特有の制御不能な魔力が物理的な衝撃波となり、イグニシアとガーラの間にあった岩を木っ端微塵に粉砕した。
「こらガロ、静かにしな! アタイのメンツが丸潰れだろうが!」
「ヤダー! ママの顔、ヤダー! お空が青いのも、ヤダァァッ!!」
もはや、広場の緊張感などどこかへ吹き飛んでいた。
ガーラは、暴れる我が子を必死に羽交い締めにし、振り回されながらも必死に制御しようとしている。
「このっ、クソガキ……! 言うこと聞きなよ! ほら、鼻水出てるよ!」
「ヤダァッ! 鼻水、ヤダッ! ママ、あっち行けぇー!!」
ドゴォォン! と、ガロの頭突きがガーラの顎を直撃する。流石のガーラも目から火花が出たようで、ふらりとよろめいた。
ガーラがよろめいた瞬間、茂みの向こうで待機していた他のオーガたちが、慌てて身を乗り出した。
「おい、ガーラ! 大丈夫か!」
「……来るな! ったくあんたたちは、そこでガロを見張ってろって言っただろうが!」
「……あ、これ、懐かしいな」
緊張していたはずの聡介の口から、ふと場違いな独白が漏れた。
聡介の目には、それが「恐ろしいオーガ族の暴走」ではなく、保育園の廊下でひっくり返る「二歳児」そのものに見えていた。
「ソウスケ、何を言っている! 離れろ、その幼生体は危険だ!」
「いえ、イグニシアさん……これは攻撃じゃなくて、単なる『イヤイヤ期』ですね」
呆然とする一同を尻目に、ガーラは真っ赤な顔をして吐き捨てた。
「……チッ、今日は運が良かったと思いな! ほら、行くよガロ!」
ガーラは暴れるガロを無理やり小脇に抱え、なぎ倒した茂みをさらに踏み荒らしながら、仲間を従えて嵐のように森の奥へと去っていった。
遠ざかっていく「ヤダァァッ!」という絶叫と、メキメキと木々がへし折れる音。
後に残されたのは、粉々に砕けた岩と、静まり返った広場。
そして、抜いた剣をどう収めるべきか分からず、立ち尽くすイグニシアの背中だった。




