第16話:【お散歩道の境界線(ボーダーライン)】
「ドランくーん! あまり遠くへ行かないでくださいねー! あと、そろそろ水分補給をしましょう!」
聖域を望むなだらかな丘の上。聡介が少し声を張り上げると、遠くで跳ね回っていたドランが元気よく手を振り返した。
出会ったばかりの頃の、何かに怯えて裾を離さなかった姿はもうない。
「何かあっても先生が守ってくれる」という揺るぎない安心感が、彼にこの距離を歩ませている。
聡介はそれを眩しそうに見つめながら、年季の入った「お散歩バッグ」を下ろした。
中からは、ビニールシートに塗装の剥げたステンレス水筒に除菌シート。さらには、何かと重宝する使い古しの万能タオルや、何度も洗濯されてクッタクタに柔らかくなった大判のガーゼケットなどが、魔法のように次々と出てくる。
「ソウスケ殿……あなたのその鞄は、一体どうなっているのですか? とてつもなく不思議な道具のようですが」
「いえ、ただの多機能バッグですよ、ヴォルカさん。備えあれば憂いなし、ですから」
呆れ顔のイグニシアを余所に、ヴォルカが興味津々に中身を覗き込む。
だが、その平和な色彩を、一筋の赤い影が横切った。
シュッ――!
空を裂く閃光が聡介の胸元に衝突し、彼はたまらず尻餅をついた。
「……おっと、危ない。……ん? ひよこ……?」
腕の中に飛び込んできたのは、焼け焦げた羽を震わせ、今にも命の火が消えそうな小さなひな鳥だった。
直後。
『グォォォォォォォォォォッ!!』
大気を震わせ、鼓膜を劈く咆哮が響き渡った。
丘全体が「死」を予感させる重圧に包まれ、ドランの背後に広がる森の木々が、荒れ狂う魔力の奔流に叩き伏せられるようになぎ倒される。
そこから、血よりも濃い紅蓮の鱗を持つ巨軀が姿を現した。
イグニシアはその出現に絶句していた。胸の内には「なぜここに奴が」という驚愕と、仇敵に対する激しい憎悪が吹き荒れ、金縛りにあったように動けずにいた。
真紅の暴君。
それは、かつての誇り高き団長夫妻、すなわちドランの両親を葬り去った災厄そのものだった。
真紅の暴君は粘つく涎を垂らした口腔を大きく開く。そこへ、すべてを焼き尽くすほどの膨大な熱量が収束していく。
「ドラン、逃げ……っ!」
我に返ったイグニシアは叫んだが、その声は恐怖に震え、掠れていた。
ドランは、目の前の圧倒的な暴力に呑まれ、息をすることさえ忘れ、ただ立ち尽くしている。
誰もが最悪の結末を幻視し、色を失ったように立ち尽くす中、聡介だけは止まってはいなかった。
瀕死のひな鳥を、清潔なガーゼケットでふんわりと「くるみ」、無事を祈るように一撫でするやいなや、手元にあった万能タオルをひっつかみ、聡介は走り出していた。そのおくるみが、淡く優しい光に包まれていることに気付く間もなく。
走るごとに近づく、平和な日本ではあり得ない濃密な死の気配。けれど、その時、彼が考えていたのは、ただ一点。ドランの安全だけだった。
「子どもを守る」という、脊髄にまで染み付いた保育士としての反射が、魔法も武技も持たないはずの彼の背中を強烈に押し出した。
聡介がドランを抱き寄せ、その小さな身体を自分の胸と地面の間に隠すようにして覆いかぶさった瞬間。
ドォォォォォンッ!!
真紅の火線が放たれ、視界が真っ赤に染まった。凄まじい衝撃波が丘を揺らし、すべてを焼き尽くさんと猛り狂う。
死を覚悟し、ぎゅっと目を閉じる聡介。
……けれど。
いつまで経っても、肌を焼く熱はやってこなかった。
「……? あれ、熱く……ない?」
聡介がおそるおそる目を開けると、そこには物理法則を無視した光景が広がっていた。
暴君の炎は、聡介の背中のわずか数センチ手前で、まるで目に見えない強固な壁に当たったかのように霧散していたのだ。
聡介の足元から円を描くように、そこだけは爆風すら入り込めない。
初めからそこが「絶対に安全な場所」として定義されていたかのように、彼らの周囲だけが穏やかな空気のまま保たれていた。
「ソ、ソウスケ殿……。あなた、何を……」
ヴォルカの声が震える。
知略を尽くし、知識の積み重ねで未来を切り拓こうとしてきた彼にとっても、目の前の事象は世界の理を完全に無視した「異質」に映っていた。
聡介はドランの無事を確かめると、震える膝を叩いてゆっくりと立ち上がった。
目の前には、なおも猛り狂い、破壊の限りを尽くそうと咆哮する巨大な魔物。
けれど、間近でその咆哮を聞いた聡介の眉が、わずかに動いた。
イグニシアには憎悪に、ヴォルカには強大な脅威に聞こえるその音が、聡介にはどうしようもなく「別のもの」に聞こえてしまった。
それは、言葉を持たない幼い子が、自らの手に負えない感情を爆発させ、誰にも届かない苦しみをぶつける――痛切な、癇癪の響きだ。
「(……この鳴き声、もしかして……)」
聡介は、巨大な牙を剥き出しにする暴君の、血走った瞳の奥を見つめる。
そこに映っていたのは、残虐な意志ではなく、過剰な力に身を焼かれながら、ただ理由もわからず助けを求めて叫び続けている、ボロボロになった心だった。
まだ言葉が拙く、泣き叫ぶことでしかその胸の内を伝えられない子どもの姿を、彼は保育士として何度も見てきた。その叫びは、他者を拒絶しているのではなく、自分ですら制御できない「苦しみ」を吐き出しているのだ。
生理的な恐怖は、使命感へと上書きされる。
「……ドランくん、シアさん、ルカさん。……少し、静かにしていてくださいね」
聡介は、握りしめていた一枚の万能タオルを手に、混乱の渦中にある「巨大な幼子」へと静かに歩みを進めた。




