第52話 拾われる側の理屈
朝の市場裏に来る顔は、毎日少しずつ入れ替わる。
だが、残る顔には似たものがあった。
仕事が早いわけではない。口が利くわけでもない。力が飛び抜けている者もいない。どこか半端で、どこか足りず、それでも他へ行くよりはここへ戻ってくる。そういう顔が、少しずつ増えていた。
その日も、小屋の前には何人かが立っていた。
昨日から来ている若いのが二人。袋の数を間違えない鈍い男。縄を運ぶ時だけは落ち着いて見える痩せた女。そこへ、見覚えの薄い中年が一人、朝から壁際に立っていた。
背は高くない。肩も落ちている。目立つところのない男だった。名前はニグと名乗ったが、それが本当かどうかは分からない。下層では珍しくもない。
仕事を振られると、男は黙って動いた。
遅くはない。早くもない。言われたことだけをやる。荷を運び、終われば一歩下がる。邪魔にはならないが、頼もしさもない。昼前まで見ていても、それだけだった。
「いるのかいないのか分かんねぇな」
ガルドが言う。
「そういうのが残るんだよ」
ミラが肩をすくめる。
「妙に元気なのは、だいたいどっかで揉める」
エルンは帳面に目を落としたまま、興味なさそうに言った。
「少なくとも、勝手なことはしていません」
その言い方に、カイルは少しだけ男を見た。
昼の支払いの時、男は列の後ろにいた。前へ出ようともしない。額を聞いても文句を言わず、銀貨を受け取ると、一度だけそれを掌で確かめ、すぐ懐へ入れた。慣れた手つきだった。
そのまま帰るかと思ったが、男は動かなかった。
小屋の壁際に残り、少し迷うように立っている。
「何だ」
ガルドが声をかけると、男は一瞬だけ肩をすくめた。
「……明日も、来ていいのか」
「来るのは勝手だ」
ガルドはぶっきらぼうに言う。
「使うかどうかは別だがな」
それで男は頷いた。だが、まだ帰らない。
ミラが面白そうに口を開く。
「何。もっといい話でも欲しい?」
「違う」
男は首を振った。
「ただ……ここ、切る時は切るが、殴ったり蹴ったり、無茶苦茶しねぇんだなと思って」
小屋の前が、少し静かになった。
誰もすぐには返さない。珍しい言葉ではない。けれど、こうやって真正面から言われると、妙に耳に残る。
「前いたとこは、遅いだけで蹴られた」
男はぼそりと続けた。
「荷を落とせば金は払われねぇし、終わっても次の日にはいねぇ方がいいって言われる。使うだけ使って、駄目なら捨てる。そういうのは、まあ……普通だ」
普通。
その言い方に、エルンがわずかに眉を寄せる。だが否定はしなかった。下層では、たしかに珍しいことではない。
「ここも切るだろ」
男は言う。
「でも、先に言う。何が駄目かも言う。仕事があれば一応回す。殴るにしても、まだ先だ」
「殴る前提で話すな」
ガルドが不機嫌そうに返すと、ミラが吹き出した。
男はそこで初めて、少しだけ笑った。
「でも、そういうとこが普通だろ。ここいらじゃ」
カイルは黙って聞いていた。
金がいいからではない。
優しいからでもない。
居心地がいいからでもない。
ただ、最初から踏みつぶされず、働いた分だけは一応勘定に入れてもらえる。遅ければ切られることはあっても、何もないうちから捨てられはしない。下層では、それだけで戻る理由になる。
「……そんなもんで戻ってくるのか」
ガルドが言う。
「そんなもんだから戻るんだよ」
ミラが先に答えた。
「もっとましなとこがある奴は、最初からこっちに来ない」
男も頷いた。
「寝床がある日より、ない日の方が多い。今日切られても、毎日腹は減る。だったら、少しでもましな方へ行く」
その言い方に、大げさな感情はなかった。恩義でも忠誠でもなく、ただ損得だった。だが、それがいちばん本当なのだろうとカイルは思う。
ガルドは鼻を鳴らし、壁にもたれた。
「大した話じゃねぇな」
「ここらでは大した話だよ」
ミラが笑う。
「最初から殴られにくくて、働けばすぐには追い出されない。十分だろ」
エルンは帳面を閉じながら、低く言った。
「……基準が低すぎます」
「高いとこで生きてるわけじゃないんで」
男はそう返して、ようやく壁から離れた。
帰り際、男は小さく頭を下げた。
「明日、また来る」
ガルドは顎をしゃくっただけだった。
男が去ったあと、小屋の前にはいつもの音が戻る。縄の擦れる音。荷車の軋み。遠くで誰かが怒鳴る声。市場裏では、どれも珍しくない。
カイルはその中で、去っていく背中を見た。
人は、温かいから集まるわけではない。
正しいから残るわけでもない。
ただ、他より少しましだから来る。
捨てられにくいから戻る。
下層では、それで十分に理由になる。
小屋の前には、今日も半端な人間が立っている。
だが、その半端な者たちにとって、ここはもう「何もない場所」ではなくなり始めていた。
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