第70話 バレンの酒場
夕方の市場裏は、昼とは違う騒がしさをしていた。
荷を運ぶ声ではなく、仕事の終わった人足の笑い声と、安酒場の戸口から漏れるざわめきが通りに滲んでいる。陽が落ち切る前の薄暗さの中で、酒場の灯りだけが妙に暖かく見えた。
「今日の最後、そこね」
ミラが顎で示した。
小屋の前に並んでいるのは酒樽二つと、塩漬け肉を入れた木箱が三つ。樽は重い。だが、酒場へ入れるとなれば、重さだけでは済まない。酔った客、狭い戸口、滑る床、邪魔な椅子。運ぶより先に、通す場所を見なければならない。
「また面倒そうなの拾ってきたな」
ガルドが言う。
「面倒だから金になるんだよ」
ミラは軽く笑った。
「しかも、あそこは荷だけじゃなくて噂も溜まる」
酒場の戸口には、腹の出た男が立っていた。髭が濃く、顔色は酒樽みたいに赤い。肩に布巾を引っかけ、笑っているようで目だけは油断なく人を見ている。
「おう、ガルドのとこか」
男は片手を上げた。
「待ってたぜ。樽、裏から入れてくれ。表は客が邪魔だ」
バレン――市場裏の安酒場をやっている男だった。人足、小商人、荒くれ者、行き場のない連中まで集まる店の主で、口は軽いが腹の中までは見せない。
「裏、狭ぇぞ」
ガルドが言う。
「狭いから頼んだんだよ」
バレンは笑う。
「大きい運送筋は嫌がる。樽二つじゃ割に合わねぇってな」
その言い方に、ガルドは鼻を鳴らすだけで返した。
裏口へ回ると、言われた通り狭かった。木箱が積まれ、樽の空桶が転がり、通れる幅は人二人がやっとだ。ガンツが先に中を見て、荷車の角度を変える。
「樽は先。箱は後」
「分かってる」
ハムが言いながら肩を入れる。
ニグも無言で反対側につき、二人で樽を持ち上げる。ガンツが前で位置を見る。床板が少し濡れていて、滑りやすい。
「そこ、右」
ガンツが短く言う。
「まっすぐ行くと当たる」
「うるせぇな」
ハムは言うが、足はずらした。
樽が無事に中へ入ると、酒場の裏の空気がどっと流れてきた。酸っぱい酒の匂い、煮込みの湯気、客の笑い声。表から聞こえていたざわめきより、もっと生々しい。
「そっち、箱は壁際! 樽は奥!」
バレンが店の中から声を飛ばす。
「潰すなよ、その肉は明日の朝まで持たせるんだ」
「注文多ぇな」
ガルドが言う。
「だから、金払うんだろ」
バレンは笑った。
「適当に置かれるくらいなら、自分で運ぶ」
その返しに、メルカが小さく吹き出す。
ミラはもうカウンターの端に寄っていた。荷を運び終わる前から、客の声に耳を向けている。
木箱を置き終えたところで、バレンが銀貨を数えながら言った。
「助かったよ。前のやつは樽を倒しかけた。中身が安酒でも、樽は安くねぇからな」
「大きいとこに頼めばよかっただろ」
ガルドが言う。
「樽二つ、箱三つ、裏口狭い、夜前に入れたい」
バレンは指を折った。
「そんなの、嫌がるに決まってる。こっちは客が来る前に入れたいのに、向こうは向こうの都合で回るからな」
その会話を、カイルは少し離れた場所で聞いていた。
また同じだと思う。
荷が小さい。
数が半端だ。
場所が悪い。
時間が細かい。
大きいところには旨味がない。雑な日雇いでは壊す。だから、こういう話が流れてくる。
「で?」
ミラがカウンターに肘をつきながら言う。
「最近、何か面白い話ある?」
「酒場に面白くない話なんかあるかよ」
バレンは笑う。
「人足頭が顔真っ赤にして愚痴るし、組合の下っ端は偉そうに飲むし、倉庫番は順番がどうのって文句ばっかりだ」
エルンがその言葉に顔を上げる。
「倉庫番?」
「名前は知らん」
バレンは肩をすくめた。
「顔色悪い細いのだよ。札だの順番だの、飲んでもその話しかしねぇ」
ミラが面白そうに目を細める。
ガルドは露骨に嫌な顔をした。
「めんどくせぇ匂いがするな」
「するねぇ」
ミラは笑った。
「でも、匂いがするってことは、そのうちこっちに流れてくる」
支払いを受け取り、外へ出る頃には、空はもうほとんど暗かった。酒場の灯りは逆に強く見える。中では誰かが笑い、誰かが怒鳴り、誰かが仕事の話をしている。
荷を運んだだけだ。
だが、それだけでは終わらない場所だった。
カイルは戸口を振り返った。
人が集まる場所には、荷だけでなく言葉も集まる。
仕事の愚痴。
金の話。
どこが詰まり、誰が困り、どこに隙があるか。
市場裏の小屋に荷が集まるなら、あの酒場には噂が集まる。
流れは、もう人と荷だけではできていなかった。
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