第17話:【泣き声の正体】
「……ソウスケ殿、何をしている! 早く、早く逃げてください! あんなものに、人間が立ち向かえるはずがない!」
ヴォルカの、喉を掻き切るような悲鳴が背後に響く。
だが、聡介の意識は今、目の前で猛り狂う「真紅の暴君」という名の、あまりにも巨大で歪な熱量にのみ向けられていた。
暴君は自分の放った火線が、正体不明の透明な壁に阻まれたことに苛立ち、狂ったように巨軀を打ち付けてきた。
ドォォォォォンッ! ドォォォォォンッ!
境界線の外側では、大気が震え、衝撃波が地面を抉り取っている。しかし、境界線の内側にいる聡介には、その衝撃すら微かな振動としてしか伝わらない。
(……今は、入っちゃダメだよ……)
聡介は心の中で、静かに、だが断固として念じた。
それは理不尽な暴力を拒絶する強固な壁であると同時に、内側のドランたちを守り、そして外側の暴君を「これ以上の加害」から遠ざけるための、絶対的な安全管理の結界のようだった。
「奴は……奴は『真紅の暴君』! かつて、私の大切な恩人たちの命を奪い、里を焼き尽くした忌まわしき災厄なのだぞ! ソウスケ殿、離れろ!!」
叫ぶ彼女の脳裏には、走馬灯のように様々な思いが過っていた。
かつて憧れ、想いを寄せた団長…。その隣で、女性として誰よりも眩しく笑っていた親友である副団長…。苦い痛みを抱えながら胸の奥底に恋心を仕舞ったあの日。
二人の幸せを願い、その背中を追い続けた…。不器用な自分にできるのはそれが精一杯だったから。
だというのに。
守りたかったその尊い絆も、身を引くことで祝福した二人の未来も、目の前の獣はすべて等しく、無慈悲に焼き尽くした。
彼女が白くなるほどに剣を握りしめているのは、ただの憎しみではない。自らの純粋な祈りさえも踏みにじられた、魂の慟哭だった。
しかし、イグニシアの切実な叫びを背中に受けながらも、聡介の目は別の光景を見ようとしていた。
(……この子は、どうしてあんなに泣いてるんだろう)
聡介が、直感的にただ「泣き叫ぶ子ども」と感じた目の前の暴君への意識が、冷静な『視診』へと切り替わった。
保育士として、その泣き声の真意を読み解こうとした、その瞬間だった。
視界のコントラストが微かに跳ね上がり、世界の色が鮮やかに際立つ。
その澄み渡る視界の中で、暴君の肉体が発する「悲鳴」が、鮮明に浮かび上がった。
激しく波打つ紅蓮の鱗は、よく見ればその隙間から熱気が不自然に吹き出し、皮膚は内側からの膨大な魔力に耐えかねて裂け、絶え間なく痙攣している。
何より、その動きだ。狙いを定めて襲いかかる捕食者のそれではない。何者に無理やり身体を突き動かされ、その苦痛から逃れようと、がむしゃらに手足を振り回しているだけのように見えた。
(わざと暴れているんじゃない……。この子、無理やり動かされて、自分の力が痛くて、怖くて、堪らないんだ)
それは、言葉が拙い子どもが、高熱や痛みに耐えかねて、周囲のすべてを拒絶して暴れ回るパニックそのものだった。
「……信じられません。なぜ、食い殺されないのですか……? 里の精鋭ですら一瞬で葬るけ物を前に、武器も持たぬソウスケ殿が、ただ『待って』いるだけだなんて……」
絶望と憎しみとの間で立ち尽くすイグニシアの傍らで、ヴォルカは震える手で自身の顔を覆い、必死に目の前の事象を解析しようとしていた。
聡介からは、暴力的な魔法の力も、武技の気配も一切しない。戦う力を持たないはずの彼が、しかし逃げもせず、ただ相手が落ち着くのを静かに待つ。
ヴォルカにとってその姿は、荒れ狂う嵐の中でただ一点、決して消えることのない祈りの灯火のように異質で、そして神秘的に映っていた。
やがて、暴君の動きが鈍くなった。
肩で激しく息をし、口腔から漏れる炎も小さくなっていく。絶え間ない咆哮は、いつの間にか、ヒュウヒュウと漏れる苦しげな呼吸音へと変わっていた。
今だ。
聡介は、ドランを庇った際に無意識に握りしめていた万能タオルを、そっと抱え直した。
そして、イグニシアたちの制止の声が上がる前に、自ら境界線の外へと一歩踏み出した。
「ソウスケ殿!?」
イグニシアが悲鳴を上げる。
境界線の保護を離れた瞬間、焦熱の空気が聡介の肌を刺した。
暴君の巨大な鼻先が、目の前にある。鋭い牙の隙間からは、熱に焼かれた不気味な唾液が滴り落ちていた。
聡介は震えそうになる手をぐっとこらえながら、ゆっくりと、 しかし迷わずに伸ばした。
血走った暴君の巨大な瞳と、聡介の穏やかな瞳が、真っ向からぶつかり合う。
「――もう、頑張らなくていいんだよ」
聡介の手が、熱を帯びた暴君の鼻先に、そっと触れた。
その瞬間、世界が変質した。
空気が洗われたように澄み渡り、吹き荒れていた熱風から攻撃的な刺々しさが消えていく。
周囲の色彩は、まるで雨上がりの森のように鮮やかに際立ち、世界を覆っていた禍々しさが嘘のように引いていった。
「……一人で、怖かったね。ずっと、助けて欲しかったんだね」
触れた掌から伝わるのは、暴君の絶望的なまでの孤独。何者かの干渉によって心を塗り潰され、ただ暴力の道具として使い潰されていた、小さく震える魂の叫び。
その瞬間、荒れ狂っていた暴君の瞳から、スッと攻撃的な色が消えた。
咆哮が止まる。
真紅の瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
無理やり戦わされ、自分の心すら失いかけていた、まだ幼き命の目から、大粒の涙が一筋、聡介の足元の土を濡らした。
「グ……ル、ゥ……」
それは、初めて誰かに「痛みを理解された」者が漏らす、安堵の泣き声だった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!第1章もいよいよ大詰め…。 最後まで走り抜けますので、お付き合いいただければ幸いです。
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