第1話【エプロン男、異世界に立つ】
皆様はじめまして、現役おっさん保育教諭が妄想全開で書いた異世界小説にようこそ。今作が初の小説執筆、初めての経験ってなんだかワクワクしますね。その分荒削りなところもあると思いますが、そこも含めて誰かにと届けばいいと思っています。どうぞ末永くご贔屓に。
ふと、足元の感触が変わった。 つい数秒前まで、仕事帰りの心地よい疲れと共に踏みしめていたアスファルトの硬い振動。それが消え、代わりに湿った土と、幾層にも重なった腐葉土の柔らかく沈み込むような感触が靴底に伝わってくる。
「……おや?」
思わず声が漏れた。 視線を上げれば、夕暮れの街灯が並ぶはずの帰り道はどこにもない。代わりに広がっていたのは、天を突くほどに巨大な、見たこともない樹木がひしめき合う深緑の海だった。
「……夢、かな。にしては、匂いが妙にリアルだな」
鼻をくすぐるのは、濃厚な緑の香りと、どこか甘ったるい花の匂い。 普通ならパニックに陥るような異常事態。だが、その場に立ち尽くす男の脳内は、驚くほど冷静に、かつ高速で現状の分析を始めていた。
(街中からの消失、未知の植生。なるほど、これは――)
男は動じない。それどころか、どこか納得したように一度深く頷くと、まずは自分の装備を確認し始めた。
(おや、なんでエプロンをつけてるんだろう……?)
仕事着のままである。仕事以外では決して着けないはずのエプロンの左胸には、不格好だが愛嬌のあるひよこのアップリケ。背中には、同僚に呆れられるくらいこれでもかと様々な道具を詰め込んでパンパンに膨らんだお散歩リュック。 清潔感のあるカッターシャツにスラックス、足元は新調したばかりのランニングシューズ。
「よりによって、仕事道具フル装備のまま来ちゃったか……。まあ、いいや。とりあえず動こう」
男は迷わず一歩を踏み出した。 異変を確信したのは、歩き始めてすぐのことだった。
(……なんだ? やけに身体が軽いな)
目の前に立ち塞がる、大人の腰ほどもある巨大な倒木。 男は軽く足に力を入れた。それだけで、バネのように身体が宙を舞い、吸い付くような着地で向こう側へ降り立った。
「……今の俺、スタントマン並みの跳躍じゃなかったか?」
膝が笑わない。腰に鋭い痛みが走ることもない。心臓の鼓動は静かで、どれだけ歩いても息一つ切れない。まるで、身体のすべての節々に油を差し直したかのような万能感だ。どんな事態にでも対処できる反面、重すぎて苦労していたお散歩リュックも、軽々と背負えている。
男は周囲を持ち前の観察眼で見つめる。
(この木……葉の裏が銀色に光ってるな。あっちの花は、蜜が青い気がする。図鑑でも見たことがない。夢じゃなかったら、ここは明らかに地球じゃない。ファンタジーの舞台、あるいは――)
職業柄、自然物に触れる機会が多かった彼は、植物の些細な違いにも敏感だった。目の前の光景は、明らかに既存の知識の外にある。
一時間ほど歩いた頃、喉の渇きを覚えて立ち止まった。お散歩リュックから、愛用のステンレス製水筒を取り出す。
「……冷たい。淹れたてみたいだ」
ゴクリと喉を鳴らす。乾いた身体に染み渡る感覚は、紛れもない現実。ついでにバッグの底にあった備蓄用のビスケットを一袋開け、口に運ぶ。 再び水筒を仕舞う。この時、男はまだ気づいていない。 消費したはずの麦茶の重みが、一ミリも変わっていないことに。
「……ん? なんだか、向こうが騒がしいな」
微かな風に乗って届いたのは、獣の咆哮のような轟音。そして、人々の悲鳴。その混迷した音の層から、男の耳は「一番大切な音」を拾い上げた。
「……子どもの、泣き声か?」
その瞬間、男の目から悠然とした色が消えた。それは人生をかけて培ってきた情熱であり、抑えきれない本能だ。
男は、未知のバネを秘めた脚に力を込め、音が響く方角へと弾かれたように駆け出した。
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