第2話【男の正体】
男の名は、別俣聡介。 ついさっきまで、彼は都内の保育園に勤める四十代半ばのベテラン保育士だった。
(……まさか、自分が異世界物の主人公みたいな状況になるとはな)
激しく揺れる視界の隅で、聡介は自嘲気味に息をつく。
彼がこの異常事態に、震えるどころか「想定内」とばかりに動じないでいられる理由は単純だ。漫画、ゲーム、アニメ、小説、そして舞台演劇にいたるまで――。あらゆるフィクションが黄金期を迎えた時代に思春期を過ごし、四十を過ぎた今もなお、最新のライトノベルまで網羅するほどのサブカルチャー愛好家だったからである。
その膨大な「空想のストック」は、現場で子どもたちに語る物語の種となり、そして今、未知の事態を「テンプレート」として受け入れるための強力な精神的支柱となっていた。
(身体が軽い。こんな動きはもう何年もできなかったはず…。……だとすれば、今の俺は本当に二十代並みなんじゃないか?)
全力で疾走しながらも、思考は驚くほどクリアだ。肺は焼けつくような熱を持たず、足取りは羽が生えたように軽い。
やがて、森が唐突に途切れ、視界が開けた。そこに広がっていたのは、切り立った岩壁を背にした石造りの集落だ。だが、その光景は「のどかな村」とは程遠かった。
「ギャオオオオオン!」
広場の中央、耳を劈くような咆哮を上げているのは、小さな角を持つ少年だった。
その身体からは赤い魔力が立ち昇り、周囲の石畳が熱を帯びて爆ぜる。手には何か小さなものを握りしめているようだ。
「ひるむな! ドランを抑えろ!」
「ダメだ、イグニシア副団長! 近づけない! 熱気が凄まじすぎる!」
ドランと呼ばれた少年を取り囲んでいるのは、屈強な大男たちと一人の女性だ。
彼らの頭部には山羊のような、あるいは牛のような角が生え、その肌には硬質な鱗が光っている。
(竜人……ドラゴニュートか。ファンタジーの定番だな。……いや、感心している場合じゃない)
聡介の目は、即座に「状況」を捉えた。武装した大人たちが槍を突き出し、怒鳴り声を上げている。
それはパニックに陥った子どもを、さらに恐怖のどん底へ突き落とす最悪の包囲網だった。
「くっ、ドラン……。いったいどうすれば……」
噛み殺すようなうめき声を上げたのは、銀色の鱗を持つ美しい女性だった。彼女――イグニシア副団長といったか――は、必死に手を伸ばしているが、ドランから放たれる熱波に阻まれ近づくことすらできない。
その表情は戦士としての厳しさを保とうとしているが、瞳の奥には焦燥と痛ましさが滲んでいた。
(あれは単なるワガママじゃない。……パニックだ。転移?したてで何もわからない状況だが、戸惑っている場合じゃなさそうだな。目の前の子どもが、SOSを出している)
聡介は、深く息を吐いた直後プロの顔になった。エプロンの紐を締め直し、殺気立った戦士たちの間を、まるで園の廊下を歩くような足取りですり抜けた。
「なっ、何者だ貴様!」
謎の闖入者の行動に驚き、槍を向ける兵士を「おっと、危ないですよ」と軽く受け流し、聡介はイグニシアの前に立った。
「ちょっと失礼しますよ。……お子さん、ちょっぴり大変な様子ですね。少しだけ、任せてもらえますか?」
唖然とする彼女に、聡介は人が思わず安心するような、極上の「保育士スマイル」を向けた。そして、炎を撒き散らす少年の正面へと、恐れもせずに入り込んでいく。
「ドランくん……でよかったかな?」
言いながら、自然な足取りで近づいた彼は、にこやかな表情を少年が手に持つ物体に向けた。
「きれいな石を持っているんだね」
腰を落とし、ドランの目線の高さに合わせて柔らかく言葉を掛ける。対するドランは、ギラリと金色の瞳を向けた。口元に高熱の息が溜まっていく。
(来るな。……と、彼は言っている。なら、まずは『興味』の上書きだ)
聡介は、おもむろにお散歩リュックの工作セットから一枚の、オーロラ色に輝く折り紙を取り出した。




