第71話 ロウガの目
翌朝、市場裏の空気は少しだけ硬かった。
理由ははっきりしない。だが、こういう空気はある。人の声が少し低い。立ち止まる足が一拍遅い。道の端にいる人間が、何かを見てから目を逸らす。
小屋の前にはいつもの顔ぶれがいた。ガルドが戸口の前に立ち、エルンが帳面を開き、ミラが通りの向こうを見ている。トルは袋の数を見て、セナは縄を抱え、ニグは壁に背を預けていた。
だが、誰も朝の仕事の話を先にしなかった。
「何かあるね」
ミラが言った。
「何だ」
ガルドが聞く。
「まだ分かんない。でも、見られてる」
カイルも同じものを感じていた。通りの向こう、荷車の陰、酒場の脇。目立たない位置に人がいる。仕事を待つ人足ではない。様子を見に来た顔だ。
やがて、その理由は向こうから来た。
市場裏の通りを、四人の男がゆっくり歩いてくる。先頭にいるのは、年のいった大柄な男だった。肩幅が広く、若い頃の傷をまだ残している。体は重くなっているが、人を従わせる側の歩き方をしていた。
ロウガだった。
古くから市場裏で人足仕事を回してきた男。正式な役職があるわけではない。だが、どこへ誰を回すか、その流れの一部をずっと握ってきた側の人間だった。
ガルドは戸口の前から動かない。
ロウガも、数歩手前で止まった。
「ずいぶん人が増えたな」
ロウガが言った。
低い声だった。
怒鳴りはしない。だが、聞いている方が勝手に黙る種類の声だ。
「仕事があるからな」
ガルドが返す。
「そうか」
ロウガは小屋と人足を見回した。
「市場裏じゃ、最近どこへ行ってもお前んとこの名を聞く」
その言い方には褒める気配がなかった。
ミラが少しだけ笑う。
「悪くない広まり方でしょ」
「口の軽いのが増えたってだけだ」
ロウガはミラを見もせず言った。
「人足は、拾って増やしゃいいもんじゃねぇ」
フィノが小屋の陰に少し引っ込み、セナは縄を抱え直す。ハムはあからさまに舌打ちし、ニグは壁から背を離した。リノは壁際で、ロウガの連れの足元だけを見ている。
ガルドは動かない。
「拾ってねぇよ」
「そう見えるがな」
ロウガが言う。
「半端なのまで抱えて、朝から小屋に並ばせてる。食い扶持があると勘違いさせるやり方は、長く続かねぇぞ」
エルンの指が帳面の端で止まる。
ガルドが言い返すより先に、ミラが口を開いた。
「勘違いじゃないでしょ。仕事はちゃんとあって、みんなで回してる」
「回してる?」
ロウガはそこで初めてミラを見た。
「半日働かせて、細けぇ荷をいくつも回して、それで食えるだけ払ってるつもりか」
「払ってるよ」
ミラは笑顔のまま言う。
「少なくとも、仕事のあとで話を変えたりはしてない」
ロウガの後ろにいた若い男が鼻で笑った。
だが、ロウガは手で止める。
「若いな」
ロウガはガルドへ向けて言った。
「前に立つのはいい。だが、立ってるだけじゃ仕事は回らねぇんだよ」
「知ってる」
ガルドが短く返す。
「知ってるなら、もっと古いやり方を見ろ」
ロウガは言う。
「人足は、その日の気分で集めるもんじゃねぇ。食わせて、縛って、逃がさねぇようにして、ようやく回る」
その言葉に、小屋の前の何人かが目を伏せた。
下層では珍しい話ではない。寝床を押さえ、飯を握り、借りを作らせる。そうやって人足を抱える側の理屈だ。
ガルドは顔をしかめる。
「縛らなきゃ回んねぇなら、そっちが腐ってるだけだろ」
「甘いな」
ロウガは言った。
「甘いまま回せるうちはいい。だが荷が増えりゃ、人も増える。そうなった時に逃げる奴、消える奴、他へ流れる奴をどうする」
エルンが小さく帳面を閉じた。
反論したい顔だった。実際、その通りに面倒は増えている。ペトみたいな奴もいる。ジンみたいな若い手は、今日いても明日いるか分からない。
だが、ロウガの言う「だから縛る」は、この場の理屈ではない。
カイルは黙ってロウガを見ていた。
強い男ではある。
ただの荒くれでもない。
この市場裏で長く生きてきた分だけ、人がどう腐るかを知っている。だから厄介だ。殴るだけの粗暴な男ではない。
「で」
ガルドが言った。
「何しに来た」
ロウガは少しだけ黙った。
それから、小屋の戸口と、その前にいる若い人足たちをもう一度見た。
「忠告だ」
「頼んでねぇ」
「頼まれなくても言う」
ロウガの声は変わらない。
「市場裏には、市場裏の流儀がある。お前が細けぇ荷を拾って、小商いの連中に顔を売るのは勝手だ。だが、抱えきれねぇもんまで抱えると、そのうち潰れる」
「潰すのか」
ガルドが問う。
「勝手に潰れる」
ロウガは言った。
「人が増えりゃ、揉める。荷の置き場も足りねぇ。順番でも揉める。金でも揉める。そうなった時、今みてぇに立ってるだけじゃ済まねぇぞ」
言いたいことは分かる。
脅しではない。だが脅しより厄介だ。
起きる問題を並べ、その先を見せてくる。
ロウガは最後にガルドを見た。
「顔になるなら、舐められるな」
それだけ言って踵を返す。
連れてきた男たちも続いた。
通りの向こうへ消えるまで、小屋の前の誰も口を開かなかった。
先に息を吐いたのはミラだった。
「感じ悪いねぇ」
「それでも」
エルンが言う。
「言っていることの半分は、現実です」
「半分なら半分だろ」
ガルドが返す。
「残り半分は腐ったやり方だ」
ハムが鼻を鳴らす。
「ただの古い元締めだろ」
「古いだけじゃない」
ミラが言う。
「顔が利く。ああいうのは、来ただけで終わらないよ」
ニグは何も言わない。
トルも袋を見ている。
セナはまだロウガたちが去った方を気にしていた。
カイルは戸口の脇に立ったまま考える。
人が集まった。
荷も流れてくる。
だが、その流れを見て面白くないと思う側が、当然いる。
古いやり方で人を抱え、荷を握り、順番を決めてきた側から見れば、ここは邪魔だ。
六人だけの時とは違う。もう、ただの半端者の集まりでは済まない。
「仕事だ」
ガルドが言った。
「見られてるからって止めねぇ」
その一言で、人足たちが少しだけ動く。
エルンが帳面を開き直し、ミラが通りへ出る。ドグは何も言わず板を持ち上げた。
カイルはその流れを見ながら思う。
正面から殴ってくる相手ではない。
人と荷の流れ、そのものを奪いに来る。
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