第54話 囲い込みの手
呼び方が定まり始めると、寄ってくるものは人と仕事だけではなくなる。
嫌う者も、はっきりしてくる。
その日の朝、ミラは小屋の前へ戻るなり、珍しく笑わなかった。
「面倒なのが動き出したよ」
ガルドが荷車の脇で縄を引きながら顔を上げる。
「誰だ」
「西通りの口利き屋と、南の人足頭。そのへんまとめて」
ミラは肩を落とさずに答えた。
「昨日のうちに二人、こっちへ来るはずだった若いのが消えた。声かけたらしいよ。前借りと寝床で釣って」
エルンの手が帳面の上で止まる。
「前借り、ですか」
「いつものやつ。銀貨を先に握らせて、しばらく抜けられなくする」
「露骨ですね」
「露骨だから効くんだよ。腹減ってる相手には」
カイルは黙って聞いた。
今までも敵意がなかったわけではない。だが、それは「目障りだ」という程度だった。六人が小さく仕事を回しているうちは、それでも済んだ。けれど今は違う。行き場のない人間が流れ込み始めている。その流れを嫌がる者が出るのは当然だった。
「別に連れてきたきゃ連れてけよ」
ガルドがぶっきらぼうに言う。
「来たくねぇなら、それまでだ」
「それで済むうちはいいけどね」
ミラは小屋の前を見た。
「今日はもっと分かりやすいのが来る」
その意味は、昼前に分かった。
仕事を待って壁際に立っていた若いのの一人へ、見覚えのない男が声をかけたのだ。痩せてはいるが、服は少しだけましだった。下層の人間にしては靴も傷んでいない。立ち方に、妙な余裕がある。
男は若いのの肩へ馴れ馴れしく手を置いた。
「こんなとこで待ってるより、うち来いよ。寝る場所もある。今日の分も先に出してやる」
若いのは迷った顔をした。そりゃそうだ、とカイルは思う。今日の仕事があるかどうかも分からない場所で待つより、目の前に銀貨と寝床を出されれば揺れる。
ガルドはそれを見ても、すぐには動かなかった。
代わりにミラが小さく舌打ちした。
「来た」
エルンが低く言う。
「追いますか」
「追えば揉める」
「放っておけば引き剥がされる」
「どっちも面倒だな」
ガルドが言う。
その間にも、男は二人目へ声をかけていた。
「ここ、使い捨てだろ。うちは違う」
嘘だな、とカイルは思った。そういう顔だった。違うのではない。ただ、使い方が別なだけだ。
リノが戸口の脇で、その男の足元を見ていた。立ち上がりはしない。ただ、視線だけが離れない。
ドグは荷車の車輪を直しながら、ぽつりと呟く。
「釣ってる」
「見れば分かります」
エルンが苛立つ。
「違う」
ドグは顔を上げなかった。
「今日だけじゃねぇ」
その言葉で、カイルは少しだけ息を止めた。
今日ここにいる人足を奪いに来たのではない。
ここへ流れてくる人間を、先回りして減らしに来ているのだ。
仕事がなくて来そうな者に先に前借りを握らせ、寝床を押さえ、こっちへ顔を出す前に囲ってしまう。
露骨に潰しには来ない。その方が金もかからず、表立って揉めずに済むからだ。
「……面倒ですね」
カイルが小さく言うと、ミラが苦く笑った。
「やっと言った」
ガルドが縄を放り、男の方へ歩いた。
「おい」
それだけで、小屋の前の空気が少し止まる。声をかけられた男は、肩へ置いていた手を外し、面倒くさそうに振り向いた。
「何だ」
「ここでやるな」
「何をだよ」
「人の前で餌まくなら、もう少し隠せ」
男は鼻で笑った。
「あいつら、お前らのもんじゃねぇだろ。道で立ってるだけの連中だろ」
「今は俺たちの前に立ってる」
「だったら何だ。買ったわけでもあるまいし」
言い分としては間違っていない。だから厄介だった。縄張りだと怒鳴れば、こちらが先に角を立てることになる。
ガルドもそれは分かっている顔だった。殴りたいのを押さえ込み、ただ相手を睨む。
そこでミラが前へ出た。
「じゃあ、こうしようか。今日の分だけでも働きたい奴はこっち。前借りで縛られたい奴はそっち。好きな方へ行けばいい」
「軽く言うね」
男が笑う。
「前借りが欲しいのは、だいたい今夜の寝床がねぇ奴だぞ」
「だから選ばせるんだよ」
その時、壁際にいた中年――ニグが、ぼそりと言った。
「前借りは、後で高くつく」
誰もすぐには動かなかった。
男はそちらを睨む。
「知ったような口利くな」
「知ってるから言ってる」
ニグは視線を逸らさずに続けた。
「寝る場所と銀貨一枚で首が締まる。次の日も、その次も抜けられない。切られる時は借りだけ残る」
若いのが一人、男の差し出した手から目を逸らした。
大きな言葉ではない。けれど、下層で実際に食った痛みのある声は、妙に通る。
ガルドはそこで短く言った。
「今日働くなら並べ。来ねぇならどけ」
それだけだった。約束はしない。寝床も前借りも出さない。ただ、今ここで働くなら受けるとだけ言った。
若いのの一人が、そっとこちらへ寄った。
もう一人は迷い、男の方を見たまま動かない。結局そちらへ行った。
ミラが小さく息を吐く。
「半分か」
「十分です」
エルンが言うが、顔は硬い。
囲い込みは、正面からぶつからなくても痛い。人が減る。流れが細る。前借りと寝床は、下層では暴力より静かに効く。
だが、それでも全部が持っていかれるわけではないのだと、カイルは思った。
小屋の前に残った若いのは、ガルドの方を見た。
「……今日だけでも、働く」
「なら名前を言え」
ガルドが返す。
その声はいつも通りぶっきらぼうだった。優しくもなければ、温かくもない。けれど、少なくとも先に首輪を嵌める声ではなかった。
夕方、仕事を終えたあとも、小屋の前には少し重い空気が残ったままだった。
エルンは帳面を閉じながら低く言う。
「これから増えますね」
「何がです」
カイルが聞くと、エルンは嫌そうに答えた。
「こういう引き剥がしです。人が集まる場所だと知られた以上、横からさらう方が早い」
ドグは荷車の軋みを確かめながら、短く言った。
「来るなら、来る」
ミラは壁に寄りかかり、通りの先を見ていた。
「だから、ただ人が増えるだけじゃ駄目なんだよ。残る理由がなきゃ、すぐ持ってかれる」
カイルはその言葉を、黙って聞いていた。
小屋の前には、今日も半端な人間が立っていた。
だが、それを見ているのは、もう仲間になりたい者だけではない。
ここへ集まる人間を、自分の方へ引き込みたい者もいる。
逆に、ここへ人が集まらないようにしたい者もいる。
囲い込みは、もう始まっていた。
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