第23話:【迷いの樹海と、絡まる糸】
気づけば、空が消えていた。
見上げる梢は幾重にも重なり、正午を過ぎたばかりだというのに、届く光はひどく細く、頼りない。
足元に積もった幾層もの腐葉土は、一歩ごとにその重みを受け止めては沈み込み、噎せ返るような湿った土の匂いを立ち昇らせてくる。
「……先生、なんか暗いね」
ドランが不安を押し殺すように、聡介の裾をぎゅっと掴んだ。逆側の手は聡介からもらった笛を握りしめている。
「そうだね。でも見てごらん。あの巨木の根元――あんなに深い緑色の苔、見たことないだろう? 絨毯みたいで、綺麗だよ」
「……ほんとだ」
ドランの手から、少しだけ強張りが抜けた。
先頭を歩くイグニシアは無言のまだが、その鋭い視線は一度として止まることがない。
樹海へ足を踏み入れてからというもの、彼女の歩幅は明らかに狭まり、重心は低くなっていた。戦士の本能が、この静止したような森の空気に何かを嗅ぎ取っているのだろう。
聡介にはその正体までは分からなかったが、ポケットの中でピヨすけが丸まったまま息を潜めていることだけは、胸のざわつきを助長させていた。
どれほど歩いただろうか。
「――ッ、だめ、お願い動かないで! 引っ張ったら痛いでしょう!? ああ、どうして……どうして解けないの……っ!」
不意に、静寂を切り裂くような悲鳴が響いた。
茂みの奥、薄暗い木立の一角から聞こえてくる、切羽詰まった母親の声。
聡介が足を止めた瞬間、イグニシアの剣が鞘の中で微かな音を立て、彼女はすでに一歩前に踏み出していた。
「待って、シアさん」
静かだが、鋼のような響きのある声だった。
振り返るイグニシアに対し、聡介は小さく首を振り、「僕が先に行きます」とだけ告げて、濡れた葉が絡み合う茂みをそっとかき分けた。
そこにいたのは――。
(……蜘蛛、だ。いや、上半身は人間の女性なのに、下半身が……。アラクネ。知識としては知っていたけれど、実物はこんなにもおおきいのか。そして――こんなにも、リアルに『困っている』のか)
一瞬だけ息を呑んだが、聡介はすぐに思考を切り替えた。
今は種族への驚嘆よりも、目の前の切実な状況を解きほぐすことの方が、彼にとっては優先順位が高かった。
アラクネの母親。その前方、二メートルほど離れた木の幹に、小さな子どもが捕らえられていた。
自分が出した糸が制御不能に陥ったのだろうか。
幹と地面、あるいは自分自身の細い脚を複雑に繋ぎ止めてしまい、身動きが取れなくなっている。
泣きたいのに泣けないような、極限まで引きつった顔で小刻みに震えていた。
まだこちらに気づいていない母親は、子どもへ手を伸ばそうとするたびに、新しい糸が透明な刃のようにびんと張って行く手を阻む。
強引に引けば子どもが傷つく。かといって、このままにはできない。
どうすることもできず、彼女はただ、重い蜘蛛の胴体を投げ出すようにその場へ座り込んでいた。
「また、やってしまった……。どうして、どうしてこの子は普通にできないの……」
呟く声に、怒りは含まれていなかった。
あるのはただ、出口のない袋小路に迷い込んだような、疲れ果てた絶望だけ。
聡介は、その声を聞いた瞬間にお散歩バッグを地面へ置いた。
「お母さん」
穏やかな、それでいて染み渡るような声に、女性がはっと顔を上げる。
見知らぬ人族の男が、武器も持たず、警戒すら見せずに、ただ静かに佇んでいた。
「……人族が、なぜここに」
「通りすがりです。……お子さん、怖い思いをしていますね。少しだけ、手伝わせてもらえますか」
女性は警戒と疲労が入り混じった瞳で聡介を射抜いた。拒絶の言葉を紡ごうとして、けれどそれ以上の声が出ない。
「……何もできないなら、帰って」
「はい。何もできなかったら、すぐに帰ります」
聡介は淡々と返事をすると、エプロンのひよこを一撫でし、子どもの方へゆっくりと向き直った。
「こんにちは。僕は聡介っていうんだ。君の名前、教えてもらえるかな」
子どもは答えない。ただ、怯えた瞳でじっと聡介を見つめ返してくる。
「答えなくて大丈夫だよ。……ちょっとだけ、隣に座ってもいいかな」
聡介は、糸の届かない境界線を見極め、子どもの目線に合わせてゆっくりと腰を下ろした。
お散歩バッグから取り出したのは、あの時、ドランの心を解きほぐしたのと同じ――一枚のオーロラ色の折り紙だった。
「これ、見ててごらん」
指先が迷いなく動く。
カサ、という紙の擦れる音だけが響き、折り目がひとつ、またひとつと決まっていく。数秒後、彼の手のひらの上には一羽の小さな鶴が生まれていた。
子どもの目が、自身を縛る糸から、その不思議な輝きを持つ紙へと移った。
「……きれい」
掠れた、消え入りそうな声。
「君の糸も、同じくらい綺麗だよ。ほら、あそこの木漏れ日が当たっているところ。銀色に光って、宝石みたいだ」
聡介が指差した先、光を透かした糸が虹色に輝いた。子どもがそちらへ目を向けた瞬間、全身を支配していた強張りが、ふっと緩んだ。
張り詰めていた糸が、物理的な弛みを見せる。
聡介はその隙を見逃さず、バッグから小さなハサミを取り出した。
「一本だけ、切らせてもらうよ。痛くないから、大丈夫」
子どもが小さく、けれど確かに頷いた。
慎重に、もっとも強い負荷がかかっている糸を一本だけ…。
パチン、と乾いた音がして糸が弾けると、ドミノ倒しのように全体の緊張が解けた。
痺れに揺れ、よろめきながらも、小さな脚がようやく確かな地面を捉えた。
「……あ」
子どもが驚いたように自分の手を見つめる。聡介は先ほどの折り紙の鶴を、そっとその手に乗せた。
「頑張ったね。偉かったよ」
次の瞬間、子どもは弾かれたように母親のもとへ駆け出した。
母親は言葉を失ったまま、ただ子どもを強く抱きしめる。人間としての長い腕と、蜘蛛としてのしなやかな脚が、小さな命をすっぽりと包み込んだ。
しばらくして、母親が顔を上げた。
「……なぜ、怖くなかったのですか。この子の糸に触れることを」
「怖かったですよ」聡介は微笑んだ。
「でも、お子さんの方がもっと怖かったはずですから」
女性は何かを言いかけて、喉の奥で押し留めた。
「……あなたは、何者ですか」
「保育士です」
「ほいくし……?」
「子どもと、その周りにいる大人の味方ですよ」
女性は射抜くような視線をしばらく聡介に向けていたが、やがて、堰を切ったようにぽつぽつと話し始めた。
「……この子は、糸の制御ができないと言われて里を追われました。私も、育て方が悪いと責められた。けれど、どうすればいいのか、誰も教えてくれなかったんです」
「そうですか」聡介の声は変わらない。
「それは、辛かったですね」
ただそれだけを口にした。解決策を押し付けることも、安易な慰めを口にすることもしない。
けれど、女性の肩から、目に見えないほど重い何かがすとんと落ちたのが分かった。
「……同じような家族が、この樹海にいます。私たちだけじゃないんです」
「そう…なんですね」
返した言葉は、どこまでも穏やかだった。けれど、その響きの奥底には、静かで、けれど決して消えない熱が灯っていた。
「よければ、もう少しお話を聞かせてもらえますか。……ああ、まずは自己紹介が先ですね。僕は別俣聡介と申します。こっちはドランくん、そしてシアさんです」
後ろで固唾を飲んでいたドランが、聡介の隣にそっと歩み寄った。
彼は、絡まった糸の中で震えていたリネアを、自分自身の過去をなぞるような目で見つめていた。
「……先生」ドランが小声で囁く。
「あの子、僕みたいだったね」
「そうだね」聡介は穏やかに頷いた。
「だから、先生はあんなふうに隣に行ったんだよ」
ドランはしばらく考え込み、それからアラクネの子どもに向かって、ぎこちなく手を振った。
子どもも、その手の中にある鶴を大事そうに握り締め、おずおずと手を振り返す。
「……フィラです」
母親が、ようやく静かに名乗った。
「この子はリネア。……よろしければ、ほかの種族の方とも会っていただけますか?案内しますので」
「…ぜひ、よろしくお願いします」
聡介は力強く答えた。樹海の薄暗い一角に、小さな、けれど確かな光が灯った瞬間だった。




