第53話 名前が要る
人が増えると、呼び方が増える。
朝の市場裏で、小屋の前に立つ顔ぶれは、もう六人だけではなくなっていた。昨日から来ている若いの。数だけは外さない鈍い男。縄を運ぶ時だけ落ち着く痩せた女。壁際で順番を待つ中年。半日だけでも使ってもらえないかと、少し離れた場所から様子を見ている新顔。仕事そのものより先に、人の溜まりがそこにあった。
「おい、ガルドのとこ今日空いてるか」
通りの向こうから、そんな声が飛ぶ。
ガルドは露骨に嫌そうな顔をした。
「俺のとこじゃねぇ」
「でも、そう呼ばれてるよ」
ミラが面白がるように笑う。
「昨日も聞いた。『ガルドのとこ行けば何かある』ってさ」
エルンは帳面から目を上げた。
「呼び方が固定し始めていますね」
「だから何だ」
「だから、曖昧なままでは困るという話です」
ガルドは鼻を鳴らし、それ以上は返さなかった。
困る、というのはカイルにも分かった。
今のところ、下層では「あそこ」でも「小屋のとこ」でも「ガルドのとこ」でも通じている。だが、人が増え、依頼人までそれを口にするようになれば、呼び方がばらけるのは面倒だった。誰に話を持ち込むのか。どこへ人を寄越せばいいのか。その目印は、曖昧なままでは長く持たない。
とはいえ、看板を掲げるにはまだ早い。
正式に名乗るほどの形ではない。店でもなければ組合でもない。役所に届けた何かでもない。ただ、小屋の前に人が集まり、荷が動き、金が回り始めているだけだ。ここで妙に大きな名をつければ、それだけで余計な目を引く。
「名前でもつける?」
ミラが軽く言う。
「ほら、何とか組とか、何とか屋とか」
「やめてください」
エルンが即座に切った。
「そんなものを急に名乗れば、余計な相手まで寄ってきます」
「でも、このままじゃ呼びにくいよ」
「呼びやすさだけで決める話ではありません」
ドグは割れた箱の釘を打ちながら、興味なさそうに呟いた。
「勝手につく」
その一言に、カイルは少しだけ視線を上げた。
たしかにそうだった。名乗るより先に、周りが呼び始める。今までもそうだった。ガルドが前に立つから「ガルドのとこ」になる。小屋の前で仕事が回るから「あの小屋」と呼ばれる。必要なのは立派な名ではなく、話が通じるだけの印だ。
昼前、乾物屋の使いが小屋の前に来た。
「荷車二台ぶん、午後に回せるか」
「量次第だな」
ガルドが返すと、使いは少し迷ってから言った。
「じゃあ……ガルドのとこに回す、で通しとく」
それはもう、自然な言い方だった。
エルンが眉を寄せる。
「勝手に決められるのは不本意です」
「でも通じた」
ミラが笑う。
「それが今は一番大事でしょ」
午後になると、別の呼び方も混じった。
「小屋の仕事場、今人いるか」
「裏のとこ、まだ余裕あるか?」
「ガルドんとこって、今日支払いあるのか」
どれも間違ってはいない。だが、どれも少しずつ違う。カイルは荷を寄せながら、その響きを聞いていた。
人は、通じる呼び方を勝手に残す。
言いやすいもの。覚えやすいもの。目立つもの。
その中で、いちばん強いのは結局、人ではなく使い方なのかもしれなかった。
夕方、半日働いた中年が銀貨を受け取ったあと、帰り際に若いのへ声をかけた。
「明日も来るなら、早めに行けよ。ガルドのとこ、朝は埋まる」
その言葉に、若いのは素直に頷いた。
もう、説明はいらなかった。
誰のことか。どこのことか。それだけで通じている。
「……決まりましたね」
エルンが不機嫌そうに言う。
「何が」
ガルドは水を飲みながら返した。
「呼び方です。少なくとも下では」
「勝手にだろ」
「勝手にでも、通るなら固定されます」
ガルドは露骨に嫌そうな顔をした。
「気に入らねぇな」
「いいじゃない」
ミラが笑う。
「おかげで分かりやすい。あんたが前に立ってる意味が、そういうとこでも効いてるんだよ」
「勝手に俺を看板にすんな」
「もうなってるって」
そのやり取りの横で、リノは戸口の脇にしゃがんだまま、ぼんやりと通りを見ていた。
「……呼んでる」
「何をです」
エルンが聞くと、リノは少しだけ考えるように黙った。
「……ここ」
言葉としては足りない。だが、意味は通じた。
人が人を呼ぶのではない。
場所が人を呼び始めている。
カイルは小屋の壁に寄りかかり、夕方の市場裏を見た。荷車の軋む音。遠くで値を張る声。土と縄と乾いた板の匂い。その中に混じって、「ガルドのとこ」という呼び方だけが、もう当たり前のように流れている。
今はまだ、それでいいのだと思う。
正式な名は要らない。看板も要らない。立派な顔も、飾った言葉もいらない。
ただ、困った時に通じる呼び方が一つあれば、人も仕事もそこへ流れてくる。
小屋の前には、今日も半端な人間が立っている。
その半端な者たちは、もう「あそこ」ではなく、「ガルドのとこ」と呼ばれる場所へ集まり始めていた。
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