第24話:【根を張る者と、土の温もり】
フィラの足取りは静かで、迷いがなかった。
蜘蛛の脚が腐葉土を踏みしめるたびに、かさりと乾いた音が樹海の静寂に響く。その後ろを、リネアと手を繋いだドランが懸命に続いた。
「ねえ、リネア。その糸って、自分で出せるの?」
「……うん。でも、止まらなくなっちゃうから、あんまり出さないようにしてる」
「ふーん」ドランが前を向き直った。
「僕も昔、魔力が止まらなくなってたよ。怖かったな」
リネアが、驚いたように顔を上げた。
「……止まるようになったの?」
「先生がいてくれたから」
それだけ言って、ドランは前を歩く聡介の背中を見つめた。つられるように、リネアも同じ方向へ視線を移した。
前方では、フィラが歩きながら聡介に今の暮らしを語っていた。
「最初は私たち親子だけでした。でも、居場所をなくしたアラクネの家族が数組、さらにアルラウネやオーガの家族も……今は種族ごとに小さな集落を作っています。」
「同じような境遇の家族が集まっているんですね」
「ええ。でも、元を辿れば各地を追われた者同士。種族が違えば常識も違います。限られた資源を分け合い、助け合えればいいのですが、現実は……摩擦が絶えなくて」
フィラの声音が、湿り気を帯びた。
「特にオーガの集落とは、うまくいっていません。あの種族が来てから、場が荒れることが増えた。悪い人たちではないと思うのですが……怖くて、近づけないんです」
聡介は言葉を返さず、ただ静かに聞き役に徹した。
やがて、木立が開けた。
そこは樹海の奥まった一角、巨木の根が這う隙間に、簡素な住処が点在する集落だった。焚き火の跡、干された布、そして――子どもたちが地面に描いたであろう、たどたどしい遊びの形跡。
その集落の端、一段と沈み込んだ場所に、一組のアルラウネの親子がいた。
母親は地面に根を張ったまま座り込み、子どもはその傍らで膝を抱えている。
子どもの下半身――植物の根にあたる部分が、地面に深く、執拗なほど食い込んでいた。移動しようにも、根が自身の意思を無視して地を掴んで離さないのだろう。
母親が聡介たちの存在に気づき、瞬時に身を固くした。
「フィラ……その人たちは」
「大丈夫です、マーラ。この人は……助けてくれる人だと思うから」
マーラ。聡介はその名前を心に刻んだ。
「…。いくらあなたの言葉とはいえ、そんなに簡単に信用できない…。」
マーラの声は低く、鋭い警戒心が滲んでいた。子どもを庇うように、細い腕が前に出される。
「おっしゃる通りです」聡介は、その拒絶を真っ向から受け止めた。
「ですから、信用は、これから作らせてください」
マーラが訝しげに眉を寄せた。
「……何が目的ですか」
「目的というほどではないですが、お子さんが少し、辛そうに見えたので」
聡介の視線は、膝を抱えたままの子どもに注がれていた。
子どもは聡介を見ていない。ただ、自分の根が食い込んでいる地面を、じっと見つめている。
その表情にあるのは、痛みというよりは、何かを渇望しながらも耐え忍んでいるような、逃れられない疲労の色だった。
「……根が、何かを求めるように、深く入り込みすぎてしまうんですね」
聡介が静かに問いかけると、マーラが驚いたように顔を上げた。
「……なぜ、分かるのですか」
「お子さんの様子を見ていたら、なんとなく。……慣れない場所への不安と、自分を繋ぎ止めようとする必死さが、根を深く食い込ませているように見えたんです」
マーラは唇を噛み、何も言わなかった。
聡介は驚かせないよう歩幅を詰め、子どもの傍らへ。地面に腰を下ろし、根が食い込んでいる土の様子をそっと観察する。
「ねえ、ちょっとだけ触ってもいいかな。根っこのまわりの土、少しほぐしてあげようと思って」
初めて、子どもが顔を上げた。
「……痛くない?」
「根っこには触らないよ。土だけ」
子どもが不安げにマーラを見た。マーラは戸惑いながらも、小さく頷いた。
聡介はお散歩バッグから、折り畳みの小型スコップを取り出した。根のまわりの土を、丁寧に、ゆっくりと解いていく。
「硬くなっていたんだね、ここ。……ほら、こうすると少し楽になるかな」
土に空気が入り、重苦しさが取り除かれていく。子どもの表情が、微かに和らいだ。
「……あったかい」
「土が温まると、根も緩むんだよ。……お名前、聞いてもいいかな」
「……セラ」
掠れた、小さな声だった。
「セラちゃんか。いい名前だね」
聡介が微笑むと、セラはほんの僅かに根を動かした。地面から完全に抜けるわけではないが、その動きには明らかな自由が混じり始めていた。
その光景を見つめていたマーラが、消え入るような声で溢した。
「……この子は、根が他の植物を枯らしてしまうと言われました。だから、あまり外に出さないようにしていたのですが……それがかえって、この子を追い詰め、根を深く張らせてしまったのかもしれない」
「そうかもしれませんね」聡介は手を止めずに言った。
「動けない方が、不安は大きくなりますから」
マーラは膝の上で細い指を組んだ。
「……どうすればいいのか、分からないのです。他を枯らさないように閉じ込めれば、この子が苦しむ。でも、外に出せば、この子は――」
「もっと、求めてしまう」
聡介のその言葉に、マーラは息を呑んだ。
「今日すぐに答えは出ないんですが……また来てもいいですか。セラちゃんが安心して根を伸ばせる場所を、一緒に考えたいので」
マーラが弾かれたように顔を上げた。
「……また、来るのですか」
「ええ。一度じゃ何もできませんから」
マーラは長い間、聡介の瞳を覗き込んでいた。それからフィラへ視線を送ると、フィラが優しく頷く。
「……分かりました」
一言、それだけだった。まだ信用を得たわけではない。けれど、固く閉ざされていた扉の隙間に、確かな風が吹き込んだ。
帰り道、ドランが聡介の隣を歩きながら言った。
「先生、セラちゃんって、外に出たいのに出られないんだね」
「そうだね」
「かわいそう」
「うん」聡介は歩調を緩めた。
「だから、出られるようにしてあげたいね」
ドランは少し考えて、それから自分のポシェットをそっと撫でた。中には、今日拾ったばかりの宝物が入っている。
「……セラちゃんにも、宝物入れがあったらいいのにな」
聡介は前を向いたまま、深く微笑んだ。
「いいこと言うね、ドランくん」
樹海の薄暗い木立の向こう、フィラとリネアの背中が揺れている。
根を張る者と、糸を紡ぐ者。それぞれの『動けなさ』を抱えた親子たちの間に、今日、細い橋がかかった。
まだ遠い。でも、確かに一歩だった。




