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第68話 帰らない男

 雨は、夕方になる前から細かく降り始めた。


 市場裏の石畳はすぐに黒く濡れ、小屋の戸口にも湿った風が入り込む。屋根があるだけましとはいえ、こういう日は荷も縄も人の気分も、みな少しずつ重くなる。


 昼の依頼を片づけたあと、小屋の前にはまだ荷が残っていた。樽ではない。穀物袋でもない。店に届けそこねた木箱と、明日の朝一で回すはずの袋がいくつか。今日のうちに奥へ寄せて、濡れないようにしておかないと面倒になる量だった。


「今やるのか」

 ハムが外を見ながら言った。

「降ってんぞ」


「降ってるからだろ」

 ガルドが答える。

「濡らしたら明日もっと面倒だ」


 言いながら自分で箱を持ち上げる。だが、今日は朝から細かい荷が続いたせいで、さすがに肩が少し重そうだった。


 人足たちの動きも鈍い。


 フィノは小屋の中へ逃げるように入り、セナは縄を抱えたまま戸口で止まっている。トルは袋の数を見てはいるが、外へ出るタイミングを測っているようだった。メルカは「濡れる前に寄せるよ」と声を出しているが、自分も足元の水たまりは嫌そうに避けている。


 そんな中で、ニグだけがもう外にいた。


 ぶっきらぼうで、遅い。朝からずっと無愛想な顔のままだった男が、何も言われる前に木箱の脇へしゃがみ込み、濡れた底を確かめている。


「おい」

 ガルドが声をかける。

「そっちは後だ。先に袋を中へ入れる」


「……分かってる」

 ニグは短く言った。

「重い方からだろ」


 そう言って、返事の遅さに似合わない確かさで、袋の口を抱え上げる。


 速くはない。

 だが止まらない。


 雨の中の仕事では、それが一番助かる。


 ハムが舌打ちした。

「ったく、濡れるの嫌だって顔してねぇな、お前」


「嫌だ」

 ニグは言った。

「でも、やる」


 それだけだった。


 ガルドが鼻を鳴らし、もう一つ袋を担ぐ。ガンツが戸口の前で荷台の位置をずらし、ドグが奥の板を踏んで沈みを確かめる。エルンは帳面を庇いながら、小屋の中から怒鳴った。


「壁際は空けてください! そこは明日の分です!」


「うるせぇな」

 ガルドが返す。


「うるさく言わないと、あなたは奥まで見ません」


 いつものやり取りだった。

 だが、雨の中ではそのくだらなさが少しだけ気楽だった。


 カイルは戸口の脇に立ったまま、濡れた石畳と人の動きを見ていた。


 セナは外へ出るたびに足元を気にし、フィノは一つ運んではすぐ小屋へ戻る。ハムは文句を言うが手は止めない。トルは袋の数を見て、運び終えた分を無言で確かめている。


 そして、ニグだけが、ずっと外にいた。


 雨が少し強くなる。

 ガルドが最後の木箱を持ち上げた時、メルカが顔をしかめた。


「もう今日はいいんじゃない?」

「まだ一つ残ってる」

 ガルドが言う。


 木箱の陰に、濡れかけた古い荷袋が一つ残っていた。軽く見えるが、中身が偏っていて持ちにくい。朝からそこにあるのを誰も後回しにしていた袋だ。


「明日でいいだろ、そんなの」

 ハムが言う。


「明日には底が湿る」

 ドグが奥から答える。


 少しの沈黙のあと、ガルドが舌打ちした。

「……取るぞ」


 だが、その前にニグがもう動いていた。


 袋の口を無造作に掴み、濡れた石の上を引きずらないよう少し持ち上げる。重心が悪く、動きにくい。それでも手を離さない。肩で押し、足でずらし、黙ったまま戸口まで持ってくる。


「遅ぇ」

 ハムがぼそりと言う。


「でも、持ってきた」

 リノが壁際から小さく言った。


 全員が少しだけそちらを見る。

 リノはすぐ目を伏せたが、言ったことは間違っていなかった。


 ニグは袋を床へ下ろすと、濡れた前髪を手の甲で拭った。


「終わりだ」

 誰に言うでもなく、そう言う。


 ガルドがその袋を見て、短く息を吐いた。


「お前な」

「……なんだ」


「遅ぇけど」

 そこで一度言葉を切り、

「最後までやり切った」


 ニグは少しの間、何も言わなかった。

 やがて、いつもの無愛想な顔のまま答える。


「……それだけだ」


 それだけなのに、妙にこの場に合っていた。


 カイルはそのやり取りを見ていた。


 速い者がいる。

 強い者もいる。

 だが、流れの最後を支えるのは、こういう者だ。


 目立たない。

 愛想もない。

 だが、誰もやりたがらない残りを、最後まで片づける。


 雨の夕方、小屋の奥へ荷が寄せ終わった時、そこに残っていたのは、そういう人間の重さだった。

ここまで読んでいただきありがとうございます!


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